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2.

ー/ー



        *
 


「はいはい、あなたが新人さんね。私はカナノです。今日はよろしく」
 今、俺の目の前にいるのは、白髪の混じった短髪の、初老のおじさんだった。

 この人はカナノさん。
 今日、俺と一緒に「闇バイト」をする仲間、のようだ。結構歳の取った人もやるんだな、と思った。
 紺色の作業服は少しくたびれて、膝や肘はところどころ擦り切れている。

 待ち合わせは、何故か天文台だった。
 天文台は、俺の自宅から二時間もかかる場所だ。そこで待ち合わせと言われて、即座に断ろうと思った。
 けど、アポ取りのために電話してきた、名も知らぬお姉さんの声がかわいくて、ほだされてしまった。わかっている、俺は本当に馬鹿なのだ。
 
 街から離れ、歩いていける程度の高さの山のてっぺんにある、天文台。
 見晴らしがよくて、綺麗な場所だった。天文台の施設の前には、公園のような開けた空間があり、そこにはベンチが二つ、並んでいる。そのうちの一つに、俺は座っていた。
 
 閉館時間間近の天文台は、職員が通用口から出て行く。通用口を出た職員が、天文台へ向かってくるカナノさんと挨拶を交わしていた。
 天文台の職員かと思っていたのだが、カナノさんは真っ直ぐ俺の座るベンチに進んできたので、思わず立ち上がってしまった。
 
 カナノさんは天文台の設備から、大きなバケツに入ったデッキブラシ数本と、「闇」と堂々と書かれたポリタンクを五つほど持ってきた。そして、ブラシを一本、俺に手渡してくる。手渡されたデッキブラシは、重くもないが軽くもない。
 
 このデッキブラシで、どうするのだろう? 武器にするには、心許ない。
 
 カナノさんは、バケツに「闇」と書かれたポリタンクの中身をあける。その瞬間、注ぎ口からふわっと黒い(もや)が上がるが、すぐに収まる。
 カナノさんはバケツの黒い液体に、デッキブラシを突っ込む。そして、そのデッキブラシを俺に渡してくる。

「じゃあ、これね。このブラシで、隙間なく塗っていくの」
 カナノさんはあまり説明をしない。一日だけの付き合いだから、とはいえ、もう少しわかりやすく伝えてほしい。
 
「塗る?」
 デッキブラシを手に、俺はカナノさんに聞き返すしかない。
 
「ありゃ、マキちゃん、ちゃんと説明しなかったかー! あの子は仕事が適当なんだよね。ったく」
 カナノさんは大袈裟な溜め息をついて、カナノさんが使うデッキブラシをバケツに突っ込んだ。
 聞き取れないぐらいの音量で、ぐちぐちと何か言っている。
 たぶん、マキちゃんというのは、電話対応したかわいい声の女の子のことらしい。そして、仕事がとても雑みたいだ。

「空ってさ、夜になると暗くなるじゃない」
 そう言うと、カナノさんは空に向かって、デッキブラシをぶんぶんと振る。塗るというより、振り回しているだけだ。
 空が暗くなるのと、このデッキブラシやカナノさんが何の関係があるのだ、と思った。

 でも、その疑問は一瞬で、強制的に解決した。

 カナノさんが黒い液体がついたデッキブラシを一振りすると、空の色が薄っすらと暗くなる。

 デッキブラシの先から、ふわりとした黒い靄が立ちのぼった。
 カナノさんがブラシを振るたび、暗めの青色が空を覆い尽くす。
 
 暗い青と、夕暮れ時の橙の境目をきっちり分けないように、繊細なタッチでカナノさんのデッキブラシが染めていく。
 
 夜の闇は、まさか人力で作っていたのか。いやまさか。ファンタジーにも過ぎる。
 
 俺は信じられず、ボーッと空を見上げているしかない。
「こら新人! 塗ったところをもっと暗くしていかないと! グラデーションじゃなくなっちゃうだろ!」
 カナノさんは、少し怒っているようだった。
 俺は慌てて、カナノさんが塗っていった場所を上塗りしていく。すると、夜の色はどんどん濃くなっていった。
 このデッキブラシと液体は、宙をひと撫でするだけで、広い範囲を一定の濃度で塗り潰せるようだった。

「おーい新人、なかなか上手いじゃん」
 カナノさんが俺を見て、にこにこと笑う。少年みたいで、なんだか憎めない笑顔だった。

 褒められたからといっても、塗る手を止めるとカナノさんはすぐ怒る。俺はせっせとカナノさんが塗ったあとを、上塗りしていった。
 
 とにかく夢中で、空を塗り潰していると、いつの間にか、塗る場所がなくなった。
「ほれ、そろそろ休憩だ」
 カナノさんが俺の肩を叩いて、声を掛けた。
 やっとデッキブラシを下ろした俺の目の前に見えたのは、眠れない夜にいつも見る、真夜中の空の色だった。
 
「綺麗っスね」
 どれだけ塗り潰しても、星は隠れない。キラキラと輝く光は、どれだけ塗っても貫通してくるのだ。
 天文台という、星空を眺めるには絶好の場所にいて、俺は空を見上げて惚れ惚れしていた。

「不思議だよなぁ。なんか、天文台の人に言わせると、星の光って進むのに一年かかるらしいじゃん? だから今見えてても、もう存在してない星かもしれないんだって」
 カナノさんは、この仕事をしている関係で、天文台の人と仲がいいらしい。

 今までは天文学なんて縁遠い仕事をしていたから、天文台の人から聞く話は新鮮で面白いのだという。
 かく言う俺も、カナノさんの話を聞いて、星の奥深さに思いを馳せてしまう。
 
「あの、夜明けはどうやって切り替わるっていうか……」
 暗く塗り上げた空を明るくする、その作業をなんて表現するのか、言葉が思いつかない。出てきた質問は、たどたどしいものになった。
 
「あぁ、空を明るくするのは、暁バイトさんよ」
 カナノさんは天文台の外にある自販機で買ったコーヒーを飲みながら、にこやかに言葉を返す。

 俺は、カナノさんが発した「暁バイト」という単語に、吹き出してしまった。
 
「このバイトもそうですけど、こういうのって、バイトでやる仕事じゃなくないっスか?」
「いやぁ、こんなの下っ端の仕事だよ」
 カナノさんは大真面目に、この仕事が下っ端の仕事だと言う。
 なら、この仕事の上の方にいる人間は、どんな仕事をしているのだろう。天候を変えるとか?
 
 カナノさんはコーヒーを飲み干して、背伸びをする。はぁ、と深く息を吸い込んで、俺に話しかける。
「拘束時間長いけど、ここはずっと塗るだけでいい現場だからね」
「あの……カナノさんは、この仕事、何年くらいやってるんですか?」
「5年くらいかな、週7で」
「週7⁈」
 ということは、昨日見た夜空も、一昨日の夜空も、そのまた前の日の夜空も、ずーっとカナノさんが塗った空だったのだ。
 
「慣れたら楽だし。あとね、俺、北極圏で仕事してみたいんだわ! 白夜! あれが起きるエリアは塗らなくて済むから、その時は羨ましいよね」
 カナノさんはワクワクした顔で白夜が起こる北極圏の話をする。
 でもきっと、北極圏の夜は日本に住むカナノさんや俺にとっては、ものすごく寒いんだろうな、と思う。
 



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「はいはい、あなたが新人さんね。私はカナノです。今日はよろしく」
 今、俺の目の前にいるのは、白髪の混じった短髪の、初老のおじさんだった。
 この人はカナノさん。
 今日、俺と一緒に「闇バイト」をする仲間、のようだ。結構歳の取った人もやるんだな、と思った。
 紺色の作業服は少しくたびれて、膝や肘はところどころ擦り切れている。
 待ち合わせは、何故か天文台だった。
 天文台は、俺の自宅から二時間もかかる場所だ。そこで待ち合わせと言われて、即座に断ろうと思った。
 けど、アポ取りのために電話してきた、名も知らぬお姉さんの声がかわいくて、ほだされてしまった。わかっている、俺は本当に馬鹿なのだ。
 街から離れ、歩いていける程度の高さの山のてっぺんにある、天文台。
 見晴らしがよくて、綺麗な場所だった。天文台の施設の前には、公園のような開けた空間があり、そこにはベンチが二つ、並んでいる。そのうちの一つに、俺は座っていた。
 閉館時間間近の天文台は、職員が通用口から出て行く。通用口を出た職員が、天文台へ向かってくるカナノさんと挨拶を交わしていた。
 天文台の職員かと思っていたのだが、カナノさんは真っ直ぐ俺の座るベンチに進んできたので、思わず立ち上がってしまった。
 カナノさんは天文台の設備から、大きなバケツに入ったデッキブラシ数本と、「闇」と堂々と書かれたポリタンクを五つほど持ってきた。そして、ブラシを一本、俺に手渡してくる。手渡されたデッキブラシは、重くもないが軽くもない。
 このデッキブラシで、どうするのだろう? 武器にするには、心許ない。
 カナノさんは、バケツに「闇」と書かれたポリタンクの中身をあける。その瞬間、注ぎ口からふわっと黒い|靄《もや》が上がるが、すぐに収まる。
 カナノさんはバケツの黒い液体に、デッキブラシを突っ込む。そして、そのデッキブラシを俺に渡してくる。
「じゃあ、これね。このブラシで、隙間なく塗っていくの」
 カナノさんはあまり説明をしない。一日だけの付き合いだから、とはいえ、もう少しわかりやすく伝えてほしい。
「塗る?」
 デッキブラシを手に、俺はカナノさんに聞き返すしかない。
「ありゃ、マキちゃん、ちゃんと説明しなかったかー! あの子は仕事が適当なんだよね。ったく」
 カナノさんは大袈裟な溜め息をついて、カナノさんが使うデッキブラシをバケツに突っ込んだ。
 聞き取れないぐらいの音量で、ぐちぐちと何か言っている。
 たぶん、マキちゃんというのは、電話対応したかわいい声の女の子のことらしい。そして、仕事がとても雑みたいだ。
「空ってさ、夜になると暗くなるじゃない」
 そう言うと、カナノさんは空に向かって、デッキブラシをぶんぶんと振る。塗るというより、振り回しているだけだ。
 空が暗くなるのと、このデッキブラシやカナノさんが何の関係があるのだ、と思った。
 でも、その疑問は一瞬で、強制的に解決した。
 カナノさんが黒い液体がついたデッキブラシを一振りすると、空の色が薄っすらと暗くなる。
 デッキブラシの先から、ふわりとした黒い靄が立ちのぼった。
 カナノさんがブラシを振るたび、暗めの青色が空を覆い尽くす。
 暗い青と、夕暮れ時の橙の境目をきっちり分けないように、繊細なタッチでカナノさんのデッキブラシが染めていく。
 夜の闇は、まさか人力で作っていたのか。いやまさか。ファンタジーにも過ぎる。
 俺は信じられず、ボーッと空を見上げているしかない。
「こら新人! 塗ったところをもっと暗くしていかないと! グラデーションじゃなくなっちゃうだろ!」
 カナノさんは、少し怒っているようだった。
 俺は慌てて、カナノさんが塗っていった場所を上塗りしていく。すると、夜の色はどんどん濃くなっていった。
 このデッキブラシと液体は、宙をひと撫でするだけで、広い範囲を一定の濃度で塗り潰せるようだった。
「おーい新人、なかなか上手いじゃん」
 カナノさんが俺を見て、にこにこと笑う。少年みたいで、なんだか憎めない笑顔だった。
 褒められたからといっても、塗る手を止めるとカナノさんはすぐ怒る。俺はせっせとカナノさんが塗ったあとを、上塗りしていった。
 とにかく夢中で、空を塗り潰していると、いつの間にか、塗る場所がなくなった。
「ほれ、そろそろ休憩だ」
 カナノさんが俺の肩を叩いて、声を掛けた。
 やっとデッキブラシを下ろした俺の目の前に見えたのは、眠れない夜にいつも見る、真夜中の空の色だった。
「綺麗っスね」
 どれだけ塗り潰しても、星は隠れない。キラキラと輝く光は、どれだけ塗っても貫通してくるのだ。
 天文台という、星空を眺めるには絶好の場所にいて、俺は空を見上げて惚れ惚れしていた。
「不思議だよなぁ。なんか、天文台の人に言わせると、星の光って進むのに一年かかるらしいじゃん? だから今見えてても、もう存在してない星かもしれないんだって」
 カナノさんは、この仕事をしている関係で、天文台の人と仲がいいらしい。
 今までは天文学なんて縁遠い仕事をしていたから、天文台の人から聞く話は新鮮で面白いのだという。
 かく言う俺も、カナノさんの話を聞いて、星の奥深さに思いを馳せてしまう。
「あの、夜明けはどうやって切り替わるっていうか……」
 暗く塗り上げた空を明るくする、その作業をなんて表現するのか、言葉が思いつかない。出てきた質問は、たどたどしいものになった。
「あぁ、空を明るくするのは、暁バイトさんよ」
 カナノさんは天文台の外にある自販機で買ったコーヒーを飲みながら、にこやかに言葉を返す。
 俺は、カナノさんが発した「暁バイト」という単語に、吹き出してしまった。
「このバイトもそうですけど、こういうのって、バイトでやる仕事じゃなくないっスか?」
「いやぁ、こんなの下っ端の仕事だよ」
 カナノさんは大真面目に、この仕事が下っ端の仕事だと言う。
 なら、この仕事の上の方にいる人間は、どんな仕事をしているのだろう。天候を変えるとか?
 カナノさんはコーヒーを飲み干して、背伸びをする。はぁ、と深く息を吸い込んで、俺に話しかける。
「拘束時間長いけど、ここはずっと塗るだけでいい現場だからね」
「あの……カナノさんは、この仕事、何年くらいやってるんですか?」
「5年くらいかな、週7で」
「週7⁈」
 ということは、昨日見た夜空も、一昨日の夜空も、そのまた前の日の夜空も、ずーっとカナノさんが塗った空だったのだ。
「慣れたら楽だし。あとね、俺、北極圏で仕事してみたいんだわ! 白夜! あれが起きるエリアは塗らなくて済むから、その時は羨ましいよね」
 カナノさんはワクワクした顔で白夜が起こる北極圏の話をする。
 でもきっと、北極圏の夜は日本に住むカナノさんや俺にとっては、ものすごく寒いんだろうな、と思う。