第1話
ー/ー
神は細部に宿る。その言葉は宮大工の祖父から教えられた。
「俺達は神様を相手に商売をしているようなもんだ。自分の家を修復する男共の一挙手一投足を神様はじっと監視して、手を抜いてる馬鹿がいねぇか確認してやがんだ」
言葉は乱暴だったが、祖父は手抜きなど知らないような固い手のひらで俺の頭をがしゃがしゃと撫でながらそう言った。
「作法や美学。努力や根性。なんでもそうだけどよ。他人が見て一人でも美しいと評価してくれる何かに神様が宿るんだ」
俺の名前は祖父が決めたと聞いたことがある。祖父は男であれ女であれ子供の名前は絶対にナギにしろと言い続け、遺書にもせっせと書き込んでいたそうだ。母の渚という名前も祖父がつけたらしい。
「だからお前にも、神様が宿ってくれるといいな、居心地がいいってよ」
そんな話を思い出したのは、マナーを体現するような箸使いでA定食のアジフライを口に運ぶ藤の所作を見ている時だった。
「私の顔に、何かついてる?」
藤の三白眼に睨まれ、俺は「いいや、何も」と目をそらす。発色の良い朱色の唇には衣一つも付いていなかった。
第一食堂には二限終わりの学生が溢れかえっていた。この雑な喧しさが嫌いで普段は利用しないのだが、今日は藤に呼び出されたので仕方がなかった。
祖父が生きていれば、彼女を必ず気に入っただろう。箸の持ち方ひとつからもその人となりが伺える。
「私にカレンと名付けた責任はちゃんと取ってもらったと思っているの」とは、確か入学直後の学科交流会で彼女から聞いた言葉だ。
初対面からはっきりとオーラを見せつけた彼女に俺が最初に思い浮かべた言葉は「苛烈」だった。
「葉山君は何も注文しなくていいの?」
「いいんだ。あるから」
俺はリュックからプロテインバーを二本取り出す。一本の袋を剥いてかじると、藤はため息をついて口を開いた。
「じゃあ本題に入ります。葉山君には、彼氏のフリをしてほしいの」
ストーカー被害にあうかも、という相談を受けたのは二か月前のことだ。その時はお互いに真剣味もなく「そうなの?」「そうなの」くらいの軽い受け答えで終了したのだが、まさか彼氏のフリをしなければならない事態に発展しているとは思わなかった。もう一本のプロテインバーの袋も剥いてかじる。
「デートの証拠を残すために要所要所でそれっぽい写真を撮るだけのツアーって選択肢もあったんだけど、それだと整合性が取りづらくなるかと思って」
まだ受けたわけでもないのに、藤からはレポートのようにすらすらと説明が述べられていく。聞き流している中で、なるほどこの相談は不特定多数の人間にはできないだろうなと思った。
「と言うわけで早速、明日お願いしたいんだけど」
「なんで俺なんだよ」
俺は率直に言葉をぶつけた。
彼氏の代役を一日デート券としてチラつかせれば、なびく男は山のようにいるだろう。権利をかけて争わせれば男たちの屍の山を築くことも藤ならできる。それは比喩表現ではない。
本来なら、たった一人の男に付きまとわれたくらいで狼狽える奴ですらないのだ。
「何が目的だ」
「けん制以外にないわ。それにもしこの場で、別の理由があるなんて言ったら、あなたどうするの?」
そう言われ、俺は言葉に詰まってしまう。確かにこの質問は墓穴だった。その追及は、お前は俺に気があるんじゃないか? という質問に他ならない。
『彼女は男の精気を吸いとって若さを保ち続けている妖怪であり、被害者は初めからこの世に居なかったように処理されてしまう』という噂が広まるほど、藤には男の影がなかった。
藤の人生という舞台にはチケットが存在しない。彼女自身に招かれるか招かれないか、ただそれだけが、彼女の近くに居られるかどうかの分かれ道だ。
俺が黙りこくっていると、スポットライトのように熱い藤の手が俺の手を握りこんでくる。顔が赤くなっていくのを、いやでも自覚してしまう。
「お願い、できない?」
頭の中がさらに煩くなる。それは彼女に選ばれなかったすべての男たちの怨嗟の声のようでもあった。
「わかった、やるよ」
怨嗟をかき消すように答えると、藤は唇の端に微笑をたたえてそっと手を離し「ありがとう。詳細は今日中にスマホに送るわ。これは捨ててきてあげる」と、俺が剥いたバーの空き袋をくしゃっと握り込んで去っていった。
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「俺達は神様を相手に商売をしているようなもんだ。自分の家を修復する男共の一挙手一投足を神様はじっと監視して、手を抜いてる馬鹿がいねぇか確認してやがんだ」
言葉は乱暴だったが、祖父は手抜きなど知らないような固い手のひらで俺の頭をがしゃがしゃと撫でながらそう言った。
「作法や美学。努力や根性。なんでもそうだけどよ。他人が見て一人でも美しいと評価してくれる何かに神様が宿るんだ」
俺の名前は祖父が決めたと聞いたことがある。祖父は男であれ女であれ子供の名前は絶対にナギにしろと言い続け、遺書にもせっせと書き込んでいたそうだ。母の渚という名前も祖父がつけたらしい。
「だからお前にも、神様が宿ってくれるといいな、居心地がいいってよ」
そんな話を思い出したのは、マナーを体現するような箸使いでA定食のアジフライを口に運ぶ藤の所作を見ている時だった。
「私の顔に、何かついてる?」
藤の三白眼に睨まれ、俺は「いいや、何も」と目をそらす。発色の良い朱色の唇には衣一つも付いていなかった。
第一食堂には二限終わりの学生が溢れかえっていた。この雑な喧しさが嫌いで普段は利用しないのだが、今日は藤に呼び出されたので仕方がなかった。
祖父が生きていれば、彼女を必ず気に入っただろう。箸の持ち方ひとつからもその人となりが伺える。
「私にカレンと名付けた責任はちゃんと取ってもらったと思っているの」とは、確か入学直後の学科交流会で彼女から聞いた言葉だ。
初対面からはっきりとオーラを見せつけた彼女に俺が最初に思い浮かべた言葉は「苛烈」だった。
「葉山君は何も注文しなくていいの?」
「いいんだ。あるから」
俺はリュックからプロテインバーを二本取り出す。一本の袋を剥いてかじると、藤はため息をついて口を開いた。
「じゃあ本題に入ります。葉山君には、彼氏のフリをしてほしいの」
ストーカー被害にあうかも、という相談を受けたのは二か月前のことだ。その時はお互いに真剣味もなく「そうなの?」「そうなの」くらいの軽い受け答えで終了したのだが、まさか彼氏のフリをしなければならない事態に発展しているとは思わなかった。もう一本のプロテインバーの袋も剥いてかじる。
「デートの証拠を残すために要所要所でそれっぽい写真を撮るだけのツアーって選択肢もあったんだけど、それだと整合性が取りづらくなるかと思って」
まだ受けたわけでもないのに、藤からはレポートのようにすらすらと説明が述べられていく。聞き流している中で、なるほどこの相談は不特定多数の人間にはできないだろうなと思った。
「と言うわけで早速、明日お願いしたいんだけど」
「なんで俺なんだよ」
俺は率直に言葉をぶつけた。
彼氏の代役を一日デート券としてチラつかせれば、なびく男は山のようにいるだろう。権利をかけて争わせれば男たちの屍の山を築くことも藤ならできる。それは比喩表現ではない。
本来なら、たった一人の男に付きまとわれたくらいで狼狽える奴ですらないのだ。
「何が目的だ」
「けん制以外にないわ。それにもしこの場で、別の理由があるなんて言ったら、あなたどうするの?」
そう言われ、俺は言葉に詰まってしまう。確かにこの質問は墓穴だった。その追及は、お前は俺に気があるんじゃないか? という質問に他ならない。
『彼女は男の精気を吸いとって若さを保ち続けている妖怪であり、被害者は初めからこの世に居なかったように処理されてしまう』という噂が広まるほど、藤には男の影がなかった。
藤の人生という舞台にはチケットが存在しない。彼女自身に招かれるか招かれないか、ただそれだけが、彼女の近くに居られるかどうかの分かれ道だ。
俺が黙りこくっていると、スポットライトのように熱い藤の手が俺の手を握りこんでくる。顔が赤くなっていくのを、いやでも自覚してしまう。
「お願い、できない?」
頭の中がさらに煩くなる。それは彼女に選ばれなかったすべての男たちの怨嗟の声のようでもあった。
「わかった、やるよ」
怨嗟をかき消すように答えると、藤は唇の端に微笑をたたえてそっと手を離し「ありがとう。詳細は今日中にスマホに送るわ。これは捨ててきてあげる」と、俺が剥いたバーの空き袋をくしゃっと握り込んで去っていった。