18
ー/ー
「そうだ」
玄関へ向かおうとしたスミレが振り返った。
「この絵のタイトルは?」
そういえば描くのに精一杯で、まだ決めていなかった。
改めて自分の絵を眺める。和紙の中に描かれた愛茉が昨日よりも優しい表情に見えるのは、オレの心がさらに穏やかになっているからなのかもしれない。
タイトルか。単純だが、これ以外の言葉は浮かんでこないな。
「愛しのホウセンカ……だな」
「……浅尾桔平の代表作に、ピッタリのタイトルね。たくさんの人たちに見てもらえるのが楽しみだわ」
優しく笑って、スミレはアトリエを出て行った。
愛しのホウセンカ、か。愛茉に言ったら、また泣くかもしれない。我ながらストレートなタイトルだ。父さんの絵のタイトルも、いつも分かりやすかった。こういうところまで似なくてもいいのにな。
しばらくひとりで絵と向き合ったあと、腹が減ってきたので帰ることにした。
「おかえりなさーい!」
帰宅すると、いつものように愛茉が玄関へ飛んできた。同棲して2年経つが、余程手が離せないとき以外は、必ずこうして出迎えてくれる。
「これスミレから。イギリス出張の土産だと」
「わ! トワイニングの紅茶だ! さすがスミレさん、センスがいい!」
仲がいいのか悪いのか、よく分からないな。ふたりはたまに連絡を取り合っているらしいが、なにを話しているのかは不明だ。知りたいとは思わないが。
「ねぇねぇねぇ、どうだった? スミレさん、なんて?」
ベッドへ腰かけると、愛茉がピッタリと横にくっついてくる。これもいつものことだ。小型犬のようで可愛い。
「スミレも、絵を見て喜んでくれたよ」
「そっか! よかったぁ」
「で、スミレからの伝言。ここからがスタートだから、愛茉も覚悟しろだと」
「なにそれ。そんなの、とっくにしているよ。言ったでしょ? 私の夢は『浅尾桔平の妻です』って、胸を張って言うことなんだから」
そうだったな。その話を聞いたときから、それはオレの目標にもなったんだ。
「ちゃんと叶えてやるよ、その夢」
「それ、プロポーズ?」
「違います」
「えー? ほぼプロポーズじゃない」
「断じて違います」
愛茉が頬を膨らませる。いまはまだ「そのとき」じゃない。でもきっと、そう遠い話ではないだろう。
これまで通ってきた道のうち、一度でも別の道を選択していたら、愛茉とは出会えなかったかもしれない。そう考えると、苦悩した時間でさえ尊く感じる。無駄なことは、ひとつもなかった。
そしてこれから歩む道は、愛茉が明るく照らしてくれる。怖いものなんて、あるはずがない。
「とりあえず、お正月はゆっくりできるね。年明けはまた忙しくなるだろうし、英気を養っておかなきゃ!」
「そうだな。また来年も、よろしく頼んます」
頭を撫でると、愛茉が胸に飛び込んできた。
父さんが言っていた、不完全な美。それを表現しきったとは思っていない。まだまだ道半ばだ。
技術も感性も、なにもかもが未熟。どこまで歩けば、求めている景色が見えるのかも分からない。
だけど父さん。オレはやっと見つけたんだよ。絶対に枯れず、永遠に咲き続ける花。父さんが愛した紅い花にそっくりな、オレだけの愛しい花を。
また会いに行くよ。とてつもなく不完全で、とびっきり美しい、この花と一緒に。だから待っていてほしい。あの静謐な庭で。
今度は、上等な酒でも持っていくからさ。
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「そうだ」
玄関へ向かおうとしたスミレが振り返った。
「この絵のタイトルは?」
そういえば描くのに精一杯で、まだ決めていなかった。
改めて自分の絵を眺める。和紙の中に描かれた愛茉が昨日よりも優しい表情に見えるのは、オレの心がさらに穏やかになっているからなのかもしれない。
タイトルか。単純だが、これ以外の言葉は浮かんでこないな。
「愛しのホウセンカ……だな」
「……浅尾桔平の代表作に、ピッタリのタイトルね。たくさんの人たちに見てもらえるのが楽しみだわ」
優しく笑って、スミレはアトリエを出て行った。
愛しのホウセンカ、か。愛茉に言ったら、また泣くかもしれない。我ながらストレートなタイトルだ。父さんの絵のタイトルも、いつも分かりやすかった。こういうところまで似なくてもいいのにな。
しばらくひとりで絵と向き合ったあと、腹が減ってきたので帰ることにした。
「おかえりなさーい!」
帰宅すると、いつものように愛茉が玄関へ飛んできた。同棲して2年経つが、余程手が離せないとき以外は、必ずこうして出迎えてくれる。
「これスミレから。イギリス出張の土産だと」
「わ! トワイニングの紅茶だ! さすがスミレさん、センスがいい!」
仲がいいのか悪いのか、よく分からないな。ふたりはたまに連絡を取り合っているらしいが、なにを話しているのかは不明だ。知りたいとは思わないが。
「ねぇねぇねぇ、どうだった? スミレさん、なんて?」
ベッドへ腰かけると、愛茉がピッタリと横にくっついてくる。これもいつものことだ。小型犬のようで可愛い。
「スミレも、絵を見て喜んでくれたよ」
「そっか! よかったぁ」
「で、スミレからの伝言。ここからがスタートだから、愛茉も覚悟しろだと」
「なにそれ。そんなの、とっくにしているよ。言ったでしょ? 私の夢は『浅尾桔平の妻です』って、胸を張って言うことなんだから」
そうだったな。その話を聞いたときから、それはオレの目標にもなったんだ。
「ちゃんと叶えてやるよ、その夢」
「それ、プロポーズ?」
「違います」
「えー? ほぼプロポーズじゃない」
「断じて違います」
愛茉が頬を膨らませる。いまはまだ「そのとき」じゃない。でもきっと、そう遠い話ではないだろう。
これまで通ってきた道のうち、一度でも別の道を選択していたら、愛茉とは出会えなかったかもしれない。そう考えると、苦悩した時間でさえ尊く感じる。無駄なことは、ひとつもなかった。
そしてこれから歩む道は、愛茉が明るく照らしてくれる。怖いものなんて、あるはずがない。
「とりあえず、お正月はゆっくりできるね。年明けはまた忙しくなるだろうし、英気を養っておかなきゃ!」
「そうだな。また来年も、よろしく頼んます」
頭を撫でると、愛茉が胸に飛び込んできた。
父さんが言っていた、不完全な美。それを表現しきったとは思っていない。まだまだ道半ばだ。
技術も感性も、なにもかもが未熟。どこまで歩けば、求めている景色が見えるのかも分からない。
だけど父さん。オレはやっと見つけたんだよ。絶対に枯れず、永遠に咲き続ける花。父さんが愛した紅い花にそっくりな、オレだけの愛しい花を。
また会いに行くよ。とてつもなく不完全で、とびっきり美しい、この花と一緒に。だから待っていてほしい。あの静謐《せいひつ》な庭で。
今度は、上等な酒でも持っていくからさ。