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 始まったばかりの高校生活は、慣れないローファーの痛みと、新しい人間関係への焦りがごちゃ混ぜになった、初めての疲労感で満ちていた。

 朝の昇降口で自然とため息がこぼれる。
 上履きに履き替えようとして、靴擦れしていることに気づいたのだ。新品の白い靴下に赤いシミができている。仕方なく上履きの踵を踏んで歩いていると、「うわ、痛そう。大丈夫?」背後から声を掛けられた。振り向くと、ショートカットの女子生徒が立っている。リボンが赤いのでたぶん三年生だろう。薄っすら日焼けした腕に、テニスのラケットケースを掛けている。目が合うと、先輩はポケットから、絆創膏を取り出した。

「これ、良かったら使って?」
「あ、でも私、絆創膏持っているので……」

 「なつきー、遅れるよー」廊下の奥から友だちらしき人の声がする。「ちゃんと貼りなよ」そう言いながら、なつき先輩は私の手に絆創膏を握らせると、上履きを鳴らして駆けていく。
 その背中が鮮烈なほどに眩しかった。

 十六歳。初恋は唐突に訪れた。

 初めのうちは『恋愛』という二文字に、戸惑いを隠すことが出来なかったのに、なつき先輩を見かけるだけで私の胸は高なった。叶わない、と心のどこかでは思っている。でもこのままでいいのか、と問われたら、迷わず首を振るだろう。
 なつき先輩にもらった、黒猫柄の絆創膏を見て思う。遠くから眺めているだけじゃなくて、隣に並んで歩きたい、と。

 手のひらに乗せた絆創膏は、いつも胸ポケットに入れているせいか、ほんのり温かい。

 なつき先輩は猫が好きなのだろうか。
 他に好きなものはあるのだろうか。
 初恋はほろ苦いと誰かが言っていたけれど、好きな人のことを考える時間は甘い。
 私の場合はどうだろう。
 『愛』と呼べば甘いのに、『同性』とつけるだけで溶けてなくなりそうな恋の味がするのだろうか。

 ぶらぶらと帰り道を歩きながら、なつき先輩と仲良くなる方法を考えていた。
 そっと胸ポケットに触れて、どうしたものかな、と、賑わう通りを眺めていたときだった。
 ふと男子高校生のバッグが目に留まる。
 これだ、と思った。
 『必勝』の刺繍が入った手作りのお守り。これを作って渡せば、運動部のなつき先輩に喜んでもらえるかもしれない。

 いや、でも待って。
 手芸なんて、小学校の家庭科以来やったことがない。猫が好きだと予想して、黒いフェルトを猫の形に切るまでは良かった。しかし、いざ縫おうとすると、なんだかうまくいかない。気持ちが向くままに手芸屋へ駆け込んだときは、ぜんぜん気にしていなかったけれど、今さら自分が不器用だったことを思い出した。絆創膏だらけの指の先で、まつり縫いした糸が絡まっている。

「うわぁ、姉ちゃんがバケモン作ってる!」

 我が家は子供部屋に鍵がついていないので、油断すると弟が勝手に入ってきてしまう。小学生ならおとなしく外で遊んでいればいいのに。私が睨みつけると、「お母さーん、姉ちゃんが変なもの作ってるよー」と声を上げながら階段を降りていった。結局そのせいで、「不器用なんだから、縫いものなんてやめなさい」と夕食の席で母が呆れ、「そんな変なものもらったら、困っちゃうだろう」と父に笑われた。
 私は冷めた味噌汁を啜る。この状況だと、家で作るのは無理だろう。
 そうだ。家族の目が気になるなら、学校で作ればいい。そう思いついたけれど、教室も図書室も当たり前のように生徒の目がある。
 どうしよう、と呟きながら、放課後の廊下を歩いていた。ぼんやり視線を遣った窓には、初夏の光の粒が降り注いでいる。


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 始まったばかりの高校生活は、慣れないローファーの痛みと、新しい人間関係への焦りがごちゃ混ぜになった、初めての疲労感で満ちていた。
 朝の昇降口で自然とため息がこぼれる。 上履きに履き替えようとして、靴擦れしていることに気づいたのだ。新品の白い靴下に赤いシミができている。仕方なく上履きの踵を踏んで歩いていると、「うわ、痛そう。大丈夫?」背後から声を掛けられた。振り向くと、ショートカットの女子生徒が立っている。リボンが赤いのでたぶん三年生だろう。薄っすら日焼けした腕に、テニスのラケットケースを掛けている。目が合うと、先輩はポケットから、絆創膏を取り出した。
「これ、良かったら使って?」
「あ、でも私、絆創膏持っているので……」
 「なつきー、遅れるよー」廊下の奥から友だちらしき人の声がする。「ちゃんと貼りなよ」そう言いながら、なつき先輩は私の手に絆創膏を握らせると、上履きを鳴らして駆けていく。
 その背中が鮮烈なほどに眩しかった。
 十六歳。初恋は唐突に訪れた。
 初めのうちは『恋愛』という二文字に、戸惑いを隠すことが出来なかったのに、なつき先輩を見かけるだけで私の胸は高なった。叶わない、と心のどこかでは思っている。でもこのままでいいのか、と問われたら、迷わず首を振るだろう。
 なつき先輩にもらった、黒猫柄の絆創膏を見て思う。遠くから眺めているだけじゃなくて、隣に並んで歩きたい、と。
 手のひらに乗せた絆創膏は、いつも胸ポケットに入れているせいか、ほんのり温かい。
 なつき先輩は猫が好きなのだろうか。
 他に好きなものはあるのだろうか。
 初恋はほろ苦いと誰かが言っていたけれど、好きな人のことを考える時間は甘い。
 私の場合はどうだろう。
 『愛』と呼べば甘いのに、『同性』とつけるだけで溶けてなくなりそうな恋の味がするのだろうか。
 ぶらぶらと帰り道を歩きながら、なつき先輩と仲良くなる方法を考えていた。
 そっと胸ポケットに触れて、どうしたものかな、と、賑わう通りを眺めていたときだった。
 ふと男子高校生のバッグが目に留まる。
 これだ、と思った。
 『必勝』の刺繍が入った手作りのお守り。これを作って渡せば、運動部のなつき先輩に喜んでもらえるかもしれない。
 いや、でも待って。
 手芸なんて、小学校の家庭科以来やったことがない。猫が好きだと予想して、黒いフェルトを猫の形に切るまでは良かった。しかし、いざ縫おうとすると、なんだかうまくいかない。気持ちが向くままに手芸屋へ駆け込んだときは、ぜんぜん気にしていなかったけれど、今さら自分が不器用だったことを思い出した。絆創膏だらけの指の先で、まつり縫いした糸が絡まっている。
「うわぁ、姉ちゃんがバケモン作ってる!」
 我が家は子供部屋に鍵がついていないので、油断すると弟が勝手に入ってきてしまう。小学生ならおとなしく外で遊んでいればいいのに。私が睨みつけると、「お母さーん、姉ちゃんが変なもの作ってるよー」と声を上げながら階段を降りていった。結局そのせいで、「不器用なんだから、縫いものなんてやめなさい」と夕食の席で母が呆れ、「そんな変なものもらったら、困っちゃうだろう」と父に笑われた。
 私は冷めた味噌汁を啜る。この状況だと、家で作るのは無理だろう。
 そうだ。家族の目が気になるなら、学校で作ればいい。そう思いついたけれど、教室も図書室も当たり前のように生徒の目がある。
 どうしよう、と呟きながら、放課後の廊下を歩いていた。ぼんやり視線を遣った窓には、初夏の光の粒が降り注いでいる。