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第3話 追憶

ー/ー



 二人がもうこの旅を続けてどれくらいになるだろうか。二人ももうそのことについてあえて思い出すことはない。


 ねえ、私死ぬなら函館がいいな。


 その愛玲奈(あれな)の言葉に突き動かされるように凪沙(なぎさ)愛玲奈(あれな)の手を引いて函館を目指した。
 中一の頃の互いに良くなかった出会いを思い出す。初めて手を握った時の手の温かさ柔らかさを思い出す。額にキスした時の愛玲奈(あれな)の赤くはにかんだ顔、初めての口づけ、初めて肌を重ねた高二の真夏、そして高三の卒業式の日凪沙は「虚しいだけだから」と素っ気なく愛玲奈(あれな)に別れを切り出した。愛玲奈(あれな)は無表情で黙って頷くだけだった。
 二十歳の成人の日に開かれた同窓会で再開した凪沙と愛玲奈(あれな)はその晩愛し合った。ようやく互いが不可分で離れがたいものだとはっきりと自覚したのだ。
 だが二人が暮らす村は二人の生き方を許容できるものではなかった。習慣と慣習と因習に縛られてはじめて生を認められる狭く閉じられた世界。そして愛玲奈(あれな)に縁談が持ち込まれたのは二人が愛を再確認した夜から数えて僅かひと月後だった。

 ぼんやりと思考を巡らせながら凪沙は三本目の煙草の火を消した。目の前の洗濯機が乾燥終了の赤いランプを急かすように点滅させている。溜息をひとつ吐いて立ち上がりたばこをポケットにしまうと、喫煙コーナーを出て洗濯物をヤニ臭い骨ばった手で乱雑に安物のエコバッグへと詰め込んだ。
 客室に戻ると、愛玲奈(あれな)はまだ寝ていた。相当疲労がたまっていたのだろう。これは最低もう一泊は必要だな、と凪沙は心の中でまた溜息を吐いた。
 愛玲奈(あれな)を起こすかもしれない、と一瞬躊躇(ちゅうちょ)したが凪沙も愛玲奈(あれな)のベッドに潜り込んで仮眠を取ることにした。下着姿になると愛玲奈(あれな)の寝ているベッドにそっと滑り込む。愛玲奈(あれな)もいつの間にかショーツを穿()いているだけだった。
 愛玲奈(あれな)をそっと向こうに押しやり自分のスペースを確保する。愛玲奈(あれな)の隣に横になって、やはり横になってこっちを向いて小さな寝息を立てている愛玲奈(あれな)を見つめる。紅い痕がついていて、軽く噛みついただけで折れてしまいそうな細い鎖骨。それを見た瞬間凪沙は思った。

 ああ、彼女の生の灯火ももう長くはない。

 やるせない思いで胸が一杯になる。涙が浮かんで泣き出しそうになる。このひ弱で虚弱で病弱な彼女をわたしはとんでもないことに巻き込んでしまったのかも知れない。だけど、あのままあの村にいれば愛玲奈(あれな)は今頃たった数度しか会わないまま見知らぬ男と祝言をあげさせられ、そして。凪沙はブルッと震えると寝ている愛玲奈(あれな)をそっと抱きしめた。まだ身体が熱い。絶対に、絶対にそんなことなんかさせない絶対に、絶対に。
 凪沙もやはり疲れていた。誰かの胸に憩いたかった。栄養不良でかさつく愛玲奈(あれな)の肌の感触を確かめるように抱き締め色々なことをずっと考えるうち、いつの間にかゆっくりと眠りに落ちていた。

「……さ…… なぎ…… さ……」

 底なし沼に引きずり込まれる夢を見ていると、細くてきれいな鈴のような愛玲奈(あれな)の囁きに凪沙は起こされた。眼を開けると鼻がくっつくくらいの至近距離に愛玲奈(あれな)の顔があった。

「悪い夢でも見てたみたい」

「そんなことない」

 凪沙は努めて明るく囁くと愛玲奈(あれな)を心配させないように無理に微笑んだ。


 今この現実だって充分すぎるほど悪い夢だ。


 時計を見ると十九時を回っていた。愛玲奈(あれな)の体調が悪い時の二人はコンビニ飯ではなくなるべくホテル内で食事を摂る。ここのホテルには中華レストランが入っていた。野菜が多めのメニューを選ぶよう凪沙が厳命すると、少々割高ではあるが薬膳コースというお粥と小さなタンメン、そして小さな杏仁豆腐のセットを頼んだ。凪沙は一番安い広東風ラーメンを頼む。

「ねえ、函館には五百円のラーメンがあるんですって」

 愛玲奈(あれな)は眼を輝かせて言った。

「それなら毎日でもいいね」

 と凪沙も笑った。

「ねえ、あとどれくらいかかるかな?」

「さあね。東北道に乗ってしまえば早いかも。ただ、青森行きの車を――いやだめだ、大洗行きの車を探そう」

 愛玲奈(あれな)はもうこの長旅では身が持たない。最悪倒れて入院だってありうるかも知れなかった。

「青森じゃなくて大洗?なの? どこなのそこ」

「茨城。その大洗でフェリーに乗って苫小牧に行く。これでヒッチハイクの旅程は大幅にショートカットできる」

 金ならまだ充分に余裕がある。愛玲奈(あれな)に入院された日には資金がいくらあっても足りなくなる。それにそこから足がつくかも知れなかった。

「うれしい。私長距離フェリーにも乗ってみたかったんだ」

 屈託のない笑顔を見せる愛玲奈(あれな)を見て凪沙も心が和む。
 夕食後愛玲奈もシャワーを浴び二人で下着のまま抱き合って寝た。珍しく愛玲奈(あれな)が凪沙の身体を持てめてくることもない平穏な夜だった。
 窓には冷たい風が打ちつけてきており、古い窓枠が時折風で軋む音に凪沙は古郷(ふるさと)の安アパートに吹き付ける北風を思い出し寝付けなかった。残してきた小五で十一歳で泣き虫の妹、千絵は元気にしているだろうか。姉がいなくて寂しいと泣いてはいないだろうか。いや、大丈夫だろう。自分も十一歳の頃にはもう自分一人で何でもやったし、二歳になった妹の面倒を見ていたのだから。それでも凪沙には窓の外の風に乗って、お姉ちゃんっ子だった妹の泣き声が聞こえている様な気がしていつまでも寝付けなかった。

 ◆次回 第4話 ハッピーホテル


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 二人がもうこの旅を続けてどれくらいになるだろうか。二人ももうそのことについてあえて思い出すことはない。
 ねえ、私死ぬなら函館がいいな。
 その|愛玲奈《あれな》の言葉に突き動かされるように|凪沙《なぎさ》は|愛玲奈《あれな》の手を引いて函館を目指した。
 中一の頃の互いに良くなかった出会いを思い出す。初めて手を握った時の手の温かさ柔らかさを思い出す。額にキスした時の|愛玲奈《あれな》の赤くはにかんだ顔、初めての口づけ、初めて肌を重ねた高二の真夏、そして高三の卒業式の日凪沙は「虚しいだけだから」と素っ気なく|愛玲奈《あれな》に別れを切り出した。|愛玲奈《あれな》は無表情で黙って頷くだけだった。
 二十歳の成人の日に開かれた同窓会で再開した凪沙と|愛玲奈《あれな》はその晩愛し合った。ようやく互いが不可分で離れがたいものだとはっきりと自覚したのだ。
 だが二人が暮らす村は二人の生き方を許容できるものではなかった。習慣と慣習と因習に縛られてはじめて生を認められる狭く閉じられた世界。そして|愛玲奈《あれな》に縁談が持ち込まれたのは二人が愛を再確認した夜から数えて僅かひと月後だった。
 ぼんやりと思考を巡らせながら凪沙は三本目の煙草の火を消した。目の前の洗濯機が乾燥終了の赤いランプを急かすように点滅させている。溜息をひとつ吐いて立ち上がりたばこをポケットにしまうと、喫煙コーナーを出て洗濯物をヤニ臭い骨ばった手で乱雑に安物のエコバッグへと詰め込んだ。
 客室に戻ると、|愛玲奈《あれな》はまだ寝ていた。相当疲労がたまっていたのだろう。これは最低もう一泊は必要だな、と凪沙は心の中でまた溜息を吐いた。
 |愛玲奈《あれな》を起こすかもしれない、と一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したが凪沙も|愛玲奈《あれな》のベッドに潜り込んで仮眠を取ることにした。下着姿になると|愛玲奈《あれな》の寝ているベッドにそっと滑り込む。|愛玲奈《あれな》もいつの間にかショーツを|穿《は》いているだけだった。
 |愛玲奈《あれな》をそっと向こうに押しやり自分のスペースを確保する。|愛玲奈《あれな》の隣に横になって、やはり横になってこっちを向いて小さな寝息を立てている|愛玲奈《あれな》を見つめる。紅い痕がついていて、軽く噛みついただけで折れてしまいそうな細い鎖骨。それを見た瞬間凪沙は思った。
 ああ、彼女の生の灯火ももう長くはない。
 やるせない思いで胸が一杯になる。涙が浮かんで泣き出しそうになる。このひ弱で虚弱で病弱な彼女をわたしはとんでもないことに巻き込んでしまったのかも知れない。だけど、あのままあの村にいれば|愛玲奈《あれな》は今頃たった数度しか会わないまま見知らぬ男と祝言をあげさせられ、そして。凪沙はブルッと震えると寝ている|愛玲奈《あれな》をそっと抱きしめた。まだ身体が熱い。絶対に、絶対にそんなことなんかさせない絶対に、絶対に。
 凪沙もやはり疲れていた。誰かの胸に憩いたかった。栄養不良でかさつく|愛玲奈《あれな》の肌の感触を確かめるように抱き締め色々なことをずっと考えるうち、いつの間にかゆっくりと眠りに落ちていた。
「……さ…… なぎ…… さ……」
 底なし沼に引きずり込まれる夢を見ていると、細くてきれいな鈴のような|愛玲奈《あれな》の囁きに凪沙は起こされた。眼を開けると鼻がくっつくくらいの至近距離に|愛玲奈《あれな》の顔があった。
「悪い夢でも見てたみたい」
「そんなことない」
 凪沙は努めて明るく囁くと|愛玲奈《あれな》を心配させないように無理に微笑んだ。
 今この現実だって充分すぎるほど悪い夢だ。
 時計を見ると十九時を回っていた。|愛玲奈《あれな》の体調が悪い時の二人はコンビニ飯ではなくなるべくホテル内で食事を摂る。ここのホテルには中華レストランが入っていた。野菜が多めのメニューを選ぶよう凪沙が厳命すると、少々割高ではあるが薬膳コースというお粥と小さなタンメン、そして小さな杏仁豆腐のセットを頼んだ。凪沙は一番安い広東風ラーメンを頼む。
「ねえ、函館には五百円のラーメンがあるんですって」
 |愛玲奈《あれな》は眼を輝かせて言った。
「それなら毎日でもいいね」
 と凪沙も笑った。
「ねえ、あとどれくらいかかるかな?」
「さあね。東北道に乗ってしまえば早いかも。ただ、青森行きの車を――いやだめだ、大洗行きの車を探そう」
 |愛玲奈《あれな》はもうこの長旅では身が持たない。最悪倒れて入院だってありうるかも知れなかった。
「青森じゃなくて大洗?なの? どこなのそこ」
「茨城。その大洗でフェリーに乗って苫小牧に行く。これでヒッチハイクの旅程は大幅にショートカットできる」
 金ならまだ充分に余裕がある。|愛玲奈《あれな》に入院された日には資金がいくらあっても足りなくなる。それにそこから足がつくかも知れなかった。
「うれしい。私長距離フェリーにも乗ってみたかったんだ」
 屈託のない笑顔を見せる|愛玲奈《あれな》を見て凪沙も心が和む。
 夕食後愛玲奈もシャワーを浴び二人で下着のまま抱き合って寝た。珍しく|愛玲奈《あれな》が凪沙の身体を持てめてくることもない平穏な夜だった。
 窓には冷たい風が打ちつけてきており、古い窓枠が時折風で軋む音に凪沙は|古郷《ふるさと》の安アパートに吹き付ける北風を思い出し寝付けなかった。残してきた小五で十一歳で泣き虫の妹、千絵は元気にしているだろうか。姉がいなくて寂しいと泣いてはいないだろうか。いや、大丈夫だろう。自分も十一歳の頃にはもう自分一人で何でもやったし、二歳になった妹の面倒を見ていたのだから。それでも凪沙には窓の外の風に乗って、お姉ちゃんっ子だった妹の泣き声が聞こえている様な気がしていつまでも寝付けなかった。
 ◆次回 第4話 ハッピーホテル