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ep4. 音楽家×記憶×霰

ー/ー



 暗闇に迸る稲妻の中をパラパラと降る小さな氷の粒。
 恐怖に泣きじゃくる俺の耳には、その粒が作り出す不思議なメロディに重なるように、懐かしいあの人の歌声が響いている。

<怖くない、怖くない。母さんが傍にいるだろう?>

 柔らかな旋律と彼女の温もりに安堵し、俺は再び深い眠りへと堕ちていった。
 もう何度見たのか忘れてしまった、遠い日の記憶の夢。


「――ン。なぁ、ハーモン。いい加減に起きろよ、もう昼だぞ」

 勢いよくカーテンが開かれて大量の陽射しが差し込み、瞼を貫く光に眩む。もう少し、とタオルケットに身を沈めようにも、安眠を妨害する人物に容易く剥ぎ取られてしまった。
 仕方なく寝ぼけ眼で体を起こせば、譜面やら脱ぎ捨てた服やらが散らかり放題の空間が目に入る。強盗でも入ったかと思う荒れっぷりだが、ここは俺の部屋であり俺自身がやったものだから心配ご無用だ。

「ったく、ちょっとは片付けろよ。服を畳むくらいはできるだろう?」
「分かってるよ。だから置いといてくれ……後でやるから」

 俺の怠けた回答を聞いた親友フリードリッヒ・マイヤーはその爽やかな顔に心底呆れた色を浮かべて、深い溜め息を吐いた。あぁ、今の溜め息は結構いい和音(コード)だったな。

「あーあ。〝地球の旋律を奏でるピアニスト〟なんて称されるハーモン・ヴァイスが、髪も洗わずこんな部屋で作曲してるなんて知ったら、ファンはどう思うかねぇ」

 フレディは取り上げたタオルケットを俺の顔面に放って返却すると、部屋を出て行こうとした。確かにもう3日もシャワーを浴びていないから、髪も髭もゴワゴワだ。堕落した生活っぷりについに怒らせてしまったか、と思いきや彼は扉を開ける直前、少し顔をこちらへ向けた。

「昼メシできてるぞ。お前の好きなグルストゥルだ……食うだろ?」
「……あぁ。ありがとう」

 なんだかんだで、フレディは優しい。

 2つ年上のフレディと俺は、母親同士の仲が良かったためよく連んだ、いわゆる幼馴染みである。だが幼い頃に唯一の家族であった母を亡くすと、親戚のツテもない俺の面倒をフレディの母さんが快く引き受けたのだ。以来、ずっとマイヤー家で世話になっていたから幼馴染みというか、兄弟といっても過言ではない。
 フレディが実家を出る時も当たり前のように俺もついていき、只今絶賛居候中だ。勉強や家事、人付き合いも一切苦手な俺が心を許せる存在。それがフレディなのである。

 そんな俺が昔から唯一得意だったのが、ピアノを弾くことだった。遊びのつもりで日常のあらゆる音をオモチャのピアノで表現していると、「コイツは只者じゃない」と察したフレディが〝ピアニストになってはどうか〟と勧めてくれたのだ。
 甘えてばかりの俺が彼にできる恩返しはピアノしかないと思い、その道を進んだ。だが他の音楽家と同じようにクラシックを研究して弾いても、面白さが全く分からなかった。大好きなピアノを大嫌いになりかけた時もある。

<だったら、唯一無二のピアニストになればいい。昔みたいに〝お前の旋律〟を弾け、ハーモン。俺が支援するから>

 こう言ってくれたのもフレディだ。

「……なぁ、ハーモン」
「何だ?」

 フレディが作ったグルストゥルを頬張りながら、彼の問いかけに反応した。

 Tiroler Groestl(チロラー グルストゥル) は俺たちが住むオーストリアのチロル地方で親しまれている家庭料理だ。ジャガイモ・ベーコン・タマネギを炒め、目玉焼きを乗せて食べるのが一般的である。元々は余った具材を炒め合わせた、まかないみたいなものだったらしい。
 マイヤー家でも、毎週月曜日に残った食材を使ってグルストゥルを作っていた。だから彼にもその習慣が染みついているのだろう。毎度違う食材で作られるこの料理が、様々なハーモニーを奏でているようで俺は好きだ。

 そう思いながら、フォークに刺したブロッコリーを眺めて、口に運ぶ。
 今日は緑の野菜が多めだな。

「しばらく(あられ)にこだわるのを止めて、別の素材を求めたらどうだ? 他にもお前の音楽になりそうなものは沢山あるだろう」

 彼の言葉に俺は内心腹を立てたが、フレディは俺のことを心配して言っていることくらい、長年の付き合いで分かる。彼の言うとおり、今の俺は特定の音……空から降る〝霰〟が作り出す音()()を求めていた。

 霰。それは直径5ミリ未満の氷、または雪の粒のことをそう呼ぶ。この小ささこそ霰が作り出す音の肝だ。
 氷霰ならば固い地面に落ちても割れずに跳ね返り、まるで弦楽器のピッツィカート(弦を指で弾く演奏法)が作るような旋律となる。

 俺はフレディへ反発の言葉を言うまいと、一呼吸してフォークをテーブルにゆっくりと置いた。30歳も過ぎて、ここで駄々をこねる子供でもない。

「確かにそうだな。でもあの夢を見てから、どんな音を聞いてもピンと来ないんだよ。ムクドリのさえずりも、ドナウ川のせせらぎもそれでしか聞こえない。俺の心は遠い記憶に残る、霰が作り出すメロディを求めてる」
「そうかもだけど……霰なんて、いつ降るかも分からないだろう。現にもう3年以上も待っているじゃないか」

 そう。だから俺はもう、3年以上もピアニストとしての活動をしていない。
 来る日も空を見上げては、その前兆すらない様子に落胆するのみ。

 俺が霰と遭遇したのは何十年も前。俺をあやす母さんの腕の中で、嵐に怯えながら聞いていたのが霰の降る音だった。うろ覚えだけれど母さんとの少ない思い出の1つであり、最近よく見るあの夢はこの記憶によるものである。
 そもそも寒冷地帯でもない限り、霰自体が珍しい現象。もちろん雨・風・雷などのよく聞く音なら、それを元にした曲をとうに幾多も作り上げている。作り始めた頃はどの音も新鮮で輝いて見え、夢中になって五線譜にオタマジャクシを走らせた。

 だが今、俺はまたピアノを嫌いになりかけている。
 思い描く曲が書けないのは、苦しい。

「ハーモン。急かすつもりはないし、お前の意思を尊重したくないわけじゃないが、俺はお前にもっと楽しく生――」
「ありがとう、フレディ。グルストゥル美味しかったよ。……俺、そろそろシャワー浴びてくる」

 そう言ってフレディの言葉を遮り、俺は空になった皿をキッチンのシンクに置くと、逃げるようにシャワールームへ向かった。

 3日ぶりのシャワーを浴び、再び自室に籠もってベッドに転がる。部屋の中心に置かれているグランドピアノに、もう何ヶ月触れていないだろう。
 俺のピアノは特殊で、ボディから黒鍵まで通常の黒い部分が全て濃い青色をしている。成人の節目である18歳の誕生日にマイヤー家が特注でプレゼントしてくれたものだ。青は空を見るのが好きだった母さんの好んだ色で、その影響からか俺も好きだった。

 当時は「空の色だ!」と大喜びしたが、今は深い海の底の色にしか見えない。
 心も体も、音も沈んだ俺。

「今日も快晴か……」

 誰に言うわけでもなく、ポツリと呟いた。

「珍しい人もいるもんだねぇ。霰って面倒だから叶えるの嫌だったんだけど、ウルサくて仕方ないから聞いてあげるよ。僕って優しいなぁ。それにしても素晴らしい色の()()だね」

 ……ん? 何だ、この聞き慣れない声。
 この家には俺とフレディしかいないのだが、空耳にしては随分はっきり聞こえる。

 不思議に思い上半身を起こすと、ファンタジー映画にでも出てきそうな子供がピアノの蓋の上に座っていた。いや、それ椅子じゃないし! それ以前に……ッ。

「ちょ、お前っ! どこから入ってきたんだよ!?」
「どこって、今日は窓から入ってきたけど?」

 おいおい、ここマンションの3階だぞ? ピアノの運搬だってめちゃくちゃ苦労して……って、そんなこと今どうでもいい! 早くピアノから下ろさなければ。

「ふふ、一人でコメディやってるの? 面白い人だねぇ。だって散らかって他に座るところないから、コレが椅子かと思うじゃないか」
「う、ウルサイな。いいから早く下り……あれ?」

 子供のくせにえらく毒を吐く奴だ、と思ったところで俺は違和感に気づいた。普通に会話しているように思えるが、俺は先ほど声を出していないのである。
 窓から入ってきたことといい、心の声に答えてくるといい、コイツは一体。

「僕はメネル。天気についての願い事を叶えてあげてる、空の番人さ」
「天気の、願い……?」

 メネルと名乗った少年は、手にしていた杖をシャランと鳴らし、ピアノから浮遊するように飛び降りた。俺のピアノと同じ青色を纏ったそいつは、確かにどこか人間離れした空気を醸し出している。
 俺はまた変な夢を見ているのか。〝霰って面倒だから叶えるの嫌〟とか何とか言っていたが、そんな非現実的な話あるわけが――。

「あるんだなぁ、これが。夢と思うかは君の勝手だけど、これ逃すと一生霰には会えないかもね~」

 とても現実とは思えないが、例え夢だとしても〝一生霰には会えない〟というキーワードだけには過敏に反応してしまった。夢でも現実でも、それだけは困る。

「一生会えないって、どうゆうことだよ」
「だってこの辺り、霰を降らせる条件があまり揃わないんだもん。降るはずのないものを降らせるのは、結構大変なんだよ? しかも氷の精霊(アイシィー)には随分前に南の島で雪を降らせてもらってるから、余計頼み辛いんだよね」

 南の島で雪か。そりゃあ見たことないものを見たいと思うのが普通だよな。
 このメネルって子は、本当にこれまでにもそんな願いを叶えてきたのか? そして俺も、その奇妙な切符を手にしたというのか。

 落ち着け、こうゆう上手い話には何か裏があるはずだ。
 そう思いながらメネルを見上げると、彼は青いイヤリングを揺らして不敵な笑みを浮かべた。

「へぇ、鋭いね。いいよ、特別に先に教えてあげる。天気を変えたら報酬をいただくよ。支払いは〝君の一番好きな食べ物〟さ。僕と契約をすれば、君はそれを一生口にはできなくなるけど、大したことじゃないだろう?」
「大したことだろ。霰を降らせる代わりにグルストゥルが一生食えなくなるって? 冗談じゃない」

 俺は手を払うように振り、再びベッドへ横になった。幼い頃からグルストゥルを食べて育ってきたのに、それがない生活なんて考えられない。いくら霰を見ることができるからって、そんな代償受け入れられるか。
 俺の様子を見ていたメネルは背後で呆れたような溜め息を吐いた。こいつの声は不思議だ、どんな音階にも当てはまらない独特な波長があり、耳に残る。

「そう、嫌なら仕方ない。この話はなかったことにしよう。でも何の代償も払わずに成果を得ようだなんて、その程度の願いだったんだね、君の想いは」
「なんだと……? このガキ、言わせておけば」

 メネルは俺の体ごと貫くような台詞を吐き、窓のサッシに足をかけた。慌てて今にも飛び立とうとする彼の肩を引き、それを制する。するとメネルは太陽の黄金色に輝くブロンドを靡かせて振り返り、悪びれない様子でにこやかな笑顔を向けた。

「だって本当のことだろう? 君のお友達を見習ってごらんよ、彼は相当の代償を払っているのだから」
「は? おい、それどうゆう――!」

 俺の手を払ったメネルの空模様のマントがふわりと膨れたかと思えば、まるで風に溶けたかのように彼の姿が消える。あまりに一瞬の出来事で目を疑い辺りを見渡したが、やはりあの少年の姿はどこにも見つけることはできなかった。

 本当に現実なのか? と思い頬をつねってみるが、当たり前のように痛い。
 いや、現実かどうかはこの際どうでもいい。メネルが言っていたことは本当なのか? 友達とはフレディのことだと思うが、相当の代償を払ってるって……。

 俺を動揺させるための嘘だと思うが、心に淀んだ色の不協和音がじわりと広がる。
 ――確かめねば。

 今フレディとは顔を合わせ辛いのだが、俺は物が散乱した床を掻き分けて部屋から脱出し、リビングへ向かった。フレディは俺に背を向けてソファに座り、テーブルにノートパソコンを広げて何かの作業中で、俺にはまだ気づいていない。
 意を決して声をかけようとした時、パソコンの隣に置いてあった彼の携帯から軽快な着信音が鳴った。

「あぁ母さん。うん、確認した。たくさんありがとうな。――あぁ、まだだよ。でも、あいつがその気になるのを待つしかないだろ。――え? 俺はいいんだよ別に。俺も仕事に集中したいから、結婚なんて考えてねぇよ。俺らで支えなきゃあいつ一人じゃ生活できないだろ? ――うん。もう少ししたらちゃんと考えるから、今はまだ……ハーモンの傍にいるよ」

 彼の話を聞いた俺は伸ばした手で虚空を掴み、そっと引っ込める。そして音を立てることなく部屋へと戻った。

 電話の相手はフレディの母さんのようだった。彼は俺のために仕事へ専念し、自らの幸せを掴むのを先延ばしにしている。いわれてみれば俺はフレディと恋愛についての話などした覚えがない。彼女はいないのか、あるいは敢えて隠しているのか。
 それに会話の内容からして、フレディの母さんも俺のために何かの支援をしている。金か物かは分からないけど、とにかく皆、俺を支えるために我慢と負担を強いているのだ。好物の1つも諦められないクソガキを、見捨てないでくれているのだ。

 いっそピアノなんて辞めてマイヤー家から去れば、皆好きなことをして幸せになれるだろうか。
 いや、自力で生活なんかしたことのない俺が、一人でどうやって生きていくというのか。いま生きているのも、彼らが俺の居場所を守ってくれたからだというのに。

 結局、俺にはピアノしかない。ピアニストになったのも、フレディや彼の家族に恩返しをするためじゃないか。
 そう思いグランドピアノの蓋を数ヶ月ぶりに開き、物置と化した椅子の上を一掃して、鍵盤の前に腰掛けた。

 何でも良いから、音。全神経を耳に集中させ、周囲の音へと研ぎ澄ませる。子供の笑い声、工事のドリル、様々な音色が聞こえる。
 ……でもダメだった。何のメロディも浮かびやしない。それどころか。

〝怖くない、怖くない。母さんが傍にいるだろう?〟

 あの時の母さんの声ばかりが、周りの音をかき消して頭の中に響き続ける。
 霰が奏でる旋律に乗せた、懐かしい子守歌とともに。

「……くっ!」

 いたたまれなくなり俺は部屋から飛び出した。突然騒がしくリビングを走り抜けるものだから、フレディが驚いて俺を引き留めようとするものの、俺はその手を振り払って家の外へ出て行った。

 あいつは空の番人と言っていた。
 ならば空のどこかで俺の声を聞いているはずだ。

「おい、メネル! お前の要求を飲む、好きな食べ物でも何でもくれてやるよ! だから頼む、この街に霰を降らせてくれ……っ!」

 既に「この話は無し」と言われているから、メネルは現れない可能性が高い。通りすがる人が俺を不審な目で見ていたが、醜態を晒すのもお構いなしに諦めず叫び続けた。

「メネル、頼むから……俺の願いを叶えてくれ」

 こんな大きな声を上げるのも初めてで、俺はすぐに喉を枯らしてバテてしまった。両膝をつき、情けなくその場に座り込む。
 ごめんなフレディ。自分のことばかりで、お前のこと何も考えてなかった。

 ごめん。……本当に、ごめん。

 その時、溜め息交じりにあの不思議な声が降ってきた。

「君、あんまり僕の名前を叫ばないでくれよ。有名になったら困るんだよね、僕の存在は皆知らないはずなんだからさ。僕って美少年だし?」

 弾かれるように顔を上げると、悩ましげな表情をするメネルが胡座を掻いて浮かんでいた。胸を撫で下ろす俺を見て、メネルは満足そうに笑う。浮かんでる少年がいるというのに、俺以外には見えていないのか誰も騒いでいない。

「特別だ、これが最後のチャンスだよ。僕と天気変更の契約をするかい?」
「あぁ、もちろん! ……でも、どうして戻ってきてくれたんだ?」

 呼び出しておいてなんだが、常に上から物を言うようなメネルの性格上、二度と現れないように思える。そんな俺の心を読んで、メネルは「そうだね」と言いながら地上へ降り立った。

「まぁ、君の好きなグルストゥルが食べたかったというのはあるけど。……僕も聞いてみたいんだよ。あの青い椅子で奏でる、君が弾く霰の調べってやつを」
「……だから、椅子じゃないって」

 苦笑しながら俺は、メネルが差し出した手を取った。



「すごいな、ハーモン。『Lullaby of the(氷の妖精の)Ice Fairy(子守歌)』、今週も1位だってさ。これで3週間連続だな!」
「俺も驚いてるよ……、こんなに多くの人に聞いてもらえるなんて」

 鏡の前でタキシードの襟を直しながら、俺は大層興奮しているフレディにそう答えた。2ヶ月前までベッドの上で転がっていることしかできなかった俺が、今やコンサートを控えてめかし込んでいる最中だ。

「しかしあのまま霰が降らなかったら、お前はどうなっていたのやら」
「本当だな。ピアノの前でボーッとしてたら、嵐が来てバラバラバラ……! だったもんなぁ」

 霰が降ったあの日は本当に不思議な日だった。俺はピアノの前に座るまでの記憶がほとんどなかったのだ。フレディにも「急に外に出て、いつの間に戻ってきたんだ!?」と言われたが、全く覚えていない。
 気づいたらピアノの前にいて、暫くして心から待ちわびていた霰が降ってきて、無我夢中になって楽譜を書いた。そしたら軽やかに弾ける音色の、母さんが囁く子守歌を彷彿するような優しい曲が出来上がった。ただそれだけ。

「お祝いのグルストゥルを前にしたお前が〝もう食べちゃいけないんだ〟って大泣きした時は、どうしようかと思ったけど。また食いたくなったら言ってくれよな」
「やめてくれよ、その話は……。もう多分食べられないと思うよ。何か分からないけど、あれを前にすると苦しくなるんだ」

 もうグルストゥルが食べられないと思うと胸が張り裂けそうになる。でもそれよりも俺にとって大切なのは、俺だけの音を奏で続けることだ。霰に遭遇してからは以前よりも多様な音がメロディとなって舞い降り、曲を作りたい衝動に駆られた。
 曲ができればピアノを弾きたくなる。ピアノを弾くとフレディや皆が喜んでくれる。それだけで幸せだ。きっと母さんが助けてくれたのだと思う。

「時間だ、ハーモン。楽しんでこいよ」
「あぁ、ありがとう」

 フレディに背中を押されて、俺は満員の観客が見守るステージへと踏み出した。

 ところで『Lullaby of the(氷の妖精の)Ice Fairy(子守歌)』と一緒に出した曲で、密かに名曲と噂になっているものがある。タイトルは『Sky's Sigh(空の溜め息)』。神秘的なメロディと、不規則な和音が織りなす異彩な曲だ。
 どうしてこの曲を作ったか分からないけれど、この曲を弾く時だけ目の前に、黄金色の陽の光差す空が広がっている。

 ピアノと同じ青色の、どこまでも果てしなく広がる景色が。


***

 地上のコンサートホールで、とある人物がリサイタルを開催している。
 演奏者は〝地球の旋律を奏でるピアニスト〟こと、ハーモン・ヴァイス。ここ最近まで一切の活動を休止していたのに、『Lullaby of the(氷の妖精の)Ice Fairy(子守歌)』という曲を作ってから、あっという間にその名を世界に轟かせた。

「霰の降る音が君にはこう聞こえるんだね。霰を〝氷の妖精〟とはいいセンスだ。君の影響かな、アイシィー」

 彼から頂いたグルストゥルを味わいながら、僕とアイシィーはその美しい旋律に耳を傾けている。半熟の卵が絡まったジャガイモって最高だよね。他の具材は緑の野菜が多いけど。

 あぁ、それと。『Sky's Sigh(空の溜め息)』って……、まさか僕のこと?

「ふふ、光栄だよ。僕の曲を作ってくれるなんてね」

 膨れ上がったお腹をさすりながら、僕は彼の弾く子守歌で心地良い眠りについた。



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 暗闇に迸る稲妻の中をパラパラと降る小さな氷の粒。
 恐怖に泣きじゃくる俺の耳には、その粒が作り出す不思議なメロディに重なるように、懐かしいあの人の歌声が響いている。
<怖くない、怖くない。母さんが傍にいるだろう?>
 柔らかな旋律と彼女の温もりに安堵し、俺は再び深い眠りへと堕ちていった。
 もう何度見たのか忘れてしまった、遠い日の記憶の夢。
「――ン。なぁ、ハーモン。いい加減に起きろよ、もう昼だぞ」
 勢いよくカーテンが開かれて大量の陽射しが差し込み、瞼を貫く光に眩む。もう少し、とタオルケットに身を沈めようにも、安眠を妨害する人物に容易く剥ぎ取られてしまった。
 仕方なく寝ぼけ眼で体を起こせば、譜面やら脱ぎ捨てた服やらが散らかり放題の空間が目に入る。強盗でも入ったかと思う荒れっぷりだが、ここは俺の部屋であり俺自身がやったものだから心配ご無用だ。
「ったく、ちょっとは片付けろよ。服を畳むくらいはできるだろう?」
「分かってるよ。だから置いといてくれ……後でやるから」
 俺の怠けた回答を聞いた親友フリードリッヒ・マイヤーはその爽やかな顔に心底呆れた色を浮かべて、深い溜め息を吐いた。あぁ、今の溜め息は結構いい|和音《コード》だったな。
「あーあ。〝地球の旋律を奏でるピアニスト〟なんて称されるハーモン・ヴァイスが、髪も洗わずこんな部屋で作曲してるなんて知ったら、ファンはどう思うかねぇ」
 フレディは取り上げたタオルケットを俺の顔面に放って返却すると、部屋を出て行こうとした。確かにもう3日もシャワーを浴びていないから、髪も髭もゴワゴワだ。堕落した生活っぷりについに怒らせてしまったか、と思いきや彼は扉を開ける直前、少し顔をこちらへ向けた。
「昼メシできてるぞ。お前の好きなグルストゥルだ……食うだろ?」
「……あぁ。ありがとう」
 なんだかんだで、フレディは優しい。
 2つ年上のフレディと俺は、母親同士の仲が良かったためよく連んだ、いわゆる幼馴染みである。だが幼い頃に唯一の家族であった母を亡くすと、親戚のツテもない俺の面倒をフレディの母さんが快く引き受けたのだ。以来、ずっとマイヤー家で世話になっていたから幼馴染みというか、兄弟といっても過言ではない。
 フレディが実家を出る時も当たり前のように俺もついていき、只今絶賛居候中だ。勉強や家事、人付き合いも一切苦手な俺が心を許せる存在。それがフレディなのである。
 そんな俺が昔から唯一得意だったのが、ピアノを弾くことだった。遊びのつもりで日常のあらゆる音をオモチャのピアノで表現していると、「コイツは只者じゃない」と察したフレディが〝ピアニストになってはどうか〟と勧めてくれたのだ。
 甘えてばかりの俺が彼にできる恩返しはピアノしかないと思い、その道を進んだ。だが他の音楽家と同じようにクラシックを研究して弾いても、面白さが全く分からなかった。大好きなピアノを大嫌いになりかけた時もある。
<だったら、唯一無二のピアニストになればいい。昔みたいに〝お前の旋律〟を弾け、ハーモン。俺が支援するから>
 こう言ってくれたのもフレディだ。
「……なぁ、ハーモン」
「何だ?」
 フレディが作ったグルストゥルを頬張りながら、彼の問いかけに反応した。
 |Tiroler Groestl《チロラー グルストゥル》 は俺たちが住むオーストリアのチロル地方で親しまれている家庭料理だ。ジャガイモ・ベーコン・タマネギを炒め、目玉焼きを乗せて食べるのが一般的である。元々は余った具材を炒め合わせた、まかないみたいなものだったらしい。
 マイヤー家でも、毎週月曜日に残った食材を使ってグルストゥルを作っていた。だから彼にもその習慣が染みついているのだろう。毎度違う食材で作られるこの料理が、様々なハーモニーを奏でているようで俺は好きだ。
 そう思いながら、フォークに刺したブロッコリーを眺めて、口に運ぶ。
 今日は緑の野菜が多めだな。
「しばらく|霰《あられ》にこだわるのを止めて、別の素材を求めたらどうだ? 他にもお前の音楽になりそうなものは沢山あるだろう」
 彼の言葉に俺は内心腹を立てたが、フレディは俺のことを心配して言っていることくらい、長年の付き合いで分かる。彼の言うとおり、今の俺は特定の音……空から降る〝霰〟が作り出す音|だ《・》|け《・》を求めていた。
 霰。それは直径5ミリ未満の氷、または雪の粒のことをそう呼ぶ。この小ささこそ霰が作り出す音の肝だ。
 氷霰ならば固い地面に落ちても割れずに跳ね返り、まるで弦楽器のピッツィカート(弦を指で弾く演奏法)が作るような旋律となる。
 俺はフレディへ反発の言葉を言うまいと、一呼吸してフォークをテーブルにゆっくりと置いた。30歳も過ぎて、ここで駄々をこねる子供でもない。
「確かにそうだな。でもあの夢を見てから、どんな音を聞いてもピンと来ないんだよ。ムクドリのさえずりも、ドナウ川のせせらぎもそれでしか聞こえない。俺の心は遠い記憶に残る、霰が作り出すメロディを求めてる」
「そうかもだけど……霰なんて、いつ降るかも分からないだろう。現にもう3年以上も待っているじゃないか」
 そう。だから俺はもう、3年以上もピアニストとしての活動をしていない。
 来る日も空を見上げては、その前兆すらない様子に落胆するのみ。
 俺が霰と遭遇したのは何十年も前。俺をあやす母さんの腕の中で、嵐に怯えながら聞いていたのが霰の降る音だった。うろ覚えだけれど母さんとの少ない思い出の1つであり、最近よく見るあの夢はこの記憶によるものである。
 そもそも寒冷地帯でもない限り、霰自体が珍しい現象。もちろん雨・風・雷などのよく聞く音なら、それを元にした曲をとうに幾多も作り上げている。作り始めた頃はどの音も新鮮で輝いて見え、夢中になって五線譜にオタマジャクシを走らせた。
 だが今、俺はまたピアノを嫌いになりかけている。
 思い描く曲が書けないのは、苦しい。
「ハーモン。急かすつもりはないし、お前の意思を尊重したくないわけじゃないが、俺はお前にもっと楽しく生――」
「ありがとう、フレディ。グルストゥル美味しかったよ。……俺、そろそろシャワー浴びてくる」
 そう言ってフレディの言葉を遮り、俺は空になった皿をキッチンのシンクに置くと、逃げるようにシャワールームへ向かった。
 3日ぶりのシャワーを浴び、再び自室に籠もってベッドに転がる。部屋の中心に置かれているグランドピアノに、もう何ヶ月触れていないだろう。
 俺のピアノは特殊で、ボディから黒鍵まで通常の黒い部分が全て濃い青色をしている。成人の節目である18歳の誕生日にマイヤー家が特注でプレゼントしてくれたものだ。青は空を見るのが好きだった母さんの好んだ色で、その影響からか俺も好きだった。
 当時は「空の色だ!」と大喜びしたが、今は深い海の底の色にしか見えない。
 心も体も、音も沈んだ俺。
「今日も快晴か……」
 誰に言うわけでもなく、ポツリと呟いた。
「珍しい人もいるもんだねぇ。霰って面倒だから叶えるの嫌だったんだけど、ウルサくて仕方ないから聞いてあげるよ。僕って優しいなぁ。それにしても素晴らしい色の|椅《・》|子《・》だね」
 ……ん? 何だ、この聞き慣れない声。
 この家には俺とフレディしかいないのだが、空耳にしては随分はっきり聞こえる。
 不思議に思い上半身を起こすと、ファンタジー映画にでも出てきそうな子供がピアノの蓋の上に座っていた。いや、それ椅子じゃないし! それ以前に……ッ。
「ちょ、お前っ! どこから入ってきたんだよ!?」
「どこって、今日は窓から入ってきたけど?」
 おいおい、ここマンションの3階だぞ? ピアノの運搬だってめちゃくちゃ苦労して……って、そんなこと今どうでもいい! 早くピアノから下ろさなければ。
「ふふ、一人でコメディやってるの? 面白い人だねぇ。だって散らかって他に座るところないから、コレが椅子かと思うじゃないか」
「う、ウルサイな。いいから早く下り……あれ?」
 子供のくせにえらく毒を吐く奴だ、と思ったところで俺は違和感に気づいた。普通に会話しているように思えるが、俺は先ほど声を出していないのである。
 窓から入ってきたことといい、心の声に答えてくるといい、コイツは一体。
「僕はメネル。天気についての願い事を叶えてあげてる、空の番人さ」
「天気の、願い……?」
 メネルと名乗った少年は、手にしていた杖をシャランと鳴らし、ピアノから浮遊するように飛び降りた。俺のピアノと同じ青色を纏ったそいつは、確かにどこか人間離れした空気を醸し出している。
 俺はまた変な夢を見ているのか。〝霰って面倒だから叶えるの嫌〟とか何とか言っていたが、そんな非現実的な話あるわけが――。
「あるんだなぁ、これが。夢と思うかは君の勝手だけど、これ逃すと一生霰には会えないかもね~」
 とても現実とは思えないが、例え夢だとしても〝一生霰には会えない〟というキーワードだけには過敏に反応してしまった。夢でも現実でも、それだけは困る。
「一生会えないって、どうゆうことだよ」
「だってこの辺り、霰を降らせる条件があまり揃わないんだもん。降るはずのないものを降らせるのは、結構大変なんだよ? しかも|氷の精霊《アイシィー》には随分前に南の島で雪を降らせてもらってるから、余計頼み辛いんだよね」
 南の島で雪か。そりゃあ見たことないものを見たいと思うのが普通だよな。
 このメネルって子は、本当にこれまでにもそんな願いを叶えてきたのか? そして俺も、その奇妙な切符を手にしたというのか。
 落ち着け、こうゆう上手い話には何か裏があるはずだ。
 そう思いながらメネルを見上げると、彼は青いイヤリングを揺らして不敵な笑みを浮かべた。
「へぇ、鋭いね。いいよ、特別に先に教えてあげる。天気を変えたら報酬をいただくよ。支払いは〝君の一番好きな食べ物〟さ。僕と契約をすれば、君はそれを一生口にはできなくなるけど、大したことじゃないだろう?」
「大したことだろ。霰を降らせる代わりにグルストゥルが一生食えなくなるって? 冗談じゃない」
 俺は手を払うように振り、再びベッドへ横になった。幼い頃からグルストゥルを食べて育ってきたのに、それがない生活なんて考えられない。いくら霰を見ることができるからって、そんな代償受け入れられるか。
 俺の様子を見ていたメネルは背後で呆れたような溜め息を吐いた。こいつの声は不思議だ、どんな音階にも当てはまらない独特な波長があり、耳に残る。
「そう、嫌なら仕方ない。この話はなかったことにしよう。でも何の代償も払わずに成果を得ようだなんて、その程度の願いだったんだね、君の想いは」
「なんだと……? このガキ、言わせておけば」
 メネルは俺の体ごと貫くような台詞を吐き、窓のサッシに足をかけた。慌てて今にも飛び立とうとする彼の肩を引き、それを制する。するとメネルは太陽の黄金色に輝くブロンドを靡かせて振り返り、悪びれない様子でにこやかな笑顔を向けた。
「だって本当のことだろう? 君のお友達を見習ってごらんよ、彼は相当の代償を払っているのだから」
「は? おい、それどうゆう――!」
 俺の手を払ったメネルの空模様のマントがふわりと膨れたかと思えば、まるで風に溶けたかのように彼の姿が消える。あまりに一瞬の出来事で目を疑い辺りを見渡したが、やはりあの少年の姿はどこにも見つけることはできなかった。
 本当に現実なのか? と思い頬をつねってみるが、当たり前のように痛い。
 いや、現実かどうかはこの際どうでもいい。メネルが言っていたことは本当なのか? 友達とはフレディのことだと思うが、相当の代償を払ってるって……。
 俺を動揺させるための嘘だと思うが、心に淀んだ色の不協和音がじわりと広がる。
 ――確かめねば。
 今フレディとは顔を合わせ辛いのだが、俺は物が散乱した床を掻き分けて部屋から脱出し、リビングへ向かった。フレディは俺に背を向けてソファに座り、テーブルにノートパソコンを広げて何かの作業中で、俺にはまだ気づいていない。
 意を決して声をかけようとした時、パソコンの隣に置いてあった彼の携帯から軽快な着信音が鳴った。
「あぁ母さん。うん、確認した。たくさんありがとうな。――あぁ、まだだよ。でも、あいつがその気になるのを待つしかないだろ。――え? 俺はいいんだよ別に。俺も仕事に集中したいから、結婚なんて考えてねぇよ。俺らで支えなきゃあいつ一人じゃ生活できないだろ? ――うん。もう少ししたらちゃんと考えるから、今はまだ……ハーモンの傍にいるよ」
 彼の話を聞いた俺は伸ばした手で虚空を掴み、そっと引っ込める。そして音を立てることなく部屋へと戻った。
 電話の相手はフレディの母さんのようだった。彼は俺のために仕事へ専念し、自らの幸せを掴むのを先延ばしにしている。いわれてみれば俺はフレディと恋愛についての話などした覚えがない。彼女はいないのか、あるいは敢えて隠しているのか。
 それに会話の内容からして、フレディの母さんも俺のために何かの支援をしている。金か物かは分からないけど、とにかく皆、俺を支えるために我慢と負担を強いているのだ。好物の1つも諦められないクソガキを、見捨てないでくれているのだ。
 いっそピアノなんて辞めてマイヤー家から去れば、皆好きなことをして幸せになれるだろうか。
 いや、自力で生活なんかしたことのない俺が、一人でどうやって生きていくというのか。いま生きているのも、彼らが俺の居場所を守ってくれたからだというのに。
 結局、俺にはピアノしかない。ピアニストになったのも、フレディや彼の家族に恩返しをするためじゃないか。
 そう思いグランドピアノの蓋を数ヶ月ぶりに開き、物置と化した椅子の上を一掃して、鍵盤の前に腰掛けた。
 何でも良いから、音。全神経を耳に集中させ、周囲の音へと研ぎ澄ませる。子供の笑い声、工事のドリル、様々な音色が聞こえる。
 ……でもダメだった。何のメロディも浮かびやしない。それどころか。
〝怖くない、怖くない。母さんが傍にいるだろう?〟
 あの時の母さんの声ばかりが、周りの音をかき消して頭の中に響き続ける。
 霰が奏でる旋律に乗せた、懐かしい子守歌とともに。
「……くっ!」
 いたたまれなくなり俺は部屋から飛び出した。突然騒がしくリビングを走り抜けるものだから、フレディが驚いて俺を引き留めようとするものの、俺はその手を振り払って家の外へ出て行った。
 あいつは空の番人と言っていた。
 ならば空のどこかで俺の声を聞いているはずだ。
「おい、メネル! お前の要求を飲む、好きな食べ物でも何でもくれてやるよ! だから頼む、この街に霰を降らせてくれ……っ!」
 既に「この話は無し」と言われているから、メネルは現れない可能性が高い。通りすがる人が俺を不審な目で見ていたが、醜態を晒すのもお構いなしに諦めず叫び続けた。
「メネル、頼むから……俺の願いを叶えてくれ」
 こんな大きな声を上げるのも初めてで、俺はすぐに喉を枯らしてバテてしまった。両膝をつき、情けなくその場に座り込む。
 ごめんなフレディ。自分のことばかりで、お前のこと何も考えてなかった。
 ごめん。……本当に、ごめん。
 その時、溜め息交じりにあの不思議な声が降ってきた。
「君、あんまり僕の名前を叫ばないでくれよ。有名になったら困るんだよね、僕の存在は皆知らないはずなんだからさ。僕って美少年だし?」
 弾かれるように顔を上げると、悩ましげな表情をするメネルが胡座を掻いて浮かんでいた。胸を撫で下ろす俺を見て、メネルは満足そうに笑う。浮かんでる少年がいるというのに、俺以外には見えていないのか誰も騒いでいない。
「特別だ、これが最後のチャンスだよ。僕と天気変更の契約をするかい?」
「あぁ、もちろん! ……でも、どうして戻ってきてくれたんだ?」
 呼び出しておいてなんだが、常に上から物を言うようなメネルの性格上、二度と現れないように思える。そんな俺の心を読んで、メネルは「そうだね」と言いながら地上へ降り立った。
「まぁ、君の好きなグルストゥルが食べたかったというのはあるけど。……僕も聞いてみたいんだよ。あの青い椅子で奏でる、君が弾く霰の調べってやつを」
「……だから、椅子じゃないって」
 苦笑しながら俺は、メネルが差し出した手を取った。
「すごいな、ハーモン。『|Lullaby of the《氷の妖精の》| Ice Fairy《子守歌》』、今週も1位だってさ。これで3週間連続だな!」
「俺も驚いてるよ……、こんなに多くの人に聞いてもらえるなんて」
 鏡の前でタキシードの襟を直しながら、俺は大層興奮しているフレディにそう答えた。2ヶ月前までベッドの上で転がっていることしかできなかった俺が、今やコンサートを控えてめかし込んでいる最中だ。
「しかしあのまま霰が降らなかったら、お前はどうなっていたのやら」
「本当だな。ピアノの前でボーッとしてたら、嵐が来てバラバラバラ……! だったもんなぁ」
 霰が降ったあの日は本当に不思議な日だった。俺はピアノの前に座るまでの記憶がほとんどなかったのだ。フレディにも「急に外に出て、いつの間に戻ってきたんだ!?」と言われたが、全く覚えていない。
 気づいたらピアノの前にいて、暫くして心から待ちわびていた霰が降ってきて、無我夢中になって楽譜を書いた。そしたら軽やかに弾ける音色の、母さんが囁く子守歌を彷彿するような優しい曲が出来上がった。ただそれだけ。
「お祝いのグルストゥルを前にしたお前が〝もう食べちゃいけないんだ〟って大泣きした時は、どうしようかと思ったけど。また食いたくなったら言ってくれよな」
「やめてくれよ、その話は……。もう多分食べられないと思うよ。何か分からないけど、あれを前にすると苦しくなるんだ」
 もうグルストゥルが食べられないと思うと胸が張り裂けそうになる。でもそれよりも俺にとって大切なのは、俺だけの音を奏で続けることだ。霰に遭遇してからは以前よりも多様な音がメロディとなって舞い降り、曲を作りたい衝動に駆られた。
 曲ができればピアノを弾きたくなる。ピアノを弾くとフレディや皆が喜んでくれる。それだけで幸せだ。きっと母さんが助けてくれたのだと思う。
「時間だ、ハーモン。楽しんでこいよ」
「あぁ、ありがとう」
 フレディに背中を押されて、俺は満員の観客が見守るステージへと踏み出した。
 ところで『|Lullaby of the《氷の妖精の》| Ice Fairy《子守歌》』と一緒に出した曲で、密かに名曲と噂になっているものがある。タイトルは『|Sky's Sigh《空の溜め息》』。神秘的なメロディと、不規則な和音が織りなす異彩な曲だ。
 どうしてこの曲を作ったか分からないけれど、この曲を弾く時だけ目の前に、黄金色の陽の光差す空が広がっている。
 ピアノと同じ青色の、どこまでも果てしなく広がる景色が。
***
 地上のコンサートホールで、とある人物がリサイタルを開催している。
 演奏者は〝地球の旋律を奏でるピアニスト〟こと、ハーモン・ヴァイス。ここ最近まで一切の活動を休止していたのに、『|Lullaby of the《氷の妖精の》| Ice Fairy《子守歌》』という曲を作ってから、あっという間にその名を世界に轟かせた。
「霰の降る音が君にはこう聞こえるんだね。霰を〝氷の妖精〟とはいいセンスだ。君の影響かな、アイシィー」
 彼から頂いたグルストゥルを味わいながら、僕とアイシィーはその美しい旋律に耳を傾けている。半熟の卵が絡まったジャガイモって最高だよね。他の具材は緑の野菜が多いけど。
 あぁ、それと。『|Sky's Sigh《空の溜め息》』って……、まさか僕のこと?
「ふふ、光栄だよ。僕の曲を作ってくれるなんてね」
 膨れ上がったお腹をさすりながら、僕は彼の弾く子守歌で心地良い眠りについた。