3.OCCHIO
ー/ー

ケイは『COLORS』のカードを扇状に広げ、指先で一枚ずつをなぞっていく。寿司屋「巴」の閉店後、カウンターの奥で彼はこの儀式のような日課を、食材を保存する為の冷たいステンレスが囲む暗がりで、自分の腕を指を感覚を確かめるように行っていた。
艶のある黒檀のような表面を撫でる度に、かすかな振動が指先に伝わる。これは「銀」が開発した特殊素材による反応だ。カードそのものが、使い手の魂から、蒸発するように空気中で漂う『意思』が呼応するよう、設計されている。
『COLORS』。表向きはトランプに似た単純なカードゲーム。赤(Red)、青(Blue)、緑(Green)の3色で構成された52枚のデッキを使用し、プレイヤーは色と数字の組み合わせで役を作る。
しかし、その本質は異なる。
「現象」と呼ばれる特殊な効果が、ゲームの様相を一変させる。R1-B2-G3の「浄化」は相手の手札を無効化し、B7-R7-G7の「支配」は一時的に精神を操作する。これらの効果は、現実世界に干渉する力を持っている。役と呼ばれているその効果を発動するカードの組み合わせは、このCOLORSをゲームの深いところへと、闇で呻く者たちを引きずり込む。
ケイは薄く笑みを浮かべながら、カードをシャッフルする。その手さばきは、まるで魔術師のように滑らかだ。
「昔から、お前の手捌きには目を見張るものがあったな」
声の主は、店の入り口に佇む真智だった。彼女のシルエットは黒に染まっているが、漂う白の煙がそのシルエットを空になったケースから漏れる光で映し出す。
「ああ。でも、この手も一度は完全に読まれた。あの娘によってな」
その名前を口にした瞬間、真智の右手の温度と呼応するように、空気がうずくように感じた。
***10年前***
「メイス」との代表戦。地下カジノ「月下庭園」に集められた観客たちは、固唾を呑んで見守っていた。
対戦相手の法月舞。15歳とは思えない鋭い眼差しを持つ少女。彼女の存在は、「銀」にとって予期せぬ脅威となっていた。
「始めましょう」
舞の声は、氷のように冷たく響く。
第一ラウンド。ケイは得意の手さばきでカードを操り、イカサマとも取れる技術で完璧な役を作り上げていく。
しかし、ケイの独壇場ともいえる会場の空気を舞の柔らかで綺麗な声が、周囲を囲む大人のシルエット達を順に切り裂くように会場を巡る。
「その手順で行くと、次はR4を出すつもりですね。その後、B4とG4を重ねて『共鳴』を狙う。でも――」
舞は薄く笑みを浮かべた。その表情には、どこか深い虚無が潜んでいた。幼く見える顔立ちのその影の中に、口裂け女かと見間違う位の気迫と怪しさがあった。
「その手は通用しません。私の目は、すべてを見通すから」
ケイの動きが呼吸と共に一瞬止まり、ピーンと音が鳴るように時が張り詰める。
舞の言葉は的確に彼の戦略を言い当てていた。
「驚かないでください。貴方の指の動き、瞳の揺れ、呼吸の間隔。すべての情報は、私の中で完璧な方程式として解かれていきます」
舞は淡々と語り始めた。その声音には感情が欠落していた。
余裕や、絶望、喜びといった感情ではなく、怪異。その感情の無い舞が会場とケイを無で包む物の怪の気配。
「私が初めて人の嘘を見抜いたのは3歳の時です。母が父の頬にキスをして『愛してる』と囁いた時、母の瞳孔が僅かに開いた。それは嘘をつく時の生理的な反応でした」
カードを一枚、音もなくテーブルに置く。
「その後も、二人の嘘が続きました。父は週に2回、仕事帰りに寄り道をする。その日の父のワイシャツには、いつもと違う柔軟剤の香りが染み付いていた。母は月に3回、友人との食事会と称して外出する。でも、帰宅時の化粧は朝とは微妙に違っていて、口紅の色は必ず塗り直された後でした」
場内の空気が重くなっていく。内臓がこぼれ落ちそうな、恐怖なのか、言葉では例えられない重圧が会場の天井から降りている。
「面白いのは、二人とも気付いていたことです。お互いの裏切りに。父は母の携帯電話の着信履歴をこっそり確認し、母は父の財布に忍ばせた領収書を定期的にチェックしていた。それでも、二人は幸せな家庭という仮面を被り続けた」
舞は次のカードを置く。その動きには無駄が一切ない。
「学校でも同じでした。先生は『舞さんは素晴らしい生徒です』と言いながら、私を恐れていた。私の観察眼が、教師という仮面の下の本性を見抜くことを。授業中、私が発言する度に、先生の額には微かな汗が浮かびました」
彼女は一瞬、遠くを見つめた。どこを見るでもない、空虚。彼女の心が何処にもないと感じるまなざしはケイの視線を彼女の瞳孔から離さない。
「クラスメイトたちも同じ。『一緒に遊ぼう』と誘ってくれる子もいましたが、その時の声の震えと手の動きから、それが同情か義務感からだと分かってしまう。本当は誰も、私と関わりたくなかったんです」
三枚目のカードが置かれる。鏡面磨きが施された冷たいテーブルの数センチ上に彼女の細い指が停止した。
「でも、カメちゃんは違った。産まれた時からずっと一緒だった亀のカメちゃんは、決して嘘をつかなかった。私が部屋で泣いている時、いつも側まで這ってきてくれた。その動きには偽りと演技はなかった」
その瞬間、舞の声が、停止した指が僅かに震えた。
「カメちゃんは、私の全てを受け入れてくれた唯一の存在。毎朝、私の指先に触れる甲羅の感触。夜、私の枕元で眠る時の静かな寝息。週末、一緒に散歩する時の、のんびりとした足取り。その全てが、私にとっては真実そのものでした」
舞の指先が、鏡面に映る張り詰めた空気へ応えるようにカチッと停止する。
「12歳の誕生日の朝、いつものようにカメちゃんを起こそうとしたんです。でも、彼女は冷たくなっていた。生き物には寿命がある。それは分かっていました。でも――」
彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。定着していた視線が、頭が下がると共に、彼女の膝元に、長く蜘蛛の糸のように輝く髪と一緒にハラハラと落ちる。
「永遠に会えないということ。もう二度と触れられない、その温もりを感じられない。死とは、そういうことだったんです。科学的には理解していた。でも、心が受け入れられなかった」
四枚目のカードが、ゆっくりとテーブルに降りる。
「その日から、私の世界は変わりました。カメちゃんが残した空洞を埋めようと、必死になった。最初は本を読み漁り、次にネットゲームにのめり込んだ。でも、どれも私の心を満たすことはできなかった」
舞は、うっすらと笑みを浮かべる。その表情には、どこか狂気じみた色が混じっていた。
「そして気付いたんです。人の温もりなら、簡単に手に入れられる。男たちは単純でした。少し媚びを含んだ視線を送れば、すぐに反応する。優しい言葉を囁けば、すぐに心を開く。でも――」
五枚目のカード。場の空気が凍りつく。
「結局、それも嘘でした。私に触れる指先の震え、囁かれる愛の言葉。全ては演技か欲望。純粋な愛なんて、どこにもなかった。カメちゃんが教えてくれた本当の温もりは、この世界のどこにも存在しなかったんです」
六枚目のカード。
「面白いでしょう? 私は人の嘘を見抜くことはできても、自分自身を偽ることはできなかった。体が汚れていっても、心だけは澄み切ったままでした。全てを見通してしまう、この呪われた目のように」
最後のカードが置かれる。そこには何もかも計算しつくし、獲物を待つ蜘蛛の巣のように、完璧で美しく、怪しげな光を放つ「幻影」の役が完成していた。
「ケイさん。貴方の『手』が見せる技巧も、心の中の迷いも、未来に対する不安も、私には全て見えています。そう、まるであの日、父と母が見せた偽りの愛のように」
舞の瞳が、氷のように冷たく光る。
「さあ、この役の前で、貴方は何を見せてくれるのでしょうか? また新しい嘘を? それとも――」
その時、ケイは静かに微笑んだ。その表情に、舞の眉が僅かに動く。
「君の目は確かに鋭い。でも、君が見ているその何もない場所にはきっと、その空間を埋めるカメちゃんのような純粋さが足りていない」
ケイの声は、不思議な温かみを帯びていた。
「人の嘘を見抜くことは、時として真実を見失うことでもある。君は何もかもわかっていると信じていた自分の心の声を、ちゃんと聞けているのか?」
その言葉に、舞の手が僅かに震えた。
***現在***
「あの時の会場は、まるで壊れた万華鏡のようだった」
ケイは静かにカードを束ねる。
「無数の視点で世界を見つめながら、本当の色彩を失っていた。でも、それは彼女の選択じゃない。誰かに与えられた宿命だった」
真智は黙って頷いた。カウンターに置かれた『COLORS』のカードが、かすかに光を放っている。
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艶のある黒檀のような表面を撫でる度に、かすかな振動が指先に伝わる。これは「銀」が開発した特殊素材による反応だ。カードそのものが、使い手の魂から、蒸発するように空気中で漂う『意思』が呼応するよう、設計されている。
『COLORS』。表向きはトランプに似た単純なカードゲーム。赤(Red)、青(Blue)、緑(Green)の3色で構成された52枚のデッキを使用し、プレイヤーは色と数字の組み合わせで役を作る。
しかし、その本質は異なる。
「現象」と呼ばれる特殊な効果が、ゲームの様相を一変させる。R1-B2-G3の「浄化」は相手の手札を無効化し、B7-R7-G7の「支配」は一時的に精神を操作する。これらの効果は、現実世界に干渉する力を持っている。役と呼ばれているその効果を発動するカードの組み合わせは、このCOLORSをゲームの深いところへと、闇で呻く者たちを引きずり込む。
ケイは薄く笑みを浮かべながら、カードをシャッフルする。その手さばきは、まるで魔術師のように滑らかだ。
「昔から、お前の手捌きには目を見張るものがあったな」
声の主は、店の入り口に佇む真智だった。彼女のシルエットは黒に染まっているが、漂う白の煙がそのシルエットを空になったケースから漏れる光で映し出す。
「ああ。でも、この手も一度は完全に読まれた。あの娘によってな」
その名前を口にした瞬間、真智の右手の温度と呼応するように、空気がうずくように感じた。
***10年前***
「メイス」との代表戦。地下カジノ「月下庭園」に集められた観客たちは、固唾を呑んで見守っていた。
対戦相手の法月舞。15歳とは思えない鋭い眼差しを持つ少女。彼女の存在は、「銀」にとって予期せぬ脅威となっていた。
「始めましょう」
舞の声は、氷のように冷たく響く。
第一ラウンド。ケイは得意の手さばきでカードを操り、イカサマとも取れる技術で完璧な役を作り上げていく。
しかし、ケイの独壇場ともいえる会場の空気を舞の柔らかで綺麗な声が、周囲を囲む大人のシルエット達を順に切り裂くように会場を巡る。
「その手順で行くと、次はR4を出すつもりですね。その後、B4とG4を重ねて『共鳴』を狙う。でも――」
舞は薄く笑みを浮かべた。その表情には、どこか深い虚無が潜んでいた。幼く見える顔立ちのその影の中に、口裂け女かと見間違う位の気迫と怪しさがあった。
「その手は通用しません。私の目は、すべてを見通すから」
ケイの動きが呼吸と共に一瞬止まり、ピーンと音が鳴るように時が張り詰める。
舞の言葉は的確に彼の戦略を言い当てていた。
「驚かないでください。貴方の指の動き、瞳の揺れ、呼吸の間隔。すべての情報は、私の中で完璧な方程式として解かれていきます」
舞は淡々と語り始めた。その声音には感情が欠落していた。
余裕や、絶望、喜びといった感情ではなく、怪異。その感情の無い舞が会場とケイを無で包む物の怪の気配。
「私が初めて人の嘘を見抜いたのは3歳の時です。母が父の頬にキスをして『愛してる』と囁いた時、母の瞳孔が僅かに開いた。それは嘘をつく時の生理的な反応でした」
カードを一枚、音もなくテーブルに置く。
「その後も、二人の嘘が続きました。父は週に2回、仕事帰りに寄り道をする。その日の父のワイシャツには、いつもと違う柔軟剤の香りが染み付いていた。母は月に3回、友人との食事会と称して外出する。でも、帰宅時の化粧は朝とは微妙に違っていて、口紅の色は必ず塗り直された後でした」
場内の空気が重くなっていく。内臓がこぼれ落ちそうな、恐怖なのか、言葉では例えられない重圧が会場の天井から降りている。
「面白いのは、二人とも気付いていたことです。お互いの裏切りに。父は母の携帯電話の着信履歴をこっそり確認し、母は父の財布に忍ばせた領収書を定期的にチェックしていた。それでも、二人は幸せな家庭という仮面を被り続けた」
舞は次のカードを置く。その動きには無駄が一切ない。
「学校でも同じでした。先生は『舞さんは素晴らしい生徒です』と言いながら、私を恐れていた。私の観察眼が、教師という仮面の下の本性を見抜くことを。授業中、私が発言する度に、先生の額には微かな汗が浮かびました」
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「クラスメイトたちも同じ。『一緒に遊ぼう』と誘ってくれる子もいましたが、その時の声の震えと手の動きから、それが同情か義務感からだと分かってしまう。本当は誰も、私と関わりたくなかったんです」
三枚目のカードが置かれる。鏡面磨きが施された冷たいテーブルの数センチ上に彼女の細い指が停止した。
「でも、カメちゃんは違った。産まれた時からずっと一緒だった亀のカメちゃんは、決して嘘をつかなかった。私が部屋で泣いている時、いつも側まで這ってきてくれた。その動きには偽りと演技はなかった」
その瞬間、舞の声が、停止した指が僅かに震えた。
「カメちゃんは、私の全てを受け入れてくれた唯一の存在。毎朝、私の指先に触れる甲羅の感触。夜、私の枕元で眠る時の静かな寝息。週末、一緒に散歩する時の、のんびりとした足取り。その全てが、私にとっては真実そのものでした」
舞の指先が、鏡面に映る張り詰めた空気へ応えるようにカチッと停止する。
「12歳の誕生日の朝、いつものようにカメちゃんを起こそうとしたんです。でも、彼女は冷たくなっていた。生き物には寿命がある。それは分かっていました。でも――」
彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。定着していた視線が、頭が下がると共に、彼女の膝元に、長く蜘蛛の糸のように輝く髪と一緒にハラハラと落ちる。
「永遠に会えないということ。もう二度と触れられない、その温もりを感じられない。死とは、そういうことだったんです。科学的には理解していた。でも、心が受け入れられなかった」
四枚目のカードが、ゆっくりとテーブルに降りる。
「その日から、私の世界は変わりました。カメちゃんが残した空洞を埋めようと、必死になった。最初は本を読み漁り、次にネットゲームにのめり込んだ。でも、どれも私の心を満たすことはできなかった」
舞は、うっすらと笑みを浮かべる。その表情には、どこか狂気じみた色が混じっていた。
「そして気付いたんです。人の温もりなら、簡単に手に入れられる。男たちは単純でした。少し媚びを含んだ視線を送れば、すぐに反応する。優しい言葉を囁けば、すぐに心を開く。でも――」
五枚目のカード。場の空気が凍りつく。
「結局、それも嘘でした。私に触れる指先の震え、囁かれる愛の言葉。全ては演技か欲望。純粋な愛なんて、どこにもなかった。カメちゃんが教えてくれた本当の温もりは、この世界のどこにも存在しなかったんです」
六枚目のカード。
「面白いでしょう? 私は人の嘘を見抜くことはできても、自分自身を偽ることはできなかった。体が汚れていっても、心だけは澄み切ったままでした。全てを見通してしまう、この呪われた目のように」
最後のカードが置かれる。そこには何もかも計算しつくし、獲物を待つ蜘蛛の巣のように、完璧で美しく、怪しげな光を放つ「幻影」の役が完成していた。
「ケイさん。貴方の『手』が見せる技巧も、心の中の迷いも、未来に対する不安も、私には全て見えています。そう、まるであの日、父と母が見せた偽りの愛のように」
舞の瞳が、氷のように冷たく光る。
「さあ、この役の前で、貴方は何を見せてくれるのでしょうか? また新しい嘘を? それとも――」
その時、ケイは静かに微笑んだ。その表情に、舞の眉が僅かに動く。
「君の目は確かに鋭い。でも、君が見ているその何もない場所にはきっと、その空間を埋めるカメちゃんのような純粋さが足りていない」
ケイの声は、不思議な温かみを帯びていた。
「人の嘘を見抜くことは、時として真実を見失うことでもある。君は何もかもわかっていると信じていた自分の心の声を、ちゃんと聞けているのか?」
その言葉に、舞の手が僅かに震えた。
***現在***
「あの時の会場は、まるで壊れた万華鏡のようだった」
ケイは静かにカードを束ねる。
「無数の視点で世界を見つめながら、本当の色彩を失っていた。でも、それは彼女の選択じゃない。誰かに与えられた宿命だった」
真智は黙って頷いた。カウンターに置かれた『COLORS』のカードが、かすかに光を放っている。