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 この町で有名なパン屋といえば、誰もが口を揃えて同じ答えを言うだろう。違う答えを言うのは捻くれ者だけに違いない。
「ウィライト」というのがパン屋の名前だった。評判が良い理由は幾つもあるが、そのうちの一つが健気な店主の存在感だろう。まだ年齢は十七歳ながら、天性の接客術を持っている。店内で食事をして帰れば、幸せな気分に包まれる。心が温かくなる。まるで魔法にかけられたかのように。
 砂の魔女、というのが店主の通名だ。お客からはよく魔女さんと呼びかけられている。他にスタッフはおらず、朝四時に起きてパンを焼き、夜二十二時に店を閉めて仕込みをする生活を毎日続けている。お客の内の誰かから、そんな生活をしていたら疲れないのかと問われた日がある。すると彼女は言う。
 ――パン屋を開くの、ずっと夢だったので!
 生活のために仕方なくとか、お金のためではない。単純な、真心。真面目で誠実で、お金に無頓着(むとんちゃく)。その心が、今日もウィライトを繁盛させているのだろう。あまりにも忙しい日はお客が手伝うほど彼女は好かれていた。
 唯一砂の魔女が落ち着ける時間といえば、昼の十三時だ。この時間は閑散(かんさん)としていて通り道にも人は少なく、仕込みも済んで魔女はカウンターに頬杖をついているか、ウトウトしている日も多い。
 さて、そんな魔女の出で立ちだが、店の中に入ってみよう。
 まず扉から入って聞こえてくるのは鈴の音。耳に優しい音だ。次にパンの良い香り。これは外にいても香って来るが、中に入るとより一層空腹を刺激するのだ。まずその二つを感じた後、ようやく店主がお目見えになる。
「いらっしゃいませ! あ、ジュキレさん!」
 身長はどれくらいだろうか、一六〇前後くらいだろう。華奢(きゃしゃ)な体型は時折ジュキレのような年齢の紳士に心配される。ちゃんと食べているか、寝ているか。ジュキレも最初目にした時、栄養失調を疑ってしまった。
 しかし元気な姿を見ているといつかは杞憂(きゆう)だったと皆気付くのだ。
 緑色の麻エプロンは膝元まで垂れていて、ちょうど脇腹の位置に左右二つの大きめなポケットがある。中に何か入っているのだろう、やや膨らんでいた。エプロンの後ろに見えるのは白いナイロン製のシャツで、この時期でも店内が暖かいからと半袖だった。店の中央奥にある暖炉のおかげだ。
 シンプルなデザインのスカートは黒く可愛げがあり、エプロンの高さまで靴下を履いている。(訂正、靴下ではなくハイソックスというらしい。若者の流行りには疎くて困る)
「今日もお仕事なんですねー、大変です」
 魔女はジュキレの手にしている(かばん)を見てすぐに気付いた。それに服装もまさにそう。黒いコートに役人のような引き締まったシャツ。革靴を履き、黒ぶちの眼鏡をする姿は紛れもなく仕事着だった。
「お互い様ですよ、魔女さん」
 狙い通り、十三時の店内は空いていた。
 広さは控え目のウィライトは、向かって左側が売り場。右側が食事場だ。席は六つしかなく、椅子の数も一席につき二つだ。そのうちの一つに若い男性が座っていた。いつもなら隣に座って話でもするところだったが、今日は仕事の日だ。彼は若い男性から少し離れた席に座った。
 鞄の中から原稿用紙と筆ペンを取り出したジュキレは、その場に仕事用具を残して売り場に向かう。
「魔女さん、ええっと……アレはありますか」
 不甲斐ない。いつも頼んでいる商品だというのに、ど忘れをしてしまった。
「ありますよ! バターポテトドーナッツですよね。それと生チョコのパイ!」
「それです。すみません、それを二ついただけますか」
「あれ、今日はコーヒー、大丈夫ですか?」
 仕事の日は決まってコーヒーを飲む。ジュキレはそれが仕事開始の合図にしていた。だから仕事以外の日にコーヒーは飲まないのだ。
「申し訳ない。コーヒーももらえますか」
 単に忘れてしまっていた。
 注文を受け取った魔女はニコっと笑いながら店内にあるトレーとトングを持ってバターポテトドーナッツとパイを持ってカウンターに戻ってきた。それから奥に引っ込み、コーヒーを淹れる様子が透明ガラス越しによく見える。
 少し経てばコーヒーの独特な香りが立ち込めてきて、彼女は戻って来た。
 会計を済ませてトレーを持ったジュキレは自身の席に戻ったが、後ろから気配を感じてみてみれば魔女がついてきていた。目が合うと、魔女はいつもの笑みを浮かべ何も言わない。
 席に座り、深く腰を背もたれに預ける。すると、魔女は対面の席に座ったのだ。
 これはどうしたものか、ジュキレは悩んだ。今まで滅多にない。あまりにも退屈過ぎたのだろうか、と考えた矢先に魔女の表情は笑顔から曇り顔になった。
「ジュキレさん。マーガレットさんから聞きました。その、記憶疾病(きおくしっぺい)なんですよね」
 魔女は笑みを浮かべていたが、哀しさを心に宿しているのまでは隠しきれていなかった。
 記憶疾病とは、文字通り病である。脳の働きが極端に弱くなり、末期になると言葉を発せなくなる。身体を一切動かせなくなり、自分が生きているのか死んでいるのかも分からない状態になるのだ。薬はあるが、進行を遅らせているだけに過ぎない。
 治療法は存在しない。日に日に記憶が抜け落ちていく恐怖に抗い、いずれは恐怖という感情すら忘れる。愛する人に、愛しているとあと何度言えるだろうか。
「だから、来られなくなるまで色々ジュキレさんとお話がしたくて。ごめんなさい、仕事の邪魔でしたか?」
「いえ、いいんです。なんの話をしましょうか、魔女さん」
「今書いてる物語のお話がいいです!」
 彼女は即答した。
 小説家のジュキレは、全盛期と呼ばれる頃は人気作家だった。本を出せば人伝いに売れていき、書店に行列ができるほど国民的作家だ。ちょうど二十台後半から四十台前半まで全盛期は続いた。それから少しずつ勢いは落ち始め、次の世代へと小説家という大海の(かじ)を新人たちに任せたのだ。
「今はどんなお話を書いてるんですか?」
 興味深そうに魔女は訊いてきた。
「人と怪物の繋がりを書いた小説です。種族が異なっていても、文化が違っても。互いに家族や愛する人がいる。そこだけは同じなんです」
「じゃあ、主人公は平和のために動くんでしょうか?」
「いえ、逆です。主人公はむしろ怪物を皆殺しにしようとするんです。とある国の指揮官で、周囲の反対を押し切って多くの罪を犯します」
 ジュキレはその小説と、自分の人生を重ねていた。
「ある時、そんな主人公が敵の本拠地に連れ込まれるんです。そこで差別していた怪物と恋に落ち、成長していく物語。年寄りらしい、説教くさい小説になる予定です」
「メチャクチャ面白そうじゃないですか! それに、昨今の時代背景も相まって見る人の心を刺激する素敵な物語だと思います!」
 ジュキレは、ありがとうとだけ口にしてコーヒーを味わった。
 ありがとう、美味しい。
「今日は何時までいますか? 閉店までいてくれてもいいんですよ」
「それは良くない。お店の売り上げに私は貢献(こうけん)できませんから」
 口にした途端、ジュキレは罪の意識に苛まれた。魔女がどうして一緒に居たいのか、そこまで考えられなかったからである。言葉を間違えたのだ。魔女は売り上げを気にするような店主ではない。人と人の幸せが、彼女にとって生きる(かて)だ。
 だが魔女は、切なげに笑うのだった。
「ジュキレさん、教えてください。私はすごく寂しいんです。大切なお客さんをいつか失ってしまうのが。どうやって乗り越えればいいんでしょうか」
 人気のパン屋、みんなから愛される店主にも弱点はある。
 彼がいなくなるのは今日や一週間後の話ではない。数年後だ。記憶疾病は時間をかけて人を殺してしまうから。
 昔が懐かしいと思った。彼も昔は、両親の死に対して異様なほど怖がったものだ。まだ幼い頃母親とお風呂に入って、ふと怖くなった。いつかは母は死んでしまう。父も死んでしまう。そうなれば二度と話せないし、抱きしめてももらえない。
 酷い時は恐怖症とも呼べる段階まで上り詰め、夜も眠れない事態にまで(おちい)ったのだ。魔女くらいの年齢なら、まだ親しい人の死が怖いと思えても仕方がない。それどころか、感受性の高いだろう彼女は自分よりもひどく怯えているかもしれないとジュキレは思った。
 どうやって大切な人の喪失を克服するか。


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 この町で有名なパン屋といえば、誰もが口を揃えて同じ答えを言うだろう。違う答えを言うのは捻くれ者だけに違いない。
「ウィライト」というのがパン屋の名前だった。評判が良い理由は幾つもあるが、そのうちの一つが健気な店主の存在感だろう。まだ年齢は十七歳ながら、天性の接客術を持っている。店内で食事をして帰れば、幸せな気分に包まれる。心が温かくなる。まるで魔法にかけられたかのように。
 砂の魔女、というのが店主の通名だ。お客からはよく魔女さんと呼びかけられている。他にスタッフはおらず、朝四時に起きてパンを焼き、夜二十二時に店を閉めて仕込みをする生活を毎日続けている。お客の内の誰かから、そんな生活をしていたら疲れないのかと問われた日がある。すると彼女は言う。
 ――パン屋を開くの、ずっと夢だったので!
 生活のために仕方なくとか、お金のためではない。単純な、真心。真面目で誠実で、お金に無頓着《むとんちゃく》。その心が、今日もウィライトを繁盛させているのだろう。あまりにも忙しい日はお客が手伝うほど彼女は好かれていた。
 唯一砂の魔女が落ち着ける時間といえば、昼の十三時だ。この時間は閑散《かんさん》としていて通り道にも人は少なく、仕込みも済んで魔女はカウンターに頬杖をついているか、ウトウトしている日も多い。
 さて、そんな魔女の出で立ちだが、店の中に入ってみよう。
 まず扉から入って聞こえてくるのは鈴の音。耳に優しい音だ。次にパンの良い香り。これは外にいても香って来るが、中に入るとより一層空腹を刺激するのだ。まずその二つを感じた後、ようやく店主がお目見えになる。
「いらっしゃいませ! あ、ジュキレさん!」
 身長はどれくらいだろうか、一六〇前後くらいだろう。華奢《きゃしゃ》な体型は時折ジュキレのような年齢の紳士に心配される。ちゃんと食べているか、寝ているか。ジュキレも最初目にした時、栄養失調を疑ってしまった。
 しかし元気な姿を見ているといつかは杞憂《きゆう》だったと皆気付くのだ。
 緑色の麻エプロンは膝元まで垂れていて、ちょうど脇腹の位置に左右二つの大きめなポケットがある。中に何か入っているのだろう、やや膨らんでいた。エプロンの後ろに見えるのは白いナイロン製のシャツで、この時期でも店内が暖かいからと半袖だった。店の中央奥にある暖炉のおかげだ。
 シンプルなデザインのスカートは黒く可愛げがあり、エプロンの高さまで靴下を履いている。(訂正、靴下ではなくハイソックスというらしい。若者の流行りには疎くて困る)
「今日もお仕事なんですねー、大変です」
 魔女はジュキレの手にしている鞄《かばん》を見てすぐに気付いた。それに服装もまさにそう。黒いコートに役人のような引き締まったシャツ。革靴を履き、黒ぶちの眼鏡をする姿は紛れもなく仕事着だった。
「お互い様ですよ、魔女さん」
 狙い通り、十三時の店内は空いていた。
 広さは控え目のウィライトは、向かって左側が売り場。右側が食事場だ。席は六つしかなく、椅子の数も一席につき二つだ。そのうちの一つに若い男性が座っていた。いつもなら隣に座って話でもするところだったが、今日は仕事の日だ。彼は若い男性から少し離れた席に座った。
 鞄の中から原稿用紙と筆ペンを取り出したジュキレは、その場に仕事用具を残して売り場に向かう。
「魔女さん、ええっと……アレはありますか」
 不甲斐ない。いつも頼んでいる商品だというのに、ど忘れをしてしまった。
「ありますよ! バターポテトドーナッツですよね。それと生チョコのパイ!」
「それです。すみません、それを二ついただけますか」
「あれ、今日はコーヒー、大丈夫ですか?」
 仕事の日は決まってコーヒーを飲む。ジュキレはそれが仕事開始の合図にしていた。だから仕事以外の日にコーヒーは飲まないのだ。
「申し訳ない。コーヒーももらえますか」
 単に忘れてしまっていた。
 注文を受け取った魔女はニコっと笑いながら店内にあるトレーとトングを持ってバターポテトドーナッツとパイを持ってカウンターに戻ってきた。それから奥に引っ込み、コーヒーを淹れる様子が透明ガラス越しによく見える。
 少し経てばコーヒーの独特な香りが立ち込めてきて、彼女は戻って来た。
 会計を済ませてトレーを持ったジュキレは自身の席に戻ったが、後ろから気配を感じてみてみれば魔女がついてきていた。目が合うと、魔女はいつもの笑みを浮かべ何も言わない。
 席に座り、深く腰を背もたれに預ける。すると、魔女は対面の席に座ったのだ。
 これはどうしたものか、ジュキレは悩んだ。今まで滅多にない。あまりにも退屈過ぎたのだろうか、と考えた矢先に魔女の表情は笑顔から曇り顔になった。
「ジュキレさん。マーガレットさんから聞きました。その、記憶疾病《きおくしっぺい》なんですよね」
 魔女は笑みを浮かべていたが、哀しさを心に宿しているのまでは隠しきれていなかった。
 記憶疾病とは、文字通り病である。脳の働きが極端に弱くなり、末期になると言葉を発せなくなる。身体を一切動かせなくなり、自分が生きているのか死んでいるのかも分からない状態になるのだ。薬はあるが、進行を遅らせているだけに過ぎない。
 治療法は存在しない。日に日に記憶が抜け落ちていく恐怖に抗い、いずれは恐怖という感情すら忘れる。愛する人に、愛しているとあと何度言えるだろうか。
「だから、来られなくなるまで色々ジュキレさんとお話がしたくて。ごめんなさい、仕事の邪魔でしたか?」
「いえ、いいんです。なんの話をしましょうか、魔女さん」
「今書いてる物語のお話がいいです!」
 彼女は即答した。
 小説家のジュキレは、全盛期と呼ばれる頃は人気作家だった。本を出せば人伝いに売れていき、書店に行列ができるほど国民的作家だ。ちょうど二十台後半から四十台前半まで全盛期は続いた。それから少しずつ勢いは落ち始め、次の世代へと小説家という大海の舵《かじ》を新人たちに任せたのだ。
「今はどんなお話を書いてるんですか?」
 興味深そうに魔女は訊いてきた。
「人と怪物の繋がりを書いた小説です。種族が異なっていても、文化が違っても。互いに家族や愛する人がいる。そこだけは同じなんです」
「じゃあ、主人公は平和のために動くんでしょうか?」
「いえ、逆です。主人公はむしろ怪物を皆殺しにしようとするんです。とある国の指揮官で、周囲の反対を押し切って多くの罪を犯します」
 ジュキレはその小説と、自分の人生を重ねていた。
「ある時、そんな主人公が敵の本拠地に連れ込まれるんです。そこで差別していた怪物と恋に落ち、成長していく物語。年寄りらしい、説教くさい小説になる予定です」
「メチャクチャ面白そうじゃないですか! それに、昨今の時代背景も相まって見る人の心を刺激する素敵な物語だと思います!」
 ジュキレは、ありがとうとだけ口にしてコーヒーを味わった。
 ありがとう、美味しい。
「今日は何時までいますか? 閉店までいてくれてもいいんですよ」
「それは良くない。お店の売り上げに私は貢献《こうけん》できませんから」
 口にした途端、ジュキレは罪の意識に苛まれた。魔女がどうして一緒に居たいのか、そこまで考えられなかったからである。言葉を間違えたのだ。魔女は売り上げを気にするような店主ではない。人と人の幸せが、彼女にとって生きる糧《かて》だ。
 だが魔女は、切なげに笑うのだった。
「ジュキレさん、教えてください。私はすごく寂しいんです。大切なお客さんをいつか失ってしまうのが。どうやって乗り越えればいいんでしょうか」
 人気のパン屋、みんなから愛される店主にも弱点はある。
 彼がいなくなるのは今日や一週間後の話ではない。数年後だ。記憶疾病は時間をかけて人を殺してしまうから。
 昔が懐かしいと思った。彼も昔は、両親の死に対して異様なほど怖がったものだ。まだ幼い頃母親とお風呂に入って、ふと怖くなった。いつかは母は死んでしまう。父も死んでしまう。そうなれば二度と話せないし、抱きしめてももらえない。
 酷い時は恐怖症とも呼べる段階まで上り詰め、夜も眠れない事態にまで陥《おちい》ったのだ。魔女くらいの年齢なら、まだ親しい人の死が怖いと思えても仕方がない。それどころか、感受性の高いだろう彼女は自分よりもひどく怯えているかもしれないとジュキレは思った。
 どうやって大切な人の喪失を克服するか。