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【1】

ー/ー



「はじめまして、よろしくな」
 そんな言葉をわざわざ口に出してはいない。
 当然だ。相手は圭亮(けいすけ)の娘で、……言葉を解するかも怪しい状態だったのだから。
 正直なところ、当時はいきなり突き付けられた現実に向き合うので手いっぱいだった。
 四歳九ヶ月になるまで、その存在さえ知らなかった。別れた恋人が黙って産んで育てていた我が子。

今日子(きょうこ)ちゃんも悩んでたみたいなんです。私のところに来たときにはもう七ヶ月で……」
 今日子(娘の母親)が育った児童養護施設の指導員が、苦しそうに教えてくれた。流石に言葉を濁してはいたが、中絶可能な期間はとうに過ぎて「産むしかない」状態だったと。
 施設職員を通じて支援を受けることができ、無事出産したらしい。生まれてすぐに手放す選択肢も提示されたようだが、今日子は拒否したそうだ。

「『家族』が欲しかったんじゃないかと思うんです。今日子ちゃんは本当に幼い頃に一人になって、……施設の職員(わたしたち)にはどうしても埋められなかったものを求めたんじゃないでしょうか」
 家庭の代わりではあっても、施設は「家」ではないし、児童指導員や保育士は「子どもたち全員の親であり先生」だ。
 自分だけを特別に扱ってくれるわけではない。
 まったくの部外者である圭亮が簡単に言えることではないが、同じ「愛して育む」状態でもきっと中身は同一ではないのだ。
 冷たいかもしれないがなのだから。
 そしてそれは職員にも、当然入所している子どもたちにも責任などないのも事実に違いなかった。

 今日子は愛を欲していた。
 無条件に己を包み込んで肯定してくれる存在を望んでいたのだろう。
 高校を卒業して勤めていた企業を数ヶ月で辞したのも、人間関係が上手く行かなかったからだという。
 その後オフィス街の喫茶店でウエイトレスをしていた時に、職場が近くよく訪れていた圭亮と知り合った。
 人目を引く美人というほどではないが、可愛らしくておとなしい彼女に庇護欲が湧いた。
 ……いや、そんな綺麗事ではない。大学を卒業して就職したばかりだった圭亮は、同じ会社に勤める有能な女性陣に気後れしていた。
 だからなんの力もない、仕事でもまだ役に立たない自分に尊敬の目を向けてくれる、……「優越感に浸れる」相手といるのが心地よかった。

 ──今なら素直に認められる。

 しかし今日子は、ただ圭亮を持ち上げていい気にさせるための道具ではない。
 彼女はおそらく、あの職員(先生)の言う通り自分だけを愛し守ってくれる相手を必要としていた。圭亮にそこまでの余裕がなかったのが別れの理由なのではないか。
 つまり、この先共に生きるには足りない、と「見切られた」のだ。

 生まれた子も乳児期も過ぎ、行政からの支えも手薄になっていたのだろう。
 学校はともかく、幼稚園や保育園への就園も義務ではない。
 実際には、担当者が電話や訪問で繋がりを保とうとしていたようだが、『親』に拒否されては強硬手段は取れない。目に見えた虐待の形跡も見つけられないのだからなおさらだ。

 しかし彼女は、現実には娘を一人自宅マンションに放置して外出を繰り返していたらしい。所謂養育放棄(ネグレクト)と判断されたと聞いている。
 幼い子どもは親に守られる存在だ。
 けれど今日子が望んだのは「自分を守ってくれる『家族』」だった。そして彼女は手が掛かるだけの我が子から逃げるようになったのか。
 今日子自身が、歳を重ね親になっても「子ども」のままだったのかもしれない。

 最終的には想像するしかできないが、「思い通りにならない現実」から本当の意味での逃避を選んだのだろうか。
 服薬自殺を図って命を落とした彼女は、直前に圭亮に手紙を寄越していた。「娘がいるから迎えに来てほしい」と。
 別れてから五年以上が経っていた。
 突然の連絡に半信半疑で、それでも手紙の住所を訪ねた圭亮を待っていたのは今日子の遺体と、衰弱した娘の真理愛(まりあ)だった。

 真理愛を引き取って、圭亮は一人暮らしのマンションを引き払い実家に戻った。
 両親の手を借りて、というより実質ほぼ頼りきりで初めての育児に奮闘することになったのだ。
 義務感が大半だった。「親として」すべきことをこなすので精一杯だった日々。

 娘が初めて笑顔を見せた日。
 無意識にも心の片隅に追いやって見ない振りをしていた、「なぜ自分がこんな目に」という薄暗い感情はもうどこにも探せない。
 あの日、圭亮は真に「親として」の一歩踏み出せたのだ。
 出会ってから初めて出た「言葉」は、家族への呼び掛けだった。
 五歳の誕生日でもある十二月二十五日(クリスマス)に、圭亮の両親である祖父母に「じーじ・ばーば」、そして仕事を終えて帰宅した圭亮に「ぱぱ」と。

 未熟で無神経だった男が、娘にて親になれたと心から思う。
 名ばかりだった「父親」を、ただ信頼して受け入れてくれた真理愛。
 彼女のぎこちない微笑みに、伸ばしてくる小さな手に、圭亮の方こそが愛を与えられたと感じていた。

 ──今日子には届かなかったのだろうか。おそらくは母にも向けられていたその想いが。
『孵化』パパと真理愛


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「はじめまして、よろしくな」
 そんな言葉をわざわざ口に出してはいない。
 当然だ。相手は|圭亮《けいすけ》の娘で、……言葉を解するかも怪しい状態だったのだから。
 正直なところ、当時はいきなり突き付けられた現実に向き合うので手いっぱいだった。
 四歳九ヶ月になるまで、その存在さえ知らなかった。別れた恋人が黙って産んで育てていた我が子。
「|今日子《きょうこ》ちゃんも悩んでたみたいなんです。私のところに来たときにはもう七ヶ月で……」
 |今日子《娘の母親》が育った児童養護施設の指導員が、苦しそうに教えてくれた。流石に言葉を濁してはいたが、中絶可能な期間はとうに過ぎて「産むしかない」状態だったと。
 施設職員を通じて支援を受けることができ、無事出産したらしい。生まれてすぐに手放す選択肢も提示されたようだが、今日子は拒否したそうだ。
「『家族』が欲しかったんじゃないかと思うんです。今日子ちゃんは本当に幼い頃に一人になって、……|施設の職員《わたしたち》にはどうしても埋められなかったものを求めたんじゃないでしょうか」
 家庭の代わりではあっても、施設は「家」ではないし、児童指導員や保育士は「子どもたち全員の親であり先生」だ。
 自分だけを特別に扱ってくれるわけではない。
 まったくの部外者である圭亮が簡単に言えることではないが、同じ「愛して育む」状態でもきっと中身は同一ではないのだ。
 冷たいかもしれないが《《仕事》》なのだから。
 そしてそれは職員にも、当然入所している子どもたちにも責任などないのも事実に違いなかった。
 今日子は愛を欲していた。
 無条件に己を包み込んで肯定してくれる存在を望んでいたのだろう。
 高校を卒業して勤めていた企業を数ヶ月で辞したのも、人間関係が上手く行かなかったからだという。
 その後オフィス街の喫茶店でウエイトレスをしていた時に、職場が近くよく訪れていた圭亮と知り合った。
 人目を引く美人というほどではないが、可愛らしくておとなしい彼女に庇護欲が湧いた。
 ……いや、そんな綺麗事ではない。大学を卒業して就職したばかりだった圭亮は、同じ会社に勤める有能な女性陣に気後れしていた。
 だからなんの力もない、仕事でもまだ役に立たない自分に尊敬の目を向けてくれる、……「優越感に浸れる」相手といるのが心地よかった。
 ──今なら素直に認められる。
 しかし今日子は、ただ圭亮を持ち上げていい気にさせるための道具ではない。 彼女はおそらく、あの|職員《先生》の言う通り自分だけを愛し守ってくれる相手を必要としていた。圭亮にそこまでの余裕がなかったのが別れの理由なのではないか。
 つまり、この先共に生きるには足りない、と「見切られた」のだ。
 生まれた子も乳児期も過ぎ、行政からの支えも手薄になっていたのだろう。
 学校はともかく、幼稚園や保育園への就園も義務ではない。
 実際には、担当者が電話や訪問で繋がりを保とうとしていたようだが、『親』に拒否されては強硬手段は取れない。目に見えた虐待の形跡も見つけられないのだからなおさらだ。
 しかし彼女は、現実には娘を一人自宅マンションに放置して外出を繰り返していたらしい。所謂|養育放棄《ネグレクト》と判断されたと聞いている。
 幼い子どもは親に守られる存在だ。
 けれど今日子が望んだのは「自分を守ってくれる『家族』」だった。そして彼女は手が掛かるだけの我が子から逃げるようになったのか。
 今日子自身が、歳を重ね親になっても「子ども」のままだったのかもしれない。
 最終的には想像するしかできないが、「思い通りにならない現実」から本当の意味での逃避を選んだのだろうか。
 服薬自殺を図って命を落とした彼女は、直前に圭亮に手紙を寄越していた。「娘がいるから迎えに来てほしい」と。
 別れてから五年以上が経っていた。
 突然の連絡に半信半疑で、それでも手紙の住所を訪ねた圭亮を待っていたのは今日子の遺体と、衰弱した娘の|真理愛《まりあ》だった。
 真理愛を引き取って、圭亮は一人暮らしのマンションを引き払い実家に戻った。
 両親の手を借りて、というより実質ほぼ頼りきりで初めての育児に奮闘することになったのだ。
 義務感が大半だった。「親として」すべきことをこなすので精一杯だった日々。
 娘が初めて笑顔を見せた日。
 無意識にも心の片隅に追いやって見ない振りをしていた、「なぜ自分がこんな目に」という薄暗い感情はもうどこにも探せない。
 あの日、圭亮は真に「親として」の一歩踏み出せたのだ。
 出会ってから初めて出た「言葉」は、家族への呼び掛けだった。
 五歳の誕生日でもある|十二月二十五日《クリスマス》に、圭亮の両親である祖父母に「じーじ・ばーば」、そして仕事を終えて帰宅した圭亮に「ぱぱ」と。
 未熟で無神経だった男が、娘に《《育てられ》》て親になれたと心から思う。
 名ばかりだった「父親」を、ただ信頼して受け入れてくれた真理愛。
 彼女のぎこちない微笑みに、伸ばしてくる小さな手に、圭亮の方こそが愛を与えられたと感じていた。
 ──今日子には届かなかったのだろうか。おそらくは母にも向けられていたその想いが。