その日は世界が一変する日だった────
マウントクック国立公園。
世界遺産にも登録されている、ニュージーランド屈指の景勝地である。
突き抜けるような青空の下、銀白色の雪を抱く雄大な山々が連なる。麓には深い森林が広がり、壮大な氷河が輝きを放つ圧倒的な自然が展開している。いつもと何一つ変わらないように見えたが、ただ一つ、山の稜線に不気味な「影」が現れていた────。
キャンプ場から続くトレッキングコースでは、多くの登山客が氷河湖を目指していた。
その途中、一組の家族が岩場で休憩を取っていた。父親は岩に座り、母親は水筒から紅茶を飲んでいる
「ここに来てよかったわね」母親が微笑むと、父親も頷いた。
「そうだね、ミアは楽しそうだ」
二人が目を向けた先に、大きな岩の上に立って双眼鏡を覗いている少女がいた。母親は「ミア」と呼びかけたが、強い風に声はさらわれてしまう。少女は風で飛ばされないようベースボールキャップを片手で押さえ、夢中になって何かを探していた。
「まったく。鳥に夢中だね。ミアが満足するまで待とうか」
父親は肩をすくめた。
そのとき、少女が興奮した様子で叫んだ。
「あっ、お父さん、あれ、ハヤブサじゃない?」
「本当かい?パパにも見せてくれ」
ミアと呼ばれた少女は父親に双眼鏡を渡そうとしたが、途中で動きを止めた。
ミアの表情が凍りつく。
「……え?なに、あれ?」
「お父さん!早く見て!」
ミアは急いで父親に双眼鏡を押し付け、遠くの山肌を指差した。
父親が双眼鏡を覗くまでもなく、その異様な光景は肉眼でも明らかだった。母親もすぐに視線を向ける。
山の稜線に、黒い巨大な塊が突き出している。人の形をしているようだが、生物とは思えない。
父親は双眼鏡を覗き、その正体を確かめようとする。黒い石像のようなもの。手足は一様に太く、くびれがない。頭部には口はなく、目のような深い窪みが二つ。それは、じっとこちらを見つめているように思えた。
父親の背筋がゾクリと震えた。長年の登山経験が、警告を発していた。
「逃げよう」
努めて冷静に告げる父親。その有無を言わせぬ態度に、母親もミアも無言で従った。三人は、来た道を走って戻り始めた。
周囲の登山者たちも異変に気づき、ざわめき始めた。
誰もがその不気味な存在から目を離せないでいた。
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突然、それまで吹き荒れていた風がピタリと止んだ。
まるで何かの合図のように、周囲は静寂に包まれる。木々がざわめきを止め、鳥たちが一斉に鳴き声をやめ、氷河湖の水面は不気味なほど穏やかになった。
「……何?」
ミアは不安げに父親の腕をつかんだ。その手が震えている。
ゴゴゴゴ……
遠くの山々から、低く唸るような音が響き始める。地鳴りは少しずつ大きくなり、足元まで伝わってきた。
「地震?」母親がつぶやく。
だがその音は普通の地震とは明らかに違った。音の出所を確かめるように登山者たちが辺りを見回し、不安な囁きが広がる。
「あれ、見て!」
逃げながら振り返り、ミアが山の稜線を指差す。
黒い巨大な塊が、ゆっくりと浮かび上がり始めた。それは人の姿をしているが、あまりにも巨大で奇妙だった。人々の動きが止まり、誰もが信じられない光景に息をのむ。
ズズズズン――
地面が揺れ、氷河湖の水面が小刻みに波立ち始める。まるで世界そのものが恐怖に震えているかのようだ。
「動いてる……!」
誰かが叫んだ。
「こっちに向かってるぞ!」
登山客が次々と悲鳴を上げ、辺りはパニックに陥った。家族や仲間を探して叫ぶ声、逃げるために押し合う音が響き渡る。
ズシンッ……ズシンッ……
黒い巨人がゆっくりと、しかし着実にこちらに向かって空を渡ってくる。その巨大な姿が、徐々に明確な影となって迫ってきた。
「こっちだ!」
ミアの父親が叫び、家族を連れてトレッキングコースを外れ、藪の中へと飛び込んだ。その直後、巨人が大きな腕を振り下ろす。
ビュゴォォォォッ!
暴風が巻き起こり、吊り橋は一瞬にして引き裂かれ、谷底へと崩れ落ちていった。
「目を閉じろ!」
父親は家族を抱き寄せるようにして岩陰にうずくまった。周囲では人々が次々と風に巻き上げられ、谷底へと飲み込まれていく。
その巨人の背中では、緑色のデジタル数字が心臓の鼓動のように静かに、そして不気味に点滅を繰り返していた。