「ああ、佐原さん。今帰り?」
数日後。
アルバイトを終えて帰ろうとした亜沙美は、正面ドアを出たところで外出から戻ったらしい上坂と行き会った。
「はい。お先に失礼いたします」
「佐原さんて大学一年生だっけ? じゃあまだ十代かな? 若いねぇ。……これじゃ単なるオヤジだな」
挨拶をして頭を下げた亜沙美に、彼は畏まらなくていい、と手振りしつつ話し掛けてきた。
「はい、十九歳です」
「そうか、私より二十も下なんだ。今年で四十になるから。不惑近いとはいえ、まだまだ惑うばかりなんだけどね」
四十歳。今はまだ三十九歳か。どちらにしても、亜沙美からしたら大して変わらない。
両親はどちらも五十少し手前、所謂アラフィフなので、この上司は親の方に余程近いことになる。
もちろん、大企業ではなくとも『支店長』という要職についているからにはそれなりの年齢なのは当然とはいえ、上坂は三十代半ばにも見えた。
ただ本当に若く見えるのか、それとも亜沙美が年代の離れた男性の年をきちんと認識できていないためかは不明だ。
それでも亜沙美が、失礼ながら四十歳男性と聞いてイメージしてしまう「くたびれたオジサン」とは程遠いのだけは間違いない。
「だったらお子さんもまだ小さいんですか? 奥様はお家に?」
無難な、──年上のよく知らない人に対する当たり障りのない話題。心底そう信じていた。
「……子どもはいないんだよ。僕は五年前に妻を亡くしててね。それきり独り者なんだ」
咄嗟に反応することができない。何を言っても自己弁護にしかならないくらいわかっていた。一度口から吐いたものは、決して取り消せないのだから。
「佐原さん。僕は別に気にしてないんだ。もう完全に割り切れるくらい時間も経ったし。でもそういう、──プライベートなことは気軽に訊かない方がいいね。オヤジの戯言でうるさいと思ってくれても構わない。これから社会に出る上での嗜みとして、心の片隅にでも置いておいてくれると嬉しいよ」
静かに、淡々と綴られる台詞。
上坂は真に言葉通り気にしていないのかもしれない。
しかしそれは本質ではなかった。他人を深く傷つけるかもしれない言葉を、己が発してしまったという事実の前では。実際に、今の上坂の話は亜沙美の心の奥底に突き刺さった。
自業自得に過ぎないが、言葉は刃になり得るのだと身を持って体験してしまう。
「……す、すみませ──」
何と言えばいいのかわからなかった。今この瞬間もわからない。
ただ、黙って有耶無耶に誤魔化すことだけはしてはいけない、と強く思った。けれど謝罪が正しいのかもまた、亜沙美には判別できないのだ。
「ああ、ごめん。君を責める気はないんだ。ほんの少し気に止めてもらえたらいいな、ってこんなの年寄りの説教にしか聞こえないかもしれないけど。私に対しては、本当に気にしなくていいから」
ふと、『何か』が耳に引っ掛かった気がする。
理由を考えるまでもなかった。
彼の普段通りの
私という一人称に、先ほどの
僕が逆に動揺の証に感じられてどうにも堪らなくなる。
「失礼いたしました!」
顔を見ないようにして、亜沙美は逃げるようにその場を立ち去った。
──妻を亡くしててね。
なんということを言わせてしまったのか。単なる末端のアルバイトに過ぎない小娘に対して、なんてことを。
五年。「もう五年も経った」と彼は言ったのだろう。
そんな筈はない。たった五年で『割り切れる』ことだとは思えない。
もちろん人によるのだろうが、上坂は口先ほど平気ではなかった。あの
僕は。
原因はすべて自分の無神経な問いにある。
居た堪れなさに視界が歪んで、涙が滲んでいることにようやく気付く始末だった。
……泣きたいのは、泣いていいのは、少なくとも亜沙美ではない。