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Radiant in the Dark Ⅰ

ー/ー



 

 廃墟のように院内は真っ暗闇に包まれていた。
 停電する歯科医院なんて、そもそも致命的ではないかと思うが、スタッフルームの椅子にだらりと腰掛けていた僕は、まったく焦っていなかった。

 外は雷雨。
 これじゃ患者なんて来るはずがない。
 しかも変なことに、受付や消毒室、診療室の機械は全て正常に動いているのに、肝心の照明だけが一切つかないという、理解不能な状況だ。

 机を挟んだ向かい側では、フォンファが震えている。
「う、うち暗いのほんとダメなんすよー!」
「フォンちゃん、キョンシーだよね?」
「生前の記憶ってやつっすー! 先生早く直してー!」
 声だけは元気だが、その表情は暗闇でもはっきりわかるほどに引きつっている。

 一方、スタッフルームの出入り口から廊下を挟んですぐの受付では、キリアが画面の青白い光を顔に受けながら、真剣な表情を浮かべていた。
「フォンちゃん、一時的なものだと思うゆ」
 彼女の声は穏やかで、どこか落ち着きを感じさせる。
 光の届かない深海で生きるマーメイドだ。暗闇なんて慣れっこなのだろうか。

「電球切れてるだけじゃないんっすかー!」
 フォンファが机の向こうから叫ぶ。少し目が慣れてきたのか、彼女のシルエットがぼんやりと見えた。
「全部同時に切れるなんてことあるのかな?」
 疑問を口に出したものの、すぐに自分で否定する。「いや、そんなわけないか」

「無理っす! 光の魔法唱えてください、先輩!」
 必死なフォンファをよそに、キリアはいつの間にかゲームの画面を消し、闇に完全に溶け込んでいた。
「あー、フォンちゃん。明るくしてあげたいのはやまやまなんだゆ。でも──」

 そのとき、不意にチリンチリン、と患者の来院を告げるベルが鳴った。
「どのみち、また消すことになってたゆ」
 低い声で呟きながら、キリアがスタッフルームに向かって話す。

 同時に、玄関の方から品のある声が響いた。
 その声は、暗闇の中に奇妙な温度を持っていた。

「失礼しますわ。エルジェーベトですの」

 院内に響いたその声は、品のある落ち着きを纏っていた。それゆえに僕の心は、むしろ乱された。なぜこんなタイミングで? いや、そもそも真っ暗な中で普通、人は入ってくるだろうか。

「ミルカラ様、こんばんはだゆ」

 キリアがまるで何事もないかのように応対する。暗闇も、異常も、全て通常の延長線上だとでもいうように。

「こんばんは、サリアちゃん」

 ミルカラも変わらない。名前を覚えられないところもだ。あまりに自然体で、逆に不自然だ。

「問診票を書いてくださいゆ」
 キリアは特に気にせず話を続けた。流石です。
「今日はワタクシではなくてよ」

「承知しておりますゆ。そちらの方の症状とか、代わりに一緒に書いてあげてくださいゆ。暗いけど見えますかゆ?」

 キリアの声はどこか慈しみに満ちている。その優しさが逆に異質だった。だが、それを打ち消す声が割り込んだ。

「このままでいい!」

 硬質で幼いその声に、僕の背筋が凍る。鋭さが院内の空気を切り裂いた。机の向こうでフォンファが完全に気配を消している。おい、仕事してくれ。

「あらあら、カリムちゃん。大きな声を出しちゃダメよ。申し訳ありませんわね。この子、光が少し苦手なの」

 光が苦手? 頭の中で疑問符が浮かび上がる。いや、待てよ。まさか──いやいや、それは考えすぎだろう。

「いいですゆ、カリム様。そのままで大丈夫ですゆ」

 キリアは微塵も動揺せず、暗闇の中にいる彼へ言葉を投げかけた。その冷静さは、むしろ自信の表れなんだろうか。

「母様、ごめんなさい。おねえちゃん、ありがとう」

 声だけが暗闇の奥から響く。それは幼いけれど、不思議と引き込まれる響きを持っていた。人間とは少し違う、深みのある音色だ。

「じゃあ、書き終わったら、一番のユニットに進んでくださいゆ」

「かしこまりましたわ」

 ペンが紙を擦る音が静かに耳を満たす。ミルカラとカリムの声が時折混じり、暗闇の中でささやかな音楽のように流れてくる。その静けさの中で僕とフォンファはただ、異質な空気に飲み込まれそうになりながら息を殺していた。


「先生、ウチ、ほんと暗いの無理なんすよ。もう、使い物にならないっすから、二階行ってていいっすか」

「いいよ。無理しないでね」

「ありがとうございます。失礼しますっす」

 フォンファがそそくさと診療室奥の階段に向かう。その足取りは、風が吹き抜けるように軽く、それでいて音ひとつ立てない。真剣なフォンファを久しぶりに見た気がする。これを診療中にも活かしてくれたら助かるのに。そんなことを考えながら目で追っていると、彼女が三番ユニットの近くに差し掛かったそ時に受付から声が上がる。

「あら? この前、ワタクシに無礼な態度を取った子はどちらに?」

 三番ユニットで、シルエットがぴたりと固まる気配がした。片足を中途半端に持ち上げ、器用に振り返りながら口元に手を添えているように見える。無論「私はいません」を全身で表現しているのだろう。見え透いているのに、健気だ。

「それが、休み──」
 僕が最後まで言い切る前に、ミルカラが声を張った。

「ああ、奥にいるのね。よかったわ。ワタクシ、ああいうことを言われたの初めてだったから。ちょっと刺激的で」

 あの「おもしれー女」現象というやつを、フォンファは意図せずこの世の頂点に君臨する彼女に起こしてしまったらしい。これが天災というものなのかもしれない。

「ね? いるのでしょう? ワタクシ、あなたのこと気に入ってしまったのよ」

 フォンファはもはや闇そのものになろうとしていた。しかし、それは吸血鬼にとっての真昼と何ら変わらないのだろう。隠れるつもりが、丸見えだったのだ。諦めたように受付の方へ戻ってくる足音がする。

「はい、いますっす……」

「ああ、よかったわ。カリムにも話したら喜んでて」

「うん! 母様!」
 カリムの声は弾けるように明るい。おそらくその言葉どおりだ。

「母様のことをてきとうにするやつは、全員極刑!」

「あらあら、嬉しいけど、それはダメよカリム。どこでそんなこと覚えたのかしら、この子ったら……本当にすみませんね」

 フォンファが本日何度目かの「気配を消す」を試みている。シルエットが微妙に震えているのが分かる。

「大丈夫、キリちゃん。僕の後ろに立って黙っていればいいから」

「先生ぇ……。土下座とかで、なんとかなるっすかねぇ……」

「それは衛生的にやめて」

「書き終えたよ!」

 カリムの小さな手が問診票をカウンターに置いた。その仕草は暗闇の中でも妙に際立っている。

「はい、カリム様。確かに。ありがとうございますゆ。では、一番のお席にどうぞ」

「はーい!」

 元気な返事を響かせて、診療室へと消えていくカリム。その声に引きずられるように、僕は先回りしてユニットのドクターチェアに腰を下ろした。

(今夜の患者対応は、地味に寿命を削られる気がする……)
 そう思わずにはいられなかった。

 


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 廃墟のように院内は真っ暗闇に包まれていた。
 停電する歯科医院なんて、そもそも致命的ではないかと思うが、スタッフルームの椅子にだらりと腰掛けていた僕は、まったく焦っていなかった。
 外は雷雨。
 これじゃ患者なんて来るはずがない。
 しかも変なことに、受付や消毒室、診療室の機械は全て正常に動いているのに、肝心の照明だけが一切つかないという、理解不能な状況だ。
 机を挟んだ向かい側では、フォンファが震えている。
「う、うち暗いのほんとダメなんすよー!」
「フォンちゃん、キョンシーだよね?」
「生前の記憶ってやつっすー! 先生早く直してー!」
 声だけは元気だが、その表情は暗闇でもはっきりわかるほどに引きつっている。
 一方、スタッフルームの出入り口から廊下を挟んですぐの受付では、キリアが画面の青白い光を顔に受けながら、真剣な表情を浮かべていた。
「フォンちゃん、一時的なものだと思うゆ」
 彼女の声は穏やかで、どこか落ち着きを感じさせる。
 光の届かない深海で生きるマーメイドだ。暗闇なんて慣れっこなのだろうか。
「電球切れてるだけじゃないんっすかー!」
 フォンファが机の向こうから叫ぶ。少し目が慣れてきたのか、彼女のシルエットがぼんやりと見えた。
「全部同時に切れるなんてことあるのかな?」
 疑問を口に出したものの、すぐに自分で否定する。「いや、そんなわけないか」
「無理っす! 光の魔法唱えてください、先輩!」
 必死なフォンファをよそに、キリアはいつの間にかゲームの画面を消し、闇に完全に溶け込んでいた。
「あー、フォンちゃん。明るくしてあげたいのはやまやまなんだゆ。でも──」
 そのとき、不意にチリンチリン、と患者の来院を告げるベルが鳴った。
「どのみち、また消すことになってたゆ」
 低い声で呟きながら、キリアがスタッフルームに向かって話す。
 同時に、玄関の方から品のある声が響いた。
 その声は、暗闇の中に奇妙な温度を持っていた。
「失礼しますわ。エルジェーベトですの」
 院内に響いたその声は、品のある落ち着きを纏っていた。それゆえに僕の心は、むしろ乱された。なぜこんなタイミングで? いや、そもそも真っ暗な中で普通、人は入ってくるだろうか。
「ミルカラ様、こんばんはだゆ」
 キリアがまるで何事もないかのように応対する。暗闇も、異常も、全て通常の延長線上だとでもいうように。
「こんばんは、サリアちゃん」
 ミルカラも変わらない。名前を覚えられないところもだ。あまりに自然体で、逆に不自然だ。
「問診票を書いてくださいゆ」
 キリアは特に気にせず話を続けた。流石です。
「今日はワタクシではなくてよ」
「承知しておりますゆ。そちらの方の症状とか、代わりに一緒に書いてあげてくださいゆ。暗いけど見えますかゆ?」
 キリアの声はどこか慈しみに満ちている。その優しさが逆に異質だった。だが、それを打ち消す声が割り込んだ。
「このままでいい!」
 硬質で幼いその声に、僕の背筋が凍る。鋭さが院内の空気を切り裂いた。机の向こうでフォンファが完全に気配を消している。おい、仕事してくれ。
「あらあら、カリムちゃん。大きな声を出しちゃダメよ。申し訳ありませんわね。この子、光が少し苦手なの」
 光が苦手? 頭の中で疑問符が浮かび上がる。いや、待てよ。まさか──いやいや、それは考えすぎだろう。
「いいですゆ、カリム様。そのままで大丈夫ですゆ」
 キリアは微塵も動揺せず、暗闇の中にいる彼へ言葉を投げかけた。その冷静さは、むしろ自信の表れなんだろうか。
「母様、ごめんなさい。おねえちゃん、ありがとう」
 声だけが暗闇の奥から響く。それは幼いけれど、不思議と引き込まれる響きを持っていた。人間とは少し違う、深みのある音色だ。
「じゃあ、書き終わったら、一番のユニットに進んでくださいゆ」
「かしこまりましたわ」
 ペンが紙を擦る音が静かに耳を満たす。ミルカラとカリムの声が時折混じり、暗闇の中でささやかな音楽のように流れてくる。その静けさの中で僕とフォンファはただ、異質な空気に飲み込まれそうになりながら息を殺していた。
「先生、ウチ、ほんと暗いの無理なんすよ。もう、使い物にならないっすから、二階行ってていいっすか」
「いいよ。無理しないでね」
「ありがとうございます。失礼しますっす」
 フォンファがそそくさと診療室奥の階段に向かう。その足取りは、風が吹き抜けるように軽く、それでいて音ひとつ立てない。真剣なフォンファを久しぶりに見た気がする。これを診療中にも活かしてくれたら助かるのに。そんなことを考えながら目で追っていると、彼女が三番ユニットの近くに差し掛かったそ時に受付から声が上がる。
「あら? この前、ワタクシに無礼な態度を取った子はどちらに?」
 三番ユニットで、シルエットがぴたりと固まる気配がした。片足を中途半端に持ち上げ、器用に振り返りながら口元に手を添えているように見える。無論「私はいません」を全身で表現しているのだろう。見え透いているのに、健気だ。
「それが、休み──」
 僕が最後まで言い切る前に、ミルカラが声を張った。
「ああ、奥にいるのね。よかったわ。ワタクシ、ああいうことを言われたの初めてだったから。ちょっと刺激的で」
 あの「おもしれー女」現象というやつを、フォンファは意図せずこの世の頂点に君臨する彼女に起こしてしまったらしい。これが天災というものなのかもしれない。
「ね? いるのでしょう? ワタクシ、あなたのこと気に入ってしまったのよ」
 フォンファはもはや闇そのものになろうとしていた。しかし、それは吸血鬼にとっての真昼と何ら変わらないのだろう。隠れるつもりが、丸見えだったのだ。諦めたように受付の方へ戻ってくる足音がする。
「はい、いますっす……」
「ああ、よかったわ。カリムにも話したら喜んでて」
「うん! 母様!」
 カリムの声は弾けるように明るい。おそらくその言葉どおりだ。
「母様のことをてきとうにするやつは、全員極刑!」
「あらあら、嬉しいけど、それはダメよカリム。どこでそんなこと覚えたのかしら、この子ったら……本当にすみませんね」
 フォンファが本日何度目かの「気配を消す」を試みている。シルエットが微妙に震えているのが分かる。
「大丈夫、キリちゃん。僕の後ろに立って黙っていればいいから」
「先生ぇ……。土下座とかで、なんとかなるっすかねぇ……」
「それは衛生的にやめて」
「書き終えたよ!」
 カリムの小さな手が問診票をカウンターに置いた。その仕草は暗闇の中でも妙に際立っている。
「はい、カリム様。確かに。ありがとうございますゆ。では、一番のお席にどうぞ」
「はーい!」
 元気な返事を響かせて、診療室へと消えていくカリム。その声に引きずられるように、僕は先回りしてユニットのドクターチェアに腰を下ろした。
(今夜の患者対応は、地味に寿命を削られる気がする……)
 そう思わずにはいられなかった。