藍に染まるまで
ー/ー
それから2人は勉強に入る前に、課題として出されていた仮の進路希望を書いた。透は病院を継ぐために進学、彩も当面は目標がないためとりあえず進学をするという。
「ねぇ、ちょっと横になりたいんだけれど……」
ようやく勉強に手をつける、というところで、彩がぐったりとして調子が悪そうにしている。視力を失った彩は、必然的に耳に全神経を集中させなければならないらしく、時折こうして体調を崩すことがある。何年経っても慣れることはないようで、あまりの集中で音に酔ってしまうのだという。
「ソファとかないんだよな……体調は?」
「良くない、かも……頭痛い……」
仮にも病院の跡取りということで、透は対処法も熟知していた。音酔いは、音楽や読書などで楽しいことを考えたりして別のことに意識を集中させることで対処できる。だが、透は音楽にさほど興味がなく、読書は嗜むが、目が見えない彩相手にそれは論外だ。悩み抜いた末に、結局透は彩を自分のベッドに寝かせて安静にさせることにした。
彩も苦難を抱えているとはいえ年頃の女性だと考え、こういうのは良くないことだと避けてきたのだが、非常時なら仕方ない、と透は自分に言い聞かせる。よほど動悸が激しいのか、発汗も酷いようだった。彩の呼吸が段々と荒くなっていく。これ以上、自分にできることはないと、透は彩の手を握ることしかできなかった。
「透、もうちょっと近づいて」
「え? でも……」
「不安なの。早く……」
「……分かったよ」
透は言われた通りに彩へ近づく。体温は驚くほど高いというのに、絡ませた指先は冷たかった。まるで人形みたいだ。だんだんと激しくなる呼吸を抑えるように、透は彩の手を握りしめた。透には、ただ無事を祈って手を握ることしかできず、悔しそうに奥歯を噛み締める。
「…………もういいよね」
ずっと我慢してたんだから
うっすらと、そんな言葉が透の耳をくすぐった。
「っ?!……」
突然、ベッドで横になっていた彩が両手を広げて透を捉え、がっちりと透を抱き抱える。思わず体勢を崩して、運悪く透が彩を押し倒したような体勢にになってしまった。透の思考が目まぐるしく回転する。目に見える現実を否定するために、何度も同じ考えが逡巡する。間違えるはずがない。確かに、彩が手を伸ばしたのだ。
「わ、悪い……! 今すぐ出るから……」
「ダメ」
彩はぎゅっ、と抱きしめる。力には自信があった透が逃げ出せないほどの力で抑えられてしまう。そんなはずはないと、透の頭に過ぎる言葉は否定ばかりだった。
(ありえない……だろう?)
彩の腕が、動くはずがないのだ。
「ほら、もっとちゃんとくっついて」
腰を掴んでいた彩は透の腕を取り、その美しい肌に押し当てる。払い除けることなんて簡単なはずなのに、透にはできなかった。頭の中が疑問と逃避でぐちゃぐちゃになって、抵抗することもせず、ただされるがままの言いなりになってしまう。
「彩……なんで」
「私は、私を知らない」
「……何を、言って」
「だから、代わりに透が、私の全部を知って? 私の隅から隅まで、全部感じて」
劣情は透の心の中でひたすら膨らんでいった。誰よりも理解しているはずだった彩の思考が、何より理解しがたかった。どれだけ考えても、理解できるはずがなかった。きっと、目の前で見たこともない光悦な表情を浮かべる彩は、もはや透の知る彩ではない。
「明日の私が、今日の私である必要なんてない。私がなくなってしまう前に、透が教えて? 何もかもめちゃくちゃになるくらいに上書きして」
あなた色に染め上げて
それは、今まで透が聞いたどんな願いよりも悲劇的なものだった。
透の手のひらを、彩は自ら自分の二の腕に押し当てる。照れて真っ赤になった透の顔が更に彩の欲望を掻き立てた。僅かに込められた抵抗も感じられない。もう透には、何がなんなのか分からなくなってしまっていた。
いつから彩の腕は治っていた? 腕が治っているなら、脚は?
もしかしたら―――
そこまで考えて、透はふたたび現実へと押し戻されてしまう。彩の肌の感触が、手のひらから消えてくれない。
「ちゃんと触らないと分からないでしょ」
腰、くびれ、腹部。欲望は少しずつ膨れ上がっていって、手のひらは頭へと伸びる。くしゃくしゃっと撫でられた感触は、きっと彩に伝わっていることだろう。透の心には疑心しか残らなかった。腕のことも、きっと視力も。果てには事故のことさえ、嘘ではなかったのかと疑った。
彩の体の形を覚えた透の腕は、ゆっくりと伸びる。やがて透の腕は彩の首に届いてしまった。しかし、彩はまるでこれを待っていたみたいに嬉しそうに笑う。
「透、約束して。ずっと、これからずーっと、私を、私だけを愛してくれること。嘘だらけの私を、一生愛すること」
「…………る」
「聞こえない」
「……いしてる」
「もう……だめでしょ?」
彩は、言い淀む透の手の上から力を込め、自分の首を絞め上げる。苦しくはなかった。この時ばかりは透の意思が正常に働いて彩の手の動きに抵抗している。しかし、透が優しいことを誰よりも知っている彩は自分から首を絞める。そうすれば、透は選ぶはずだと、喉の当たりをぎゅっと押し込む。
「あはっ……」
「っ!」
「ほら、言ってよ………」
透には、もう何もわからなくなっていた。彩のことも、これからのことも、自分が何をしようとしているのかも。なにもわからなかったけど、嫌な気分はしなかった。
「愛してる」
どんな顔でも、どんな感情でもいい。上辺だけの言葉でも、嘘であっても、その一言が彩は嬉しいんだと、そうやってまた透は決めつける。そしてまた、血が出るほど舌を噛んで、自分への怒りで涙を流す。
愛してる。愛してる。愛してる。何度も何度も、彩は心の中で復唱する。やっと言ってくれた。初めて出会った日から燻っていた想いが、恋心が、やっと実った。彩の視界が少しだけ明るく、藍色になった気がした。
「私も、愛してる」
初めて交わしたキスは、苦い血の味がした。
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「ねぇ、ちょっと横になりたいんだけれど……」
ようやく勉強に手をつける、というところで、彩がぐったりとして調子が悪そうにしている。視力を失った彩は、必然的に耳に全神経を集中させなければならないらしく、時折こうして体調を崩すことがある。何年経っても慣れることはないようで、あまりの集中で音に酔ってしまうのだという。
「ソファとかないんだよな……体調は?」
「良くない、かも……頭痛い……」
仮にも病院の跡取りということで、透は対処法も熟知していた。音酔いは、音楽や読書などで楽しいことを考えたりして別のことに意識を集中させることで対処できる。だが、透は音楽にさほど興味がなく、読書は嗜むが、目が見えない彩相手にそれは論外だ。悩み抜いた末に、結局透は彩を自分のベッドに寝かせて安静にさせることにした。
彩も苦難を抱えているとはいえ年頃の女性だと考え、こういうのは良くないことだと避けてきたのだが、非常時なら仕方ない、と透は自分に言い聞かせる。よほど動悸が激しいのか、発汗も酷いようだった。彩の呼吸が段々と荒くなっていく。これ以上、自分にできることはないと、透は彩の手を握ることしかできなかった。
「透、もうちょっと近づいて」
「え? でも……」
「不安なの。早く……」
「……分かったよ」
透は言われた通りに彩へ近づく。体温は驚くほど高いというのに、絡ませた指先は冷たかった。まるで人形みたいだ。だんだんと激しくなる呼吸を抑えるように、透は彩の手を握りしめた。透には、ただ無事を祈って手を握ることしかできず、悔しそうに奥歯を噛み締める。
「…………もういいよね」
ずっと我慢してたんだから
うっすらと、そんな言葉が透の耳をくすぐった。
「っ?!……」
突然、ベッドで横になっていた彩が両手を広げて透を捉え、がっちりと透を抱き抱える。思わず体勢を崩して、運悪く透が彩を押し倒したような体勢にになってしまった。透の思考が目まぐるしく回転する。目に見える現実を否定するために、何度も同じ考えが逡巡する。間違えるはずがない。確かに、彩が手を伸ばしたのだ。
「わ、悪い……! 今すぐ出るから……」
「ダメ」
彩はぎゅっ、と抱きしめる。力には自信があった透が逃げ出せないほどの力で抑えられてしまう。そんなはずはないと、透の頭に過ぎる言葉は否定ばかりだった。
(ありえない……だろう?)
彩の腕が、動くはずがないのだ。
「ほら、もっとちゃんとくっついて」
腰を掴んでいた彩は透の腕を取り、その美しい肌に押し当てる。払い除けることなんて簡単なはずなのに、透にはできなかった。頭の中が疑問と逃避でぐちゃぐちゃになって、抵抗することもせず、ただされるがままの言いなりになってしまう。
「彩……なんで」
「私は、私を知らない」
「……何を、言って」
「だから、代わりに透が、私の全部を知って? 私の隅から隅まで、全部感じて」
劣情は透の心の中でひたすら膨らんでいった。誰よりも理解しているはずだった彩の思考が、何より理解しがたかった。どれだけ考えても、理解できるはずがなかった。きっと、目の前で見たこともない光悦な表情を浮かべる彩は、もはや透の知る彩ではない。
「明日の私が、今日の私である必要なんてない。私がなくなってしまう前に、透が教えて? 何もかもめちゃくちゃになるくらいに上書きして」
あなた色に染め上げて
それは、今まで透が聞いたどんな願いよりも悲劇的なものだった。
透の手のひらを、彩は自ら自分の二の腕に押し当てる。照れて真っ赤になった透の顔が更に彩の欲望を掻き立てた。僅かに込められた抵抗も感じられない。もう透には、何がなんなのか分からなくなってしまっていた。
いつから彩の腕は治っていた? 腕が治っているなら、脚は?
もしかしたら―――
そこまで考えて、透はふたたび現実へと押し戻されてしまう。彩の肌の感触が、手のひらから消えてくれない。
「ちゃんと触らないと分からないでしょ」
腰、くびれ、腹部。欲望は少しずつ膨れ上がっていって、手のひらは頭へと伸びる。くしゃくしゃっと撫でられた感触は、きっと彩に伝わっていることだろう。透の心には疑心しか残らなかった。腕のことも、きっと視力も。果てには事故のことさえ、嘘ではなかったのかと疑った。
彩の体の形を覚えた透の腕は、ゆっくりと伸びる。やがて透の腕は彩の首に届いてしまった。しかし、彩はまるでこれを待っていたみたいに嬉しそうに笑う。
「透、約束して。ずっと、これからずーっと、私を、私だけを愛してくれること。嘘だらけの私を、一生愛すること」
「…………る」
「聞こえない」
「……いしてる」
「もう……だめでしょ?」
彩は、言い淀む透の手の上から力を込め、自分の首を絞め上げる。苦しくはなかった。この時ばかりは透の意思が正常に働いて彩の手の動きに抵抗している。しかし、透が優しいことを誰よりも知っている彩は自分から首を絞める。そうすれば、透は選ぶはずだと、喉の当たりをぎゅっと押し込む。
「あはっ……」
「っ!」
「ほら、言ってよ………」
透には、もう何もわからなくなっていた。彩のことも、これからのことも、自分が何をしようとしているのかも。なにもわからなかったけど、嫌な気分はしなかった。
「愛してる」
どんな顔でも、どんな感情でもいい。上辺だけの言葉でも、嘘であっても、その一言が彩は嬉しいんだと、そうやってまた透は決めつける。そしてまた、血が出るほど舌を噛んで、自分への怒りで涙を流す。
愛してる。愛してる。愛してる。何度も何度も、彩は心の中で復唱する。やっと言ってくれた。初めて出会った日から燻っていた想いが、恋心が、やっと実った。彩の視界が少しだけ明るく、藍色になった気がした。
「私も、愛してる」
初めて交わしたキスは、苦い血の味がした。