アンジュが声を失くしてから一ヶ月程が過ぎ、季節は初夏に変わった。欧州から孤立した英国は、未だ先行きの見えない、濃く真っ暗な空気だけが漂い、いつ余命宣告が下るか分からない渦中のような、絶望的な時流が襲っている。
それは、ウェールズの田舎町にひっそり暮らしている、若い恋人達も同じだった。アンジュの口からは、未だ微かな音すら出ないでいる。
しかし、人間とは不思議なもので、初めは二人共に困惑と悲観を抱えながら過ごしていたが、少しずつ、そんな暮らしを諦め半分、受け入れつつあった。基本的に無音、無言の時間ばかりだったが、それにもだいぶ慣れた。
ジェラルド自身が、それほど多弁でなかったのもあった。アンジュとの意思疎通や連絡は、筆談と彼女の唇の動きを読む事で、どうにかなっている。
だが、あれからずっと、彼女の表情が固まったまま、微笑みすら見せなくなった事が、彼には、一番堪えた。
そんなある日、ジェラルドは休暇をとり、少々遠方の町の役所まで赴いた。例の『良心的兵役拒否権』の申請をしに来たのだ。婚約者同然のパートナーが病気である身なら、尚更、自身まで危険に晒す訳にはいかない、と考えての事だ。
審査が通るのを願うばかりだったが、それはアンジュも同じ……いや、今の彼女には、ある意味彼以上に切実で、悲壮感しかない心境だった。
――ダメだったら、どうしよう。怖い。怖くて堪らない。彼が、激戦地へ行く……
――この人までいなくなって消えてしまったら、どうしたら良いの……
考えただけでも、身震いする位に恐ろしい未来だ。想像すらしたくない。
――私は、全然、大丈夫じゃない。あんなに歌を褒めてもらっても、全然、立派じゃない。偉くもない
――こんなに、どうしようもなく弱くて、みっともない位にすがっている、脆い人間だったんだ……
その夜。奇妙な静寂の中、久しぶりに二人でゆっくり夕食をとる。簡素だがジェラルドの好物を作ったのだ。久方ぶりに見る嬉しそうな面持ちで、シチューを平らげていく彼を、アンジュは切ない思いで見ていた。
――あと何回、彼とこんな風に過ごせるんだろう……
――こんなに穏やかな日々も、終わってしまうのだろうか……
いつものようにシャワーを浴び、共に床につく時、アンジュは思い詰めた様子で、ジェラルドの手を取った。
「どうした?」
何か言いたい事がある時は、軽く身体に触れる仕草を合図にしていた。が、いつも以上に神妙な気配が気になる。
『……おねがい、が、あります』
少し頬を桃色に染め、ゆっくりと唇を動かし、そんな事を告げる彼女に、ジェラルドは身構えた。こんな風に、アンジュが何かをねだる事など、ほとんど無い。頼られたのは嬉しいが、ぴん、とした緊張感が、仄暗く漂う。
「何だ?」
返答した瞬間、しゅる、とアンジュは、ネグリジェの胸元を絞っている細いリボンをほどいた。そして、膨らんだ綿素材のスリーブ部分も緩ませ、ずり下げようと必死に指先を動かし、もがいている。
そんな彼女の所為に、ジェラルドは唖然とした。一瞬、何が起きているのか解らず、意識が止まった。しかし、彼女の素肌が次第に露になっていくにつれ、状況をようやく理解した瞬間、どくん、と心臓が一気に跳ね上がる。
「何、してる⁉ ……やめろ‼」
止めさせようとした彼に、両手首を強く掴まれたが、アンジュは構わず、いとおしい固い胸板に自身の身体を強引に委ね、預けた。彼が激しく狼狽えているのが判る。しかし、切々とした激しい想いが溢れ返って止まらない。
今じゃないと、ダメだった。今、この人に触れて、抱いてもらわないと、心が、自分全てが死んでしまいそうだった。
公的な縁は無くても、こんな歪な形でも、いつ、どんな火の粉が降り掛かるか分からない、こんな危うい時代だからこそ、衝動的で、刹那的なやり方でも……良かったのだ。
この酷な世界で、自分は生きていて良い、濁流の中でも生きてゆける、という絶対的で確かな力を与えて欲しかった。はっきりと、この身体全てに染み付くように、差し出して欲しい……
誰でも良い訳じゃない。この人だから、特別なこの人だから――したい。出会ってから少しずつ知って、もらった優しさを、深い想いを、もっと味わって、感じて、返したい……
胸元のリボンが緩みほどけ、アンジュのなめらかなデコルテと細い肩が現れ、はだけた。そのまますがり付くようにジェラルドの腕を握り、切羽詰まった面持ちで見つめる。そんないじらしくも扇情的な光景に、喉に詰まっていた熱い塊が、ごく、と下っていった。
「シスリー……?」
「……いい、のか?」
反射的に小さく頷き、腕に握られた細い指に、更に力がこもる。意を決したような、波打つ宵の海の瞳を向けてくる。『このまま、あれ以上をして欲しい』と、彼女はおそらく願っているという、突然の状況に動揺し、思考が錯乱する。
他の男の訃報がショックで声を無くし、他人に触れられる事に過敏になったアンジュが、何故、今ここまで自分を求めるのか、ジェラルドには理解できなかった。
――何故、急にこんな……? 自分は何も力になれないのではなかったか……?
自虐的に視線を反らし、顔を彼女から背け、切に訴えるように呟く。
「……だめだ。傷つける、かもしれない」
共にロンドンから避難し、同じ部屋で寝泊まりして暮らすようになってから数ヶ月。一度も最後までは身体を重ねていない。引っ越す際、秘かに用意した避妊具も使っていない。彼女の傷んだ心身を案じ、多忙さによる疲労と理性を利用し、必死に男の性を抑え、今日までハグやキス以上の手は出さず、ジェラルドはずっと耐えて来たのだ。
そんな中、このように突然、強く求められている状況。切実さと恥じらいの交じる面持ちで、必死にすがりついてくる今のアンジュは、男を惑わす小悪魔のようにさえ見えてくる。
しかし、宵の海と化した瞳は、憂いていても変わらず澄んでいて、無垢な幼子のように清かった。だからこそ、余計にいとおしくて堪らない。が、同時に、ひどく痛々しかった。細身の身体は、微かに震えている。このまま手を出してしまったら、彼女を完全に壊してしまうのではないか、と躊躇う。今の状態が、更に悪くならないか気になった。
どうしたら良いか判らないまま、ジェラルドは一呼吸し、言いにくそうに忠告をする。
「……喉……声、を発しないと、辛い……かも、しれない……」
ふるふる、とアンジュは赤らんだ顔を左右に振った。『それでもいい』と言うように。胸元に擦り付けていた額を上げ、困惑と葛藤が浮かんでいる彼の頬に、恐々と自分の唇を、柔くあてた。
他人への挨拶、家族間の親愛のキスやスキンシップすら、まともにした経験に乏しい彼女は、恋人へのキスの仕方など……全く分からない。だから、いつもジェラルドが自分にしてくれていたやり方を、真似たのだ。
秘かに、ずっと綺麗だと思っていた、彼の首筋のライン、襟足の髪の毛、耳たぶ…… ずっと惹き付けられていた箇所に、精一杯の好意を込め、軽く啄むように、何度も、何度も、拙いキスをした。
それに気づいたジェラルドは、激しい羞恥と衝動に襲われた。反発心を刺激する可愛らしい悪戯、又はいじらしい愛情表現にも感じる、彼女の誘い……
努め鎮めていた情欲が煽られ、一気に膨れ上がり、揺れ動く。脳内が熱く燃え、意識を甘く蕩けさす。既に、途切れ途切れだった理性が、今にも彼方に飛びそうだった。
「やめろ‼ 本当に、するぞ……⁉」
慌てて彼女から身体を離し、半ば脅かすように渾身の最終警告を放つ。が、『いい』と、アンジュは思った。
彼と出逢ってから少しずつ知った、不器用だけど深い優しさ。触れ合うようになってから教えてもらった人の温もり……満たされていく想い。それら全てを、今、身体中に沁み渡る位に……自身全てで感じたい。そんな飾らない自分そのままを、生まれたままの姿を、まるごと求めて、受け入れて欲しい……
若葉色に揺らめく瞳を見つめ、優しい警告を発した彼の口元を、ゆったりと合わせ塞ぐように、おぼつかな仕草で自身の唇を、柔く重ねる。が、自意識と羞恥が途端に働き、急いで離し、目を伏せた。
刹那――熱くなっていた頬が、急にひやり、とし、少しかさついた柔らかなもので包まれた。ウッド調の香が鼻腔を擽る、と同時に、ずっと乞い求めていた感触が、口元を被う。覚えのあるいとおしい温かな重みに、そのまま身体が圧され、視界が仰向けに反転した。
背に感じる、安価なマットレスのまだ慣れない反動。頭部を髪ごと撫で上げる、節くれた長い指の感触。繋いだ大きな掌。すぐ傍で耳に響く粘のある水音と、ざらついた柔らかな刺激。しがみつくように掴んだ、広い肩……
あの海辺を離れて英国に来てから、アンジュが見つけた好きなものの中で、今、自分を包み抱いている全てが、一番温かくて、尊い存在だった。
最も、しあわせだと思った瞬間。甘やかな高鳴りとぬくもりに満たされ、安心できると感じる行為……
今までよりも性急に衣類を剥がし落とされ、露になった質感の異なる素肌が触れ合い、荒々しく撫でられる。お互いの身体に唇をあてていくにつれ、艶やかに鳴るリップ音、湿度を含んだ息が吐かれていく音が……響く。
だが、口から声は出なかった。落胆する反面、どこか諦めもあったアンジュは、甘痒い刺激に反応して深く零れる吐息と繋いだ指先に、切々とした恋情を込めた。
一方、ジェラルドは、時折、蘇る意識と理性の中で、以前と同じように、彼女の甘く愛らしい……声が聴きたい、と切なく願った。この行為で少しでも戻るなら……と、そんな一縷の希望を、触れる指や舌先に、激する欲と共に込める。
そんな彼の思いを知らないアンジュは、生まれて初めて身体中を駆け抜ける、しあわせな痛みと気もち好さに、戸惑いながらもひたすら耐えていた。だが、やはり、抑えた声すら出ない。
しかし、荒くも深い呼吸音に交じり、弦の上に小鳥が留まった刹那のような、ほんの微かな音が、唇から漏れた事に、アンジュは気づいた。生理的なものとは違う、よろこびの滴が、眼から零れる。――嬉しかった。こんな形でも、こんなやり方でも良かった、と……
その吉報を、ジェラルドに伝える術は無い。艶な猛りを増す彼は、おそらく気づいていないだろう。胸に積もり詰まっていくいとおしさと共に、汗ばんだ彼の背中にしがみついた指先と、未だ絶え間無く溢れる熱い吐息に、高鳴る歓喜を込めた。
幾度も密着し、重なり繋がる度、優しくしてくれる度、逆に激しく求められる度、必要とされている気がした。自分も、この世界の一部になって良いと認められたような……生きていて良いと、ひりひり、と身体中に沁み渡る位に刻まれた気がしたのだ。
――ああ……そうか。私は……ずっと……
――目に見えない『証』が、何よりもほしかったんだ……
幸せも『愛』という名の存在も、世界のどこかにあるということだけは、何故か知っている。なのに、どんなものかは分からない。どうしたら手に入れられるかも知らない……
遠退く意識の中、そんな風に耽っていた彼女を心配そうに覗き込み、見つめてきたジェラルドと視線が繋がった。彼の翡翠に揺れる瞳を見て、ふと、子供の頃に読んだ『青い鳥』という童話を、アンジュは思い出した。
幸福を運んでくるが、簡単には見つからない。青の翼を持つ、そんな幻の鳥は、実は自分達のすぐ傍にいた。そんな前向きで夢あふれる物語が、アンジュはとても好きで……憧れだった。
あの頃は……いつも一人で歌っていた場所……あのターコイズグリーンに煌めく、美しい海辺がそうだったように思う。思えば、ジェラルドの瞳の色に似ていた……
――今は……この人が、青い鳥だわ
それなのに、どれだけ日々を一緒に過ごしても、優しくしてもらっても、満たされるのはほんの一時で、また次を求めてしまうのは……何故だろう。挙げ句、『すぐに消えていなくなってしまうのではないか』と、その幸せの鳥を閉じ込めてしまいそうな自分が……恐ろしい。
見つけたのに、こんな近くにいるのに、いないような錯覚。永遠に乞い求め、さ迷い続ける……そんな終わらない放浪のような旅は、いつまで続くのだろう……
執着なのか、依存なのか、独占欲なのかも分からない。全てかもしれない。
この人が、『すき』……今、はっきり判るのは、それだけだった。
一夜明け、淡い夏の日射しが室内に入り込む頃、朧気な意識の中、先にアンジュが瞼を開いた。すぐ傍に温かい胸板がある。程好く肉付いた固い腕が、彼女の身体を包むように回されていた。
気怠い体を少し動かし、上向く。乱れたブルネットの髪、同じ色の扇状に伏せられた長い睫毛、すっと通った鼻筋が、深い寝息と共にあった。今更ながら、心が甘くときめく。
――私、すきな男、と……初めて……
昨夜、自分が彼にねだった事を思い出し、途端に羞恥でいたたまれなくなった。やたら熱いのは、気温のせいじゃない。腕枕にしてくれていた方の手の、節くれた長い指を、そっ、と合わせ握る。下腹部には、しあわせな痛みの余韻が疼いていた。
――うれしい……の、に……
心の空洞は埋まっていない……そんな自分が悲しく、改めて嫌になる。だが、僅かな光を感じた瞬間は、しっかりと覚えていた。
又一ヶ月が経ち、北の英国もようやく夏らしさを迎えた。暑くなると人は開放的になるというが、アンジュは異なる理由で、精神的に突飛出るようになっていた。
あの初めての夜以来、人の温もりが無性に恋しくて仕方なくなったのだ。その相手が、好きな男だから尚更だった。求めてもらえるなら、いっそのこと性的な欲が理由でも良い……とまで思い詰めていく。
必要とされるなら、こんな自分の身体でも良いなら、まるごと差し出して構わない…… そんな偏った衝動が募ると、彼にせがみ、もっと触れてほしいと求めた。
引かれて嫌われる恐怖よりも、そんな恥ずかしい言動や情けない心を、無条件に受け止めてくれる一時が、欲しかったのかもしれない……
あの時。ほんの微かな『音』が喉から出た事を、アンジュから筆談で知ったジェラルドは、良い方に向かったならという一縷の希望と、彼女へのシンプルな情欲から、可能な限り応えていた。
しかし、あの行為にどんどん溺れていく彼女と自分が、少し怖くもあった。避妊はしているが、依存的になっているのが判る。そんなやるせない思いを紛らわしたく、ジェラルドも晩酌の回数が増えていた。
―――…………
……初めて感じた『好き』って、どんなだっただろう、と自嘲的にアンジュは振り返る。昔は、相手が自分を好きでなくても、ただ、傍にいて、話せるだけで安心出来た……
だが今は、自分を受け入れ、求められる喜びを知ってしまった。『甘えて良い』という赦しを、生まれて初めてもらったような……気がする。
――私は、ただ、愛されたくて、それだけの為に生きてたの……?
ある夜。晩酌を終えたジェラルドと、カウチでの日課の筆談中、最近の彼女を心配した彼に、少し迷った後、アンジュはそんな思いを吐露した。
『私は、私が、嫌いです』
「……な、に言……」
『弱くて、何も無い……できない』
「……⁉」
絶句する彼に、自嘲気味に続けてアンジュは書いていく。
『歌も……役に立って、認めてもらいたかったから……頑張ってただけ』
『誰も、救えなかった』
次々に綴られる、後ろ向きで悲観的な言葉……悲痛な面持ちで、彼女からペンとメモ帳を取り上げ、ジェラルドはそのままきつく抱き寄せた。
「……俺は、救われた、と言っても……か?」
アンジュの宵の瞳孔が開く。初耳で、知らなかった彼の心の奥。
「初めて会った夜……一小節の歌が良かったと言ったのは……嘘じゃない」
あまり世辞を言わない彼の賞賛は説得力はある。が、彼女には半信半疑だった。
「『ポピーの涙』……俺は聴いた。が……あの歌を歌いたい、と傷ついても願う君を見ていた時から…… この世も、そんなに悪くないのかもしれないと、初めて……思った……」
アンジュの心の空洞に、柔らかな綿が詰められていく。
「それでも誰か……そいつが褒め、認めないと……君は、救われないのか……⁉」
「辛いなら、歌わなくていい。歌いたいなら歌えばいい。君が、選べばいい……生きていてさえくれたら……君が、君でいてくれたら…… 何故、そんなに……卑下、する……」
激していく反面、掠れていく彼の真摯な想いが、アンジュの心に入り込み、切に滲みた。目頭が痛くなり、一筋の滴が流れる。関を切り、次から次に、熱い水が零れる……
ジェラルドが、どうしてこんなに自分を大事にしてくれるのか、アンジュにはずっとわからなかった。だけど、今は信じたい……信じてみたいと、強く願う。
きつく抱かれた腕の中で、嗚咽すら出来ないまま、肩を震わせ、アンジュは静かに泣いた。こんなに心が動いたのは、いつぶりだろう。
今なら、出せるかもしれない。かつて無い喜びの勢いで、今、一番口にしたい言葉……彼の名を、呼びたい。
「……っ、は………」
「シスリー?」
大好きな人の悲しげな翡翠の瞳を、しっかりと見つめ、アンジュは口を開け、ぱくぱく、と必死に動かす。首を抑え、喉奥から、音を出そうとした。今、一番、口にしたい言葉を。
「……じ……ジェ……」
「……‼」
掠れた音と共に、歓喜と希望が射した。しかし、彼女の濡れた唇からこぼれるのは、短い呼吸音と深く苦しそうな吐息だけだ。苛立つように、小刻みに首を振り、胸を叩き始める。
「…………っ‼」
涙を流しながら、必死に自分を喜ばせ、安心させようとしているアンジュが、次第に痛ましく、辛くなる。堪らなくなり、ジェラルドは再び抱き寄せた。
「いい。もう、いい…… 無理、するな」
焦りたくない。今より悪くなる位なら、このままでいい……
「……さっきの言葉も……忘れてくれ」
動揺し、戸惑ったアンジュは、怪訝そうに小首を傾げる。ようやく呼吸が整った口元を、ゆっくりと動かす。
『なぜ、です、か……?』
「……酔っ払いの戯言だ」
ジェラルドは酒に弱くはない。晩酌で呑んだのも、節約の為に水割りのウイスキーをグラスに一杯だけ。呂律も回っていない。が、酔った時のように頬が赤らんでいる。
そんな彼を見ているうち、切なくもいとおしさで苦しくなったアンジュは、泣き顔のまま、少し微笑を浮かべた。
久方ぶりの彼女の微笑み……ジェラルドは驚き、突然の贈り物をもらったような気分になった。少しずつでいい、元のアンジェリークに戻ってくれたら……
「……眠ろう」
傷ついて、傷つけて、苛立ちで腹ただしくなる時もある。なのに離れたいと思えないのは、こんな風に、互いからしか吹かない風が、心を不意に温めるからだ。
それを手放し、離れた後の自分がどうなってしまうのか……彼らには想像できない。する事自体に怯えている。
『傍にいたい』『触れていたい』という、不規則だが頻繁に訪れる、ちぐはぐな小波。それだけを頼りに、先行きも逃げ場も見えない海面に揺蕩う。そこで、二人で食べて、眠って、息をする。それらが、今を生き抜く、唯一の術だった。
……たとえ、そこが焼け焦げた荒地に、やがて変わるとしても。