すぐに解体場を後にした二人は、道すがら子供たちを逃がそうとしていた。いくら王漣組が場所を提供していたからといって、子供たちに何かしらの恨み辛みがあったわけではない。
しかし、透と灰崎がそれぞれの小さな家の鍵を開けていくも、皆一切外に出ようとしなかった。まるで、そこが自分の本当の家かのように。
「――じきにここは崩壊する。出るぞ、ガキ共」
実にぶっきらぼうな態度であった上に、自分たちを閉じ込めた組の組長代理が一切の目的も明かすことなく、この家の外に出ろと語る。それに応じる存在は誰一人いやしなかったのだ。
頭を掻きながら、悩む灰崎であったが、透がそんな彼に拳骨を一発。対応が良くないと、子供は一生心を開かないものである。
「……よお、俺は天音透。お姉ちゃんな、お前らみたいなちびっ子を数多く保護してきた。親の顔も知らない、愛も知らないような奴を……七人もな。居場所はないだろうが……いずれ見つかる。英雄学園には、俺の義弟と義妹が暮らす家もある。――一緒に、来てくれないか」
それほどの優しさがあれば、子供たちは自分についてくる、そう思ったうえでの行動だったのだが――――現実はそうではなかった。
誰もかれも、透の手を取ろうとしない。どれほど優しい目で諭そうと、日向に出ようとしない。
「――――外に出ちゃだめだ、って。お母さんとお父さんに言われてるから」
「十億分の貯金……そうなるまで出てくるな、って」
事実上、皆親から見放されている。さらに、小さな家の隅には、無数の麻薬の小袋や注射器が転がっており、たとえ表層の世界に戻ったとしても禁断症状に苦しむのだろう。
ここが、彼ら彼女らにとっての歪んだ天国である。表に戻ったとしても、そこには麻薬は存在しない。さらに親からの執拗な虐待、暴力を受ける。だとしたら、大人や求める人々に股を開く。『停滞する』選択こそ、子供にとっての最高の選択であったのだ。
「お前ら、親の言いなりに――――」
「よせよ、灰崎……きっと、本当の意味でここが幸せなんだって思っているんだ」
人によって、幸せの形は異なる。夫から暴力を振るわれる行為を当人が喜んでいれば、それは一つの幸せ、愛の形である。
第三者である透たちが別の形を提示しようにも、それはあくまで価値観の押し付け。この件に関して、真なる意味で英雄がどうこう言える筋合いはないのだ。
だからこそ、英雄としてではなく、『天音透』という複数の義弟義妹が存在する一人の女の子、として諭し始めたのだ。一つの家の中、怖がらせないよう入口前でしゃがんで、保育園児半ばほどの子供一人と目線を合わせる。
「……なあ、君の名前は何て言うんだい。お姉ちゃん、君のことが知りたいな」
「――謡。粟野謡」
「――よし、謡ちゃんだね。君の幸せの形は……ここにいることかい?」
その透の優しい問いに少し悩んだものの、ゆっくりと首を縦に振った。
「じゃあ質問を変えよっか。ここで一番おいしい食事って、何だい?」
「……おにぎり。おにぎり一個」
静かに後ろを振り返って灰崎を鋭く睨みつける。しかし本人は全霊で首を振っていたため、灰崎がやったことではないらしい。
事情を聴くと、灰崎ではなく時折やってくる両親が、コンビニで買ってきたかのような塩おにぎりを一つほど手土産とするらしい。しかし床を見る限り、まともに食べさせた訳ではなく床に叩きつけたものを食べさせていたらしい。酷いこびり付きからして、叩きつけた後に踏みにじったのだろう。これが、何か所にもあったのだ。
さらに、当人を『買った』人物が、コンビニ弁当を少し渡すこともあるが、結局はその程度。温かな、まともな料理すら食べたことはないらしいのだ。
「――じゃあさ、ここ出られたら……お姉ちゃんが謡の好きなモン作ってあげる。今まで食べたことないものだって……絵本で見たことのあるようなものであったとしても、腕振るってあげる。それは……謡だけじゃあない、他の皆にも言えることだけどさ」
安直ではあったが、食で釣ることは最高の手段であった。
いつだって、特別な病気でも患っていない限り、食べることは生きることと同義である。それを楽しみにするからこそ、人は楽しく生きていられる。
「――でも、お父さんとお母さんが……」
「そっか。きっと謡がここにいて大変だろうな、そして我が子のことがきっと大事なんだろうな。でも……そんな奴は……『食べ物を粗末にしない』よ」
子供への食育、というものは地道ではあるが確かな情操教育として有効手段である。例えば、あらゆる食物はただ生えてくるわけではなく、生産者の血や汗、努力を詰め込んだ我が子同然の贈り物であり、努力の結晶であること。そしてそういった食物を、一切無駄にしないよう無駄なく食べること。
あとは細かい部分にはなるが、箸の使い方や食への礼儀、接し方など……それらに関する教育を行うことは、ある種親の役目の一つである。学校でも学ぶ場はあるだろうが、こういった子たちは学校の概念を理解する余地はないだろう。
「――謡、君の両親を馬鹿になんかしない。だからこそ、食に対して……真摯に向き合ってないことが気に食わない。俺は……正直、お世辞にも恵まれたような豊満な体形はしていない。だが……あらゆる食の積み重ねの結果、今こうして英雄の卵としてやれている。質のいい筋肉もだいぶついたしね」
どれほど酷い行いをされようと、当人にとっては親のまま。だからこそ親自身を否定するのではなく、親の行いを否定する。間違ったことは間違ったことだと訂正しない限り、当人の常識は歪んだまま。
ゆっくりと近づいて、謡の手を取る透。最初は小さく震えていたが、透の手の温かみに、次第に涙が零れ落ち始めたのだ。それは暗に、透に心を許していた証であった。
「……謡、絵本呼んだこと……あるかい」
「――ないよ。ずっと、ずっと……ここで『遊んで』貰うばっかりだもん」
「じゃあさ、絵本でよく見るような、カレーとかシチューとか……普通の料理から始めて、今まで食べたことのないような色んなもの、全部俺が作ってあげる。こう見えて……お姉ちゃん腕は立つんだ」
未知への好奇心に従うか、あるいはここに留まる選択か。
周りの子より一回り小さく、それでいて常識を知らない子であるからこそ、どちらを選ぶかは明白であった。
「――透お姉ちゃん、美味しいもの作ってくれるの……?」
「――ああ。お姉ちゃんが、君に新たな世界を見せてあげる」
ぼろぼろに泣き崩れた謡。それは暗に、透についていく道を選んだことと同義であった。他の子は、ある程度成熟し現実の酷さを知ってしまった。だからこそ麻薬で真に歪んでしまったのだが、謡はまだ軽度であった。禁断症状との戦いにはなるだろうが……透と謡は辛く厳しい道のりを選んだのだった。
どんなことがあろうと、自分の義弟義妹と同い年と思われる子が泣きを見ることを許さない。
親に歯向かって、今までの間違った『普通』を壊したい。
その二人の想いが合わさった瞬間、透は謡を抱きかかえていた。
「――よし、じゃあさ。ここから出よう。帰ったら、お姉ちゃんが美味しいものたくさん作ってあげるからね」
「……うん……!」
初めて愛欲以外のものを抱いた存在に抱擁された謡は、人の本当の温かさを知ったのだ。随喜の涙を流し、寂しさをこぼしたのだ。それは、謡にとって初めてのわがままであった。
「――ずっと、寂しかった。お父さんもお母さんも、『愛してる』って言って私に暴力ばかり振るってきた。私を『買った』人も、一切優しくしてくれなかった。優しさが……分からなかったの。愛が……分からなかったの」
実に致命的。どれほどの間ここにいたかは分からないだろうが……透にとって放っておけない存在であった。愛を知らないからこそ、まがい物の愛を求め続けた。
「――安心して。お姉ちゃんが……きっと謡を笑わせてみせる。愛とはどういうものか、しっかりと分かるまで、傍にいてあげるからさ」
たった一人ではあったが、救えた事実が透にとって何よりもの誇りであった。