第12話 鈍色の雲
ー/ー
「最近少し機嫌いい?」
極北海洋資源(株)の資源調査室で槇子の隣の席に座る蓮実紀恵はこっそりと声をかけた。蓮実紀恵は長い黒髪を無造作に束ね、丸っこい眼鏡をかけた洒落っ気のかけらもない女性だ。いつも不機嫌そうで、愛想だってかけらもない。それが槇子と私的な話をする時だけはからかい半分のいたずらっぽい眼が光る。
「そう? いや、自覚なかった。特にいいことなんてないし…… あ!一昨日リョーケンで45%引きのお肉が更にタイムセールでね……」
惠美との再会は槇子にとって機嫌をよくするに十分な出来事だったが、突然逃げられてしまったショックは未だ大きい。なのでやはりいいことなんてない、と槇子は空とぼけて見せた。
「こういう時普通スーパーの特売の話になる? で、何買った?」
「牛タンですよ! タンシチューですよタンシチュー! いいでしょう? たまらないでしょう?」
「もう何年も食ってねぇ…… そいつぁ確かにたまんねえや。って…… いや、こっちから乗っといてなんだけどさ、その手の生活感あふれる話じゃなくて。人間関係的な、あるいは男女じゃなく女女関係的ないい事でもあったのかよ? とそれを訊きたかったわけだ」
紀恵は槇子の中学時代からの友人で、槇子が“女の子しか好きになれない”悩みを打ち明けた唯一の友達でもある。
「ああ、最近確かに出会いはありましたが、今後進展があるとか、対象者であるとか、そういった話ではないなぁ…… だから、ただすれ違っただけみたいなものね」
紀恵に食い付かれるとうるさいので正直に、でもかいつまんで話すことにする槇子。心に隙間風が吹くと同時にあの笑顔が浮かぶ。
「とか言いつつまんざらでもなかったんだろ? 何ていうのかな、こう…… めっちゃ好みで可愛かったとか、相手から『あら素敵ですね』とかなんとか不意打ちのように無自覚に褒められたとか…… おうおう、係長、パソコンに頭突きするな。痛いだけだぞ。備品壊すな」
「可愛いって言われたの、可愛いって言われたの、可愛いって言われた……」
槇子は呟きながらPCのモニターの角に額をげしげしと打ちつけていた。
「ははあ、で、相手も可愛かった、と」
「滅、茶、苦、茶、可、愛、かっ、た…… です。でもまあ連絡先も知らないのでもう終了なんだけどね」
「なんだそのオチ。つまんねーヤツだなあ。今まで何度もしている部下からの温かい進言なんだがな、君、恋してないと生きていけないんだから、もっと積極的に女探せよ。あたしたちの仕事にも差しさわりがあるんだから。まあ、恋したらしたでがっつり恋愛体質丸出しなんだけどさ」
「恋愛体質なんかじゃないじゃない…… はああああっ 連絡先もそうだしまあ土台無理な話なのよね。それに自分の中でもそれどころじゃないしね。」
逃げられたことを思えば、やはり惠実は槇子にとって縁のない人なのだろう。それに心の中の大半はいまだ多喜で占められており、その灰色に渦巻く鈍色の雲は一向に消える気配がなかった。
「なんだかんだ言って随分未練ありそうなだな。そんなに無理筋なのか? 高根の花なのか? 聞かせろ聞かせろ」
パソコンを操作してDVDを挿入する紀恵。にやにやしながらからかい半分の口調で話す。
「誰にも言わない?」
「言わない言わない言うわけないなーい」
「うっそくさい。まいっか…………JK」
「おまわりさーん」
「分ってる。分ってるわよ。だ・か・ら・この話はもうおしまいなの! わかる?」
「しっかし、君ロリだったのか……」
「JKはロリじゃないでしょっ!」
同じデスクグループの二人ほどが槇子と紀恵の方を見る。二人は改めて声を潜めて会話を続けた。
「係長声が大きいんですけど。JKは充分ロリだロリ。まあ、あたしはショタ彼なんて別に……ああ、けなげな14歳に告白される33歳OLの漫画読んででキュンキュンきてたわこないだ…… まぁリアルでは土台あり得ない話だなぁ…… 諦めたまえ。新しい恋探しなよ。」
「うん……でも、それはもうないかな」
ふと面を上げあらぬ方向に目を向けた。寂し気に微笑んで視線をPCの画面に戻す。
「よっし全部書き込み終了っと。何?」
PCからDVDを取り出す紀恵。
槇子が思わず漏らした呟きを紀恵は聞いていなかったようで、それに安心と腹立たしさが入り混じった声が口を突いて出る。
「いいえ!」
「ふーん」
不貞腐れたかのようにも見える槇子の様子に合点のいかない紀恵だった。
槇子は改めて思った、惠美ちゃんに会いたい。もう一度でいいから会いたい。逃げられてもいいから会いたい。しかし、そこに多喜への永遠に叶わぬ想いが覆い被さり、何もかもを鈍色の雲で包み込んでしまう。灰色をした多喜への愛おしさが、惠実への小さな温かい想いを吹き消そうとしている。
【次回】
第13話 引き寄せ合う
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「そう? いや、自覚なかった。特にいいことなんてないし…… あ!一昨日リョーケンで45%引きのお肉が更にタイムセールでね……」
惠美との再会は槇子にとって機嫌をよくするに十分な出来事だったが、突然逃げられてしまったショックは未だ大きい。なのでやはりいいことなんてない、と槇子は空とぼけて見せた。
「こういう時普通スーパーの特売の話になる? で、何買った?」
「牛タンですよ! タンシチューですよタンシチュー! いいでしょう? たまらないでしょう?」
「もう何年も食ってねぇ…… そいつぁ確かにたまんねえや。って…… いや、こっちから乗っといてなんだけどさ、その手の生活感あふれる話じゃなくて。人間関係的な、あるいは男女じゃなく女女関係的ないい事でもあったのかよ? とそれを訊きたかったわけだ」
紀恵は槇子の中学時代からの友人で、槇子が“女の子しか好きになれない”悩みを打ち明けた唯一の友達でもある。
「ああ、最近確かに出会いはありましたが、今後進展があるとか、対象者であるとか、そういった話ではないなぁ…… だから、ただすれ違っただけみたいなものね」
紀恵に食い付かれるとうるさいので正直に、でもかいつまんで話すことにする槇子。心に隙間風が吹くと同時にあの笑顔が浮かぶ。
「とか言いつつまんざらでもなかったんだろ? 何ていうのかな、こう…… めっちゃ好みで可愛かったとか、相手から『あら素敵ですね』とかなんとか不意打ちのように無自覚に褒められたとか…… おうおう、係長、パソコンに頭突きするな。痛いだけだぞ。備品壊すな」
「可愛いって言われたの、可愛いって言われたの、可愛いって言われた……」
槇子は呟きながらPCのモニターの角に額をげしげしと打ちつけていた。
「ははあ、で、相手も可愛かった、と」
「滅、茶、苦、茶、可、愛、かっ、た…… です。でもまあ連絡先も知らないのでもう終了なんだけどね」
「なんだそのオチ。つまんねーヤツだなあ。今まで何度もしている部下からの温かい進言なんだがな、君、恋してないと生きていけないんだから、もっと積極的に女探せよ。あたしたちの仕事にも差しさわりがあるんだから。まあ、恋したらしたでがっつり恋愛体質丸出しなんだけどさ」
「恋愛体質なんかじゃないじゃない…… はああああっ 連絡先もそうだしまあ土台無理な話なのよね。それに自分の中でもそれどころじゃないしね。」
逃げられたことを思えば、やはり惠実は槇子にとって縁のない人なのだろう。それに心の中の大半はいまだ多喜で占められており、その灰色に渦巻く鈍色の雲は一向に消える気配がなかった。
「なんだかんだ言って随分未練ありそうなだな。そんなに無理筋なのか? 高根の花なのか? 聞かせろ聞かせろ」
パソコンを操作してDVDを挿入する紀恵。にやにやしながらからかい半分の口調で話す。
「誰にも言わない?」
「言わない言わない言うわけないなーい」
「うっそくさい。まいっか…………JK」
「おまわりさーん」
「分ってる。分ってるわよ。だ・か・ら・この話はもうおしまいなの! わかる?」
「しっかし、君ロリだったのか……」
「JKはロリじゃないでしょっ!」
同じデスクグループの二人ほどが槇子と紀恵の方を見る。二人は改めて声を潜めて会話を続けた。
「係長声が大きいんですけど。JKは充分ロリだロリ。まあ、あたしはショタ彼なんて別に……ああ、けなげな14歳に告白される33歳OLの漫画読んででキュンキュンきてたわこないだ…… まぁリアルでは土台あり得ない話だなぁ…… 諦めたまえ。新しい恋探しなよ。」
「うん……でも、それはもうないかな」
ふと面を上げあらぬ方向に目を向けた。寂し気に微笑んで視線をPCの画面に戻す。
「よっし全部書き込み終了っと。何?」
PCからDVDを取り出す紀恵。
槇子が思わず漏らした呟きを紀恵は聞いていなかったようで、それに安心と腹立たしさが入り混じった声が口を突いて出る。
「いいえ!」
「ふーん」
不貞腐れたかのようにも見える槇子の様子に合点のいかない紀恵だった。
槇子は改めて思った、惠美ちゃんに会いたい。もう一度でいいから会いたい。逃げられてもいいから会いたい。しかし、そこに多喜への永遠に叶わぬ想いが覆い被さり、何もかもを鈍色の雲で包み込んでしまう。灰色をした多喜への愛おしさが、惠実への小さな温かい想いを吹き消そうとしている。
【次回】
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