自宅の玄関ドアの前で、大きく息を吸って背筋を伸ばす。圭亮にとってこれは、帰宅時のルーティンのような行動だった。
改めて、気持ちを入れ替えるための。
インターホンを押すと、待つほどもなくドアが中から開かれる。
「パパ! おかえり!」
娘の弾んだ声に迎えられて、圭亮は一瞬緩みかけた表情を慌てて引き締めた。
「ただいま。……真理愛、ドア開けるのは誰だか確かめてから! いつも言ってるだろ?」
つい先ほど連絡も入れているし、圭亮ではない可能性はほとんどないだろう。何より両親も在宅している。
この時点に限っては、実質危険があるとは思わない。
それでもこれは習慣として、娘には身につけさせなければならないことなのだ。だから圭亮は、口うるさいのは承知の上で注意するのをやめるつもりはなかった。
「……ごめんなさい。おばあちゃんから、パパもうかえってくるって聞いたから。ピンポン鳴ってぜったいパパだと思って」
しょんぼりした真理愛が可哀想にはなるものの、親として厳しくすべき義務はあると考えている。「母親がいないから」とだけは誰にも言わせたくなかった。
無論自分の立場や恥などの問題ではなく、ただ娘のために。
それが圭亮の矜持だ。
職場を出てから、自宅に着くまで。
その間の約一時間で、圭亮は『
会社員』から『
父親』に変わる。
場合によっては、玄関前に立つギリギリまで仕事を引き摺っていることもなくはない。しかし、家に入った、──正確には娘の顔を見た瞬間、
役割が切り替わるのだ。
自分でも驚くほど鮮やかに。
「うん、それはわかってる。パパが帰って来るの喜んでくれるのは、すごく嬉しいよ」
圭亮のフォローの言葉に真理愛は安心したように笑い、……ふと何か思いついたようにぱっと顔を輝かせた。
「あ、そうだ! パパえっと、おつ、おつかれさま、でした!」
娘がぎこちなく口にする労りの台詞。
おそらく普段母が言うのを聞き覚えて、自分でも使ってみたかったのだろう。
小学校に入学したばかりの彼女は、日々新たな知識を吸収して行く時期だ。
「おかえりなさい、圭亮。お疲れ様、もうお母さんたちは先食べたから。今温めるわね」
「おう、圭亮。おかえり」
二人連れ立ってリビングルームのドアを開けると、両親が迎えてくれる。
「おばあちゃん、まりあも牛乳のむ! ひとりでごはんじゃ、パパさびしいからいっしょに」
「はいはい。じゃあ牛乳も温めましょうね」
圭亮は、己がまったく完璧でも何でもないただの凡人だと自覚していた。そんな父親でも、全身で肯定してくれる真理愛。
ほんの少しでも、この娘の期待に応えられるように。
変身なんてできない。
格好いい
勇者には、決してなり得ないことくらい圭亮にもよくわかっている。
──けれど、理想の自分、理想の父親を目指して努力することならできるのだから。
~END~