息づく片鱗
ー/ー
熱い。
そして、どうしようもなく心地良い。
湯当たりして火照った肌に、初秋の夜風を浴びるような。そんな快感を伴う感覚が、腹から胸、腕、指先へと、ゆっくり巡って染み込んでいく。
目を開けると、灯火の光が乱反射する岩肌の天井——それから、私の側に座り込んでいた弓丸が見えた。長いまつげを雪のように伏せ、ふぅ、と小さく嘆息する。
「……この手を取るのは、これで最後だ。じゃないと君は、人を離れる」
括り紐でまとめ、まくり上げられた水干の左袖。その手首を握る右手の指の隙間から、赤い雫が朝露のように滴っている。
「ゆ、弓丸、それ、もしかして……」
「ご明察」
私が意識を失っている間に、弓丸は左手首を切り落としていたようだった。弓丸から血をもらえば、たいていの傷は治せる。それはつまり、私がある程度傷を負っても死なないということを指す——それで私は、今回の策を提案したのだ。
こんな無茶苦茶な馬鹿げた策、今となってはどうして思いつけたのかさっぱり分からない。でも、あのときは無我夢中で。人を傷つけるなとは言いながら、使えるものは余すところなく利用する捨て身の策を。思いついたばかりか、ためらいの欠片もなく実行してしまった。
「君のその怪我を治すには、短時間で大量の血を投じる必要があった。だから、これが最善の方法だった」
私があの場から逃げようと飛び出せば、真っ先に狙われることは分かっていた。そして、あの男の目的は私を殺すことではなく、実を作るための血を手に入れること。だから私は自らの身を差し出し、隙を作り、弓丸を隠す盾となった。
でも。これは、あまりにも。
「ごめんね。その……」
「僕が許可したことだ。でも、こんなに血がいるとは予想外だった。人だった頃の感覚が、だいぶ薄れてしまっていたらしい……それに」
弓丸が、手首の切れ目をギュッと強く握りしめる。私の腹に視線を向け、申し訳なさそうに目をそらした。
「こちらこそ、すまなかった。痛かっただろう」
「弓丸の気にすることじゃないよ。提案したのは私だし、傷だってこうして」
「そういうことじゃない、って。この洞穴に入る前、君は言ってた。その意味がよく分かったよ——今度からは、僕もできるだけ自分の体を傷つけないようにしよう」
「あ……」
「……もしかして」
私を見下ろす縦長の瞳孔が、スッと細く鋭くなる。
「君は、最初からそのつもりだったのか」
寒空に冷えた手で、首筋をそっと触れられるような感覚が全身を包む。
あの状況下で、そこまで考えていたつもりはなかった。けれど、もしかすると私は——無意識のうちにそれを望んで。
いや、まさか私が、そんなことを。
「実は、君があの案を提案してきたとき——ほんの一瞬、君の瞳から光が消えて真っ黒になったんだ。あの瞬間、僕は君に気圧された」
「真っ……えぇっ?」
「見間違いかと思ってたんだが。あれが何か関係あるのか」
そんなこと、私に聞かれても困る。自覚はなかったし、今までそんな妙なことを言われた経験もない。思い当たる節はゼロだ。
「あの、弓丸……」
「……まぁ、今はいいか。君のその、不遜な呼び方も咎めはしない。不思議と、君に気安く呼ばれるのも悪い気はしない」
「どうも、すみません」
肩身を狭くしながら、そろそろと身を起こす。なにかこう、弓丸さんと呼ぶのは座りが悪かった。弓丸様と呼べばよかったのかもしれないが、うん、それこそ今更だ。
下を見ると、弓丸の手首の傷口から漏れた血が、岩のくぼみに溜まっていた。しばらくすれば繋がるにせよ、どうにも痛々しい。背負っていた通学リュックに、何か使えるものがあったかもしれない。
そう思って周りを見ると、壁際で仰向けに転がっている体があった。
あの男。日向さんだ。
脚は人の形をしたものに戻っており、胸もちゃんと上下している。ヤドリ蔦も白い実も、そんなものは最初からなかったかのように、忽然と姿を消している。男の額に刺さっていた矢も無くなって、弓丸がつけていたブレスレットは元の状態に戻っていた。
「よかった……生きてる」
「命は奪わないって言っただろう。神や化生のモノにとって、約束っていうのは絶対なんだ。違えれば最悪死ぬ」
「し、死ぬ? 神様って死ぬことあるの?」
「二度殺された神だっている」
「そうなんだ……」
なんとなく、何があっても弓丸は死なないと思っていた。もちろん、人よりはずっと丈夫で長命で、歩道橋から落ちたって死にはしないんだろう。でも、死ぬ時は死ぬ。
私は自らの身を差し出し、隙を作り、弓丸を隠す盾となった。けれど、弓丸だって命懸けなのだ。
傷の塞がった腹に、そっと手を重ねる。すっかり綺麗に治っていたが、制服は破れたままだった。
夢じゃない。現実だ。
「まさか、お腹に空いた穴に矢を通すとは思わなかったけど。これほどの腕なら、相当期待されてたでしょ」
「……弓は外せば死ぬだけだ。そう教えられて育った」
「ふうん……」
今の生活からはなかなか想像できないが、その頃にはその頃の考え方があるんだろう。弓丸が自分の身をあまり顧みないのも、それが関係しているのかもしれない。
「親族との付き合いもある。弓が上手いっていうのは、周りの武家から一目置かれるためにも大事なことだったんだ。早我見の爺様も、八か国に聞こえたりし……」
「早我見?」
「いや、それはいいんだ。そんなことよりほら、君の友達もお目覚めだ。体については心配ないから、安心するといい」
薄づきのマニキュアを塗った手が、私の通学リュックを拾い上げる。昨日の夜、横断歩道で別れて行方不明になって、それ以来の再会なのに——なんだか酷く、久しぶりに感じる。
「瀬名……」
赤いインナーカラーに、ぱっちりとした瞳。お化粧は落ちているけれど、あまり印象は変わらない。鳴井瀬名が、怪訝な表情で私たちを見下ろしていた。
「ねぇ藍果。その男の子、誰?」
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。
熱い。
そして、どうしようもなく心地良い。
湯当たりして|火照《ほて》った肌に、|初秋《しょしゅう》の夜風を浴びるような。そんな快感を|伴《ともな》う感覚が、腹から胸、腕、指先へと、ゆっくり|巡《めぐ》って染み込んでいく。
目を開けると、灯火の光が乱反射する岩肌の天井——それから、私の側に座り込んでいた弓丸が見えた。長いまつげを雪のように伏せ、ふぅ、と小さく|嘆息《たんそく》する。
「……この手を取るのは、これで最後だ。じゃないと君は、人を離れる」
|括《くく》り|紐《ひも》でまとめ、まくり上げられた|水干《すいかん》の左袖。その手首を握る右手の指の隙間から、赤い|雫《しずく》が朝露のように|滴《したた》っている。
「ゆ、弓丸、それ、もしかして……」
「ご|明察《めいさつ》」
私が意識を失っている間に、弓丸は左手首を切り落としていたようだった。弓丸から血をもらえば、たいていの傷は治せる。それはつまり、私がある程度傷を負っても死なないということを指す——それで私は、今回の|策《さく》を|提案《ていあん》したのだ。
こんな無茶苦茶な馬鹿げた策、今となってはどうして思いつけたのかさっぱり分からない。でも、あのときは無我夢中で。人を傷つけるなとは言いながら、使えるものは余すところなく利用する捨て身の策を。思いついたばかりか、ためらいの|欠片《かけら》もなく実行してしまった。
「君のその|怪我《けが》を治すには、短時間で大量の血を|投《とう》じる必要があった。だから、これが最善の方法だった」
私があの場から逃げようと飛び出せば、真っ先に|狙《ねら》われることは分かっていた。そして、あの男の目的は私を殺すことではなく、実を作るための血を手に入れること。だから私は自らの身を差し出し、|隙《すき》を作り、弓丸を隠す盾となった。
でも。これは、あまりにも。
「ごめんね。その……」
「僕が許可したことだ。でも、こんなに血がいるとは予想外だった。人だった頃の感覚が、だいぶ薄れてしまっていたらしい……それに」
弓丸が、手首の切れ目をギュッと強く握りしめる。私の腹に視線を向け、申し訳なさそうに目をそらした。
「こちらこそ、すまなかった。痛かっただろう」
「弓丸の気にすることじゃないよ。提案したのは私だし、傷だってこうして」
「そういうことじゃない、って。この|洞穴《ほらあな》に入る前、君は言ってた。その意味がよく分かったよ——今度からは、僕もできるだけ自分の体を傷つけないようにしよう」
「あ……」
「……もしかして」
私を見下ろす縦長の瞳孔が、スッと細く|鋭《するど》くなる。
「君は、最初からそのつもりだったのか」
寒空に冷えた手で、首筋をそっと触れられるような感覚が全身を包む。
あの状況下で、そこまで考えていたつもりはなかった。けれど、もしかすると私は——無意識のうちにそれを望んで。
いや、まさか私が、そんなことを。
「実は、君があの案を提案してきたとき——ほんの一瞬、君の瞳から光が消えて真っ黒になったんだ。あの瞬間、僕は君に|気圧《けお》された」
「真っ……えぇっ?」
「見間違いかと思ってたんだが。あれが何か関係あるのか」
そんなこと、私に聞かれても困る。自覚はなかったし、今までそんな妙なことを言われた経験もない。思い当たる節はゼロだ。
「あの、弓丸……」
「……まぁ、今はいいか。君のその、|不遜《ふそん》な呼び方も|咎《とが》めはしない。不思議と、君に気安く呼ばれるのも悪い気はしない」
「どうも、すみません」
肩身を|狭《せま》くしながら、そろそろと身を起こす。なにかこう、弓丸さんと呼ぶのは座りが悪かった。弓丸様と呼べばよかったのかもしれないが、うん、それこそ|今更《いまさら》だ。
下を見ると、弓丸の手首の傷口から|漏《も》れた血が、岩のくぼみに|溜《た》まっていた。しばらくすれば|繋《つな》がるにせよ、どうにも痛々しい。背負っていた通学リュックに、何か使えるものがあったかもしれない。
そう思って周りを見ると、壁際で|仰向《あお》けに転がっている体があった。
あの男。|日向《ひなた》さんだ。
脚は人の形をしたものに戻っており、胸もちゃんと上下している。ヤドリ|蔦《づた》も白い実も、そんなものは最初からなかったかのように、|忽然《こつぜん》と姿を消している。男の額に刺さっていた矢も無くなって、弓丸がつけていたブレスレットは元の状態に戻っていた。
「よかった……生きてる」
「命は奪わないって言っただろう。神や|化生《けしょう》のモノにとって、約束っていうのは絶対なんだ。|違《たが》えれば最悪死ぬ」
「し、死ぬ? 神様って死ぬことあるの?」
「二度殺された神だっている」
「そうなんだ……」
なんとなく、何があっても弓丸は死なないと思っていた。もちろん、人よりはずっと|丈夫《じょうぶ》で長命で、歩道橋から落ちたって死にはしないんだろう。でも、死ぬ時は死ぬ。
私は自らの身を差し出し、|隙《好き》を作り、弓丸を隠す|盾《たて》となった。けれど、弓丸だって|命懸《いのちが》けなのだ。
傷の|塞《ふさ》がった腹に、そっと手を重ねる。すっかり|綺麗《きれい》に治っていたが、制服は破れたままだった。
夢じゃない。現実だ。
「まさか、お腹に空いた穴に矢を通すとは思わなかったけど。これほどの腕なら、相当期待されてたでしょ」
「……弓は外せば死ぬだけだ。そう教えられて育った」
「ふうん……」
今の生活からはなかなか想像できないが、その|頃《ころ》にはその頃の考え方があるんだろう。弓丸が自分の身をあまり|顧《かえり》みないのも、それが関係しているのかもしれない。
「親族との付き合いもある。弓が上手いっていうのは、周りの武家から|一目《いちもく》置かれるためにも大事なことだったんだ。|早我見《さがみ》の|爺様《じさま》も、|八《はち》か|国《こく》に聞こえたりし……」
「早我見?」
「いや、それはいいんだ。そんなことよりほら、君の友達もお目覚めだ。体については心配ないから、安心するといい」
薄づきのマニキュアを塗った手が、私の通学リュックを拾い上げる。昨日の夜、横断歩道で別れて行方不明になって、それ以来の再会なのに——なんだか|酷《ひど》く、久しぶりに感じる。
「瀬名……」
赤いインナーカラーに、ぱっちりとした瞳。お化粧は落ちているけれど、あまり印象は変わらない。鳴井瀬名が、|怪訝《けげん》な表情で私たちを見下ろしていた。
「ねぇ藍果。その男の子、誰?」