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 そして翌日の夕方、スミレがアトリエに来た。
 どうやらイギリスへ出張していたらしい。紅茶を買いすぎたから貰ってくれと、いきなり紙袋を押しつけられた。

「よかったわ、年内に完成させてくれて」
「悪いな。予定より遅くなった」
「想定内よ。気にしないで。このあとのスケジュールは、全部年明けだし」

 スミレは淡々としていた。あくまでもビジネスというわけか。

 しかし部屋へ入り絵を前にした瞬間、その目が大きく見開かれる。それからなにか言おうとして口を開いたが、零れたのは言葉ではなく大粒の涙だった。

 スミレにも必ず伝わる。そう思っていた。オレの絵をずっと見てきたのだから、伝わらないわけがない。
 この涙を見て、これまでの苦悩がようやく報われた気がした。
 
「……苦しかった?」

 しばらく無言で涙を流したあと、スミレはハンカチで目元を拭いながら言った。
 
「うん。すげぇ苦しかった」
「ほら、私が言った通りだったでしょ?」

 苦しみの中でしか、いい絵を描けない。オレの心に深く突き刺さっていた言葉だが、確かにその通りだと思った。自分の心を真正面から見つめなければ、いい絵を生み出すことなどできないからだ。

 ただ、悩んで悩んで苦しんだ先に吐き出されるものは、決して負の塊だけではない。心の中には正も負もある。それも含めてすべてが自分なのだと、ようやく思えるようになった。

「スミレの言うことは、いつも正しいよな」
「当たり前でしょ、ずっと見てきたんだから。誰よりも貴方の絵を理解しているのは、この私よ」

 相変わらず自信家だな。しかし根拠のない自信を見せることはないし、自分で言ったことは必ず貫く。そのための努力も一切惜しまない。
 恋愛相手への執着が薄いぶん、芸術方面ではこだわりが強く出るのだろうか。そのあたりはよく分からないが、少なくともオレの絵に対する執着はかなりのものだ。

 スミレが窓の外へ視線を向ける。この部屋は4階建ての最上階で周りは一軒家が多いから、空が広い。今日は快晴だった。

「貴方の絵を初めて見たときにね、言葉では言い表せないほど、心が揺さぶられたの」

 表情は見えない。ただ、声はとても穏やかだ。

「脆くて儚くて……自分で身を隠しておきながら、誰かが見つけてくれるのを待っている。そんな印象だった。そして実際に貴方と会って、より強くそう感じたの」

 出会った日のことが脳裏に蘇る。スミレの瞳は、あのときからちっとも変わらない。気が強く高飛車で、どこまでも真っすぐ。オレが好きだったころのままだ。

 違うな。オレはいまでも、スミレが好きだ。どんな目に遭っても、あれほど深く愛した人間を嫌いになれるわけがない。
 でも愛茉への想いとは、まったく違う。愛情ではなく、信用と信頼。長岡たちに対する感情と似ていると思った。

「私が貴方を見つけた。そう思っていたんだけどな」

 スミレが振り返る。こんなに柔和な顔をしていただろうか。なんとなく、年齢よりも幼く見えた。
 
「そうだよ。スミレがいなきゃ、オレはここまで来られなかったんだからな」
「そんなことを言うと、愛茉さんがヤキモチ妬くわよ」
「愛茉だって分かっているよ、それぐらい」

 もちろん、複雑な気持ちはあるだろう。愛茉の性格を考えると当然だ。ただ嫉妬以上にオレへの信頼を感じるから、大丈夫だと思っている。


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 そして翌日の夕方、スミレがアトリエに来た。
 どうやらイギリスへ出張していたらしい。紅茶を買いすぎたから貰ってくれと、いきなり紙袋を押しつけられた。
「よかったわ、年内に完成させてくれて」
「悪いな。予定より遅くなった」
「想定内よ。気にしないで。このあとのスケジュールは、全部年明けだし」
 スミレは淡々としていた。あくまでもビジネスというわけか。
 しかし部屋へ入り絵を前にした瞬間、その目が大きく見開かれる。それからなにか言おうとして口を開いたが、零れたのは言葉ではなく大粒の涙だった。
 スミレにも必ず伝わる。そう思っていた。オレの絵をずっと見てきたのだから、伝わらないわけがない。
 この涙を見て、これまでの苦悩がようやく報われた気がした。
「……苦しかった?」
 しばらく無言で涙を流したあと、スミレはハンカチで目元を拭いながら言った。
「うん。すげぇ苦しかった」
「ほら、私が言った通りだったでしょ?」
 苦しみの中でしか、いい絵を描けない。オレの心に深く突き刺さっていた言葉だが、確かにその通りだと思った。自分の心を真正面から見つめなければ、いい絵を生み出すことなどできないからだ。
 ただ、悩んで悩んで苦しんだ先に吐き出されるものは、決して負の塊だけではない。心の中には正も負もある。それも含めてすべてが自分なのだと、ようやく思えるようになった。
「スミレの言うことは、いつも正しいよな」
「当たり前でしょ、ずっと見てきたんだから。誰よりも貴方の絵を理解しているのは、この私よ」
 相変わらず自信家だな。しかし根拠のない自信を見せることはないし、自分で言ったことは必ず貫く。そのための努力も一切惜しまない。
 恋愛相手への執着が薄いぶん、芸術方面ではこだわりが強く出るのだろうか。そのあたりはよく分からないが、少なくともオレの絵に対する執着はかなりのものだ。
 スミレが窓の外へ視線を向ける。この部屋は4階建ての最上階で周りは一軒家が多いから、空が広い。今日は快晴だった。
「貴方の絵を初めて見たときにね、言葉では言い表せないほど、心が揺さぶられたの」
 表情は見えない。ただ、声はとても穏やかだ。
「脆くて儚くて……自分で身を隠しておきながら、誰かが見つけてくれるのを待っている。そんな印象だった。そして実際に貴方と会って、より強くそう感じたの」
 出会った日のことが脳裏に蘇る。スミレの瞳は、あのときからちっとも変わらない。気が強く高飛車で、どこまでも真っすぐ。オレが好きだったころのままだ。
 違うな。オレはいまでも、スミレが好きだ。どんな目に遭っても、あれほど深く愛した人間を嫌いになれるわけがない。
 でも愛茉への想いとは、まったく違う。愛情ではなく、信用と信頼。長岡たちに対する感情と似ていると思った。
「私が貴方を見つけた。そう思っていたんだけどな」
 スミレが振り返る。こんなに柔和な顔をしていただろうか。なんとなく、年齢よりも幼く見えた。
「そうだよ。スミレがいなきゃ、オレはここまで来られなかったんだからな」
「そんなことを言うと、愛茉さんがヤキモチ妬くわよ」
「愛茉だって分かっているよ、それぐらい」
 もちろん、複雑な気持ちはあるだろう。愛茉の性格を考えると当然だ。ただ嫉妬以上にオレへの信頼を感じるから、大丈夫だと思っている。