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★心乞う最上は

ー/ー



 アンジュが声を失くしてから一ヶ月程が過ぎ、季節は初夏に変わった。欧州から孤立した英国は、(いま)だ先行きの見えない、濃く真っ暗な空気だけが漂い、いつ余命宣告が下るか分からない渦中のような、絶望的な時流が襲っている。
 それは、ウェールズの田舎町にひっそり暮らしている、若い恋人達も同じだった。アンジュの口からは、未だ微かな音すら出ないでいる。
 しかし、人間とは不思議なもので、初めは二人共に困惑と悲観を抱えながら過ごしていたが、少しずつ、そんな暮らしを諦め半分、受け入れつつあった。基本的に無音、無言の時間ばかりだったが、それにもだいぶ慣れた。
 ジェラルド自身が、それほど多弁でなかったのもあった。アンジュとの意思疎通や連絡は、筆談と彼女の唇の動きを読む事で、どうにかなっている。
 だが、()()()()ずっと、彼女の表情が固まったまま、微笑みすら見せなくなった事が、彼には、一番(こた)えた。

 そんなある日、ジェラルドは休暇をとり、少々遠方の町の役所まで赴いた。例の『良心的兵役拒否権』の申請をしに来たのだ。婚約者同然のパートナーが病気である身なら、尚更、自身まで危険に晒す訳にはいかない、と考えての事だ。
 審査が通るのを願うばかりだったが、それはアンジュも同じ……いや、今の彼女には、ある意味彼以上に切実で、悲壮感しかない心境だった。

 ――ダメだったら、どうしよう。怖い。怖くて堪らない。彼が、激戦地へ行く……
 ――この人までいなくなって消えてしまったら、どうしたら良いの……

 考えただけでも、身震いする位に恐ろしい未来だ。想像すらしたくない。

 ――私は、全然、大丈夫じゃない。あんなに歌を褒めてもらっても、全然、立派じゃない。偉くもない
 ――こんなに、どうしようもなく弱くて、みっともない位にすがっている、脆い人間だったんだ……


 その夜。奇妙な静寂の中、久しぶりに二人でゆっくり夕食をとる。簡素だがジェラルドの好物を作ったのだ。久方ぶりに見る嬉しそうな面持ちで、シチューを平らげていく彼を、アンジュは切ない思いで見ていた。

 ――あと何回、彼とこんな風に過ごせるんだろう……
 ――こんなに穏やかな日々も、終わってしまうのだろうか……

 いつものようにシャワーを浴び、共に床につく時、アンジュは思い詰めた様子で、ジェラルドの手を取った。

「どうした?」

 何か言いたい事がある時は、軽く身体に触れる仕草を合図にしていた。が、いつも以上に神妙な気配が気になる。

『……おねがい、が、あります』

 少し頬を桃色に染め、ゆっくりと唇を動かし、そんな事を告げる彼女に、ジェラルドは身構えた。こんな風に、アンジュが何かをねだる事など、ほとんど無い。頼られたのは嬉しいが、ぴん、とした緊張感が、(ほの)暗く漂う。

「何だ?」

 返答した瞬間、しゅる、とアンジュは、ネグリジェの胸元を絞っている細いリボンをほどいた。そして、膨らんだ綿素材のスリーブ部分も緩ませ、ずり下げようと必死に指先を動かし、もがいている。
 そんな彼女の所為に、ジェラルドは唖然とした。一瞬、何が起きているのか解らず、意識が止まった。しかし、彼女の素肌が次第に(あらわ)になっていくにつれ、状況をようやく理解した瞬間、どくん、と心臓が一気に跳ね上がる。

「何、してる⁉ ……やめろ‼」

 止めさせようとした彼に、両手首を強く掴まれたが、アンジュは構わず、いとおしい固い胸板に自身の身体を強引に(ゆだ)ね、預けた。彼が激しく狼狽(うろた)えているのが判る。しかし、切々とした激しい想いが溢れ返って止まらない。
 ()じゃないと、ダメだった。今、この人(ジェラルド)に触れて、抱いてもらわないと、()が、自分全てが死んでしまいそうだった。
 公的な縁は無くても、こんな(いびつ)な形でも、いつ、どんな火の粉が降り掛かるか分からない、こんな危うい時代(とき)だからこそ、衝動的で、刹那的なやり方でも……良かったのだ。
 この酷な世界で、自分は生きていて()()、濁流の中でも生きてゆける、という絶対的で確かな()を与えて欲しかった。はっきりと、この身体全てに染み付くように、差し出して欲しい……
 誰でも良い訳じゃない。()()()だから、特別なこの人だから――()()()。出会ってから少しずつ知って、もらった優しさを、深い想いを、もっと味わって、感じて、返したい……

 胸元のリボンが緩みほどけ、アンジュのなめらかなデコルテと細い肩が現れ、はだけた。そのまますがり付くようにジェラルドの腕を握り、切羽詰まった面持ちで見つめる。そんないじらしくも扇情的な光景に、喉に詰まっていた熱い塊が、ごく、と下っていった。

「シスリー……?」
「……()()、のか?」

 反射的に小さく頷き、腕に握られた細い指に、更に力がこもる。意を決したような、波打つ宵の海の()を向けてくる。『このまま、()()()()をして欲しい』と、彼女はおそらく願っているという、突然の状況に動揺し、思考が錯乱する。
 他の男の訃報がショックで声を無くし、他人に触れられる事に過敏になったアンジュが、何故、今ここまで自分を求めるのか、ジェラルドには理解できなかった。

 ――何故、急にこんな……? 自分は何も力になれないのではなかったか……?

 自虐的に視線を反らし、顔を彼女から背け、切に訴えるように呟く。

「……だめだ。傷つける、かもしれない」

 共にロンドンから避難し、同じ部屋で寝泊まりして暮らすようになってから数ヶ月。一度も最後までは身体を重ねていない。引っ越す際、秘かに用意した避妊具も使っていない。彼女の傷んだ心身を案じ、多忙さによる疲労と理性を利用し、必死に男の(さが)を抑え、今日までハグやキス以上の手は出さず、ジェラルドはずっと耐えて来たのだ。
 そんな中、このように突然、強く求められている状況。切実さと恥じらいの交じる面持ちで、必死にすがりついてくる今のアンジュは、男を惑わす小悪魔のようにさえ見えてくる。
 しかし、宵の海と化した()は、憂いていても変わらず澄んでいて、無垢な幼子のように清かった。だからこそ、余計にいとおしくて堪らない。が、同時に、ひどく痛々しかった。細身の身体は、微かに震えている。このまま手を出してしまったら、彼女を()()()壊してしまうのではないか、と躊躇(ためら)う。今の状態が、更に悪くならないか気になった。

 どうしたら良いか判らないまま、ジェラルドは一呼吸し、言いにくそうに忠告をする。

「……喉……声、を発しないと、辛い……かも、しれない……」

 ふるふる、とアンジュは赤らんだ顔を左右に振った。『それでもいい』と言うように。胸元に擦り付けていた額を上げ、困惑と葛藤が浮かんでいる彼の頬に、恐々と自分の唇を、柔くあてた。
 他人への挨拶、家族間の親愛のキスやスキンシップすら、まともにした経験に乏しい彼女は、恋人へのキスの仕方など……全く分からない。だから、いつもジェラルドが自分にしてくれていたやり方を、真似(まね)たのだ。
 秘かに、ずっと綺麗だと思っていた、彼の首筋のライン、襟足の髪の毛、耳たぶ…… ずっと惹き付けられていた箇所に、精一杯の好意を込め、軽く啄むように、何度も、何度も、拙いキスをした。

 それに気づいたジェラルドは、激しい羞恥と衝動に襲われた。反発心を刺激する可愛らしい悪戯、又はいじらしい愛情表現(スキンシップ)にも感じる、彼女の誘い……
 努め鎮めていた情欲が煽られ、一気に膨れ上がり、揺れ動く。脳内が熱く燃え、意識を甘く(とろ)けさす。既に、途切れ途切れだった理性が、今にも彼方に飛びそうだった。

「やめろ‼ 本当に、()()ぞ……⁉」

 慌てて彼女から身体を離し、半ば脅かすように渾身の最終警告を放つ。が、『いい』と、アンジュは思った。
 彼と出逢ってから少しずつ知った、不器用だけど深い優しさ。触れ合うようになってから教えてもらった人の温もり……満たされていく想い。それら全てを、今、身体中に沁み渡る位に……自身全てで感じたい。そんな飾らない自分そのままを、生まれたままの姿を、まるごと求めて、受け入れて欲しい……
 若葉色に揺らめく瞳を見つめ、優しい警告を発した彼の口元を、ゆったりと合わせ塞ぐように、おぼつかな仕草で自身の唇を、柔く重ねる。が、自意識と羞恥が途端に働き、急いで離し、目を伏せた。
 刹那――熱くなっていた頬が、急にひやり、とし、少しかさついた柔らかなもので包まれた。ウッド調の(こう)が鼻腔を擽る、と同時に、ずっと乞い求めていた感触が、口元を被う。覚えのあるいとおしい温かな重みに、そのまま身体が()され、視界が仰向けに反転した。
 背に感じる、安価なマットレスのまだ慣れない反動。頭部を髪ごと撫で上げる、節くれた長い指の感触。繋いだ大きな掌。すぐ傍で耳に響く粘のある水音と、ざらついた柔らかな刺激。しがみつくように掴んだ、広い肩……

 あの海辺(ふるさと)を離れて英国に来てから、アンジュが見つけた好きなものの中で、今、自分を包み抱いている全てが、一番温かくて、尊い存在だった。
 最も、()()()()だと思った瞬間。甘やかな高鳴りとぬくもりに満たされ、安心できると感じる行為……
 今までよりも性急に衣類を剥がし落とされ、(あらわ)になった質感の異なる素肌が触れ合い、荒々しく撫でられる。お互いの身体に唇をあてていくにつれ、(つや)やかに鳴るリップ音、湿度を含んだ息が吐かれていく音が……響く。
 だが、口から()は出なかった。落胆する反面、どこか諦めもあったアンジュは、甘(がゆ)い刺激に反応して深く零れる吐息と繋いだ指先に、切々とした恋情を込めた。

 一方、ジェラルドは、時折、蘇る意識と理性の中で、以前と同じように、彼女の甘く愛らしい……()が聴きたい、と切なく願った。この行為で少しでも戻るなら……と、そんな一縷(いちる)の希望を、触れる指や舌先に、激する欲と共に込める。
 そんな彼の思いを知らないアンジュは、生まれて初めて身体中を駆け抜ける、しあわせな痛みと気もち()さに、戸惑いながらもひたすら耐えていた。だが、やはり、抑えた声すら出ない。
 しかし、荒くも深い呼吸音に交じり、弦の上に小鳥が留まった刹那(せつな)のような、ほんの微かな音が、唇から漏れた事に、アンジュは気づいた。生理的なものとは違う、よろこびの(しずく)が、()から零れる。――嬉しかった。こんな形でも、こんなやり方でも良かった、と……
 その吉報を、ジェラルドに伝える術は無い。(えん)な猛りを増す彼は、おそらく気づいていないだろう。胸に積もり詰まっていくいとおしさと共に、汗ばんだ彼の背中にしがみついた指先と、未だ絶え間無く溢れる熱い吐息に、高鳴る歓喜を込めた。
 幾度も密着し、重なり繋がる度、優しくしてくれる度、逆に激しく求められる度、必要とされている気がした。自分も、この世界の一部になって良いと認められたような……生きていて良いと、ひりひり、と身体中に沁み渡る位に刻まれた気がしたのだ。

 ――ああ……そうか。私は……ずっと……
 ――目に見えない『証』が、何よりもほしかったんだ……

 ()()も『愛』という名の存在も、世界のどこかにあるということだけは、何故か知っている。なのに、どんなものかは分からない。どうしたら手に入れられるかも知らない……

 遠退(とおの)く意識の中、そんな風に(ふけ)っていた彼女を心配そうに覗き込み、見つめてきたジェラルドと視線が繋がった。彼の翡翠(ひすい)に揺れる瞳を見て、ふと、子供の頃に読んだ『青い鳥』という童話を、アンジュは思い出した。
 幸福を運んでくるが、簡単には見つからない。青の翼を持つ、そんな幻の鳥は、実は自分達のすぐ傍にいた。そんな前向きで夢あふれる物語が、アンジュはとても好きで……憧れだった。
 あの頃は……いつも一人で歌っていた場所……あのターコイズグリーンに煌めく、美しい海辺がそうだったように思う。思えば、ジェラルドの()の色に似ていた……

 ――今は……()()()が、青い鳥だわ

 それなのに、どれだけ日々を一緒に過ごしても、優しくしてもらっても、満たされるのはほんの一時(ひととき)で、また()を求めてしまうのは……何故だろう。挙げ句、『すぐに消えていなくなってしまうのではないか』と、その幸せの鳥を閉じ込めてしまいそうな自分が……恐ろしい。
 見つけたのに、こんな近くにいるのに、いないような錯覚。永遠に乞い求め、さ迷い続ける……そんな終わらない放浪のような旅は、いつまで続くのだろう……
 執着なのか、依存なのか、独占欲なのかも分からない。全てかもしれない。
 この人が、『()()』……今、はっきり判るのは、それだけだった。


 一夜明け、淡い夏の日射しが室内に入り込む頃、朧気な意識の中、先にアンジュが(まぶた)を開いた。すぐ傍に温かい胸板がある。程好く肉付いた固い腕が、彼女の身体を包むように回されていた。
 気怠い体を少し動かし、上向く。乱れたブルネットの髪、同じ色の扇状に伏せられた長い睫毛、すっと通った鼻筋が、深い寝息と共にあった。今更ながら、心が甘くときめく。

 ――私、すきな(ひと)、と……初めて……

 昨夜、自分が彼にねだった事を思い出し、途端に羞恥でいたたまれなくなった。やたら熱いのは、気温のせいじゃない。腕枕にしてくれていた方の手の、節くれた長い指を、そっ、と合わせ握る。下腹部には、しあわせな痛みの余韻が疼いていた。

 ――うれしい……の、に……

 心の空洞は埋まっていない……そんな自分が悲しく、改めて嫌になる。だが、僅かな光を感じた瞬間は、しっかりと覚えていた。

 又一ヶ月が経ち、北の英国もようやく夏らしさを迎えた。暑くなると人は開放的になるというが、アンジュは異なる理由で、精神的に突飛出るようになっていた。
 あの初めての夜以来、人の温もりが無性に恋しくて仕方なくなったのだ。その相手が、好きな男(ジェラルド)だから尚更だった。求めてもらえるなら、いっそのこと性的な欲が理由でも良い……とまで思い詰めていく。
 必要とされるなら、こんな自分の身体でも良いなら、まるごと差し出して構わない…… そんな偏った衝動が募ると、彼にせがみ、もっと触れてほしいと求めた。
 引かれて嫌われる恐怖よりも、そんな恥ずかしい言動や情けない心を、無条件に受け止めてくれる一時(ひととき)が、欲しかったのかもしれない……

 ()()()。ほんの微かな『音』が喉から出た事を、アンジュから筆談で知ったジェラルドは、良い方に向かったならという一縷(いちる)の希望と、彼女へのシンプルな情欲から、可能な限り応えていた。
 しかし、あの行為にどんどん溺れていく彼女と自分が、少し怖くもあった。避妊はしているが、依存的になっているのが判る。そんなやるせない思いを紛らわしたく、ジェラルドも晩酌の回数が増えていた。

 ―――…………

 ……初めて感じた『好き』って、どんなだっただろう、と自嘲的にアンジュは振り返る。昔は、相手が自分を好きでなくても、ただ、傍にいて、話せるだけで安心出来た……
 だが今は、自分を受け入れ、求められる喜びを知ってしまった。『甘えて良い』という赦しを、生まれて初めてもらったような……気がする。

 ――私は、ただ、()されたくて、それだけの為に生きてたの……?


 ある夜。晩酌を終えたジェラルドと、カウチでの日課の筆談中、最近の彼女を心配した彼に、少し迷った後、アンジュはそんな思いを吐露した。

『私は、()が、嫌いです』
「……な、に言……」
『弱くて、何も無い……できない』
「……⁉」

 絶句する彼に、自嘲気味に続けてアンジュは書いていく。

『歌も……役に立って、認めてもらいたかったから……頑張ってただけ』
『誰も、救えなかった』

 次々に綴られる、後ろ向きで悲観的な言葉……悲痛な面持ちで、彼女からペンとメモ帳を取り上げ、ジェラルドはそのままきつく抱き寄せた。

「……俺は、救われた、と言っても……か?」

 アンジュの(よい)の瞳孔が開く。初耳で、知らなかった彼の心の奥。

「初めて会った夜……一小節(ワンフレーズ)の歌が良かったと言ったのは……嘘じゃない」

 あまり世辞を言わない彼の賞賛は説得力はある。が、彼女には半信半疑だった。

「『ポピーの涙』……俺は聴いた。が……あの歌を歌いたい、と傷ついても願う君を見ていた時から…… この世も、そんなに悪くないのかもしれないと、初めて……思った……」

 アンジュの心の空洞に、柔らかな綿(わた)が詰められていく。

「それでも()()……()()()が褒め、認めないと……君は、救われないのか……⁉」
「辛いなら、歌わなくていい。歌いたいなら歌えばいい。君が、選べばいい……生きていてさえくれたら……君が、君でいてくれたら…… 何故、そんなに……卑下、する……」

 激していく反面、掠れていく彼の真摯な想いが、アンジュの心に入り込み、切に滲みた。目頭が痛くなり、一筋の(しずく)が流れる。関を切り、次から次に、熱い水が零れる……

 ジェラルドが、どうしてこんなに自分を大事にしてくれるのか、アンジュにはずっとわからなかった。だけど、今は信じたい……信じてみたいと、強く願う。
 きつく抱かれた腕の中で、嗚咽(おえつ)すら出来ないまま、肩を震わせ、アンジュは静かに泣いた。こんなに心が動いたのは、いつぶりだろう。
 今なら、出せるかもしれない。かつて無い喜びの勢いで、今、一番口にしたい言葉……彼の名を、呼びたい。

「……っ、は………」
「シスリー?」

 大好きな人の悲しげな翡翠の瞳を、しっかりと見つめ、アンジュは口を開け、ぱくぱく、と必死に動かす。首を抑え、喉奥から、音を出そうとした。今、一番、口にしたい言葉を。

「……じ……ジェ……」
「……‼」

 掠れた音と共に、歓喜と希望が射した。しかし、彼女の濡れた唇からこぼれるのは、短い呼吸音と深く苦しそうな吐息だけだ。苛立つように、小刻みに首を振り、胸を叩き始める。

「…………っ‼」

 涙を流しながら、必死に自分を喜ばせ、安心させようとしているアンジュが、次第に痛ましく、辛くなる。堪らなくなり、ジェラルドは再び抱き寄せた。

「いい。もう、いい…… 無理、するな」

 焦りたくない。今より悪くなる位なら、このままでいい……

「……さっきの言葉も……忘れてくれ」

 動揺し、戸惑ったアンジュは、怪訝そうに小首を傾げる。ようやく呼吸が整った口元を、ゆっくりと動かす。

『なぜ、です、か……?』
「……酔っ払いの戯言(たわごと)だ」

 ジェラルドは酒に弱くはない。晩酌で呑んだのも、節約の為に水割りのウイスキーをグラスに一杯だけ。呂律(ろれつ)も回っていない。が、酔った時のように頬が赤らんでいる。
 そんな彼を見ているうち、切なくもいとおしさで苦しくなったアンジュは、泣き顔のまま、少し微笑を浮かべた。
 久方ぶりの彼女の微笑み……ジェラルドは驚き、突然の贈り物をもらったような気分になった。少しずつでいい、元のアンジェリークに戻ってくれたら……

「……眠ろう」


 傷ついて、傷つけて、苛立ちで腹ただしくなる時もある。なのに離れたいと思えないのは、こんな風に、互いからしか吹かない風が、心を不意に温めるからだ。
 それを手放し、離れた後の自分がどうなってしまうのか……彼らには想像できない。する事自体に怯えている。
 『傍にいたい』『触れていたい』という、不規則だが頻繁に訪れる、ちぐはぐな小波(さざなみ)。それだけを頼りに、先行きも逃げ場も見えない海面に揺蕩(たゆた)う。そこで、二人で食べて、眠って、息をする。それらが、()を生き抜く、唯一の(すべ)だった。

 ……たとえ、そこが焼け焦げた荒地に、やがて変わるとしても。


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 アンジュが声を失くしてから一ヶ月程が過ぎ、季節は初夏に変わった。欧州から孤立した英国は、|未《いま》だ先行きの見えない、濃く真っ暗な空気だけが漂い、いつ余命宣告が下るか分からない渦中のような、絶望的な時流が襲っている。
 それは、ウェールズの田舎町にひっそり暮らしている、若い恋人達も同じだった。アンジュの口からは、未だ微かな音すら出ないでいる。
 しかし、人間とは不思議なもので、初めは二人共に困惑と悲観を抱えながら過ごしていたが、少しずつ、そんな暮らしを諦め半分、受け入れつつあった。基本的に無音、無言の時間ばかりだったが、それにもだいぶ慣れた。
 ジェラルド自身が、それほど多弁でなかったのもあった。アンジュとの意思疎通や連絡は、筆談と彼女の唇の動きを読む事で、どうにかなっている。
 だが、|あ《・》|れ《・》|か《・》|ら《・》ずっと、彼女の表情が固まったまま、微笑みすら見せなくなった事が、彼には、一番|堪《こた》えた。
 そんなある日、ジェラルドは休暇をとり、少々遠方の町の役所まで赴いた。例の『良心的兵役拒否権』の申請をしに来たのだ。婚約者同然のパートナーが病気である身なら、尚更、自身まで危険に晒す訳にはいかない、と考えての事だ。
 審査が通るのを願うばかりだったが、それはアンジュも同じ……いや、今の彼女には、ある意味彼以上に切実で、悲壮感しかない心境だった。
 ――ダメだったら、どうしよう。怖い。怖くて堪らない。彼が、激戦地へ行く……
 ――この人までいなくなって消えてしまったら、どうしたら良いの……
 考えただけでも、身震いする位に恐ろしい未来だ。想像すらしたくない。
 ――私は、全然、大丈夫じゃない。あんなに歌を褒めてもらっても、全然、立派じゃない。偉くもない
 ――こんなに、どうしようもなく弱くて、みっともない位にすがっている、脆い人間だったんだ……
 その夜。奇妙な静寂の中、久しぶりに二人でゆっくり夕食をとる。簡素だがジェラルドの好物を作ったのだ。久方ぶりに見る嬉しそうな面持ちで、シチューを平らげていく彼を、アンジュは切ない思いで見ていた。
 ――あと何回、彼とこんな風に過ごせるんだろう……
 ――こんなに穏やかな日々も、終わってしまうのだろうか……
 いつものようにシャワーを浴び、共に床につく時、アンジュは思い詰めた様子で、ジェラルドの手を取った。
「どうした?」
 何か言いたい事がある時は、軽く身体に触れる仕草を合図にしていた。が、いつも以上に神妙な気配が気になる。
『……おねがい、が、あります』
 少し頬を桃色に染め、ゆっくりと唇を動かし、そんな事を告げる彼女に、ジェラルドは身構えた。こんな風に、アンジュが何かをねだる事など、ほとんど無い。頼られたのは嬉しいが、ぴん、とした緊張感が、|仄《ほの》暗く漂う。
「何だ?」
 返答した瞬間、しゅる、とアンジュは、ネグリジェの胸元を絞っている細いリボンをほどいた。そして、膨らんだ綿素材のスリーブ部分も緩ませ、ずり下げようと必死に指先を動かし、もがいている。
 そんな彼女の所為に、ジェラルドは唖然とした。一瞬、何が起きているのか解らず、意識が止まった。しかし、彼女の素肌が次第に|露《あらわ》になっていくにつれ、状況をようやく理解した瞬間、どくん、と心臓が一気に跳ね上がる。
「何、してる⁉ ……やめろ‼」
 止めさせようとした彼に、両手首を強く掴まれたが、アンジュは構わず、いとおしい固い胸板に自身の身体を強引に|委《ゆだ》ね、預けた。彼が激しく|狼狽《うろた》えているのが判る。しかし、切々とした激しい想いが溢れ返って止まらない。
 |今《・》じゃないと、ダメだった。今、|この人《ジェラルド》に触れて、抱いてもらわないと、|心《・》が、自分全てが死んでしまいそうだった。
 公的な縁は無くても、こんな|歪《いびつ》な形でも、いつ、どんな火の粉が降り掛かるか分からない、こんな危うい|時代《とき》だからこそ、衝動的で、刹那的なやり方でも……良かったのだ。
 この酷な世界で、自分は生きていて|良《・》|い《・》、濁流の中でも生きてゆける、という絶対的で確かな|力《・》を与えて欲しかった。はっきりと、この身体全てに染み付くように、差し出して欲しい……
 誰でも良い訳じゃない。|こ《・》|の《・》|人《・》だから、特別なこの人だから――|し《・》|た《・》|い《・》。出会ってから少しずつ知って、もらった優しさを、深い想いを、もっと味わって、感じて、返したい……
 胸元のリボンが緩みほどけ、アンジュのなめらかなデコルテと細い肩が現れ、はだけた。そのまますがり付くようにジェラルドの腕を握り、切羽詰まった面持ちで見つめる。そんないじらしくも扇情的な光景に、喉に詰まっていた熱い塊が、ごく、と下っていった。
「シスリー……?」
「……|い《・》|い《・》、のか?」
 反射的に小さく頷き、腕に握られた細い指に、更に力がこもる。意を決したような、波打つ宵の海の|瞳《め》を向けてくる。『このまま、|あ《・》|れ《・》|以《・》|上《・》をして欲しい』と、彼女はおそらく願っているという、突然の状況に動揺し、思考が錯乱する。
 他の男の訃報がショックで声を無くし、他人に触れられる事に過敏になったアンジュが、何故、今ここまで自分を求めるのか、ジェラルドには理解できなかった。
 ――何故、急にこんな……? 自分は何も力になれないのではなかったか……?
 自虐的に視線を反らし、顔を彼女から背け、切に訴えるように呟く。
「……だめだ。傷つける、かもしれない」
 共にロンドンから避難し、同じ部屋で寝泊まりして暮らすようになってから数ヶ月。一度も最後までは身体を重ねていない。引っ越す際、秘かに用意した避妊具も使っていない。彼女の傷んだ心身を案じ、多忙さによる疲労と理性を利用し、必死に男の|性《さが》を抑え、今日までハグやキス以上の手は出さず、ジェラルドはずっと耐えて来たのだ。
 そんな中、このように突然、強く求められている状況。切実さと恥じらいの交じる面持ちで、必死にすがりついてくる今のアンジュは、男を惑わす小悪魔のようにさえ見えてくる。
 しかし、宵の海と化した|瞳《め》は、憂いていても変わらず澄んでいて、無垢な幼子のように清かった。だからこそ、余計にいとおしくて堪らない。が、同時に、ひどく痛々しかった。細身の身体は、微かに震えている。このまま手を出してしまったら、彼女を|完《・》|全《・》|に《・》壊してしまうのではないか、と|躊躇《ためら》う。今の状態が、更に悪くならないか気になった。
 どうしたら良いか判らないまま、ジェラルドは一呼吸し、言いにくそうに忠告をする。
「……喉……声、を発しないと、辛い……かも、しれない……」
 ふるふる、とアンジュは赤らんだ顔を左右に振った。『それでもいい』と言うように。胸元に擦り付けていた額を上げ、困惑と葛藤が浮かんでいる彼の頬に、恐々と自分の唇を、柔くあてた。
 他人への挨拶、家族間の親愛のキスやスキンシップすら、まともにした経験に乏しい彼女は、恋人へのキスの仕方など……全く分からない。だから、いつもジェラルドが自分にしてくれていたやり方を、|真似《まね》たのだ。
 秘かに、ずっと綺麗だと思っていた、彼の首筋のライン、襟足の髪の毛、耳たぶ…… ずっと惹き付けられていた箇所に、精一杯の好意を込め、軽く啄むように、何度も、何度も、拙いキスをした。
 それに気づいたジェラルドは、激しい羞恥と衝動に襲われた。反発心を刺激する可愛らしい悪戯、又はいじらしい|愛情表現《スキンシップ》にも感じる、彼女の誘い……
 努め鎮めていた情欲が煽られ、一気に膨れ上がり、揺れ動く。脳内が熱く燃え、意識を甘く|蕩《とろ》けさす。既に、途切れ途切れだった理性が、今にも彼方に飛びそうだった。
「やめろ‼ 本当に、|す《・》|る《・》ぞ……⁉」
 慌てて彼女から身体を離し、半ば脅かすように渾身の最終警告を放つ。が、『いい』と、アンジュは思った。
 彼と出逢ってから少しずつ知った、不器用だけど深い優しさ。触れ合うようになってから教えてもらった人の温もり……満たされていく想い。それら全てを、今、身体中に沁み渡る位に……自身全てで感じたい。そんな飾らない自分そのままを、生まれたままの姿を、まるごと求めて、受け入れて欲しい……
 若葉色に揺らめく瞳を見つめ、優しい警告を発した彼の口元を、ゆったりと合わせ塞ぐように、おぼつかな仕草で自身の唇を、柔く重ねる。が、自意識と羞恥が途端に働き、急いで離し、目を伏せた。
 刹那――熱くなっていた頬が、急にひやり、とし、少しかさついた柔らかなもので包まれた。ウッド調の|香《こう》が鼻腔を擽る、と同時に、ずっと乞い求めていた感触が、口元を被う。覚えのあるいとおしい温かな重みに、そのまま身体が|圧《お》され、視界が仰向けに反転した。
 背に感じる、安価なマットレスのまだ慣れない反動。頭部を髪ごと撫で上げる、節くれた長い指の感触。繋いだ大きな掌。すぐ傍で耳に響く粘のある水音と、ざらついた柔らかな刺激。しがみつくように掴んだ、広い肩……
 あの|海辺《ふるさと》を離れて英国に来てから、アンジュが見つけた好きなものの中で、今、自分を包み抱いている全てが、一番温かくて、尊い存在だった。
 最も、|し《・》|あ《・》|わ《・》|せ《・》だと思った瞬間。甘やかな高鳴りとぬくもりに満たされ、安心できると感じる行為……
 今までよりも性急に衣類を剥がし落とされ、|露《あらわ》になった質感の異なる素肌が触れ合い、荒々しく撫でられる。お互いの身体に唇をあてていくにつれ、|艶《つや》やかに鳴るリップ音、湿度を含んだ息が吐かれていく音が……響く。
 だが、口から|声《・》は出なかった。落胆する反面、どこか諦めもあったアンジュは、甘|痒《がゆ》い刺激に反応して深く零れる吐息と繋いだ指先に、切々とした恋情を込めた。
 一方、ジェラルドは、時折、蘇る意識と理性の中で、以前と同じように、彼女の甘く愛らしい……|声《・》が聴きたい、と切なく願った。この行為で少しでも戻るなら……と、そんな|一縷《いちる》の希望を、触れる指や舌先に、激する欲と共に込める。
 そんな彼の思いを知らないアンジュは、生まれて初めて身体中を駆け抜ける、しあわせな痛みと気もち|好《よ》さに、戸惑いながらもひたすら耐えていた。だが、やはり、抑えた声すら出ない。
 しかし、荒くも深い呼吸音に交じり、弦の上に小鳥が留まった|刹那《せつな》のような、ほんの微かな音が、唇から漏れた事に、アンジュは気づいた。生理的なものとは違う、よろこびの|滴《しずく》が、|眼《め》から零れる。――嬉しかった。こんな形でも、こんなやり方でも良かった、と……
 その吉報を、ジェラルドに伝える術は無い。|艶《えん》な猛りを増す彼は、おそらく気づいていないだろう。胸に積もり詰まっていくいとおしさと共に、汗ばんだ彼の背中にしがみついた指先と、未だ絶え間無く溢れる熱い吐息に、高鳴る歓喜を込めた。
 幾度も密着し、重なり繋がる度、優しくしてくれる度、逆に激しく求められる度、必要とされている気がした。自分も、この世界の一部になって良いと認められたような……生きていて良いと、ひりひり、と身体中に沁み渡る位に刻まれた気がしたのだ。
 ――ああ……そうか。私は……ずっと……
 ――目に見えない『証』が、何よりもほしかったんだ……
 |幸《・》|せ《・》も『愛』という名の存在も、世界のどこかにあるということだけは、何故か知っている。なのに、どんなものかは分からない。どうしたら手に入れられるかも知らない……
 |遠退《とおの》く意識の中、そんな風に|耽《ふけ》っていた彼女を心配そうに覗き込み、見つめてきたジェラルドと視線が繋がった。彼の|翡翠《ひすい》に揺れる瞳を見て、ふと、子供の頃に読んだ『青い鳥』という童話を、アンジュは思い出した。
 幸福を運んでくるが、簡単には見つからない。青の翼を持つ、そんな幻の鳥は、実は自分達のすぐ傍にいた。そんな前向きで夢あふれる物語が、アンジュはとても好きで……憧れだった。
 あの頃は……いつも一人で歌っていた場所……あのターコイズグリーンに煌めく、美しい海辺がそうだったように思う。思えば、ジェラルドの|瞳《め》の色に似ていた……
 ――今は……|こ《・》|の《・》|人《・》が、青い鳥だわ
 それなのに、どれだけ日々を一緒に過ごしても、優しくしてもらっても、満たされるのはほんの|一時《ひととき》で、また|次《・》を求めてしまうのは……何故だろう。挙げ句、『すぐに消えていなくなってしまうのではないか』と、その幸せの鳥を閉じ込めてしまいそうな自分が……恐ろしい。
 見つけたのに、こんな近くにいるのに、いないような錯覚。永遠に乞い求め、さ迷い続ける……そんな終わらない放浪のような旅は、いつまで続くのだろう……
 執着なのか、依存なのか、独占欲なのかも分からない。全てかもしれない。
 この人が、『|す《・》|き《・》』……今、はっきり判るのは、それだけだった。
 一夜明け、淡い夏の日射しが室内に入り込む頃、朧気な意識の中、先にアンジュが|瞼《まぶた》を開いた。すぐ傍に温かい胸板がある。程好く肉付いた固い腕が、彼女の身体を包むように回されていた。
 気怠い体を少し動かし、上向く。乱れたブルネットの髪、同じ色の扇状に伏せられた長い睫毛、すっと通った鼻筋が、深い寝息と共にあった。今更ながら、心が甘くときめく。
 ――私、すきな|男《ひと》、と……初めて……
 昨夜、自分が彼にねだった事を思い出し、途端に羞恥でいたたまれなくなった。やたら熱いのは、気温のせいじゃない。腕枕にしてくれていた方の手の、節くれた長い指を、そっ、と合わせ握る。下腹部には、しあわせな痛みの余韻が疼いていた。
 ――うれしい……の、に……
 心の空洞は埋まっていない……そんな自分が悲しく、改めて嫌になる。だが、僅かな光を感じた瞬間は、しっかりと覚えていた。
 又一ヶ月が経ち、北の英国もようやく夏らしさを迎えた。暑くなると人は開放的になるというが、アンジュは異なる理由で、精神的に突飛出るようになっていた。
 あの初めての夜以来、人の温もりが無性に恋しくて仕方なくなったのだ。その相手が、|好きな男《ジェラルド》だから尚更だった。求めてもらえるなら、いっそのこと性的な欲が理由でも良い……とまで思い詰めていく。
 必要とされるなら、こんな自分の身体でも良いなら、まるごと差し出して構わない…… そんな偏った衝動が募ると、彼にせがみ、もっと触れてほしいと求めた。
 引かれて嫌われる恐怖よりも、そんな恥ずかしい言動や情けない心を、無条件に受け止めてくれる|一時《ひととき》が、欲しかったのかもしれない……
 |あ《・》|の《・》|時《・》。ほんの微かな『音』が喉から出た事を、アンジュから筆談で知ったジェラルドは、良い方に向かったならという|一縷《いちる》の希望と、彼女へのシンプルな情欲から、可能な限り応えていた。
 しかし、あの行為にどんどん溺れていく彼女と自分が、少し怖くもあった。避妊はしているが、依存的になっているのが判る。そんなやるせない思いを紛らわしたく、ジェラルドも晩酌の回数が増えていた。
 ―――…………
 ……初めて感じた『好き』って、どんなだっただろう、と自嘲的にアンジュは振り返る。昔は、相手が自分を好きでなくても、ただ、傍にいて、話せるだけで安心出来た……
 だが今は、自分を受け入れ、求められる喜びを知ってしまった。『甘えて良い』という赦しを、生まれて初めてもらったような……気がする。
 ――私は、ただ、|愛《・》されたくて、それだけの為に生きてたの……?
 ある夜。晩酌を終えたジェラルドと、カウチでの日課の筆談中、最近の彼女を心配した彼に、少し迷った後、アンジュはそんな思いを吐露した。
『私は、|私《・》が、嫌いです』
「……な、に言……」
『弱くて、何も無い……できない』
「……⁉」
 絶句する彼に、自嘲気味に続けてアンジュは書いていく。
『歌も……役に立って、認めてもらいたかったから……頑張ってただけ』
『誰も、救えなかった』
 次々に綴られる、後ろ向きで悲観的な言葉……悲痛な面持ちで、彼女からペンとメモ帳を取り上げ、ジェラルドはそのままきつく抱き寄せた。
「……俺は、救われた、と言っても……か?」
 アンジュの|宵《よい》の瞳孔が開く。初耳で、知らなかった彼の心の奥。
「初めて会った夜……|一小節《ワンフレーズ》の歌が良かったと言ったのは……嘘じゃない」
 あまり世辞を言わない彼の賞賛は説得力はある。が、彼女には半信半疑だった。
「『ポピーの涙』……俺は聴いた。が……あの歌を歌いたい、と傷ついても願う君を見ていた時から…… この世も、そんなに悪くないのかもしれないと、初めて……思った……」
 アンジュの心の空洞に、柔らかな|綿《わた》が詰められていく。
「それでも|誰《・》|か《・》……|そ《・》|い《・》|つ《・》が褒め、認めないと……君は、救われないのか……⁉」
「辛いなら、歌わなくていい。歌いたいなら歌えばいい。君が、選べばいい……生きていてさえくれたら……君が、君でいてくれたら…… 何故、そんなに……卑下、する……」
 激していく反面、掠れていく彼の真摯な想いが、アンジュの心に入り込み、切に滲みた。目頭が痛くなり、一筋の|滴《しずく》が流れる。関を切り、次から次に、熱い水が零れる……
 ジェラルドが、どうしてこんなに自分を大事にしてくれるのか、アンジュにはずっとわからなかった。だけど、今は信じたい……信じてみたいと、強く願う。
 きつく抱かれた腕の中で、|嗚咽《おえつ》すら出来ないまま、肩を震わせ、アンジュは静かに泣いた。こんなに心が動いたのは、いつぶりだろう。
 今なら、出せるかもしれない。かつて無い喜びの勢いで、今、一番口にしたい言葉……彼の名を、呼びたい。
「……っ、は………」
「シスリー?」
 大好きな人の悲しげな翡翠の瞳を、しっかりと見つめ、アンジュは口を開け、ぱくぱく、と必死に動かす。首を抑え、喉奥から、音を出そうとした。今、一番、口にしたい言葉を。
「……じ……ジェ……」
「……‼」
 掠れた音と共に、歓喜と希望が射した。しかし、彼女の濡れた唇からこぼれるのは、短い呼吸音と深く苦しそうな吐息だけだ。苛立つように、小刻みに首を振り、胸を叩き始める。
「…………っ‼」
 涙を流しながら、必死に自分を喜ばせ、安心させようとしているアンジュが、次第に痛ましく、辛くなる。堪らなくなり、ジェラルドは再び抱き寄せた。
「いい。もう、いい…… 無理、するな」
 焦りたくない。今より悪くなる位なら、このままでいい……
「……さっきの言葉も……忘れてくれ」
 動揺し、戸惑ったアンジュは、怪訝そうに小首を傾げる。ようやく呼吸が整った口元を、ゆっくりと動かす。
『なぜ、です、か……?』
「……酔っ払いの|戯言《たわごと》だ」
 ジェラルドは酒に弱くはない。晩酌で呑んだのも、節約の為に水割りのウイスキーをグラスに一杯だけ。|呂律《ろれつ》も回っていない。が、酔った時のように頬が赤らんでいる。
 そんな彼を見ているうち、切なくもいとおしさで苦しくなったアンジュは、泣き顔のまま、少し微笑を浮かべた。
 久方ぶりの彼女の微笑み……ジェラルドは驚き、突然の贈り物をもらったような気分になった。少しずつでいい、元のアンジェリークに戻ってくれたら……
「……眠ろう」
 傷ついて、傷つけて、苛立ちで腹ただしくなる時もある。なのに離れたいと思えないのは、こんな風に、互いからしか吹かない風が、心を不意に温めるからだ。
 それを手放し、離れた後の自分がどうなってしまうのか……彼らには想像できない。する事自体に怯えている。
 『傍にいたい』『触れていたい』という、不規則だが頻繁に訪れる、ちぐはぐな|小波《さざなみ》。それだけを頼りに、先行きも逃げ場も見えない海面に|揺蕩《たゆた》う。そこで、二人で食べて、眠って、息をする。それらが、|今《・》を生き抜く、唯一の|術《すべ》だった。
 ……たとえ、そこが焼け焦げた荒地に、やがて変わるとしても。