藍に染まるまで
ー/ー
「まま〜! 見て! キレイに描けたよ!」
「あら、素敵。彩はお絵描きが上手なのね。これはなにを描いたの?」
満面の笑みを見せて井口 彩はその絵についての説明を始める。夜の空を背景に、それを見上げる3人の人影。とても7才の子どもが描いたようには思えない絵だった。一見、青色だけで塗りつぶしただけの絵にも見えるが、よく見てみると、いくつもの色が塗り重ねられ美しい夜空が藍色で表現されている。これを意図的にやったのか、もしくは偶然か。どちらにしても、母が褒めてくれたこの絵が彩にとって大切な宝物になったことは変わらない。
「昨日の夢の絵だよ! みんなでお空を見に行った時の絵!」
「すごく上手よ。この絵、お家に飾ってもいいかしら」
「うん!」
彩は初めて母の笑顔を知った。いつもどこか辛そうに俯いている母の、幸せに満ち溢れた顔を知った。その表情を見て、彩は泣きそうになってしまう。
(絵を描くと、ままが笑ってくれる……!)
この日から、彩は絵を描き続けた。まだ幼さが垣間見える、適当に手に取ったクレヨンで塗りつぶした紙を見せる度、母は太陽よりも明るく笑ってくれた。それがたまらなく嬉しくて、何度も、何度も描いた。
彩は、特段裕福な家庭で育った訳では無い。毎月生活費に困り果て、ついには白米と味噌汁だけの夕飯が食卓に出ることもしばしばあるような、貧相な家庭だ。だが、いつになっても子宝に恵まれなかった両親の唯一の子ということで、彩はそれはもう大事に育てられたのだ。
そう、大事に、大事に。彩に悪い虫が付かないように、守り続けた。絶対に外出などはせず、窓も、カーテンすらも開けることはなく、彩を護り続けた。
芸術という才能に恵まれた彩は、7年間、外の世界を知ることなく、ただひたすら絵を描き続けていた。
ある日、彩は窓に叩きつけられる雨粒の音で目を覚ました。常夜灯だけしか灯りのない薄暗い部屋。窓の外では、雨が激しく篠津いている。
7年。7年もの間、彩は外の世界を知らなかった。好奇心を掻き立てるような楽しそうな音に抗うこともせず、彩はバレないように家の扉を開けた。幸い、大きな音で彩の心を囃し立てる雨のおかげで、両親は扉の音を聞き逃したようだった。
恐る恐る外へ出て、そして見上げる。天から降り注ぐ、神の恵みを。
「わあぁぁぁあ!」
それは彩にとって初めての体験だった。
これが雨、これが風、これが土、これが草。すべてが新しく、心を踊らせた。手で触れて、五感すべてでそれらを感じた。そして、この日、この瞬間が、彩の人生の最高潮だった。
世界に夢中で気づけなかった。死角から忍び寄る危機。眩いライトで照らされ、彩の全身が顕になった頃にはもう遅く、彩の全長の何倍もある得体の知れない硬質な機械に思い切り撥ねられた。
覚えているのは視界が真っ白に染まるほどの白と、身体を揺らされる感覚、あとは右から左に通り過ぎる喧しい声。
そして、目が覚めて最初に見えたのは藍だった。まるで、あの日見た夜空の夢のように美しい藍。今まで見てきた何よりも深く、落ちて、蕩けてしまいそうなほどの藍。
彩の世界は、何の変哲もない、つまらないものに堕ちていた。
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「まま〜! 見て! キレイに描けたよ!」
「あら、素敵。|彩《あや》はお絵描きが上手なのね。これはなにを描いたの?」
満面の笑みを見せて|井口 彩《いぐち あや》はその絵についての説明を始める。夜の空を背景に、それを見上げる3人の人影。とても7才の子どもが描いたようには思えない絵だった。一見、青色だけで塗りつぶしただけの絵にも見えるが、よく見てみると、いくつもの色が塗り重ねられ美しい夜空が藍色で表現されている。これを意図的にやったのか、もしくは偶然か。どちらにしても、母が褒めてくれたこの絵が彩にとって大切な宝物になったことは変わらない。
「昨日の夢の絵だよ! みんなでお空を見に行った時の絵!」
「すごく上手よ。この絵、お家に飾ってもいいかしら」
「うん!」
彩は初めて母の笑顔を知った。いつもどこか辛そうに俯いている母の、幸せに満ち溢れた顔を知った。その表情を見て、彩は泣きそうになってしまう。
(絵を描くと、ままが笑ってくれる……!)
この日から、彩は絵を描き続けた。まだ幼さが垣間見える、適当に手に取ったクレヨンで塗りつぶした紙を見せる度、母は太陽よりも明るく笑ってくれた。それがたまらなく嬉しくて、何度も、何度も描いた。
彩は、特段裕福な家庭で育った訳では無い。毎月生活費に困り果て、ついには白米と味噌汁だけの夕飯が食卓に出ることもしばしばあるような、貧相な家庭だ。だが、いつになっても子宝に恵まれなかった両親の唯一の子ということで、彩はそれはもう大事に育てられたのだ。
そう、大事に、大事に。彩に悪い虫が付かないように、守り続けた。絶対に外出などはせず、窓も、カーテンすらも開けることはなく、彩を|護《しば》り続けた。
芸術という才能に恵まれた彩は、7年間、外の世界を知ることなく、ただひたすら絵を描き続けていた。
ある日、彩は窓に叩きつけられる雨粒の音で目を覚ました。常夜灯だけしか灯りのない薄暗い部屋。窓の外では、雨が激しく篠津いている。
7年。7年もの間、彩は外の世界を知らなかった。好奇心を掻き立てるような楽しそうな音に抗うこともせず、彩はバレないように家の扉を開けた。幸い、大きな音で彩の心を囃し立てる雨のおかげで、両親は扉の音を聞き逃したようだった。
恐る恐る外へ出て、そして見上げる。天から降り注ぐ、神の恵みを。
「わあぁぁぁあ!」
それは彩にとって初めての体験だった。
これが雨、これが風、これが土、これが草。すべてが新しく、心を踊らせた。手で触れて、五感すべてでそれらを感じた。そして、この日、この瞬間が、彩の人生の最高潮だった。
世界に夢中で気づけなかった。死角から忍び寄る危機。眩いライトで照らされ、彩の全身が顕になった頃にはもう遅く、彩の全長の何倍もある得体の知れない硬質な機械に思い切り撥ねられた。
覚えているのは視界が真っ白に染まるほどの白と、身体を揺らされる感覚、あとは右から左に通り過ぎる喧しい声。
そして、目が覚めて最初に見えたのは藍だった。まるで、あの日見た夜空の夢のように美しい藍。今まで見てきた何よりも深く、落ちて、蕩けてしまいそうなほどの藍。
彩の世界は、何の変哲もない、つまらないものに堕ちていた。