突然、荒々しい風が、私の着物をバタバタとはためかせた。
「……っ」
私は思わず、右手で目の前を覆う。
やがて、得も言われぬ濃厚な甘い色香が、艶やかに鼻腔を満たし始めた。
「検校様。大門、潜りましたよ」
連れの男の声に、私はただ頷いた。
ここは吉原。花のお江戸の外れにある、幕府公認の遊郭――色と欲が支配し、金が絶大な力を持つ、男にとっては夢のような場所だ。
私の名は、鳥山検校。玉一という名があるが、その名で呼ぶものは極僅かだ。
盲人の組織・当道座の最高位である私は、幕府の庇護の下、「官金」いわゆる高利の金貸しを営んでいる。その商売は順調で、今や私は江戸でも屈指の大金持ちだ。
戦国の世は遥か遠く、太平の世では武士の二本差しもただの飾りだ。表向きは支配階級としてふんぞり返っている彼らも、裏に回れば金を工面するために私のような者に土下座する。
そう、今の世を動かしているのは、力でも矜持でもない。山吹色だ。
身も蓋もないことを言うと、目の見えぬ私は、本来ならば吉原には不向きなのだろうと思う。
何故なら、吉原は目で見て楽しむものが多いところだからだ。
煌びやかな衣装に身を包み、艶やかに咲き誇る女たち。
豪奢な調度品や季節の花を飾った宴席。
踊りの腕を披露する芸奴。剽げた仕草で笑いを誘う幇間。
宴席ではお座敷遊びなどもあるが、これも私には難しい。
――それでは、盲人の私は、一体何を求めてここに来ているのだろうか。
私はふとそんなことを考えながら、小さく頭を振った。
「鳥山検校」の名は、容赦なき冷徹な高利貸しとして広く知れ渡っている。
だが、それだけでは面白くない。通人としての別の顔を世間に知らしめるのも一興と考えたのだ。
男の懐の深さを見せつけ、粋な恋の駆け引きで今をときめく女の心を射止めて、世間をあっと言わせる――その恰好の舞台が、色と欲と金が渦巻く、ここ吉原だ。
さて、そんな私が恋の相手と見定めたのは、当代一の花魁との呼び声高い、瀬川だ。
瀬川はその美しさもさることながら、教養の深さと巧みな客あしらいが評判を呼び、今や吉原随一の人気を誇っていた。
瀬川を座敷に呼び出すだけでもひと月以上待たされる。そんな噂は私の耳にも届いていた。
――まさに、通人たる私が口説き落とすにふさわしい女だ。
私は山吹色の力を示し、置屋をして密かに取り計らわせた。
その効果は絶大で、瀬川の同席を望んでからわずか5日後の呼び出しに成功したのだ。
座敷で瀬川を待つ間、私は取り巻き達が遊びに興じる様を聞き流しながら、ただ盃を傾けた。
……私にとっては、実に退屈な時間だ。
やがて、瀬川到着の触れが届いた。
――やっと来たか。
私は居住まいを正して、声のした方に顔を向ける。
「おお……」
「これは……」
呆けたような、取り巻き達の声。
その雰囲気から察するに、相当艶やかで美しい女のようだ。
重量のある布が擦れる音が近づき、やがて私から少し離れたところで、止まった。
ふっ、と良い香りがする。
――これが、瀬川か。
私はそちらへ顔を向けると、微笑みかけた。
「太夫。宜しく頼む」
「……」
私の挨拶に、瀬川は無言だ。
ただ、頭を下げてくれたことは、そよと動く風の流れでわかった。
――瀬川ほどの花魁なら、今日は口を利くまい。
私は瀬川に向けて目元を綻ばせると、再び盃を傾けた。
瀬川の声を聴けたのは、3回目の呼び出しの席だった。
その日、私は禿や振袖新造たちにも喜んでもらおうと、江戸で評判の菓子を持参していた。
恋の駆け引きには、このように花魁を取り巻く娘たちへの気遣いも必要なのだ。
この時も、瀬川は無言でやってきて、私から少し離れたところに静かに座った。
「太夫。今日は甘いものを持参したのだ」
私の言葉を合図に、手代が菓子折りの蓋を開ける。
「わあ……!」
「美味しそうでありんす」
幼子が無邪気な声を上げる。
「さあ、みんなで食べなさい。遠慮はいらないよ」
私が優しく声を掛けると、女たちの心がぱあっ、と華やいだ。
「花魁。食べてもようござりんすか?」
幼子が、甘え声で瀬川に許可を求める。
その時。
ふと、瀬川が動く気配がした。
「検校様。お気遣い、ありがとうござりんす」
低く落ち着いた、穏やかな声音。
――これが、瀬川の声か。
微かな喜びを滲ませた優しい声が、耳に届いた時。
私の脳裏に、大輪の花が咲いた。
ああ、これは――芙蓉の花。
私は、芙蓉の花を見たことはない。
ただ、遠い子供の日、庭に咲いていた芙蓉に触れたことがある。
大きな花びらをもつその花は、しっかりと空に顔を向け、凛とした風情でそこにあった。
――瀬川の声をきっかけに、私の手の中に芙蓉に触れた時の感触が蘇ったのだ。