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第18話 命あるもの、今は亡きもの

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 夏、多喜のいなくなったあの日。初めての命日が来た。多喜の母親である紗子から一周忌法要への参列の案内が手紙と電話で来たが、惠美はこれを断った。法要にも墓にも何の意味も感じなかったし、他のクラスメイトやよく知らない多喜の親戚などと一緒にいることは苦痛だった。多喜の母からの参列の依頼の電話を断った時、多喜の母は不思議なほど寂しそうな声で電話を切った。惠美は電話中に、槇子が参列するのかつい聞きたくなったが、今となってはそれも意味のない事だと考え思いとどまった。

 あれから一度だけ槇子の夢を見た。夏のさなかに見た夢なのに、夢の中で見た景色は春。大きな川沿いの青空の下、枝垂れ桜の巨木からはらはらと花が散り始めていた。そのほかで覚えているものと言えば一瞬だけ見えた槇子の緩くて柔和な優し過ぎる笑顔だけ。そんな夢を見ていた時、自分がとても穏やかな心持ちになっていたのが悔しくもあり腹立たしい。やはり多喜に対する許し難い裏切りだと惠美は思う。真夜中に夢から醒めた時、なぜだか惠美は少し涙を流していた。

 あれから惠美はあらゆる事に無関心で無気力に時間を浪費する日々を過ごしていた。もう進路を決めなくてはいけないのだが、全く実感がわかない。親は大学進学も構わないとは言うものの、そこで何を学ぶべきか見当もつかない。無気力に日々を過ごした結果、当然成績も振るわず、受かりそうな大学など数えるほどだ。

 こうして自分を取り巻く全てが時間とともに刻々と変化していく。この時間という得体の知れない何ものかによって、自分と多喜との距離がどんどん引き離されてゆくのが惠美には恐ろしかった。一方で、過去に縛られ今を見ることも出来ず、今を生きる力をも失ってしまった自分を、惠美はまだ自覚できないでいる。

 こうして「多喜への愛があれば何でもできる」と信じてやまなかった惠美は、結局過去にしかない多喜の記憶を振り返る事を繰り返すばかりで、未来は勿論今現在にすら目を向けられないまま、現実世界からゆっくり消滅しつつあった。

 半月前、進路指導の調査用紙が配られた。
 これを見ながら惠美はぼんやりと極北海洋資源でも受けてみようか、と唐突に思い浮かぶ。そんな思い付きにゾッとし、思い切り頭を振ってその思い付きを振り払って強い調子で呟いた。

「何考えてんだ!」

 その行動や声にクラスの数人は怪訝(けげん)そうにしていたが、もともとクラスでは完全に孤立していたので何も気にはならなかった。肘をついた両手でショートカットの髪をくしゃくしゃにしながら、そんなことを思いついた自分に動揺した。こんなにはっきりと槇子の近くにいたいと思った自分に驚いたし、怖かった。槇子さんが上司だったら私はどうやって仕事を一緒にすることになるのだろうか…… 高校生の惠美には仕事などなかなか頭に浮かばないが、槇子さんとなら楽しそうだな、とも思う。これにもまた何とも言えない気持ち悪さを覚える惠美だった。一方で甘い何かしらの感情も沸いていたのだが、それは心の中で握りつぶして心の隅に紙屑のように捨てた。

 自分の中に間違いなく槇子が住み着いている。この出来事以来、惠美もそれを自覚しつつあった。自分の中に多喜と槇子が同時に住み着いている。そんな感覚に言いようのない違和感を覚える。そしてその二人は惠美の中のごく近いところに、まるで隣り合って住み着いているかのようだ。
 例えるならば、惠美の心の中に死んでしまった多喜しかいなかった頃、その心の中は氷点下に凍てついた雪原の荒れ野だった。今、惠美の心の中の気温は少し温もったような、槇子のいる足元だけほんのり雪解けしているような心持ちがする。今にして思えば、槇子はニコニコとあの無防備な笑顔を湛えながら、惠美の心の随分と深い所にまでやって来てしまったのかも知れない。時折、ふともう逢うはずもない槇子の事を思い出す。それが穏やかな気持になる数少ない機会だった。その時を除けば惠美はもう過去にしか存在しない多喜への想いだけを支えに、未来が見えないまま惰性で生きていた。槇子の笑顔は鮮明に思い出せる。それどころか勝手に頭に浮かぶことすらある一方で、槇子の隣に立つ多喜の笑顔は次第次第におぼろげになってきている。

(やっぱり、槇子さんに会いたいのかも……)

 自身の多喜への裏切りを憎み恐れていたのに、多喜の記憶が薄くなるとこうも簡単に心変わりするのか、と惠美はさらに自分への苛立ちや怒りを募らせる。

「くそだ、ほんとあたしってくそだ……」

 そんな自分への恨み言を呟きながら、ベッドの中でゆっくりと浅い眠りに落ちていく惠美。その微かな意識の中で、夢でもいいからまた槇子と逢いたいと密かに願っていた。あの笑顔と柔らかな手の感触を思い出しながら。


【次回】
 第19話 白真弓


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 夏、多喜のいなくなったあの日。初めての命日が来た。多喜の母親である紗子から一周忌法要への参列の案内が手紙と電話で来たが、惠美はこれを断った。法要にも墓にも何の意味も感じなかったし、他のクラスメイトやよく知らない多喜の親戚などと一緒にいることは苦痛だった。多喜の母からの参列の依頼の電話を断った時、多喜の母は不思議なほど寂しそうな声で電話を切った。惠美は電話中に、槇子が参列するのかつい聞きたくなったが、今となってはそれも意味のない事だと考え思いとどまった。
 あれから一度だけ槇子の夢を見た。夏のさなかに見た夢なのに、夢の中で見た景色は春。大きな川沿いの青空の下、枝垂れ桜の巨木からはらはらと花が散り始めていた。そのほかで覚えているものと言えば一瞬だけ見えた槇子の緩くて柔和な優し過ぎる笑顔だけ。そんな夢を見ていた時、自分がとても穏やかな心持ちになっていたのが悔しくもあり腹立たしい。やはり多喜に対する許し難い裏切りだと惠美は思う。真夜中に夢から醒めた時、なぜだか惠美は少し涙を流していた。
 あれから惠美はあらゆる事に無関心で無気力に時間を浪費する日々を過ごしていた。もう進路を決めなくてはいけないのだが、全く実感がわかない。親は大学進学も構わないとは言うものの、そこで何を学ぶべきか見当もつかない。無気力に日々を過ごした結果、当然成績も振るわず、受かりそうな大学など数えるほどだ。
 こうして自分を取り巻く全てが時間とともに刻々と変化していく。この時間という得体の知れない何ものかによって、自分と多喜との距離がどんどん引き離されてゆくのが惠美には恐ろしかった。一方で、過去に縛られ今を見ることも出来ず、今を生きる力をも失ってしまった自分を、惠美はまだ自覚できないでいる。
 こうして「多喜への愛があれば何でもできる」と信じてやまなかった惠美は、結局過去にしかない多喜の記憶を振り返る事を繰り返すばかりで、未来は勿論今現在にすら目を向けられないまま、現実世界からゆっくり消滅しつつあった。
 半月前、進路指導の調査用紙が配られた。
 これを見ながら惠美はぼんやりと極北海洋資源でも受けてみようか、と唐突に思い浮かぶ。そんな思い付きにゾッとし、思い切り頭を振ってその思い付きを振り払って強い調子で呟いた。
「何考えてんだ!」
 その行動や声にクラスの数人は怪訝《けげん》そうにしていたが、もともとクラスでは完全に孤立していたので何も気にはならなかった。肘をついた両手でショートカットの髪をくしゃくしゃにしながら、そんなことを思いついた自分に動揺した。こんなにはっきりと槇子の近くにいたいと思った自分に驚いたし、怖かった。槇子さんが上司だったら私はどうやって仕事を一緒にすることになるのだろうか…… 高校生の惠美には仕事などなかなか頭に浮かばないが、槇子さんとなら楽しそうだな、とも思う。これにもまた何とも言えない気持ち悪さを覚える惠美だった。一方で甘い何かしらの感情も沸いていたのだが、それは心の中で握りつぶして心の隅に紙屑のように捨てた。
 自分の中に間違いなく槇子が住み着いている。この出来事以来、惠美もそれを自覚しつつあった。自分の中に多喜と槇子が同時に住み着いている。そんな感覚に言いようのない違和感を覚える。そしてその二人は惠美の中のごく近いところに、まるで隣り合って住み着いているかのようだ。
 例えるならば、惠美の心の中に死んでしまった多喜しかいなかった頃、その心の中は氷点下に凍てついた雪原の荒れ野だった。今、惠美の心の中の気温は少し温もったような、槇子のいる足元だけほんのり雪解けしているような心持ちがする。今にして思えば、槇子はニコニコとあの無防備な笑顔を湛えながら、惠美の心の随分と深い所にまでやって来てしまったのかも知れない。時折、ふともう逢うはずもない槇子の事を思い出す。それが穏やかな気持になる数少ない機会だった。その時を除けば惠美はもう過去にしか存在しない多喜への想いだけを支えに、未来が見えないまま惰性で生きていた。槇子の笑顔は鮮明に思い出せる。それどころか勝手に頭に浮かぶことすらある一方で、槇子の隣に立つ多喜の笑顔は次第次第におぼろげになってきている。
(やっぱり、槇子さんに会いたいのかも……)
 自身の多喜への裏切りを憎み恐れていたのに、多喜の記憶が薄くなるとこうも簡単に心変わりするのか、と惠美はさらに自分への苛立ちや怒りを募らせる。
「くそだ、ほんとあたしってくそだ……」
 そんな自分への恨み言を呟きながら、ベッドの中でゆっくりと浅い眠りに落ちていく惠美。その微かな意識の中で、夢でもいいからまた槇子と逢いたいと密かに願っていた。あの笑顔と柔らかな手の感触を思い出しながら。
【次回】
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