信玄と信之は、ほんの一年の年の差しかない、兄弟と言えどフランクな関係性であった。英雄の因子が信玄に見つかったのも、小学五年生頃と平均より少しばかり遅め。
因子が発覚するまでの間、二人の兄弟はそれぞれをリスペクトし合っていた。
「兄ちゃんは、何でもそつなくこなせて凄ェや。多くの運動クラブの助っ人もできる、頭も良い。んでもって見た目も良い、自慢の兄ちゃんだよ」
「信之は、努力を重ねられる『努力の天才』だよ。俺っち、正直飽き性だから……継続できるその忍耐力、兄として誇りに思う。自慢の弟だよ」
互いに互いを褒め合えるほどに、出来た関係性。元々水泳を習っていたこともあり、二人で互いに高め合う、実に良好な関係性であった。
しかし、その均衡が崩れ去ったのは、信玄が小学五年生後半のとき。信玄の身体能力が、他の生徒を軽く追い抜くほどにまで、急激に成長したのだ。最初、信玄は水泳の才能が開花したのか、そう考えていたが――その説明では足らないほどの、身体や能力の成長であった。
両親は、信玄をすぐさま医療・研究機関へ連れて行った。その結果本人に、英雄『織田信長』の因子が覚醒したことを告げられた。
因子が覚醒すること自体、非常にレアリティが高い。その中でも著名な英雄であった場合、さらにレアリティが高い。それ故に、信玄の両親は当人を神格視したのだ。努力すること以外に無才能であった、信之を見捨てるようになったのは、ここからであった。
最初、信之は自分の兄が『因子持ち』であることを誇りに思っていたが、周りの人間から比較されることに、次第にうんざりするようになっていた。自分自身で何とか納得しようとしていたが、明確に皆から差別されだした瞬間から、信之は信玄を疎ましく思い始めたのだ。
肝心の信玄は、信之と関わることすら許されることはなく、兄弟でありながら心の距離が開き始めていたことを自覚した。
(――だけど、そんなのは嫌だ。信之と俺っちは……二人で兄弟なんだ)
信玄は、仲間外れ扱いをされていた信之を仲間の輪に入れるよう、何度も動いた。その結果、信玄をはじめとした『優等生』のコミュニティに出入りする人間の一人となったが、信玄以外がそれを良しとはしなかったのだ。
「――何で、因子も目覚めていない人がここにいるの?」
「お兄ちゃんが恵まれたが故に……そのしわ寄せが本人にやってきたんでしょうね」
「出来た兄に、大したことのない弟。現実って、無情ね」
その周りの声は、決して信玄の聞こえないところで囁かれた。しかも、信之にのみ聞こえるように。何とか心を病まないように聞こえないふりを貫いていたが、言葉と態度の暴力は信之を徹底して追い詰める。
無才能であることは本人が望んだことではないのにも拘らず、そしてただ運がよく選ばれただけの存在であるのにも拘らず。信玄の与り知らないところで、信之は徹底的に暴力を振るわれたのだ。家族などの身内や、信玄のコミュニティ内の人間に。
理不尽な暴力は、信之の心を蝕んでいった。選民思想蔓延る、人間の闇に触れた信之は、信玄含め多くの『因子持ち』を憎むようになっていたのだ。
しかし、信玄がそれに気づかないはずが無かったのだ。大切な家族である信之を、少しでも恵まれた道へ連れ出そうとしていたのだ。そして、自分は大したことのない道へ向かうように、進路を適当に決めたのだ。
その代わり、信之には勉強や部活動の指導を全力で行った。英雄や武器以外の、優れた人間への道を辿らせるよう、信玄は必死でサポートしたのだ。
「……兄ちゃん。何で俺なんかに構うんだよ。兄ちゃんは色々と忙しいんだろ?」
「――俺っち、入学予定の中学を卒業したらさ……そのまま就職するんだ。だから――」
せっかくの恵まれた境遇を、自分のために捨てようとする信玄。そんな兄が、余裕を示しているように見えたのだ。無論、兄が弟を気にかけているだけだったのだが、結局嫉妬心はその時点の信之の心を深く蝕んでいた。修復不可能なほどに。
思い切り、信玄の頬を殴り飛ばす信之。積み重ねられた苛立ちが、ついに爆発した瞬間だったのだ。
「――見せつけかよ。自分が少し恵まれているからって、俺への余裕の表れかよ!! 何で足並みを揃えようとすんだよ、さっさと先の世界に行けよ!!」
信玄は、信之を置いていくことなどできやしなかった。今まで一心同体のように動いてきた兄弟が、離れ離れになることを考えられなかったのだ。
どれほど迫害されようと、信之は自分の弟。無才能だろうと、自分の傍でその恩恵を受けさせてあげたい。裕福な暮らしをさせてあげたい。ただの兄心だったものが、本人には全て歪んだように見えていたのだ。
「……はっきり言ってやる。大きなお世話だ!! 兄貴は何でも上手くいく、これからの人生だって順風満帆だ!! 俺が辛い迫害を受けたのは兄貴のせいだ!! 何を思っているかはよく分からねえけど――もう一般人|《パンピー》の邪魔をするなよ、むやみやたらに傷つけんなよ!!」
信之の、心からの叫び。兄としての優しさが、全て無駄だと告げられた瞬間の信玄の表情は、絶望そのものであった。
「――俺は、俺の道を行く。才能のあるやつは……勝手にその先を行ってろ。二度と……俺に関わるな」
その訴えから、結果的に兄弟間の軋轢が生じた。会話など、することも無くなった。
信玄は、中学入学後に自分が分からなくなっていた。実の弟から今までの行いを否定されたショックは大きく、今まで優等生であった信玄はやさぐれていった。入学した中学は信之とは異なり、将来の『英雄の卵』が集まるようなエリート校であったが、成績をわざと落とし不良グループの一員となった。
学校外でも、しょっちゅう喧嘩に明け暮れ、補導対象としてマークされていた。何度も警察の世話になり、両親には『期待』の念を押された結果、さらにその道を逸れるように歩く。
(――信之は、俺とは違う。俺っちがドロップアウトすれば……相対的に努力を重ねたアイツの評価が上がる。――これでいいんだ、俺っちがろくでなしになれば……アイツは報われる)
支えることが許されないのなら、関わることが許されないのなら。自分が堕ちていけば評価が上がると考えたが故の、不良になる未来を選んだのだ。
実際、不良として生きていく中で、何不自由ない生活であった。元々『因子持ち』であったがために、素の能力が並大抵の不良よりも上であった。多くの不良を束ねる、頭|《ヘッド》として輝いていたのだ。
しかし、信玄の心は完全に満たされることはなかった。どころか、虚無感すら生まれてしまうほどにまで退化していた。『因子持ち』であることに胡坐を掻き、碌に勉強しなかった結果、退学の危険性すら孕んでいたのだ。
弟のため。そう自分に言い聞かせ、自分の人生を棒に振る。その決断は、本当に正しいものだったのだろうか。
今まで、自分の内に眠る英雄とも会話できず、ただそこにあるだけであったため、次第に『因子持ち』の中でも落ちぶれていった。危機感を抱き始めたときには、もう遅かったのだ。周りが大人になっていく中、ただ暴力だけでしか自分を表現できない不良としての在り方は、空っぽな信玄には辛かったのだ。否が応でも、空っぽであることを自覚してしまうのだ。
どれほど暴力を振るおうと、一切満たされない。中学二年になっても暴力でしか自分を表現できない自分が、とにかく惨めでしょうがなかったのだ。
その時であった。
不良たちが徒党を組み、次第に暴走族として成立していく中、同じ中学に在籍していたとある人物主導の風紀委員たちが、不良グループを解体しようと動き出したのだ。それこそ、『ヘラクレス』の因子を持った丙良であった。
最初、信玄は丙良のことは歯牙にもかけなかった。自分とは一切関係のない、道が交わることのない存在であると考えていた。
だが、あるタイミングで喧嘩を吹っ掛けた。その後すぐに地に転がっていたのは、信玄の方であった。丙良の力は、信玄を嘲笑うほどに圧倒的であった。当時から、恵まれた才覚に胡坐を掻くことなく、なおも努力を重ね高みを目指す、まさに優等生と言った風格。
信玄は、初めて心の底から敗北を認めた。弟のため、そう理由を付け、大した努力をしなかった自分を恥じたのだ。誰かを心配するのは、強者の証であると実感した信玄は、その日から不良の自分を清算することを決めた。
そこから、信玄の中の憧れは、丙良へと変わったのだ。
無論、多くの反対が仲間内から生まれた。しかし信玄は、丙良という目標に向け成長したがっていたのだ。絶対的な柱を失うことになろうとも、元々の頭|《ヘッド》が、新たな世界へ羽ばたこうとする覚悟を見せられたら最後、それを引き留める理由はない。
信玄は、その日から勉学も実技も、まじめに取り組むようになった。何が理由か分かっていなかった親族は皆、急な改心に驚いたものの、そんな信玄を必死に応援した。一度挫折した人間であったからこそ、より一層の熱を持った応援となったのだ。