表示設定
表示設定
目次 目次




前編

ー/ー







 目の前を蛇が横切った。

 一月四日の出来事である。

 どんよりと黒っぽい雲が朝から空を隠していたその日、私は、遅まきながら新年の参拝のため、家から歩いて二十分のところにある小さな神社を訪れていた。

 田舎の町はずれということもあり人気は少なく、森、とまでは行かないまでも林と呼ぶには差し支えない程度の木々に囲まれた境内は、太陽が昇り切らない午前十時のひんやりした空気と相まって、静謐という言葉をそのまま形にしたような、どこか厳かな雰囲気を醸し出している。

 三が日を避けたのは正解だった。

 鳥居をくぐった私は、まず、そう思った。

 この神社は小ぢんまりとしているものの歴史はそれなりに長いらしく、周辺の住人達に深く馴染まれ、親しまれている場所でもある。だから初詣の行先にここを選ぶ人が敷地の広さに見合わないほどに多い。普段は公園替わりに近所の子供が走り回っている以外に人影なんか見当たらないのだが、正月だけは例外だ。

 行列、行列、人の群れ。

 年が明ける前から一番乗りを期待して賽銭箱の前を陣取っている爺さん婆さん、使い捨てカイロを順番に手渡しながら眠そうな子供を励ましている家族連れ、制服姿でべったり寄り添う中学生カップル、指先を真っ赤にしながらそれでもスマホを手放さず隙あらば自撮りしようとする女子グループ――全部、いる。なんなら酔っ払いもいる。コンビニ袋を提げて安そうなカップ酒をあおりながら年越しを待っているおっさん、なんてのも、そう珍しい光景じゃない。

 悪いとは言わない。

 ああいう景色が初詣にはつきものだ。新年一発目のイベントではしゃぐ気持ちは否定しないし、それだけ多くの人に神様が慕われているのだと解釈すれば、素敵なことだと肯定できなくもない。

 けど、好きじゃない。

 人混みは嫌いだ。

 特に、賽銭を投げたり手を合わせたりしている最中に、知らない誰かと肩がぶつかったり後ろから人の波に押されたりするなんてまっぴらだ。今年一年どうぞよろしく――そんな挨拶を急かされながらしたくない。

 だから、四日。

 この日が、ここで初詣をするのにちょうどいい。

 それが、十七年間この町で生まれ育った私の結論である。

 父さんに言わせれば「捻くれてるなぁ、お前はもう少し理屈を捏ねないってことを覚えた方がいいんじゃないか」だそうだけれど、それは後々の課題ということにして、ひとまず私は現在の私の持論に従い、今日この日を初詣の実行日に選んだのだった。

 一人ではなく、友達と一緒に。

 杏香、という名のその友人は、幼稚園で出会った私の幼馴染である。

 小学校、中学校と同じ学び舎で過ごし、高校はそれぞれ別の進学先を選んだけれど、お互い地元を離れたわけでもないので今もよくつるんでいる。出不精かつ筆不精でとても付き合いが良いとは言えない私のことを定期的に構ってくれる、日陰者にはありがたい存在だ。今回の初詣も、二人で行こう、と提案したのは彼女の方だった。

 そんな杏香と、私は境内で待ち合わせをしていたのだけれど、時間ピッタリに到着したはずなのに彼女の姿が見当たらない

 ははーん、さては――スマホの画面を覗いてみると、『寝坊でーす☆』の一言と共に炬燵の写真が送られてきていた。

 怒りはしない。

 昔からこういう奴だ。

 私は参道の脇、手水場を囲う屋根の柱にもたれかかって、『おみくじ先に引いてるわ』と返信した。五秒で既読マークがつき、お雑煮の写真が無言で届けられた。

 なんだこいつ。

 ちょっとは焦りやがれ。

 寝過ごしたのは仕方ないし私も気にしちゃいないけれど、お雑煮は違うだろ、お雑煮は。

 おちょくられているのだろうか、と疑いつつ、『は?』とだけ返して反応を待たずスマホをポケットに仕舞おうとし――。

「……お?」

 そして、それに出くわした。

 私のつま先から十センチの位置をにょろにょろと移動する、灰色の蛇に。

「珍し。いるんだ、こんなところにも」

 と、思わず私は呟いた。

 野生の蛇に遭遇した女子高生のリアクションにしては薄すぎる、と思われるかもしれないけれど、残念ながら――というのが正しいか微妙だが――私には蛇に対する恐怖心や嫌悪感が、まったくといっていいほど存在しない。

 だって飼ってたことあるもん、蛇。

 怖いわけないじゃん。

 もちろん、多少驚きはするけれど。

 この辺りに蛇が出る、なんて目撃情報は聞いたことがなかったし、そもそも野良の蛇を見るのは初めてだ。

 好奇心は刺激される。

 私はスマホを左手に持ったまま、カメラは構えず目の前の蛇をジッと目線で追いかけた。

 うろうろ、ちょろちょろ。

 暢気に身をよじりながらそいつは私の足先を通過し――不意に体の動きを止めて、こちらを見た。

 鎌首をもたげて、振り向いて。

 ちろちろと舌をのぞかせながら、つぶらな瞳で、私を見た。

「……」

 私も、見つめ返した。

 目を逸らしたら負けな気がした。

 やがて蛇はぷい、とそっぽを向き、行進を再開する。

 よし、先に視線を外したのはお前の方だから私の勝ちな――とか思いながら私は蛇を見送ろうとしたのけれど、数メートルも動かないうちに、蛇は再び停止して、また、私の方を振り返った。

「なんだよ」

 用でもあるのか?

 尋ねても蛇は何も答えない。

 ……ふと、私はピンときた。

 根拠なんか何もない思い付き――いや、思い込みでしかないと分かってはいるが、きっとこうだ、という妙な確信があった。

「ひょっとして」

 ついてこい、って言ってるのか?

 私が訊くと、蛇はゆっくり瞬きをして、それから、やけに緩慢な動きで正面に向き直った。

 ……いいだろう。

 面白いじゃないか。

「付き合ってあげるよ」

 私は左手の親指でスマホを開き、杏香に向けて『ひと眠りしてからでいいよ』とメッセージを送った。

 待っていたかのように、蛇が動く。

 それを追いかけて、私も歩き出す。

 一月四日、午前十時六分。

 奇妙な散歩が、始まった。

 

 

※    ※   ※

 

 

 蛇はまっすぐ鳥居へと向かい、神社の外へとくり出していく。

 まだ参拝を済ませていないのに賽銭箱へ背を向けるのは若干気が引けたけれど、ついていくと決めたのだからそこは割り切るしかない。

 私は蛇の尻尾に導かれ、一旦、境内を後にする――また後で来ます、と心の中で神様に詫びを入れながら。

 鳥居の直前は階段になっていて、緩やかな三十段ほどの石段が、日々、参拝に訪れるご老人の足腰に大いなる試練を与えている。蛇は迷わずそこを下って行き、私も続いて、降りていく。

 引きこもり予備軍の自覚があるとはいえ私もティーンエイジャーの端くれ、この程度の段差に苦労することはなく、あっさり一番下までたどり着いた。

 階段の真ん前には片道二車線の道路が横たわっており、まばらな感覚で車が視界を通り過ぎていく。普段、この道はトラックが多く走っているのだけれど、まだ正月ということもあってか、見かけるのは乗用車ばかり。

 タイヤがアスファルトを擦り、車体が風を切る。神社の敷地内では絶対耳にしないこの音が聞こえると、なんていうか、下界に降りてきた、って感じがする。この感覚は、嫌いじゃない。

 蛇は左へ曲がり、歩道の左端を一定の速度で進む。

 コートのポケットに手を突っ込んだまま、のんびり歩いて後を追う。

 今、私の視界の左手には神社の林がある。もう少し進めば木々が途切れ、田んぼや畑が現れるだろう。住居は少なく、道路もあぜ道に毛が生えたような細い道しかなく、遠くの方の川までよく見通せる。

 田舎の景色。それが、左側。

 翻って右手には、道路沿いということもあって様々なお店が立ち並ぶ。古着屋、畳屋、釣具店。昔からこの町に暮らす人々が営む古い店に挟まれて、時折、コンビニやドラッグストアなどのチェーン店が目立つ看板をギラギラさせている。櫛の歯のように隙間を開けながら軒を連ねるそれらの向こう側は住宅街。大きなマンションはなく、瓦屋根の一軒家ばかり。

 町の風景。それが、右側。

 どっちを見ても、退屈な情景である。

 もちろん、目新しさや派手さに欠けるからって嫌いなわけじゃない。痩せても枯れても故郷の面影だ、慣れ親しんだ景観を悪くいうほど恩知らずな私ではない。

 だけど、どうしてだろうな。

 なんか、息苦しいんだよな。

 ドラマだの小説だので、田舎に暮らす若者の閉塞感、みたいなのが取り沙汰されてるのを見かけたことは何度かあるけれど、あれとはちょっと違う。将来がどうかはともかく、少なくとも今、私はこの町で暮らすことになんの不満もない。

 歯医者とか郵便局とか、生活に不便を感じないために必要な施設は一通りそろっているし、本屋やカラオケみたいな娯楽が得られる場所もないわけじゃない。がんもどきがおいしい豆腐屋もあれば、濡れ煎餅がおいしい米菓屋だってある。普段からそんなことを考えてるわけじゃないが、改めて俯瞰してみれば、それなりに魅力のある町のはずだ。

 ないのは、目新しさ。あと映画館。

 まあ、後者はこの際どうでもいい。欲しいけど、本筋からはズレる。というか都会でも珍しくないでしょ、映画館の無い町くらい。都会なんてろくに行ったことないから当てずっぽうだけどさ。

 ……気を取り直そう。

 物心ついてかれこれ十数年――たかだか十数年、されど十数年である。十年一昔、なんて言葉もあるくらいなのだから、この年月はそれなりに長い……はずだ。その間、私はこの、情景の境界線みたいな道を通り続けてきた。

 小学校の登下校路もこの道だった。

 見守り当番の父兄に見守られながら、低学年の頃は登校班の上級生に引きつれられ、高学年になったら年下の面倒を仕方なく見ながら学校へ向かった。帰り道は、杏香と二人で下らないことを大声で話しながら歩いた。一人の時は、つまらなさそうに下を向きながら帰った。

 往復で数えたって、千回は下るまい。

 そんな私だから、多分、言う資格がある。

 ここは昔から何も変わっちゃいない。

 もちろん、何一つ変化がない、なんて断言をするつもりはない。

 例えば――首から上を右に向けた私の視線の先には、両隣をシャッターの降りた平屋に挟まれたコインパーキングがある――あそこには、数年前まで古本屋が建っていた。父さんにとっては顔見知りだったらしいお爺さんが一人でやっていた店だ。

 鼻の横に大きなホクロのある潰れ顔の店主が亡くなって、後を継ぐ者もなく、権利や遺産がどういう経緯を辿ったのか想像する間もなく建物が潰され、あれよあれよという間に平べったい駐車場が出来上がっていた。

 古いものが無くなり、新しいものができた。

 気取った言い方をすれば、間違いなく町の歴史の一ページと呼ぶべき変貌である。

 しかし逆に言えば、この程度の変化が目立ってしまうのだ、私の町では。

 あれから少なくとも三年以上が経っているけれど、未だに両隣の、ガレージと見分けのつかないあばら家は健在だ。取り壊される様子はさらさらないし、逆に、シャッターが開いている状態も見たことがない。

 時計が止まっている。

 カレンダーの数字が書き換えられても、町の時間が動いていない。

 ――ああ、そっか。

 ふと、私は気が付いた。

 この感覚が、自分自身に重なるんだ。

 停滞。足踏み。空回り。

 私は一年で一歳年を取る。学年もそれに伴って一つずつ駒が進み、今年の四月からは高校三年生になる。人生の岐路だ。変化の時期、決断の季節。にもかかわらず、数年前から私は私に、何の成長も見出していない。そんなの他の人も同じだ、って言われるかもしれないけれど、私の場合、泥濘に足を取られているという自覚だけはハッキリ持っているだけに性質が悪い。

 前に行こうとしても、足が上がらない。

 どこに行けばいいのか分からない――どこにも行こうと思えない。あるいは、どこにも行ける気がしない。

 以前はこんな感じじゃなかったはずなんだ。

 熱血と無縁の性格は今に始まったことじゃないし、理屈っぽいのも考えすぎる癖も昔から私の持ち物ではあるが、それでも、やりたいことはあって、人生の目標っぽいものも漠然と抱いていた。

 だけどいつからか、沈滞の暗雲が目の前を覆って、ため息ばかり漏れて足に力が入らなくなった。

 私のそんなもどかしさを、代り映えしない町の在り方がそっくり鏡に映してくれているように思えてしまって、だから、嫌いじゃないはずの見晴らしをそこはかとなく疎ましく感じてしまうのだろう。

 ――きっかけに、心当たりがないわけじゃないが。

 それのせいにしたくない、とも思っている。

 めんどくさいねえ、我ながら。

「お前、どう思う?」

 左のつま先の前方を気楽に這いずる爬虫類に、私は前触れもなく尋ねてみた。

 そいつは振り返りもせず、ただ進み続けた。

「まあ、蛇には関係ないか」

 人間の悩みなんて、所詮人間だけの話だもんな。

 まあいいさ、それならそれで。

 聞いた私がアホだった、ってだけ。

 自分のセンチメンタリズムを、こともあろうに野生の変温動物へ擦り付けようとしたんだ、間抜けなのは私の方だ。

 今は悩むな。

 蛇に行先を委ねた行き当たりばったりにも程がある散歩の最中なんだから、現実の課題を捏ね回すのは後にしよう。

「あ~あ!」

 周りに人気がないのをいいことに、私は声を上げながら盛大にため息をついた。

 切り替え完了。

 再び、どうでもいい――少なくとも今だけは――考え事を切り捨てて、蛇を見落とさないことと周囲のパノラマだけに集中し、足を動かす。

 しばらくして、信号付きのとある交差点に差し掛かったところで、灰色の先導者は急に前進を止めた。

「あぶなっ」

 当然、私も立ち止まる。

「おいおい、急にブレーキかけないでよ。うっかり踏みつぶしたらどうすんの?」

 蛇は黙して語らない。

 彼はただ、右を向いていた。

 大方ただの気まぐれなのだろうけれど、この散歩中はとりあえず蛇に倣う、と決めている以上、私もそちらに目を向けざるを得ない。

 見えたのは、だだっ広い駐車スペースを有した背の低い建物。

 外見がベニヤ板に似ている安そうな建材の壁は白一色に塗装されているものの、随分長いこと風雨にさらされていたのだろう、黒ずみが目立って古めかしさとボロさの宣伝に一役買っている。横幅はさっき見かけた元古本屋の敷地の二倍くらい広く、すりガラスの窓が三つ並んだ正面の左端に押しボタン付きの自動ドアが備えられている。

「――ああ、ここは」

 雨どいを覆い隠すように据え付けられた看板は土台の情けなさに対して不相応なほどに大きく、周囲をぐるりと電飾が囲っていて主張だけは激しい。無論、風化の度合いは言うまでもない。

 赤い文字で描かれた屋号。その両脇を彩る、デフォルメされた犬と猫。

 ここは、町唯一のペットショップ。

「そういや、こんなところだったっけ」

 思えばこの辺りに来るのは久しぶりだ。

 二年前までは、毎週通った場所だったのに。

 

 

※    ※   ※

 

 

 それからすぐ、蛇は左へ曲がった。

 前述の通りそっちに広がっているのは田畑ばかりで、住宅はまばら。他に屋根が見えたとしたらそれは納屋かゴミ捨て場で、お客さんを呼ぶためのお店なんてものは皆無と言っても過言じゃない。

 絵に描いたような田舎、ってわけだ。

 私が歩いているのは、長閑で静かな、寒々とした田舎道。

 休耕中の、何もない田んぼの輪郭上。

 車一台がやっと通れるかどうかといった程度の細い道の、やっぱり左端を、蛇は雑草をかき分けるようにして滑っていく。

 うっかりすると、見失いかねない。

 ちょっとだけ気を引き締めながらついていく。

 ――はてさて、どこへ連れていかれるやら。

 あまり遠くへ連れていかれても困るな、と私は思った。

 さっきまで歩いていた境界線のような道をまっすぐ進み続けたことは何度だってあるが、左へ曲がってその先へ、というのはあまり経験がない。小学生の頃、社会の授業でフィールドワークっぽいことをやらされに来た記憶があるが、それっきり、私の行動圏はあの道の手前まで――この場合の手前とは市街地側という意味――に収まっている。

 というか、私に限らず、多くの地元民がそうなんじゃないかな。

 杏香だって同じだ。

 理由なんかわざわざ考えるまでもなく、単純に、人よりもトラクターの数の方が多いような田んぼのど真ん中に用がある奴はいない、というだけの話である。

 よっぽどのことがないと、そっちまで行こうとは思わない。

 例えばそう、蛇に案内されたから、とかでもない限り。

「ほどほどにしといてくれよ?」

 私は蛇に、一応、お願いだけはしておくことにした。

 まだこの近辺だったら問題はないが、ここから二十分も三十分もあぜ道を歩かされたりしたら、うっかりすると戻ってこれなくなるかもしれない。直進するだけならまっすぐ戻るだけで済むが、右へ左へ振り回されたりしようものならひとたまりもあるない。

 同じ町名であるというだけで、ここら一帯に対して私の土地勘はなんの役にも立たないのである。

 ――引き返す算段もしておかないといけないかもしれないな。

 何か面白いことに出会うまでこいつの尻尾を追っかけてやろう、なんて思いつきだけで見切り発車してしまったので、この散歩のおしまいをどこにするのかまったく考えていなかった。何となく、終点に相応しいタイミングは向こうから勝手に降ってくるような気がしていたのだ。

 だって、ついてこい、って言われたんだもの。

 行先に何かがあるのだと期待したって不思議じゃないだろう――一から十までお前の思い込みでしかないぞ、なんて指摘は、野暮だから引っ込めてもらいたい。承知の上で遊んでるんだ、私は。

 けどまあ。

 歩けど歩けど事件が起きない可能性はある――というかそっちの方が現実的――どこかで区切りは必要か。

 そうだなあ――と、私はスマホを引っ張り出して画面を点ける。

 ……神社を出てから、既に十五分ってところか。

 あと三十分したら切り上げることにしよう。そうすれば、蛇に付き合った時間は都合四十五分、帰る時間まで含めたら、一時間半の暇つぶしってことになる。

 ちょっと長いけど、まあ、こんなもんだろう。

 杏香のことだ、あのやり取りの後すぐに家を出て神社を目指す、なんて殊勝な真似はどうせしない。ひと眠り、という与太をまさか本気にはしないだろうけれど、「あ、こう言ってくるってことは急がなくていいな」みたいに勝手に解釈して、めいっぱい炬燵でぬくまってから出てくるに決まってる。

 もっとも、それでも一時間半は流石にかからないと思うので、おそらく、多少待ちぼうけを食らわせることにはなってしまいそうだが――そこはほら、あおいこ、ってことで。

「ま、そんなわけだから、なるべく早めに頼むよ」

 再び蛇にお願いしてみる。

 ちらり、と案内人が舌を出した。

サムズアップの替わり、と受け取っておく。

「じゃ、よろしく」

 その後しばらく、蛇は道なりに這い続けた。いちいち時計を確認していないから正確な数字は分からないが、きっと十分くらいだったと思う。

 蛇はペットショップの前と同様、急にピタリと停止した。

 二回目ということもあり踏んづけそうになることはなかった――そして、今回は先ほどよりも、停まった理由が分かりやすかった。

 道端に、分かりやすい目印があったからだ。

 それは祠だった。

 高さは、ちょうど鳩尾と同じくらい。私の身長は同世代の女子の平均からしても少しばかり低いので、成人男性なんかからするともっと下ってことになるのかな。祠としては、いささか小さめと思って良いはずだ。

 しかしサイズ感に対して造りは中々がっしりしている。薄っぺらい木箱に板切れで屋根を拵えただけ、みたいな雑なものじゃない。壁も、屋根も、積み木のような直方体を何個も寄せ合わせることで作られており、厚みや重さをそれなりに感じる。

 結構古いものなのだろう、ところどころ腐食しているのが見て取れる。が、それだってむしろ威厳の材料だ。長年の風雨に耐えながら人々を見守り続けた勲章と言ってもいい。木やニスの臭いが抜けきらない瑞々しさ満々の新品より、よほど風格があってありがたいじゃないか。含蓄がある、なんて表現もできるかもしれない。

 こんなところに、こんなものがあったなんて。

 全然知らなかった。

 興味を惹かれて屋根の下を覗き込むと同時に思い出す――いいや、私は知っている。この場所、この祠を、私は知っている。

 忘れていただけだ。

 さっきチラッと話題に出した、小学生の頃のフィールドワークごっこ。何の課題だったか忘れたけれど、地図を片手にこの辺りをウロウロしていたあの時に、私はこれを見つけている。

 そしてその記憶が正しければ――祠の中身を見た私は、ああやっぱり、と無言のままに頷いた。

 そこにはお地蔵さんや仏像みたいなものは置かれておらず、ただ、丸い石だけが収められている。

 あの時の私も、確かこれを見て、変なものが置いてあるなあ、と思ったのだった。

「……お前、ここを見せたかったの?」

 いつの間にか祠の隣に移動していた蛇に、私は訊いてみた。

 もちろん、応答なし。

 けど、何か言いたげにジッと私を見つめている。ってことは、あんまり間違ったことは言ってないってことなんだろうな。

「でもさ」

 そんな前提で、私は進める。

「拝むわけにはいかないよ。だってそんなことしたら、あの神社の神様に悪いじゃん」

 後で来るから、と言って初詣を保留にしたんだ。

 戻ってみたら既に他の神様に手を合わせた後でした、なんてことになったら、そりゃあ、あちらさんだって愉快じゃないだろう。天罰を食らわせるほど怒るとも思えないが、ヘソを曲げてお願いを聞いてくれない、なんてことはあるかもしれない。

 もっとも私みたいな平凡な小娘一匹の動向まで神様が監視しているかどうかなんて分かりゃしないが、天網恢恢疎にして漏らさず、というし、義理は通しておくに越したことはなかろう。

 ――先約があるんです。そっちを済ませてから、また来ます。

 祠の丸石に向かって、私は軽く頭を下げる。

 と、その時。

「何してるの?」

 急に、背後から声がかかった。

 驚いて振り返った先に居たのは、まっすぐな目をした女の子だった。

 年齢は十歳前後……だと思う。ダウンコートとニット帽で完全防寒仕様にコーディネートされているから今一つ外見から情報を得られないけれど、身長から察するに多分それくらい。

 丸っこい顔に、大きな瞳。帽子からはみ出した髪は艶々の濡羽色で、毛先が緩くうねりを描いている。

 表情は不愛想だが、素直そうな女の子だった。

 どっから来たんだ、この子。まるで気づかなかった。

「何してるの?」

 再びその子に尋ねられても、私はとっさに上手い返事が思いつけず、「特に何も」と口の中でもごもごするだけだった。

 情けない。

 こんな年少の女の子相手にビビるだなんて――いやでも、人影なんか全然見当たらないド田舎の道端でいきなり少女が生えてきたのだ、びっくりして舌がもつれるのも無理のない話じゃないか。

 少女は、目の前のしどろもどろな高校生を不審そうに眺めた後、思いついたように、

「いたずらしちゃ、だめなんだよ?」

 と、少し眉根を寄せながら言った。

 ……私がこの祠に良からぬちょっかいをかけたと疑っているのか? それは流石に不名誉が過ぎる。

「悪戯なんかしやしないよ。ちょっと見てただけ」

「なんで?」

「なんでって言われても……散歩の途中で見かけたから」

「べつに、見てもおもしろくないよ?」

「面白おかしくはないってだけで、興味深くはあるよ」

「ふーん」

 あ、どうでもよさそう。

 こういう幼い子との会話はどうも苦手だ。変なところに食いついてくるし、かと思えば急に冷めるし。子供は嫌いじゃないんだけど、相性が悪いといつも自覚させられる。

 もし妹でもいたら違ったのかな――ふと、私はそんなことを思った。

「ところで、君は? どこから来たの?」

「わたし?」

「そう、君」

「あっち」

 毛糸の手袋に包まれた小さな手が指したのは、町とは反対の、延々と田畑が続く方角であった。

 この辺りの土地を持っている農家の娘さんなのだろう。

「お母さんがね、これをもっていきなさい、って」

 コートのポケットから取り出されたのは手のひらサイズの――彼女の、ではなく私の手のひらと同じくらい――巾着袋だった。

「それは?」

「おもち」

「ああ……お供えものか」

「うん。へびがみ様に、って」

「へー。この祠、蛇神なんだ」

 丸石のご神体を見ただけではそれと気づけなかった。

 けどまあ、田んぼの脇、っていう場所はそれっぽい。蛇神って大抵は水の神様で、転じて豊穣の神って場合もある。どちらにせよ、水田を見守るに相応しい。

 ああ、なるほど。

 ――だからお前、私をここに連れて来たのか。お仲間のところに。

 だったら最初からそう言ってくれればいいのに。手を合わせる順番を譲るわけには行かないけど、相手が蛇神様だっていうならもっと他の、もうちょいましな挨拶を考えたさ。

 祠の影で雑草に身を隠しながら丸くなっている灰色の爬虫類に、私はため息交じりの眼差しを送った。

「あ」

「どうしたの?」

「へびさん」

 少女が指をさす。

 私の視線を追いかけて見つけたのか。

「めずらし」

「やっぱりこの辺でも珍しいんだ」

「うん。あんまり外じゃ見ない」

「山沿いの方に行ったらもっと居たりするのかな――っていうか君、蛇のこと怖がらないんだね」

「……? へびはこわくないよ?」

「それは私も知ってる。けど、君のお友達とかは、蛇のこと苦手だ、って子が多いんじゃないかな」

「……うん。そうみたい」

「でも、君はなんだか、慣れてるみたいだね」

「家にいるもん。ずっと」

「へえ……蛇、飼ってるんだ」

「わたしの家族」

 少女は頷いた。

 私はちょっと嬉しくなった。こんなところで、蛇に親しんでる人に会えるとは。

 爬虫類をペットにする人は、今やそこまで奇特なわけじゃないけれど、それでも犬や猫に比べると吹けば飛ぶような少数派だ。私も随分、白い目ってほどではないにしろ好奇の目で見られたものだ。

 だからこそ、この子が蛇のことを家族と呼んでくれたことが、他人事ながら、結構嬉しい。

「私とおそろいだね」

「……?」

「蛇が居たんだよ。私の家にも」

「そうなの!?」

 あどけない目を見開いて、少女が明るい顔になる。

 この子も、私と似たような感覚を常々抱いていたんだろうな。

「会いに行っていい?」

「ごめんね、今はもういないんだ」

「どうして――」

 少女はとっさにそう口走ったが、すぐにハッとなって、首を横に振る。

「なんでもない。ごめんなさい」

「いいよ。気にしてない」

 私はわざとらしく肩をすくめてみせ、

「蛇のこと、好きなんだね」

「うん、大好き」

「そっか。なら、よかった」

 言葉の裏で、遠い記憶が蘇った。

 ここじゃないどこか、今じゃない昔に、私は同じような会話をしたことがある。そのときは、私が少女の立場で、顔のはっきりしない知らない誰かが私の役だった。

 もしかしたら、いつか、今度はこの少女が私と同じことを言う日が来るのかもしれない。

 そのときは。

 ――そのときは、ちゃんと、お前が案内してやれよ?

 瞼を閉じた蛇の顔は、どこか、頼もしげに見えた。




スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 後編


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 目の前を蛇が横切った。
 一月四日の出来事である。
 どんよりと黒っぽい雲が朝から空を隠していたその日、私は、遅まきながら新年の参拝のため、家から歩いて二十分のところにある小さな神社を訪れていた。
 田舎の町はずれということもあり人気は少なく、森、とまでは行かないまでも林と呼ぶには差し支えない程度の木々に囲まれた境内は、太陽が昇り切らない午前十時のひんやりした空気と相まって、静謐という言葉をそのまま形にしたような、どこか厳かな雰囲気を醸し出している。
 三が日を避けたのは正解だった。
 鳥居をくぐった私は、まず、そう思った。
 この神社は小ぢんまりとしているものの歴史はそれなりに長いらしく、周辺の住人達に深く馴染まれ、親しまれている場所でもある。だから初詣の行先にここを選ぶ人が敷地の広さに見合わないほどに多い。普段は公園替わりに近所の子供が走り回っている以外に人影なんか見当たらないのだが、正月だけは例外だ。
 行列、行列、人の群れ。
 年が明ける前から一番乗りを期待して賽銭箱の前を陣取っている爺さん婆さん、使い捨てカイロを順番に手渡しながら眠そうな子供を励ましている家族連れ、制服姿でべったり寄り添う中学生カップル、指先を真っ赤にしながらそれでもスマホを手放さず隙あらば自撮りしようとする女子グループ――全部、いる。なんなら酔っ払いもいる。コンビニ袋を提げて安そうなカップ酒をあおりながら年越しを待っているおっさん、なんてのも、そう珍しい光景じゃない。
 悪いとは言わない。
 ああいう景色が初詣にはつきものだ。新年一発目のイベントではしゃぐ気持ちは否定しないし、それだけ多くの人に神様が慕われているのだと解釈すれば、素敵なことだと肯定できなくもない。
 けど、好きじゃない。
 人混みは嫌いだ。
 特に、賽銭を投げたり手を合わせたりしている最中に、知らない誰かと肩がぶつかったり後ろから人の波に押されたりするなんてまっぴらだ。今年一年どうぞよろしく――そんな挨拶を急かされながらしたくない。
 だから、四日。
 この日が、ここで初詣をするのにちょうどいい。
 それが、十七年間この町で生まれ育った私の結論である。
 父さんに言わせれば「捻くれてるなぁ、お前はもう少し理屈を捏ねないってことを覚えた方がいいんじゃないか」だそうだけれど、それは後々の課題ということにして、ひとまず私は現在の私の持論に従い、今日この日を初詣の実行日に選んだのだった。
 一人ではなく、友達と一緒に。
 杏香、という名のその友人は、幼稚園で出会った私の幼馴染である。
 小学校、中学校と同じ学び舎で過ごし、高校はそれぞれ別の進学先を選んだけれど、お互い地元を離れたわけでもないので今もよくつるんでいる。出不精かつ筆不精でとても付き合いが良いとは言えない私のことを定期的に構ってくれる、日陰者にはありがたい存在だ。今回の初詣も、二人で行こう、と提案したのは彼女の方だった。
 そんな杏香と、私は境内で待ち合わせをしていたのだけれど、時間ピッタリに到着したはずなのに彼女の姿が見当たらない
 ははーん、さては――スマホの画面を覗いてみると、『寝坊でーす☆』の一言と共に炬燵の写真が送られてきていた。
 怒りはしない。
 昔からこういう奴だ。
 私は参道の脇、手水場を囲う屋根の柱にもたれかかって、『おみくじ先に引いてるわ』と返信した。五秒で既読マークがつき、お雑煮の写真が無言で届けられた。
 なんだこいつ。
 ちょっとは焦りやがれ。
 寝過ごしたのは仕方ないし私も気にしちゃいないけれど、お雑煮は違うだろ、お雑煮は。
 おちょくられているのだろうか、と疑いつつ、『は?』とだけ返して反応を待たずスマホをポケットに仕舞おうとし――。
「……お?」
 そして、それに出くわした。
 私のつま先から十センチの位置をにょろにょろと移動する、灰色の蛇に。
「珍し。いるんだ、こんなところにも」
 と、思わず私は呟いた。
 野生の蛇に遭遇した女子高生のリアクションにしては薄すぎる、と思われるかもしれないけれど、残念ながら――というのが正しいか微妙だが――私には蛇に対する恐怖心や嫌悪感が、まったくといっていいほど存在しない。
 だって飼ってたことあるもん、蛇。
 怖いわけないじゃん。
 もちろん、多少驚きはするけれど。
 この辺りに蛇が出る、なんて目撃情報は聞いたことがなかったし、そもそも野良の蛇を見るのは初めてだ。
 好奇心は刺激される。
 私はスマホを左手に持ったまま、カメラは構えず目の前の蛇をジッと目線で追いかけた。
 うろうろ、ちょろちょろ。
 暢気に身をよじりながらそいつは私の足先を通過し――不意に体の動きを止めて、こちらを見た。
 鎌首をもたげて、振り向いて。
 ちろちろと舌をのぞかせながら、つぶらな瞳で、私を見た。
「……」
 私も、見つめ返した。
 目を逸らしたら負けな気がした。
 やがて蛇はぷい、とそっぽを向き、行進を再開する。
 よし、先に視線を外したのはお前の方だから私の勝ちな――とか思いながら私は蛇を見送ろうとしたのけれど、数メートルも動かないうちに、蛇は再び停止して、また、私の方を振り返った。
「なんだよ」
 用でもあるのか?
 尋ねても蛇は何も答えない。
 ……ふと、私はピンときた。
 根拠なんか何もない思い付き――いや、思い込みでしかないと分かってはいるが、きっとこうだ、という妙な確信があった。
「ひょっとして」
 ついてこい、って言ってるのか?
 私が訊くと、蛇はゆっくり瞬きをして、それから、やけに緩慢な動きで正面に向き直った。
 ……いいだろう。
 面白いじゃないか。
「付き合ってあげるよ」
 私は左手の親指でスマホを開き、杏香に向けて『ひと眠りしてからでいいよ』とメッセージを送った。
 待っていたかのように、蛇が動く。
 それを追いかけて、私も歩き出す。
 一月四日、午前十時六分。
 奇妙な散歩が、始まった。
※    ※   ※
 蛇はまっすぐ鳥居へと向かい、神社の外へとくり出していく。
 まだ参拝を済ませていないのに賽銭箱へ背を向けるのは若干気が引けたけれど、ついていくと決めたのだからそこは割り切るしかない。
 私は蛇の尻尾に導かれ、一旦、境内を後にする――また後で来ます、と心の中で神様に詫びを入れながら。
 鳥居の直前は階段になっていて、緩やかな三十段ほどの石段が、日々、参拝に訪れるご老人の足腰に大いなる試練を与えている。蛇は迷わずそこを下って行き、私も続いて、降りていく。
 引きこもり予備軍の自覚があるとはいえ私もティーンエイジャーの端くれ、この程度の段差に苦労することはなく、あっさり一番下までたどり着いた。
 階段の真ん前には片道二車線の道路が横たわっており、まばらな感覚で車が視界を通り過ぎていく。普段、この道はトラックが多く走っているのだけれど、まだ正月ということもあってか、見かけるのは乗用車ばかり。
 タイヤがアスファルトを擦り、車体が風を切る。神社の敷地内では絶対耳にしないこの音が聞こえると、なんていうか、下界に降りてきた、って感じがする。この感覚は、嫌いじゃない。
 蛇は左へ曲がり、歩道の左端を一定の速度で進む。
 コートのポケットに手を突っ込んだまま、のんびり歩いて後を追う。
 今、私の視界の左手には神社の林がある。もう少し進めば木々が途切れ、田んぼや畑が現れるだろう。住居は少なく、道路もあぜ道に毛が生えたような細い道しかなく、遠くの方の川までよく見通せる。
 田舎の景色。それが、左側。
 翻って右手には、道路沿いということもあって様々なお店が立ち並ぶ。古着屋、畳屋、釣具店。昔からこの町に暮らす人々が営む古い店に挟まれて、時折、コンビニやドラッグストアなどのチェーン店が目立つ看板をギラギラさせている。櫛の歯のように隙間を開けながら軒を連ねるそれらの向こう側は住宅街。大きなマンションはなく、瓦屋根の一軒家ばかり。
 町の風景。それが、右側。
 どっちを見ても、退屈な情景である。
 もちろん、目新しさや派手さに欠けるからって嫌いなわけじゃない。痩せても枯れても故郷の面影だ、慣れ親しんだ景観を悪くいうほど恩知らずな私ではない。
 だけど、どうしてだろうな。
 なんか、息苦しいんだよな。
 ドラマだの小説だので、田舎に暮らす若者の閉塞感、みたいなのが取り沙汰されてるのを見かけたことは何度かあるけれど、あれとはちょっと違う。将来がどうかはともかく、少なくとも今、私はこの町で暮らすことになんの不満もない。
 歯医者とか郵便局とか、生活に不便を感じないために必要な施設は一通りそろっているし、本屋やカラオケみたいな娯楽が得られる場所もないわけじゃない。がんもどきがおいしい豆腐屋もあれば、濡れ煎餅がおいしい米菓屋だってある。普段からそんなことを考えてるわけじゃないが、改めて俯瞰してみれば、それなりに魅力のある町のはずだ。
 ないのは、目新しさ。あと映画館。
 まあ、後者はこの際どうでもいい。欲しいけど、本筋からはズレる。というか都会でも珍しくないでしょ、映画館の無い町くらい。都会なんてろくに行ったことないから当てずっぽうだけどさ。
 ……気を取り直そう。
 物心ついてかれこれ十数年――たかだか十数年、されど十数年である。十年一昔、なんて言葉もあるくらいなのだから、この年月はそれなりに長い……はずだ。その間、私はこの、情景の境界線みたいな道を通り続けてきた。
 小学校の登下校路もこの道だった。
 見守り当番の父兄に見守られながら、低学年の頃は登校班の上級生に引きつれられ、高学年になったら年下の面倒を仕方なく見ながら学校へ向かった。帰り道は、杏香と二人で下らないことを大声で話しながら歩いた。一人の時は、つまらなさそうに下を向きながら帰った。
 往復で数えたって、千回は下るまい。
 そんな私だから、多分、言う資格がある。
 ここは昔から何も変わっちゃいない。
 もちろん、何一つ変化がない、なんて断言をするつもりはない。
 例えば――首から上を右に向けた私の視線の先には、両隣をシャッターの降りた平屋に挟まれたコインパーキングがある――あそこには、数年前まで古本屋が建っていた。父さんにとっては顔見知りだったらしいお爺さんが一人でやっていた店だ。
 鼻の横に大きなホクロのある潰れ顔の店主が亡くなって、後を継ぐ者もなく、権利や遺産がどういう経緯を辿ったのか想像する間もなく建物が潰され、あれよあれよという間に平べったい駐車場が出来上がっていた。
 古いものが無くなり、新しいものができた。
 気取った言い方をすれば、間違いなく町の歴史の一ページと呼ぶべき変貌である。
 しかし逆に言えば、この程度の変化が目立ってしまうのだ、私の町では。
 あれから少なくとも三年以上が経っているけれど、未だに両隣の、ガレージと見分けのつかないあばら家は健在だ。取り壊される様子はさらさらないし、逆に、シャッターが開いている状態も見たことがない。
 時計が止まっている。
 カレンダーの数字が書き換えられても、町の時間が動いていない。
 ――ああ、そっか。
 ふと、私は気が付いた。
 この感覚が、自分自身に重なるんだ。
 停滞。足踏み。空回り。
 私は一年で一歳年を取る。学年もそれに伴って一つずつ駒が進み、今年の四月からは高校三年生になる。人生の岐路だ。変化の時期、決断の季節。にもかかわらず、数年前から私は私に、何の成長も見出していない。そんなの他の人も同じだ、って言われるかもしれないけれど、私の場合、泥濘に足を取られているという自覚だけはハッキリ持っているだけに性質が悪い。
 前に行こうとしても、足が上がらない。
 どこに行けばいいのか分からない――どこにも行こうと思えない。あるいは、どこにも行ける気がしない。
 以前はこんな感じじゃなかったはずなんだ。
 熱血と無縁の性格は今に始まったことじゃないし、理屈っぽいのも考えすぎる癖も昔から私の持ち物ではあるが、それでも、やりたいことはあって、人生の目標っぽいものも漠然と抱いていた。
 だけどいつからか、沈滞の暗雲が目の前を覆って、ため息ばかり漏れて足に力が入らなくなった。
 私のそんなもどかしさを、代り映えしない町の在り方がそっくり鏡に映してくれているように思えてしまって、だから、嫌いじゃないはずの見晴らしをそこはかとなく疎ましく感じてしまうのだろう。
 ――きっかけに、心当たりがないわけじゃないが。
 それのせいにしたくない、とも思っている。
 めんどくさいねえ、我ながら。
「お前、どう思う?」
 左のつま先の前方を気楽に這いずる爬虫類に、私は前触れもなく尋ねてみた。
 そいつは振り返りもせず、ただ進み続けた。
「まあ、蛇には関係ないか」
 人間の悩みなんて、所詮人間だけの話だもんな。
 まあいいさ、それならそれで。
 聞いた私がアホだった、ってだけ。
 自分のセンチメンタリズムを、こともあろうに野生の変温動物へ擦り付けようとしたんだ、間抜けなのは私の方だ。
 今は悩むな。
 蛇に行先を委ねた行き当たりばったりにも程がある散歩の最中なんだから、現実の課題を捏ね回すのは後にしよう。
「あ~あ!」
 周りに人気がないのをいいことに、私は声を上げながら盛大にため息をついた。
 切り替え完了。
 再び、どうでもいい――少なくとも今だけは――考え事を切り捨てて、蛇を見落とさないことと周囲のパノラマだけに集中し、足を動かす。
 しばらくして、信号付きのとある交差点に差し掛かったところで、灰色の先導者は急に前進を止めた。
「あぶなっ」
 当然、私も立ち止まる。
「おいおい、急にブレーキかけないでよ。うっかり踏みつぶしたらどうすんの?」
 蛇は黙して語らない。
 彼はただ、右を向いていた。
 大方ただの気まぐれなのだろうけれど、この散歩中はとりあえず蛇に倣う、と決めている以上、私もそちらに目を向けざるを得ない。
 見えたのは、だだっ広い駐車スペースを有した背の低い建物。
 外見がベニヤ板に似ている安そうな建材の壁は白一色に塗装されているものの、随分長いこと風雨にさらされていたのだろう、黒ずみが目立って古めかしさとボロさの宣伝に一役買っている。横幅はさっき見かけた元古本屋の敷地の二倍くらい広く、すりガラスの窓が三つ並んだ正面の左端に押しボタン付きの自動ドアが備えられている。
「――ああ、ここは」
 雨どいを覆い隠すように据え付けられた看板は土台の情けなさに対して不相応なほどに大きく、周囲をぐるりと電飾が囲っていて主張だけは激しい。無論、風化の度合いは言うまでもない。
 赤い文字で描かれた屋号。その両脇を彩る、デフォルメされた犬と猫。
 ここは、町唯一のペットショップ。
「そういや、こんなところだったっけ」
 思えばこの辺りに来るのは久しぶりだ。
 二年前までは、毎週通った場所だったのに。
※    ※   ※
 それからすぐ、蛇は左へ曲がった。
 前述の通りそっちに広がっているのは田畑ばかりで、住宅はまばら。他に屋根が見えたとしたらそれは納屋かゴミ捨て場で、お客さんを呼ぶためのお店なんてものは皆無と言っても過言じゃない。
 絵に描いたような田舎、ってわけだ。
 私が歩いているのは、長閑で静かな、寒々とした田舎道。
 休耕中の、何もない田んぼの輪郭上。
 車一台がやっと通れるかどうかといった程度の細い道の、やっぱり左端を、蛇は雑草をかき分けるようにして滑っていく。
 うっかりすると、見失いかねない。
 ちょっとだけ気を引き締めながらついていく。
 ――はてさて、どこへ連れていかれるやら。
 あまり遠くへ連れていかれても困るな、と私は思った。
 さっきまで歩いていた境界線のような道をまっすぐ進み続けたことは何度だってあるが、左へ曲がってその先へ、というのはあまり経験がない。小学生の頃、社会の授業でフィールドワークっぽいことをやらされに来た記憶があるが、それっきり、私の行動圏はあの道の手前まで――この場合の手前とは市街地側という意味――に収まっている。
 というか、私に限らず、多くの地元民がそうなんじゃないかな。
 杏香だって同じだ。
 理由なんかわざわざ考えるまでもなく、単純に、人よりもトラクターの数の方が多いような田んぼのど真ん中に用がある奴はいない、というだけの話である。
 よっぽどのことがないと、そっちまで行こうとは思わない。
 例えばそう、蛇に案内されたから、とかでもない限り。
「ほどほどにしといてくれよ?」
 私は蛇に、一応、お願いだけはしておくことにした。
 まだこの近辺だったら問題はないが、ここから二十分も三十分もあぜ道を歩かされたりしたら、うっかりすると戻ってこれなくなるかもしれない。直進するだけならまっすぐ戻るだけで済むが、右へ左へ振り回されたりしようものならひとたまりもあるない。
 同じ町名であるというだけで、ここら一帯に対して私の土地勘はなんの役にも立たないのである。
 ――引き返す算段もしておかないといけないかもしれないな。
 何か面白いことに出会うまでこいつの尻尾を追っかけてやろう、なんて思いつきだけで見切り発車してしまったので、この散歩のおしまいをどこにするのかまったく考えていなかった。何となく、終点に相応しいタイミングは向こうから勝手に降ってくるような気がしていたのだ。
 だって、ついてこい、って言われたんだもの。
 行先に何かがあるのだと期待したって不思議じゃないだろう――一から十までお前の思い込みでしかないぞ、なんて指摘は、野暮だから引っ込めてもらいたい。承知の上で遊んでるんだ、私は。
 けどまあ。
 歩けど歩けど事件が起きない可能性はある――というかそっちの方が現実的――どこかで区切りは必要か。
 そうだなあ――と、私はスマホを引っ張り出して画面を点ける。
 ……神社を出てから、既に十五分ってところか。
 あと三十分したら切り上げることにしよう。そうすれば、蛇に付き合った時間は都合四十五分、帰る時間まで含めたら、一時間半の暇つぶしってことになる。
 ちょっと長いけど、まあ、こんなもんだろう。
 杏香のことだ、あのやり取りの後すぐに家を出て神社を目指す、なんて殊勝な真似はどうせしない。ひと眠り、という与太をまさか本気にはしないだろうけれど、「あ、こう言ってくるってことは急がなくていいな」みたいに勝手に解釈して、めいっぱい炬燵でぬくまってから出てくるに決まってる。
 もっとも、それでも一時間半は流石にかからないと思うので、おそらく、多少待ちぼうけを食らわせることにはなってしまいそうだが――そこはほら、あおいこ、ってことで。
「ま、そんなわけだから、なるべく早めに頼むよ」
 再び蛇にお願いしてみる。
 ちらり、と案内人が舌を出した。
サムズアップの替わり、と受け取っておく。
「じゃ、よろしく」
 その後しばらく、蛇は道なりに這い続けた。いちいち時計を確認していないから正確な数字は分からないが、きっと十分くらいだったと思う。
 蛇はペットショップの前と同様、急にピタリと停止した。
 二回目ということもあり踏んづけそうになることはなかった――そして、今回は先ほどよりも、停まった理由が分かりやすかった。
 道端に、分かりやすい目印があったからだ。
 それは祠だった。
 高さは、ちょうど鳩尾と同じくらい。私の身長は同世代の女子の平均からしても少しばかり低いので、成人男性なんかからするともっと下ってことになるのかな。祠としては、いささか小さめと思って良いはずだ。
 しかしサイズ感に対して造りは中々がっしりしている。薄っぺらい木箱に板切れで屋根を拵えただけ、みたいな雑なものじゃない。壁も、屋根も、積み木のような直方体を何個も寄せ合わせることで作られており、厚みや重さをそれなりに感じる。
 結構古いものなのだろう、ところどころ腐食しているのが見て取れる。が、それだってむしろ威厳の材料だ。長年の風雨に耐えながら人々を見守り続けた勲章と言ってもいい。木やニスの臭いが抜けきらない瑞々しさ満々の新品より、よほど風格があってありがたいじゃないか。含蓄がある、なんて表現もできるかもしれない。
 こんなところに、こんなものがあったなんて。
 全然知らなかった。
 興味を惹かれて屋根の下を覗き込むと同時に思い出す――いいや、私は知っている。この場所、この祠を、私は知っている。
 忘れていただけだ。
 さっきチラッと話題に出した、小学生の頃のフィールドワークごっこ。何の課題だったか忘れたけれど、地図を片手にこの辺りをウロウロしていたあの時に、私はこれを見つけている。
 そしてその記憶が正しければ――祠の中身を見た私は、ああやっぱり、と無言のままに頷いた。
 そこにはお地蔵さんや仏像みたいなものは置かれておらず、ただ、丸い石だけが収められている。
 あの時の私も、確かこれを見て、変なものが置いてあるなあ、と思ったのだった。
「……お前、ここを見せたかったの?」
 いつの間にか祠の隣に移動していた蛇に、私は訊いてみた。
 もちろん、応答なし。
 けど、何か言いたげにジッと私を見つめている。ってことは、あんまり間違ったことは言ってないってことなんだろうな。
「でもさ」
 そんな前提で、私は進める。
「拝むわけにはいかないよ。だってそんなことしたら、あの神社の神様に悪いじゃん」
 後で来るから、と言って初詣を保留にしたんだ。
 戻ってみたら既に他の神様に手を合わせた後でした、なんてことになったら、そりゃあ、あちらさんだって愉快じゃないだろう。天罰を食らわせるほど怒るとも思えないが、ヘソを曲げてお願いを聞いてくれない、なんてことはあるかもしれない。
 もっとも私みたいな平凡な小娘一匹の動向まで神様が監視しているかどうかなんて分かりゃしないが、天網恢恢疎にして漏らさず、というし、義理は通しておくに越したことはなかろう。
 ――先約があるんです。そっちを済ませてから、また来ます。
 祠の丸石に向かって、私は軽く頭を下げる。
 と、その時。
「何してるの?」
 急に、背後から声がかかった。
 驚いて振り返った先に居たのは、まっすぐな目をした女の子だった。
 年齢は十歳前後……だと思う。ダウンコートとニット帽で完全防寒仕様にコーディネートされているから今一つ外見から情報を得られないけれど、身長から察するに多分それくらい。
 丸っこい顔に、大きな瞳。帽子からはみ出した髪は艶々の濡羽色で、毛先が緩くうねりを描いている。
 表情は不愛想だが、素直そうな女の子だった。
 どっから来たんだ、この子。まるで気づかなかった。
「何してるの?」
 再びその子に尋ねられても、私はとっさに上手い返事が思いつけず、「特に何も」と口の中でもごもごするだけだった。
 情けない。
 こんな年少の女の子相手にビビるだなんて――いやでも、人影なんか全然見当たらないド田舎の道端でいきなり少女が生えてきたのだ、びっくりして舌がもつれるのも無理のない話じゃないか。
 少女は、目の前のしどろもどろな高校生を不審そうに眺めた後、思いついたように、
「いたずらしちゃ、だめなんだよ?」
 と、少し眉根を寄せながら言った。
 ……私がこの祠に良からぬちょっかいをかけたと疑っているのか? それは流石に不名誉が過ぎる。
「悪戯なんかしやしないよ。ちょっと見てただけ」
「なんで?」
「なんでって言われても……散歩の途中で見かけたから」
「べつに、見てもおもしろくないよ?」
「面白おかしくはないってだけで、興味深くはあるよ」
「ふーん」
 あ、どうでもよさそう。
 こういう幼い子との会話はどうも苦手だ。変なところに食いついてくるし、かと思えば急に冷めるし。子供は嫌いじゃないんだけど、相性が悪いといつも自覚させられる。
 もし妹でもいたら違ったのかな――ふと、私はそんなことを思った。
「ところで、君は? どこから来たの?」
「わたし?」
「そう、君」
「あっち」
 毛糸の手袋に包まれた小さな手が指したのは、町とは反対の、延々と田畑が続く方角であった。
 この辺りの土地を持っている農家の娘さんなのだろう。
「お母さんがね、これをもっていきなさい、って」
 コートのポケットから取り出されたのは手のひらサイズの――彼女の、ではなく私の手のひらと同じくらい――巾着袋だった。
「それは?」
「おもち」
「ああ……お供えものか」
「うん。へびがみ様に、って」
「へー。この祠、蛇神なんだ」
 丸石のご神体を見ただけではそれと気づけなかった。
 けどまあ、田んぼの脇、っていう場所はそれっぽい。蛇神って大抵は水の神様で、転じて豊穣の神って場合もある。どちらにせよ、水田を見守るに相応しい。
 ああ、なるほど。
 ――だからお前、私をここに連れて来たのか。お仲間のところに。
 だったら最初からそう言ってくれればいいのに。手を合わせる順番を譲るわけには行かないけど、相手が蛇神様だっていうならもっと他の、もうちょいましな挨拶を考えたさ。
 祠の影で雑草に身を隠しながら丸くなっている灰色の爬虫類に、私はため息交じりの眼差しを送った。
「あ」
「どうしたの?」
「へびさん」
 少女が指をさす。
 私の視線を追いかけて見つけたのか。
「めずらし」
「やっぱりこの辺でも珍しいんだ」
「うん。あんまり外じゃ見ない」
「山沿いの方に行ったらもっと居たりするのかな――っていうか君、蛇のこと怖がらないんだね」
「……? へびはこわくないよ?」
「それは私も知ってる。けど、君のお友達とかは、蛇のこと苦手だ、って子が多いんじゃないかな」
「……うん。そうみたい」
「でも、君はなんだか、慣れてるみたいだね」
「家にいるもん。ずっと」
「へえ……蛇、飼ってるんだ」
「わたしの家族」
 少女は頷いた。
 私はちょっと嬉しくなった。こんなところで、蛇に親しんでる人に会えるとは。
 爬虫類をペットにする人は、今やそこまで奇特なわけじゃないけれど、それでも犬や猫に比べると吹けば飛ぶような少数派だ。私も随分、白い目ってほどではないにしろ好奇の目で見られたものだ。
 だからこそ、この子が蛇のことを家族と呼んでくれたことが、他人事ながら、結構嬉しい。
「私とおそろいだね」
「……?」
「蛇が居たんだよ。私の家にも」
「そうなの!?」
 あどけない目を見開いて、少女が明るい顔になる。
 この子も、私と似たような感覚を常々抱いていたんだろうな。
「会いに行っていい?」
「ごめんね、今はもういないんだ」
「どうして――」
 少女はとっさにそう口走ったが、すぐにハッとなって、首を横に振る。
「なんでもない。ごめんなさい」
「いいよ。気にしてない」
 私はわざとらしく肩をすくめてみせ、
「蛇のこと、好きなんだね」
「うん、大好き」
「そっか。なら、よかった」
 言葉の裏で、遠い記憶が蘇った。
 ここじゃないどこか、今じゃない昔に、私は同じような会話をしたことがある。そのときは、私が少女の立場で、顔のはっきりしない知らない誰かが私の役だった。
 もしかしたら、いつか、今度はこの少女が私と同じことを言う日が来るのかもしれない。
 そのときは。
 ――そのときは、ちゃんと、お前が案内してやれよ?
 瞼を閉じた蛇の顔は、どこか、頼もしげに見えた。