殺された半身
ー/ー「前の冬、吹奏楽部の件でインタビューしてもらった時以来よね? 早我見さんもお元気そうで何より。さっきまでお腹に穴が空いてたみたいだけど」
而葉さんは、そこで一旦言葉を切って私の腹部へと目を向けた。破れてしまった制服の生地を一瞥し、スッと紅の差す口元を緩める。もがれた果実が身を割られ、香り立つかのような笑みだった。
「治ったんなら問題なさそうね」
ぞくり、と全身の毛が逆立ち、首筋に寒気が走る。
物腰は柔らかいのに、夜中出くわす不良男子にも引けを取らない圧迫感。数々の舞台をくぐり抜け、結果を出してきたがゆえだろうか。彼女なら、きっと飛び交う火の粉だって花火のように眺める……そんな風にさえ思えてしまった。
豪胆さと、嫋やかさ。その両方を持ち合わせた、まるで、そう……薙刀のような女。
「こ、ここは……俺は……」
そこで男の声がして、全員がその方向へと視線を向けた。ヤドリ蔦に侵され、凶行に走った加害者であり被害者——日向瑛一郎が、うろたえた様子で体を起こす。不安げに周囲を見回し、思いがけない言葉を口にした。
「この洞穴は崩れる」
「……は」
「俺のじいちゃんが昔言ってたんだ。ほら」
日向さんは岩くずを拾い、その側の岩壁を指差した。細かな破片がパラパラと落ちてきていて、そういう箇所がいくつもある。言われてみれば、あれだけ好き勝手暴れておいて崩れない方がおかしい。
「ここで何やってたかは知らねぇが、あんたらも早く出ろよ。ったく、なんでこんなところに」
じゃ、と言って日向さんはふらつきつつも立ち上がる。まるでさっきまでのことは一切忘れてしまったかのような振る舞いだ。どうしても納得できなくて、外へと向かう後ろ姿に呼びかけた。
「日向さん!」
「……俺、お前に名前教えたことあったっけか?」
「これだけは教えてください。マガツヒメって誰なんですか」
「マガツヒメ? なんだそりゃ」
日向さんの、ぽかんとした表情が揺れる灯火に浮かび上がる。壁を転がり、少しずつ増えていく小石の音。
「な、なんだそりゃって……」
「俺はあんたの名前も分からん。もういいか、お嬢ちゃん」
私が呆然としていると、而葉さんがハッと顔を上げて日向さんの元へと駆け寄った。
「立ち入った質問、どうかご容赦を——これまでに経験した嫌なこと、一つでいいので教えてくださらない?」
「嫌なこと……?」
日向さんが浮かべた表情は、戸惑いでもなく渋面でもなかった。味が消え、妙な食感だけが残ったガムを噛み締めたような顔で。
「ない」
はっきりと、そう言った。
そして洞穴が崩れ始める。転がる石の大きさは次第に大きくなり、足元からかすかな振動が伝わってくる。
「弓丸、まさかあの矢は」
「……命は奪ってない」
頭を木槌で殴られたような衝撃。落ちてきた石が当たったらしく、割れた皮膚から伝った血が目に入る。
「あの矢は、憑き物を全て奪う〈落とし矢〉だ。〈化生のモノ〉とそれにまつわる記憶だけじゃない、過去のトラウマ、嫌な思い出も全て憑き物に含まれる。だから安心しろ、あの男は救われたんだ」
「で、でも、こんなのって」
「太刀で一刀両断すれば、あいつは化け物として死んだはずだ。他に方法はなかった」
早朝に咲いた露草、その花を飾る水滴のような弓丸の衣に、視界の赤が混ざって滲んだ。確かに、忘れた方が楽なことだってあるだろう。けれど、それを勝手に全て奪ってしまえば——人を半分殺すことと同義だ。
「ほら藍果、早くここ出るよ!」
「弓丸さんも行きましょう、揉めるのは後でもできます」
瀬名とアヤの言葉で、今ここの危険な状況に意識が引き戻された。いかに回復できようと、潰されて埋まるなんて御免だ。
「ねぇ、後で」
「あっ……ぐっ……!」
私が視線を戻そうとしたところで、弓丸は呻きながら顔を覆った。指の隙間から覗く目や眉は苦痛に歪んでいて、崩れ落ちるように膝をつく。
開いた瞳孔、浅い呼吸。弓丸の様子は、この洞穴に入る前の状態とよく似ていた。
「さきに……行って……て」
「何言ってんの弓丸、ちょっと、……あぁもう!」
もしかすると、洞穴に入る前に打っていた矢の効力が切れてしまったのかもしれない。とてもじゃないが、動ける状況にはないだろう。
だったら、私がすることは決まっている。
「一緒に行くよ」
弓丸の膝裏と背中に腕を回し、抱き上げて走った。一つ、また一つと岩が落ち、転がる灯火、追い立てるように舞う砂と石の粉塵。それから、腕の中の確かな重みと、燃えるような弓丸の体温。
考えてみれば、弓丸は明らかにおかしい体調を〈己を貫くための覇矢〉とかいう道具で無理やり抑え込み、ヤドリ蔦と戦った上、多くの血を私の治療に費やしたのだ。早い話がドーピング。あの矢の効力は一時的なものだと言っていたし、思いのほか反動が出たのだろう。
「っはぁ……!」
洞穴を抜け、全員そろって濡れた草地に倒れ込んだ。土のにおいと、胸がすく草きれの青い香り。崖崩れのような地響きと共に、洞穴の通路が岩屑の山へと変わっていく。上を張っていた木の根も、滑り落ちるように傾いて枝のあちこちが折れてしまった。土砂降りだったはずの雨は霧雨へと移ろい、立ち昇る土煙は水の粒に捕らわれる。
「藍果……」
私の腕の下で、弓丸がうっすらと目を開けた。霧雨の滴をその顔に受けながら、どこか遠い場所でも見ているかのように瞳から力を抜く。
「思い、出したんだ。この場所と僕との関わり、過去に何があったのか」
消え入るような囁き声で、弓丸が打ち明ける。
「この洞穴は、僕を除く芳帖家の人間全てが——皆殺しにされた場所だ」
それはきっと、弓丸にとっての〈忘れてしまいたいほど嫌な記憶〉で。
私を凍りつかせるには、十分すぎる内容だった。
而葉さんは、そこで一旦言葉を切って私の腹部へと目を向けた。破れてしまった制服の生地を一瞥し、スッと紅の差す口元を緩める。もがれた果実が身を割られ、香り立つかのような笑みだった。
「治ったんなら問題なさそうね」
ぞくり、と全身の毛が逆立ち、首筋に寒気が走る。
物腰は柔らかいのに、夜中出くわす不良男子にも引けを取らない圧迫感。数々の舞台をくぐり抜け、結果を出してきたがゆえだろうか。彼女なら、きっと飛び交う火の粉だって花火のように眺める……そんな風にさえ思えてしまった。
豪胆さと、嫋やかさ。その両方を持ち合わせた、まるで、そう……薙刀のような女。
「こ、ここは……俺は……」
そこで男の声がして、全員がその方向へと視線を向けた。ヤドリ蔦に侵され、凶行に走った加害者であり被害者——日向瑛一郎が、うろたえた様子で体を起こす。不安げに周囲を見回し、思いがけない言葉を口にした。
「この洞穴は崩れる」
「……は」
「俺のじいちゃんが昔言ってたんだ。ほら」
日向さんは岩くずを拾い、その側の岩壁を指差した。細かな破片がパラパラと落ちてきていて、そういう箇所がいくつもある。言われてみれば、あれだけ好き勝手暴れておいて崩れない方がおかしい。
「ここで何やってたかは知らねぇが、あんたらも早く出ろよ。ったく、なんでこんなところに」
じゃ、と言って日向さんはふらつきつつも立ち上がる。まるでさっきまでのことは一切忘れてしまったかのような振る舞いだ。どうしても納得できなくて、外へと向かう後ろ姿に呼びかけた。
「日向さん!」
「……俺、お前に名前教えたことあったっけか?」
「これだけは教えてください。マガツヒメって誰なんですか」
「マガツヒメ? なんだそりゃ」
日向さんの、ぽかんとした表情が揺れる灯火に浮かび上がる。壁を転がり、少しずつ増えていく小石の音。
「な、なんだそりゃって……」
「俺はあんたの名前も分からん。もういいか、お嬢ちゃん」
私が呆然としていると、而葉さんがハッと顔を上げて日向さんの元へと駆け寄った。
「立ち入った質問、どうかご容赦を——これまでに経験した嫌なこと、一つでいいので教えてくださらない?」
「嫌なこと……?」
日向さんが浮かべた表情は、戸惑いでもなく渋面でもなかった。味が消え、妙な食感だけが残ったガムを噛み締めたような顔で。
「ない」
はっきりと、そう言った。
そして洞穴が崩れ始める。転がる石の大きさは次第に大きくなり、足元からかすかな振動が伝わってくる。
「弓丸、まさかあの矢は」
「……命は奪ってない」
頭を木槌で殴られたような衝撃。落ちてきた石が当たったらしく、割れた皮膚から伝った血が目に入る。
「あの矢は、憑き物を全て奪う〈落とし矢〉だ。〈化生のモノ〉とそれにまつわる記憶だけじゃない、過去のトラウマ、嫌な思い出も全て憑き物に含まれる。だから安心しろ、あの男は救われたんだ」
「で、でも、こんなのって」
「太刀で一刀両断すれば、あいつは化け物として死んだはずだ。他に方法はなかった」
早朝に咲いた露草、その花を飾る水滴のような弓丸の衣に、視界の赤が混ざって滲んだ。確かに、忘れた方が楽なことだってあるだろう。けれど、それを勝手に全て奪ってしまえば——人を半分殺すことと同義だ。
「ほら藍果、早くここ出るよ!」
「弓丸さんも行きましょう、揉めるのは後でもできます」
瀬名とアヤの言葉で、今ここの危険な状況に意識が引き戻された。いかに回復できようと、潰されて埋まるなんて御免だ。
「ねぇ、後で」
「あっ……ぐっ……!」
私が視線を戻そうとしたところで、弓丸は呻きながら顔を覆った。指の隙間から覗く目や眉は苦痛に歪んでいて、崩れ落ちるように膝をつく。
開いた瞳孔、浅い呼吸。弓丸の様子は、この洞穴に入る前の状態とよく似ていた。
「さきに……行って……て」
「何言ってんの弓丸、ちょっと、……あぁもう!」
もしかすると、洞穴に入る前に打っていた矢の効力が切れてしまったのかもしれない。とてもじゃないが、動ける状況にはないだろう。
だったら、私がすることは決まっている。
「一緒に行くよ」
弓丸の膝裏と背中に腕を回し、抱き上げて走った。一つ、また一つと岩が落ち、転がる灯火、追い立てるように舞う砂と石の粉塵。それから、腕の中の確かな重みと、燃えるような弓丸の体温。
考えてみれば、弓丸は明らかにおかしい体調を〈己を貫くための覇矢〉とかいう道具で無理やり抑え込み、ヤドリ蔦と戦った上、多くの血を私の治療に費やしたのだ。早い話がドーピング。あの矢の効力は一時的なものだと言っていたし、思いのほか反動が出たのだろう。
「っはぁ……!」
洞穴を抜け、全員そろって濡れた草地に倒れ込んだ。土のにおいと、胸がすく草きれの青い香り。崖崩れのような地響きと共に、洞穴の通路が岩屑の山へと変わっていく。上を張っていた木の根も、滑り落ちるように傾いて枝のあちこちが折れてしまった。土砂降りだったはずの雨は霧雨へと移ろい、立ち昇る土煙は水の粒に捕らわれる。
「藍果……」
私の腕の下で、弓丸がうっすらと目を開けた。霧雨の滴をその顔に受けながら、どこか遠い場所でも見ているかのように瞳から力を抜く。
「思い、出したんだ。この場所と僕との関わり、過去に何があったのか」
消え入るような囁き声で、弓丸が打ち明ける。
「この洞穴は、僕を除く芳帖家の人間全てが——皆殺しにされた場所だ」
それはきっと、弓丸にとっての〈忘れてしまいたいほど嫌な記憶〉で。
私を凍りつかせるには、十分すぎる内容だった。
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