女弁護士 11時になって、急に潮が引くように客がいなくなっていく。外の銀座の風景が美しい。第1次オイルショックの時はネオンも消えて寂しかったが、今回のオイルショックでは、あまりネオン自粛の声も聞かれない。
カウンターには客が一人もいなくなった。フロアのアマネさんも暇そうにしている。
階段を降りてL字型に座り心地の良さそうな樫の木づくりの10席ほどのカウンターが有り、そこから建物の端までは2席から4席のテーブル席が設けられている。
アマネさんとフロアを見てよそ見していたぼくに、急に「ピンクジンを頂戴、タンカレー、ダブルで」とカウンターから注文が来た。いつの間にきたのか、チェアを引く音が聞こえなかった。「いらっしゃいませ。ピンクジン、タンカレーベースでダブルですね」とぼくはカウンターに目を戻して復唱した。
女性だった。ビジネススーツを着ている。下がパンツなのかスカートなのか、カウンターからは見えない。非常に美しい。ネイビーブルーのビジネススーツはオーソドックスだが、シャツは白のフリルがついているかなり高価そうな代物。プラチナの揃いのピアスとネックレス。四角いダイアモンドのペンダント。カウンターにおいた手には結婚指輪はない。バーテンは瞬時に客層を見るもんだ、と吉田さんが言っていた。
ミキシンググラスにロックアイスを入れ、タンカレーのダブルを注ぐ。ちゃんとメジャーグラスで計って注いでから、ちょっとハーフをグラスから足し増す。このおまけが客には重要だ。売り上げが上がる。
中指と薬指を折り、親指と人差し指、小指でミキシングスプーンを支えて、軽くステアする。アンゴスチュラ・ビターズを数滴。ミントの葉を2枚。ピンクジンの出来上がり。彼女の前にコースターをだし、グラスをそっとおく。我ながら流れるような作業だ。
「おいしいわ」と彼女。ぼくもつられてニコッと笑う。
「クリスマスなのに大変ね?」と彼女がぼくに言う。「忙しいですが、イブにバーが閉まっていたらお客様がお困りになります」と私。
「お若そうね?」
「え~、大学生なんです」
「あら?ここに勤めているのじゃないの?」
「夜だけですよ」ぼくはグラスを磨きながら答える。
「いいわねえ、イブなのにやることがあって・・・」と彼女。「イブなのに、ホテルのバーでやることもなくピンクジンを一人飲んでいる寂しい女もいるのよ。今日も大変だった、クライアントと打ち合わせして、その後、食事。2次会も適当につき合って、ホテルに帰ってきたの。金沢から出てきたから知り合いもいないのね、あ~あ・・・うん、ゴメンごめん、愚痴が思わずでちゃったわね」と彼女はニコッとぼくに微笑みグラスを掲げて言った。素敵な笑顔だ。
「それは大変だったですね」とぼくはグラスを拭きながら言った。
「キミ、仕事が終わった後はどうするの?終電もないでしょ?バーが閉まるのは1時よね?」と彼女が訊く。
「ホテルの従業員階の一室に二段ベッドがおいてあって、バーの従業員は始発まで仮眠できるようになっているんですよ」とぼく。
「へぇ、そぉ?」と彼女が言う。ちょっと考えて、多少躊躇しながら彼女が小声で言った。「私ね、部屋が9階なの。903。ほら、この鍵」と真鍮のキーホルダーとキーを私に見せる。「キミ、その仮眠室、抜け出せるの?」と彼女。「え~、誰がいつ出て行った、なんて、同室のバーのバイト連中は気にしませんから。昼間まで寝ているフーテンもいます。ここを寝場所にしているようなものですよ。寝た後は誰も起きません」とぼく。
「そぉ、だったら、私の部屋にこられる?寝酒をつき合うっていうのはどう?」と彼女。
ホテルの従業員はそういうことをしてはいけない、という理性の声も聞こえる。しかし、「問題ありませんよ、2時頃でもよろしいですか?」と平然と答えるぼく。相手によるのだ。彼女だったら・・・。
「2時ね、シャンパンを注文しておくわ・・・あなたが届けるんじゃないでしょうね?」
「あのフロアに突っ立っている男が届けますよ」
「そう、じゃあ、ピンクジンは部屋につけておいてね。それから、クリュッグのノンビンテージを冷やして部屋に持ってくるように手配してね。キミ、このお酒でよろしい?」と彼女。
「了解致しました」とぼくは伝票を書き、彼女に部屋番号と氏名、サインを求めた。伝票を見た。名前、島津洋子さんというんだ。
サラサラとサインすると、彼女は「じゃあ、あとで。メリークリスマス!」と小さく言い、さっさと立ち上がって、左手のエレベーターの方に消えていった。後ろ姿を見送る私。スカートだった。シームの入った黒のストッキング。やれやれ。
「アマネさん?」とフロアにいるアマネさんに言う。
「なんだい?」
「今のお客さん、903号室、部屋にクリュッグのノンビンテージを持ってきて欲しいそうですよ。グラスは2つ」とぼく。そう、グラスは2つ必要だろう?
「わかった、フロアの向こうにいたのでよく見えなかったが、美人だったな」
「部屋に行ったらゆっくり鑑賞できるでしょう?」
「はは、じゃあ、持っていくから、フロアも見てくれよ」とアマネさんは言って、パントリーからワインクーラーを取り、ワイン庫からシャンパンを持ってくると、ぼくが用意した伝票を持って、エレベーターの方に向かった。入れ違いにバーテンダーが帰ってきた。
「ハイ、ただいま。もう、客も引けたな?」と吉田さん。「これから泥酔状態の一団がなだれ込んでこないとも限りませんよ」とぼく。案の定、泥酔状態の5人組がなだれ込んできたのは12時だった・・・
「2時か・・・」
今晩、仮眠室はアマネさんとぼくだけだ。アマネさんは、いつもバーが閉まってからのバー仲間の一杯を、安ウィスキーを半パイントほども飲んで寝てしまう。寝たら絶対に起きない。この前など、情けないことに寝小便までしていた。この人の人生はなんなのだろうか?
「ま、いいや、メリークリスマス」とぼくは誰にともなく言った。
泥酔状態の5人組は適当に酒を出して、1時前には丁重にお引き取り願った。「お客様、当バーは午前1時までの営業となります。そろそろ閉店の時間なのですが・・・」とぼく。へべれけの5人組は素直に勘定をして出て行った。バーの入り口を閉ざす。5人組以外は客が居なかったので、洗い物も片づけも終わっていた。5人組のグラスを洗うともうやることもない。
「全部終わりましたが・・・」と吉田さんに言うぼく。
「お!終わったか、じゃあ、約束通り、ロイヤル・ハウスホールドを飲めよ」と言う。
「ありがとうございます」とロイヤル・ハウスホールドの瓶を棚から取って、グラスに注ぐ。何も足さないで飲む。ノドを何の抵抗もなく落ちていく。素晴らしい。
「まあ、今日は忙しかったな。明日って、今日か、クリスマスだな。どうするんだ?」と彼が訊くので、「オフにさせてください、ちょっと約束があるので・・・」と答える。
「イブに仕事させたからな、女の子とでも約束があるんだろうな」
「そうなんですよ・・・ああ、そうそう、部屋を取って頂けませんか?ダブルの部屋を」
「なんだ?女の子と泊まるのか?贅沢なヤツだなあ、ホテルに部屋を取るなんて」とうらやましそうに言う。
20世紀には、学生がシティーホテルに泊まるなんてことはまずなかった。たとえクリスマスイブだろうが、なんだろうが、そういう文化はまだ形成されていなかった。
「まあ、いいや、宮部の名前で取っておいてやるよ、特別料金だぞ、安くしておくから」と彼が言う。「ありがとうございます」と私。
アマネさんは、ウィスキーをストレートでガブガブ飲んでいた。カウンターの隅に坐って会話には参加しない。つくづく変わった人だ。
「さて、1時半じゃないか?お開きにするか?」と吉田さんが言った。「おい、アマネ、飲み過ぎたか?」とアマネさんにバーテンが訊く。「大丈夫ですよ」とアマネさんが答えるが、呂律が回っていない。最近酒にめっきり弱くなったようだ。「明彦、部屋まで一緒に連れて行ってくれ。それと寝小便をされちゃ困るからな、トイレをすませてから寝させてくれよ」と言われた。