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第5話 森絵美、明大の講堂2、絵美との出会い

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20217


 今年は、雨の多い春だった。ピーコートというのは寸詰まりのせいか腰から下がスカスカしてかなり寒い。飯田橋に行って来期の単位票を提出した。来年度から三年か。研究室はどこにするかなあ。誰とも会わなかった。部室に行っても誰もいなかった。今日はしっかり南京錠がかかっている。鍵を忘れたので、入るわけにもいかなかった。当たり前だ。春休みで小雨の降る土曜日の午後に誰が大学に出てくるものか。

 まっすぐ家に帰る気もせず、お茶の水で降りてしまった。茗溪通りを歩いてみる。まだ二時だ。レモン画翠に入った。ちょうど画材が切れていたので、テレピン油、リンシード油の500ミリリットル瓶、ジンクホワイト、バーミリオン、ビリジャン、ピーチブラックなどを買った。クロッキー用の木炭、パステルも買う。ぼくのガールフレンドのメグミがアクリルをやり始めたので、ホルベインのアクリルガッシュのセットも買った。
 
 さて、なにをしよう?古本屋でもあさろうか。

 レモン画翠を出て、駅の御茶ノ水橋前の交差点を渡り、明大通りの坂を下る。お茶の水は何事もなく、ひっそりしていて、春休みの大学街には古本あさりのおじさんがちらほら傘を差して歩いているだけだ。この坂で70年安保の際に、石畳を剥がして投石していた十年前が想像できない。トボトボ歩いて、明治大学の横に来た。文系の大学の方が理系の大学より大学っぽい、というのはなぜなのだろうか?やはり、女の子がいるか、いないかの差なのかもしれない。

 門をくぐって、構内に入っても誰もとがめる人もいないので、ズンズン奥の方に行ってしまう。ここは、いつもなら飯田橋の理学部にはあまりいない女子学生が闊歩しているのだろうな、などと思いながら、教室、教室を覗いて歩く。もちろん、誰もいないのだが。

 どこを歩いているかわからなくなった時、廊下がつきて、ロビーに出た。ロビーに面して、第一講堂なんて、両開きの古い木の扉の上に大書してあり、その木の扉はちょっと開いていた。そして、講堂の中から、ピアノが聞こえた。

(へぇー、キース・ジャレットを弾いている人がいる)

 扉を少し開けて、ソォーと、着ていたピーコートを引っかけないようにすり抜けて、講堂に入った。後ろの扉だったので、演壇まではエンエンと座席が三十列くらい続いていた。

 演壇にはスポットライトが一灯だけついていて、その光の輪の中で、女の子が長い髪をサラサラ揺らしながら、鍵盤をのぞき込むようにして、ケルン・コンサートのパートⅠを弾いていた。やけに脚も手も長い女の子だ。
 
 ぼくは邪魔をしないように、一番後ろの列のたまたま下がっていた座席にそっと腰を下ろした。キース・ジャレット本人とまではいかないが、ミスタッチがないのはすごい。ケルン・コンサートは即興で演奏されたので、譜面なんかないのだが、ぼくが聞く限りそのままだ。
 
 女の子は、全曲を弾き終わると、顔を上げ、一番後ろに座っているぼくをジッと見た。

「見たわね?」彼女は、演壇からよく通る声でぼくに怒鳴った。

 ぼくはギクッとして、「ごめん、気付いていたの?」と謝りながら、演壇の方に降りていった。こう離れているとお互い怒鳴り合わなきゃいけない。怒鳴り合っていると喧嘩のようだ。

「ドアが開いて、一瞬明るくなれば気付くわよ」

 なるほど。講堂の後ろの扉を開ければ外光が入って一瞬光る。それが目に付いたということか。

 彼女は、前屈みにぼくを見下ろす。演壇の上から見下ろされるものだから、心理的に分が悪い。彼女は、誰もが目を引くような美人ではなかった。体つきはしなやかで背が高く、スラリとしたウェストと小ぶりな胸、長い黒髪に日本人にしては高い鼻。少し離れていても感じる強靭な意志と聡明さを感じさせる女性だった、なんて後から知った彼女の印象もあるが、最初に思ったのは気の強そうな女の子だった。20才の絵美は、非常に魅力的な女の子だったのだ。目がまったく大きな久保田早紀という感じだ。

「女性はね、注意しなくても、みんな見えるのよ」と言った。確かに、男性は注意しないと何も見えない。女の子は器用だな。
「ふむ、確かにその通り。ゴメン、たまたまキース・ジャレットが聞こえたものだから・・・」
「あら、知っているの?」
「ちょっと前、高校のとき、FM東京で十一時くらいから岡田真澄の番組でオープニングにかかっていたからね」
「へぇー、あまり、知っている人がいない曲よ。ジャズか何かやっているの?」
「いや、音楽関係じゃない。趣味で油絵を描いている。大学では美術サークルに所属しているんだ」
「美術部だけど、ジャズも好きなの?」
「楽器は演奏できないけど、聴くのは好きだね。キースは気に入ったんだ」
「まあ、いいわ。だけど、覗き見はいけないぞ、キミ」
「たまたまさ」
「男はいいのだろうけれど、女は、期待した時にしか何かを見せないものなのよ」
「ふーん、なるほどね。準備がいるってヤツだな。だけどね、男は、偶然とか、たまたまとかが好きなんだ。ココをまっすぐ歩け、寄り道するな、っていわれると、寄り道したくなる」
「女はね、出発点からゴールまで見渡せないと気が済まない。それで、ゴールで期待通り、花束と祝福の嵐、ってこと」
「男は、ゴールで誰も待っていなくて、トボトボ帰ろうとしたら、物陰から、ワッと、現れて、花束差し出されるのが好きなんだ」
「フン、わかりあえそうもないわね、女と男なんて・・・で?」
「で?って?」
「名前ぐらい名乗りたまえ、キミ」
「おお、ゴメン、明彦、っていうんだ、宮部明彦」
「明彦くん・・・性格は、明るいの?」

 明るい?性格が?バカみたいだ。名前で性格がわかるもんか。まあ、どうでもいいけど。

「まあね。キミは?」
「何が?」
「だから名前・・・」
「エミよ、モリ・エミ」
「恵まれる、美しく?」
「違うわ。フェルメールの絵、美術館の美」
「ああ、絵美だね、絵のように美しく」

 ちょっとキースの話をした。「ねえねえ、キミ、いまひま?」と彼女がうれしそうに訊ねた。

「小雨の降っているこんな土曜の午後に見知らぬ女の子の弾くキース・ジャレットのケルン・コンサートを聴いていたぐらいだからひまだろうね」
「句読点のないまわりくどいいいかた。つまり、ひまなのね?」
「ひまだよ」
「ちょっとキミと話してもいいわよ、明彦?」という。「ぼくもキミともっと話したい」と率直に言った。彼女は、「じゃ、ここを閉めるからちょっと待っていてね」と言う。「それでね、こういう寒い日にはブランディーが一番だと思うの」
「土曜日の午後の四時にお茶の水のどこでブランディーが飲めるというんだい?」
「それは任せて。じゃ、行きましょうか」絵美は、演奏はこれでお仕舞い、と言った。

 彼女はピアノの鍵盤にフェルトの覆いをかぶせ、蓋を閉じた。舞台の後ろに行く。そこには電気の盤があって、絵美はその扉を乱暴に押し開ける。ブレーカーのスイッチはひとつひとつ丁寧に切っていく。舞台の照明が落ちていく。慣れた手つきだ。だいたい、女の子が電気の分電盤を開いてブレーカーのスイッチを切る、なんて動作が出来るというのは信じられなかった。よくわからない女の子だ。

 彼女は講堂の鍵を明大の営繕課にてきぱきと返す。知り合いなんだろう。「森さんは明大の何学部なの?」と彼女に聞いた。
「あら、私はここの学生じゃないわ。ここに知り合いがいて、講堂が空いている時にピアノを借りられるの。大学は目白よ」
「よくわからないけど、二人とも自分の大学じゃない場所にいるのはよくわかった」
「あら?キミもここの大学じゃないんだ?」
「そう。ぼくもここの学生じゃない。大学は飯田橋」
「外堀の内側?外側?」
「外側だけど」
「ふ~ん、理系なんだね」

 ぼくたちは明大の講堂を出て、駿河台の坂をさらに下った。絵美はスタスタぼくの前を歩いていく。明大前の交差点を日大理工学部の方に曲がった。左手の山の上ホテルのアネックスを通り過ぎて、山の上ホテルの本館の方に向かうようだった。

「まかせておいてよ。ついてらっしゃい」とホテルのエントランスでこういわれて、山の上ホテルのバー『ノンノン』まで連れて行かれた。その頃の大学生はホテル慣れなどしていない。絵美もそう思ったのだろう。でも、ぼくもホテルのバーでバイトしていてホテルは慣れているけど絵美は知らないものなあ。

 たしかに『ノンノン』は開店時間が午後四時からだ。もちろん、四時からバーにいる人間など宿泊客でもいない。バーテンがグラスを磨きながら「いらっしゃいませ」とぼくたちに言った。

「カウンターでいい?」と絵美がいう。
「カウンターでいいよ」とぼく。
「こぢんまりしているでしょ?」
「いいバーだね。」
「そうでしょ?」絵美は言った。「ところで、ねえねえ、キミのこと、明彦って呼んでいい?」
「いいよ」
「私も絵美と呼んで。名字で呼ばれるのが嫌いなの」
「そりゃあぼくも同じだ」

 ぼくたちはカウンターに座り、絵美はマーテルを、ぼくはメーカーズマークを注文した。ブランディーじゃなかったけれどね。絵美もバーテンダーさんもぼくがメーカーズマークと言ったら怪訝な顔をしていた。そんなお酒、よく知っているな、ということ。時代は70年代なんだ。大学生の男子がそんな酒を知っているわけがないってことだ。

「絵美はどうしてこのバーを知っているの?」とぼくは訊いた。
「叔父がね、よく連れてきてくれるのよ。明彦も大学生のくせにホテルのバーに慣れているようね?」
「横浜の中華街にホリデーインってホテルがあって、高校の近くだったから、そこでよく飲むんだ。それに新橋のホテルのバーでバイトしているからね」
「不良なの?」
「不良に見えますか?」
「う~ん、もっとよくお話しましょう」

 ぼくたちは、ジャズや音楽の話をした。それから、大学のこと、専門のことも。彼女は犯罪心理学を専攻したいという。
 
「十年くらい前にシャロン・テートを殺害した事件があったじゃない?チャールズ・マンソンとそのファミリーが起こした事件なんだけど、知ってる?」
「ああ、ロマン・ポランスキーの奥さんだった女優だよね。猟奇的殺人事件、妊婦殺害、カルト集団、七十年代の産物・・・」
「あの事件を知った後、犯罪心理に興味を持ったの。中学生の時に」ぼくは中学生の時にそんな犯罪心理に興味を持った女の子は非常におかしいとは言わなかった。でも、変なヤツだ。

「なるほど。だけど、日本じゃあ、犯罪心理学を専攻しても日本の警察がそういう学者を必要としていないようだね?」
「そう、その方面の専門家が日本には少ないのが実情なのよ。でも、日本はアメリカの二十年遅れを歩んでいるみたいだから、将来、アメリカのようなカルト的で猟奇的な事件が増えてくると思うの」
「ぼくはそれに関して何ともいえないけれど、でも、心理学というのは面白そうな学問だと思っているんだ」
「明彦の専攻はなあに?飯田橋なんだから、美術じゃないでしょ?」
「物理学。素粒子物理を研究したいと思っている」
「素粒子物理?」
「まだ、よくわからないんだ。物理学というのは幅の広い学問で、理論物理と実験物理では違う。理論系の物理屋はまるで哲学者のようなんだ。それから、理論物理でも、ミクロの分野を扱う量子力学系の物理学と、マクロの天体の運行や宇宙の成り立ちを扱う宇宙物理学とがある。ミクロとマクロの間は仲が悪い。アインシュタインは、その両者、ミクロとマクロを統合した統一場の理論を作ろうとして失敗したんだ。アインシュタイン、知ってる?」
「相対性理論でしょ?」
「そうそう」
「私、相対性理論って習ってみたいな。面白そうじゃない?」
「絵美っておかしいね。犯罪心理学をやってみたくて、相対性理論も習ってみたいなんて?」とぼくは彼女に言った。

「ねえねえ」とうれしそうにぼくの方に乗り出して絵美はいった。「あのね、もしもだけど、明彦がウチの学部のニセ学生で心理学を私と一緒に受講して、私が明彦の学部で相対性理論を受講するのってどうなの?」
「ちょうど、来期の受講に相対性理論は入ってるんだ。うーん、教授に訊いてみてもいいけどね。まあ、訊いてみなくても、必須じゃなくて選択科目だから、一人ぐらい紛れ込んでも教授は気にしないさ。生徒が気にするくらいかな」

「なに?その生徒が気にするって?」
「物理科では女性の生徒はいち学年で数人しかしかいないんだ。だから女性なら誰が誰だか知っているってこと」とぼくはいった。「それにね、キミだからね・・・」
「その『キミ』だからね、ってなに?」
「つまりね、物理科を志望する女性って、かなり変わり者なんだ。ガリガリのガリ勉で身仕舞いを気にしない女性とか、化粧もしない女性とかで・・・数学科や化学科よりも変わり者なんだよね」とぼくはいいにくかったのだけれども言い足した。「絵美みたいな女の子が物理科に来ると目立つんだ・・・つまりね、キミは、その、かなり綺麗だってことだけどね・・・」といった。
「それ、ほめているの?」と、ぼくの方に乗り出して、うれしそうに絵美はいった。
「事実を述べているに過ぎないだけ」
「ふ~ん、喜んでいいの?」
「じゅうぶん、喜んでいいんじゃないかな。かなり綺麗だよ、絵美は」
「ありがと。よぉ~し、じゃあ、二人して四月からニセ学部生になるのに賛成でいい?」
「いいよ、心理学も面白そうだ」

 ノンノンでは、三時間話し込んでしまった。食事もしなかった。バーでナッツをつまみ、唐揚げを注文したくらいだ。絵美はマーテルを五杯飲んだし、ぼくもメーカーズマークを六杯飲んでしまった。バーテンさんは、午後四時からバーにあらわれて、食事もしないでブランディーとウィスキーを何杯も飲んでいる学生カップルに呆れたことだろう。しかし、商売柄ポーカーフェイスだ。ぼくもアルバイトで同じことをしているのでよくわかる。

 普通、初めて会った女の子とはそれほど話がはずむ、ということはぼくの場合にはない。相手のバックグラウンドがまったくわからないからだ。しかし、絵美とは、何でも話ができた。ぼくの知っていることをたいてい彼女も知っていたし、彼女の知っていることをぼくもよく知っている。こんなに楽しい会話はまずない。

 ぼくの大学の女の子は、地方各地から来ているので、話があまり合わない。ぼくの大学に限らず、法政とかポン女の女の子とかでも同じだ。ガールフレンドのメグミは例外みたいなものだった。

 絵美は、何代もつづいた家の東京っ子で、私立の中高六年間一貫教育の学校だからぼくとバックグラウンドが合うのだろう。ぼくは横浜の石川町にある女子校の女の子達とは話が合う。でも、絵美ほど話が合うことは今までなかった。

 70から80年代は、21世紀と違って、かなり大学生も理屈っぽかった。資本論だってかなりの割合の学生が読んでいたし、毛語録を持っているのがかっこいい、という時代だった。もちろん、60、70年安保世代よりもしらけてはいたが、それでも、みんなかなりの量の本を読み、片手に朝日ジャーナルを抱えている学生が多かった。

 ぼくは理系だが、友人は文系が多かったし、物理科にいかなかったら文学部で、江戸の黄表紙本の研究でもするかなあ、と思っていたぐらいだ。

 絵美と話をすると、ブラッドベリ読んだ?読んだ、読んだ。ホーンブロワーシリーズ知ってる?もちろん!ぜんぶもってる、ヒギンズ好き?大好き!リーアム・デブリン、愛しちゃっているんだなあ、なんていう。じゃあ、明彦、ディック・フランシス知ってる?、もちろんだよ、パーカーは?ユダの山羊よかったよ、庄司薫読んだ?彼も好きだ、ホームズは?何度も!夏目漱石?イエス、鴎外?イエス・・・

「じゃあ、明彦、ユング知ってる?」
「現代思想からユング特集がでたよね?去年。それで、フロイトは読んでいたけど、ユングも読んでみた」
「ペルソナ・・・」
「外面的人格。ぼくは、男性であり、大学生であり、家の長男であり、たとえば、絵美にとって・・・え~と、ボーイフレンドであり、って、ゴメン、単なる例だけど・・・」
「そうじゃないの?もう、私のボーイフレンドでしょ?」
「うん、わかった、サンキュー。で、まあ、もろもろ、ぼくは、社会から『男性、男、男の子』という役割をもたされ、期待されて、それからはずれないことを求められる、そういうことだよね?だから、形容詞としての、『女々しい』とか『女の腐ったようなヤツ』などという言葉が侮辱の言葉になる。これらはみんなペルソナ、仮面なんだ。ここまで合ってる?」
「じゅうぶんよ」
「で、女性、女、女の子についても同じことがいえる。女の子は女の子らしくとか、男性に従えとか。これも小さい頃から、女の子がこう吹き込まれて、ペルソナ、社会的な仮面が形成される。しかし、じゃあ、内面はどうなのだろうか?絵美はヘッセのデミアンを読んだ?」
「読んだわよ」
「ぼくは、デミアンを高校の頃読んだんだけど、あれがユングの影響を受けて書いたとは知らなかった。ぼくがクリスチャンの中高だっていったよね?」
「聞いたわ」
「それで、デミアンを読んで、グノーシスとか、ナグ・ハマディ文書とかを調べてね。そういうの、知ってる?」「知ってるわ」「学校にそういう図書がいっぱいあったからね。で、外面的なペルソナと自分の内面ってなんだろうか?ということを考え始めたんだ。それから、男と女のことも。だから、ぼくは、女の子は女の子らしく、とはまったく思わないし、肉体的・物理的な面を除いたら、男が女を守らなければいけないとか、男性が主導権を持つ、それを女性に発揮すべきだ、なんてことも思わないよ」
「へぇ~、話せるじゃない。絵美、キミのことが好きだよ、明彦」

 突然、会った当日に、「私、キミのことが好きだよ」なんていう女の子をぼくは知らない。ちょっとドギマギしてしまったが、「ぼくもキミのことが好きだよ、絵美」と言った。ちょっと自然に出たセリフじゃなく、とってつけたような話し方になってしまったが。彼女は自然だった。

「ねえねえ、明彦のことスキだ、って言ったんだから、これはお付き合いしましょうってことでいいのかしら?」
「ぼくは女の子からそんなことを言われたことがないけど、ぼくも絵美のことがスキだから、これはお付き合いさせてください」
「まさか、キミ、この人だけ!という女性がいたりするの?」
「ガールフレンドはいます。女友達だけど」
「男女の間は微妙よね?いつ相変化するのか?ね?」
「え?相変化で女友達が恋人になるってわかりません、ってこと?氷が水になるようにってこと?」
「うん、正直に答えて」
「今日会ったばかりだけど、絵美とは相変化が起こる気がする」
「ふふふ、その内、その彼女さんに会わせてね」
「ぼくは気まずくなりそうだ」
「女の子って、男の子が気まずくなるのが大好物なのよ」やれやれだ。

「そうそう、お付き合いするのなら、話しておくことがある。ぼくの中学高校で躾られたことがあるんだよ」
「うん?」
「女の子には、食事でも何でも、ぜったいに支払いをさせてはいけない、ってこと」
「まあ!」
「だから、ここはぼくのおごり。これから・・・もしも、つき合ってくれるなら、すべての支払いはぼく。これが条件だけど、よろしい?」
「私の信念とはちょっと違うけど、でも、いいわ。だって、叔父にも父にも払ってもらっているのだし」
「それと、絵美、ぼくも聞きたいのだけど・・・キミ、ボーイフレンドいるの?」
「それって、友人で、性別が男性、という存在?」
「う~ん、親密な男性の存在、ってことだけど」
「親密な男性ねえ、いるようでいて、いないようでいて・・・でも、今晩で明彦が優先順位のトップに昇格した、という答えじゃダメ?」
「ありがとう、ぼくも同じだ。キミがいまや優先順位のトップだ」メグミのふてくされる顔が浮かんだ。

「親密な関係?」と絵美は眼をクルクル回しながらいう。
「アハハ、会った初日から親密な関係というのもおかしい」
「でも、親密な関係になりそう?」
「ぼくは、もう親密な関係だと思いたい。キミがなんといおうと。ただ、ぼくの女性の友人をすべて抹殺、なんて、宇宙家族ロビンソンのロボットじゃあるまいし、それは勘弁して欲しいし、キミの男性の友人を抹殺してくれ、なんてことも金輪際いいたくない」
「私も同じことを考えていたの。私たち、同じ母親をもった兄妹みたいな感じがする」
「ちょ、ちょっと、それはマズイ。兄妹だと、キミにキスもできないよ」(またキスだ。メグミが怒る。)
「あら、概念として、ということで、キスでも何でもしていいのよ」(それはマズイ。メグミが激怒する)
「う~、ま、まあ、それは将来の課題にとっておきたい」
「初日ですものね」
「そう、初日も何も、まだ数時間しか経過してない・・・おっと、もう七時半過ぎだよ。絵美、帰らないと・・・」
「あら、ホントだ。母に早く帰る、といってきたのよ」
「帰ろう」といって、バーテンさんに「チェックお願いします」と頼んだ。
「条件よね、ごちそうさま」
「おやすいご用で」

 ぼくたちは電話番号と住所を交換して、ホテルを出た。御茶ノ水駅まで行く途中で、絵美が、「ねえねえ、明日もひま?」とうれしそうにいう。「ひまだよ」とぼく。
「上野行かない?近代美術館と、国立博物館と科学博物館に行きたい!」
「いいよ、ぼくも最近行っていないから」
「じゃあ、明日、お昼過ぎでどう?」
「了解、出る前に電話かけるよ」
「つき合ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ」

 ぼくらは、御茶ノ水駅で1、2番線と3、4番線で別れた。彼女の電車が来るまで、ぼくは彼女をずっと見ていた。彼女もぼくをずっと見ていた。いろいろな人がホームにあふれていて、面白そうな人を見かけると、無言で指さして彼女は笑った。ぼくもつられてしまった。

 絵美の期待した時でも、場所でもなかったけど、その日から、ぼくは絵美とつき合うようになった。

 二月も三月も、一週間に二日か三日、ぼくらは会っていた。

 ぼくは恋をしたのだ。


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 まっすぐ家に帰る気もせず、お茶の水で降りてしまった。茗溪通りを歩いてみる。まだ二時だ。レモン画翠に入った。ちょうど画材が切れていたので、テレピン油、リンシード油の500ミリリットル瓶、ジンクホワイト、バーミリオン、ビリジャン、ピーチブラックなどを買った。クロッキー用の木炭、パステルも買う。ぼくのガールフレンドのメグミがアクリルをやり始めたので、ホルベインのアクリルガッシュのセットも買った。
 さて、なにをしよう?古本屋でもあさろうか。
 レモン画翠を出て、駅の御茶ノ水橋前の交差点を渡り、明大通りの坂を下る。お茶の水は何事もなく、ひっそりしていて、春休みの大学街には古本あさりのおじさんがちらほら傘を差して歩いているだけだ。この坂で70年安保の際に、石畳を剥がして投石していた十年前が想像できない。トボトボ歩いて、明治大学の横に来た。文系の大学の方が理系の大学より大学っぽい、というのはなぜなのだろうか?やはり、女の子がいるか、いないかの差なのかもしれない。
 門をくぐって、構内に入っても誰もとがめる人もいないので、ズンズン奥の方に行ってしまう。ここは、いつもなら飯田橋の理学部にはあまりいない女子学生が闊歩しているのだろうな、などと思いながら、教室、教室を覗いて歩く。もちろん、誰もいないのだが。
 どこを歩いているかわからなくなった時、廊下がつきて、ロビーに出た。ロビーに面して、第一講堂なんて、両開きの古い木の扉の上に大書してあり、その木の扉はちょっと開いていた。そして、講堂の中から、ピアノが聞こえた。
(へぇー、キース・ジャレットを弾いている人がいる)
 扉を少し開けて、ソォーと、着ていたピーコートを引っかけないようにすり抜けて、講堂に入った。後ろの扉だったので、演壇まではエンエンと座席が三十列くらい続いていた。
 演壇にはスポットライトが一灯だけついていて、その光の輪の中で、女の子が長い髪をサラサラ揺らしながら、鍵盤をのぞき込むようにして、ケルン・コンサートのパートⅠを弾いていた。やけに脚も手も長い女の子だ。
 ぼくは邪魔をしないように、一番後ろの列のたまたま下がっていた座席にそっと腰を下ろした。キース・ジャレット本人とまではいかないが、ミスタッチがないのはすごい。ケルン・コンサートは即興で演奏されたので、譜面なんかないのだが、ぼくが聞く限りそのままだ。
 女の子は、全曲を弾き終わると、顔を上げ、一番後ろに座っているぼくをジッと見た。
「見たわね?」彼女は、演壇からよく通る声でぼくに怒鳴った。
 ぼくはギクッとして、「ごめん、気付いていたの?」と謝りながら、演壇の方に降りていった。こう離れているとお互い怒鳴り合わなきゃいけない。怒鳴り合っていると喧嘩のようだ。
「ドアが開いて、一瞬明るくなれば気付くわよ」
 なるほど。講堂の後ろの扉を開ければ外光が入って一瞬光る。それが目に付いたということか。
 彼女は、前屈みにぼくを見下ろす。演壇の上から見下ろされるものだから、心理的に分が悪い。彼女は、誰もが目を引くような美人ではなかった。体つきはしなやかで背が高く、スラリとしたウェストと小ぶりな胸、長い黒髪に日本人にしては高い鼻。少し離れていても感じる強靭な意志と聡明さを感じさせる女性だった、なんて後から知った彼女の印象もあるが、最初に思ったのは気の強そうな女の子だった。20才の絵美は、非常に魅力的な女の子だったのだ。目がまったく大きな久保田早紀という感じだ。
「女性はね、注意しなくても、みんな見えるのよ」と言った。確かに、男性は注意しないと何も見えない。女の子は器用だな。
「ふむ、確かにその通り。ゴメン、たまたまキース・ジャレットが聞こえたものだから・・・」
「あら、知っているの?」
「ちょっと前、高校のとき、FM東京で十一時くらいから岡田真澄の番組でオープニングにかかっていたからね」
「へぇー、あまり、知っている人がいない曲よ。ジャズか何かやっているの?」
「いや、音楽関係じゃない。趣味で油絵を描いている。大学では美術サークルに所属しているんだ」
「美術部だけど、ジャズも好きなの?」
「楽器は演奏できないけど、聴くのは好きだね。キースは気に入ったんだ」
「まあ、いいわ。だけど、覗き見はいけないぞ、キミ」
「たまたまさ」
「男はいいのだろうけれど、女は、期待した時にしか何かを見せないものなのよ」
「ふーん、なるほどね。準備がいるってヤツだな。だけどね、男は、偶然とか、たまたまとかが好きなんだ。ココをまっすぐ歩け、寄り道するな、っていわれると、寄り道したくなる」
「女はね、出発点からゴールまで見渡せないと気が済まない。それで、ゴールで期待通り、花束と祝福の嵐、ってこと」
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「で?って?」
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「おお、ゴメン、明彦、っていうんだ、宮部明彦」
「明彦くん・・・性格は、明るいの?」
 明るい?性格が?バカみたいだ。名前で性格がわかるもんか。まあ、どうでもいいけど。
「まあね。キミは?」
「何が?」
「だから名前・・・」
「エミよ、モリ・エミ」
「恵まれる、美しく?」
「違うわ。フェルメールの絵、美術館の美」
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 ちょっとキースの話をした。「ねえねえ、キミ、いまひま?」と彼女がうれしそうに訊ねた。
「小雨の降っているこんな土曜の午後に見知らぬ女の子の弾くキース・ジャレットのケルン・コンサートを聴いていたぐらいだからひまだろうね」
「句読点のないまわりくどいいいかた。つまり、ひまなのね?」
「ひまだよ」
「ちょっとキミと話してもいいわよ、明彦?」という。「ぼくもキミともっと話したい」と率直に言った。彼女は、「じゃ、ここを閉めるからちょっと待っていてね」と言う。「それでね、こういう寒い日にはブランディーが一番だと思うの」
「土曜日の午後の四時にお茶の水のどこでブランディーが飲めるというんだい?」
「それは任せて。じゃ、行きましょうか」絵美は、演奏はこれでお仕舞い、と言った。
 彼女はピアノの鍵盤にフェルトの覆いをかぶせ、蓋を閉じた。舞台の後ろに行く。そこには電気の盤があって、絵美はその扉を乱暴に押し開ける。ブレーカーのスイッチはひとつひとつ丁寧に切っていく。舞台の照明が落ちていく。慣れた手つきだ。だいたい、女の子が電気の分電盤を開いてブレーカーのスイッチを切る、なんて動作が出来るというのは信じられなかった。よくわからない女の子だ。
 彼女は講堂の鍵を明大の営繕課にてきぱきと返す。知り合いなんだろう。「森さんは明大の何学部なの?」と彼女に聞いた。
「あら、私はここの学生じゃないわ。ここに知り合いがいて、講堂が空いている時にピアノを借りられるの。大学は目白よ」
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「そう。ぼくもここの学生じゃない。大学は飯田橋」
「外堀の内側?外側?」
「外側だけど」
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「まかせておいてよ。ついてらっしゃい」とホテルのエントランスでこういわれて、山の上ホテルのバー『ノンノン』まで連れて行かれた。その頃の大学生はホテル慣れなどしていない。絵美もそう思ったのだろう。でも、ぼくもホテルのバーでバイトしていてホテルは慣れているけど絵美は知らないものなあ。
 たしかに『ノンノン』は開店時間が午後四時からだ。もちろん、四時からバーにいる人間など宿泊客でもいない。バーテンがグラスを磨きながら「いらっしゃいませ」とぼくたちに言った。
「カウンターでいい?」と絵美がいう。
「カウンターでいいよ」とぼく。
「こぢんまりしているでしょ?」
「いいバーだね。」
「そうでしょ?」絵美は言った。「ところで、ねえねえ、キミのこと、明彦って呼んでいい?」
「いいよ」
「私も絵美と呼んで。名字で呼ばれるのが嫌いなの」
「そりゃあぼくも同じだ」
 ぼくたちはカウンターに座り、絵美はマーテルを、ぼくはメーカーズマークを注文した。ブランディーじゃなかったけれどね。絵美もバーテンダーさんもぼくがメーカーズマークと言ったら怪訝な顔をしていた。そんなお酒、よく知っているな、ということ。時代は70年代なんだ。大学生の男子がそんな酒を知っているわけがないってことだ。
「絵美はどうしてこのバーを知っているの?」とぼくは訊いた。
「叔父がね、よく連れてきてくれるのよ。明彦も大学生のくせにホテルのバーに慣れているようね?」
「横浜の中華街にホリデーインってホテルがあって、高校の近くだったから、そこでよく飲むんだ。それに新橋のホテルのバーでバイトしているからね」
「不良なの?」
「不良に見えますか?」
「う~ん、もっとよくお話しましょう」
 ぼくたちは、ジャズや音楽の話をした。それから、大学のこと、専門のことも。彼女は犯罪心理学を専攻したいという。
「十年くらい前にシャロン・テートを殺害した事件があったじゃない?チャールズ・マンソンとそのファミリーが起こした事件なんだけど、知ってる?」
「ああ、ロマン・ポランスキーの奥さんだった女優だよね。猟奇的殺人事件、妊婦殺害、カルト集団、七十年代の産物・・・」
「あの事件を知った後、犯罪心理に興味を持ったの。中学生の時に」ぼくは中学生の時にそんな犯罪心理に興味を持った女の子は非常におかしいとは言わなかった。でも、変なヤツだ。
「なるほど。だけど、日本じゃあ、犯罪心理学を専攻しても日本の警察がそういう学者を必要としていないようだね?」
「そう、その方面の専門家が日本には少ないのが実情なのよ。でも、日本はアメリカの二十年遅れを歩んでいるみたいだから、将来、アメリカのようなカルト的で猟奇的な事件が増えてくると思うの」
「ぼくはそれに関して何ともいえないけれど、でも、心理学というのは面白そうな学問だと思っているんだ」
「明彦の専攻はなあに?飯田橋なんだから、美術じゃないでしょ?」
「物理学。素粒子物理を研究したいと思っている」
「素粒子物理?」
「まだ、よくわからないんだ。物理学というのは幅の広い学問で、理論物理と実験物理では違う。理論系の物理屋はまるで哲学者のようなんだ。それから、理論物理でも、ミクロの分野を扱う量子力学系の物理学と、マクロの天体の運行や宇宙の成り立ちを扱う宇宙物理学とがある。ミクロとマクロの間は仲が悪い。アインシュタインは、その両者、ミクロとマクロを統合した統一場の理論を作ろうとして失敗したんだ。アインシュタイン、知ってる?」
「相対性理論でしょ?」
「そうそう」
「私、相対性理論って習ってみたいな。面白そうじゃない?」
「絵美っておかしいね。犯罪心理学をやってみたくて、相対性理論も習ってみたいなんて?」とぼくは彼女に言った。
「ねえねえ」とうれしそうにぼくの方に乗り出して絵美はいった。「あのね、もしもだけど、明彦がウチの学部のニセ学生で心理学を私と一緒に受講して、私が明彦の学部で相対性理論を受講するのってどうなの?」
「ちょうど、来期の受講に相対性理論は入ってるんだ。うーん、教授に訊いてみてもいいけどね。まあ、訊いてみなくても、必須じゃなくて選択科目だから、一人ぐらい紛れ込んでも教授は気にしないさ。生徒が気にするくらいかな」
「なに?その生徒が気にするって?」
「物理科では女性の生徒はいち学年で数人しかしかいないんだ。だから女性なら誰が誰だか知っているってこと」とぼくはいった。「それにね、キミだからね・・・」
「その『キミ』だからね、ってなに?」
「つまりね、物理科を志望する女性って、かなり変わり者なんだ。ガリガリのガリ勉で身仕舞いを気にしない女性とか、化粧もしない女性とかで・・・数学科や化学科よりも変わり者なんだよね」とぼくはいいにくかったのだけれども言い足した。「絵美みたいな女の子が物理科に来ると目立つんだ・・・つまりね、キミは、その、かなり綺麗だってことだけどね・・・」といった。
「それ、ほめているの?」と、ぼくの方に乗り出して、うれしそうに絵美はいった。
「事実を述べているに過ぎないだけ」
「ふ~ん、喜んでいいの?」
「じゅうぶん、喜んでいいんじゃないかな。かなり綺麗だよ、絵美は」
「ありがと。よぉ~し、じゃあ、二人して四月からニセ学部生になるのに賛成でいい?」
「いいよ、心理学も面白そうだ」
 ノンノンでは、三時間話し込んでしまった。食事もしなかった。バーでナッツをつまみ、唐揚げを注文したくらいだ。絵美はマーテルを五杯飲んだし、ぼくもメーカーズマークを六杯飲んでしまった。バーテンさんは、午後四時からバーにあらわれて、食事もしないでブランディーとウィスキーを何杯も飲んでいる学生カップルに呆れたことだろう。しかし、商売柄ポーカーフェイスだ。ぼくもアルバイトで同じことをしているのでよくわかる。
 普通、初めて会った女の子とはそれほど話がはずむ、ということはぼくの場合にはない。相手のバックグラウンドがまったくわからないからだ。しかし、絵美とは、何でも話ができた。ぼくの知っていることをたいてい彼女も知っていたし、彼女の知っていることをぼくもよく知っている。こんなに楽しい会話はまずない。
 ぼくの大学の女の子は、地方各地から来ているので、話があまり合わない。ぼくの大学に限らず、法政とかポン女の女の子とかでも同じだ。ガールフレンドのメグミは例外みたいなものだった。
 絵美は、何代もつづいた家の東京っ子で、私立の中高六年間一貫教育の学校だからぼくとバックグラウンドが合うのだろう。ぼくは横浜の石川町にある女子校の女の子達とは話が合う。でも、絵美ほど話が合うことは今までなかった。
 70から80年代は、21世紀と違って、かなり大学生も理屈っぽかった。資本論だってかなりの割合の学生が読んでいたし、毛語録を持っているのがかっこいい、という時代だった。もちろん、60、70年安保世代よりもしらけてはいたが、それでも、みんなかなりの量の本を読み、片手に朝日ジャーナルを抱えている学生が多かった。
 ぼくは理系だが、友人は文系が多かったし、物理科にいかなかったら文学部で、江戸の黄表紙本の研究でもするかなあ、と思っていたぐらいだ。
 絵美と話をすると、ブラッドベリ読んだ?読んだ、読んだ。ホーンブロワーシリーズ知ってる?もちろん!ぜんぶもってる、ヒギンズ好き?大好き!リーアム・デブリン、愛しちゃっているんだなあ、なんていう。じゃあ、明彦、ディック・フランシス知ってる?、もちろんだよ、パーカーは?ユダの山羊よかったよ、庄司薫読んだ?彼も好きだ、ホームズは?何度も!夏目漱石?イエス、鴎外?イエス・・・
「じゃあ、明彦、ユング知ってる?」
「現代思想からユング特集がでたよね?去年。それで、フロイトは読んでいたけど、ユングも読んでみた」
「ペルソナ・・・」
「外面的人格。ぼくは、男性であり、大学生であり、家の長男であり、たとえば、絵美にとって・・・え~と、ボーイフレンドであり、って、ゴメン、単なる例だけど・・・」
「そうじゃないの?もう、私のボーイフレンドでしょ?」
「うん、わかった、サンキュー。で、まあ、もろもろ、ぼくは、社会から『男性、男、男の子』という役割をもたされ、期待されて、それからはずれないことを求められる、そういうことだよね?だから、形容詞としての、『女々しい』とか『女の腐ったようなヤツ』などという言葉が侮辱の言葉になる。これらはみんなペルソナ、仮面なんだ。ここまで合ってる?」
「じゅうぶんよ」
「で、女性、女、女の子についても同じことがいえる。女の子は女の子らしくとか、男性に従えとか。これも小さい頃から、女の子がこう吹き込まれて、ペルソナ、社会的な仮面が形成される。しかし、じゃあ、内面はどうなのだろうか?絵美はヘッセのデミアンを読んだ?」
「読んだわよ」
「ぼくは、デミアンを高校の頃読んだんだけど、あれがユングの影響を受けて書いたとは知らなかった。ぼくがクリスチャンの中高だっていったよね?」
「聞いたわ」
「それで、デミアンを読んで、グノーシスとか、ナグ・ハマディ文書とかを調べてね。そういうの、知ってる?」「知ってるわ」「学校にそういう図書がいっぱいあったからね。で、外面的なペルソナと自分の内面ってなんだろうか?ということを考え始めたんだ。それから、男と女のことも。だから、ぼくは、女の子は女の子らしく、とはまったく思わないし、肉体的・物理的な面を除いたら、男が女を守らなければいけないとか、男性が主導権を持つ、それを女性に発揮すべきだ、なんてことも思わないよ」
「へぇ~、話せるじゃない。絵美、キミのことが好きだよ、明彦」
 突然、会った当日に、「私、キミのことが好きだよ」なんていう女の子をぼくは知らない。ちょっとドギマギしてしまったが、「ぼくもキミのことが好きだよ、絵美」と言った。ちょっと自然に出たセリフじゃなく、とってつけたような話し方になってしまったが。彼女は自然だった。
「ねえねえ、明彦のことスキだ、って言ったんだから、これはお付き合いしましょうってことでいいのかしら?」
「ぼくは女の子からそんなことを言われたことがないけど、ぼくも絵美のことがスキだから、これはお付き合いさせてください」
「まさか、キミ、この人だけ!という女性がいたりするの?」
「ガールフレンドはいます。女友達だけど」
「男女の間は微妙よね?いつ相変化するのか?ね?」
「え?相変化で女友達が恋人になるってわかりません、ってこと?氷が水になるようにってこと?」
「うん、正直に答えて」
「今日会ったばかりだけど、絵美とは相変化が起こる気がする」
「ふふふ、その内、その彼女さんに会わせてね」
「ぼくは気まずくなりそうだ」
「女の子って、男の子が気まずくなるのが大好物なのよ」やれやれだ。
「そうそう、お付き合いするのなら、話しておくことがある。ぼくの中学高校で躾られたことがあるんだよ」
「うん?」
「女の子には、食事でも何でも、ぜったいに支払いをさせてはいけない、ってこと」
「まあ!」
「だから、ここはぼくのおごり。これから・・・もしも、つき合ってくれるなら、すべての支払いはぼく。これが条件だけど、よろしい?」
「私の信念とはちょっと違うけど、でも、いいわ。だって、叔父にも父にも払ってもらっているのだし」
「それと、絵美、ぼくも聞きたいのだけど・・・キミ、ボーイフレンドいるの?」
「それって、友人で、性別が男性、という存在?」
「う~ん、親密な男性の存在、ってことだけど」
「親密な男性ねえ、いるようでいて、いないようでいて・・・でも、今晩で明彦が優先順位のトップに昇格した、という答えじゃダメ?」
「ありがとう、ぼくも同じだ。キミがいまや優先順位のトップだ」メグミのふてくされる顔が浮かんだ。
「親密な関係?」と絵美は眼をクルクル回しながらいう。
「アハハ、会った初日から親密な関係というのもおかしい」
「でも、親密な関係になりそう?」
「ぼくは、もう親密な関係だと思いたい。キミがなんといおうと。ただ、ぼくの女性の友人をすべて抹殺、なんて、宇宙家族ロビンソンのロボットじゃあるまいし、それは勘弁して欲しいし、キミの男性の友人を抹殺してくれ、なんてことも金輪際いいたくない」
「私も同じことを考えていたの。私たち、同じ母親をもった兄妹みたいな感じがする」
「ちょ、ちょっと、それはマズイ。兄妹だと、キミにキスもできないよ」(またキスだ。メグミが怒る。)
「あら、概念として、ということで、キスでも何でもしていいのよ」(それはマズイ。メグミが激怒する)
「う~、ま、まあ、それは将来の課題にとっておきたい」
「初日ですものね」
「そう、初日も何も、まだ数時間しか経過してない・・・おっと、もう七時半過ぎだよ。絵美、帰らないと・・・」
「あら、ホントだ。母に早く帰る、といってきたのよ」
「帰ろう」といって、バーテンさんに「チェックお願いします」と頼んだ。
「条件よね、ごちそうさま」
「おやすいご用で」
 ぼくたちは電話番号と住所を交換して、ホテルを出た。御茶ノ水駅まで行く途中で、絵美が、「ねえねえ、明日もひま?」とうれしそうにいう。「ひまだよ」とぼく。
「上野行かない?近代美術館と、国立博物館と科学博物館に行きたい!」
「いいよ、ぼくも最近行っていないから」
「じゃあ、明日、お昼過ぎでどう?」
「了解、出る前に電話かけるよ」
「つき合ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ」
 ぼくらは、御茶ノ水駅で1、2番線と3、4番線で別れた。彼女の電車が来るまで、ぼくは彼女をずっと見ていた。彼女もぼくをずっと見ていた。いろいろな人がホームにあふれていて、面白そうな人を見かけると、無言で指さして彼女は笑った。ぼくもつられてしまった。
 絵美の期待した時でも、場所でもなかったけど、その日から、ぼくは絵美とつき合うようになった。
 二月も三月も、一週間に二日か三日、ぼくらは会っていた。
 ぼくは恋をしたのだ。