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6.波音の子守唄-3

ー/ー



 窓の外から、草原を抜ける風音が聞こえる。
 ざわざわと不規則なようでいながら、どこか一定のリズムを感じるそれは、まるで寄せては返す波のよう。
 緑の海原のさざめきは、父と母の眠る、あの海を臨む小さな丘を思い起こさせる。
 仲良く寄り添う、『両親』の墓標を。
 そして、固く抱きしめあったまま(むくろ)となった『彼』と『彼女』の姿を――。
 ミンウェイは、(まぶた)の裏に浮かび上がった光景を打ち消すように、目元をこすり上げた。
「私っ……」
 震える唇から漏れ出したのは、しゃくりあげるような声だった。
「やっと……、やっと……、お父様に手が届いたと……思ったの……」
 視線を落とし、ミンウェイは自分の掌を見つめる。
「でも……」
 かすれた呟きと共に、ひと雫の涙が落ちた。
 やっと掴んだと思ったものは、砂粒のように指の隙間からこぼれ、足元に押し寄せてきた引き潮に連れ去られていってしまった。
 掌の中に残ったのは、自分自身の涙だけ。
「私……、お父様とは……、『彼』とは……、これでお別れなんだって――亡くなってしまうんだって……、納得していた! 疲れ切ってしまった『彼』が、『最高の終幕(フィナーレ)』を迎えるのだと笑うから、私も笑って見送る覚悟はっ……、ちゃんとできていたわ!」
 自分が泣いているのか、怒っているのか、ミンウェイには分からなかった。
 ただ、胸に溜まった想いが苦しくてたまらないから、吐き出している。もう我慢することはないのだと、波の音が誘ってくれたから。
「だから、最後に、お父様に伝えたかった……! ずっと言えなかったことを。――言ってはいけないのか、言いたくないのか、ずっと分からなかったことを……!」
 ミンウェイは、ぐいと顔を上げた。
 長い黒髪が、緩やかに波打つ。草の香りが、ふわりと広がる。オリジナルの『母親』とも、硝子ケースの『彼女』とも違う、彼女だけの姿で、彼女だけの心を響かせる。
「『愛している』――って……」
 訴えるような叫びを、シュアンは、先ほどから変わらぬ切なげな三白眼のまま、驚くほど自然に受け止めてくれた。あたかも、彼女のその言葉を待っていたかのように。
「ああ、そうだな」
 決して綺麗ではない、むしろ濁声(だみごえ)というべき声が、静かに落とされる。
「『彼』の最期の瞬間には、『愛している』と、あんたが言うつもりだった。いきなり出てきた『彼女』なんかじゃなくて、あんたの腕の中で『彼』は逝くはずだった」
 彼はそこで言葉を切り、一段、低い声で告げる。
「他の奴らは、良い臨終だと感じていたようだったが、あんただけは違った。『彼』は、あんたのものになるはずだったのに、そうならなかった。あんたにしてみれば、最後の最後で裏切られたも同然だった」
「――!」
 ミンウェイが口に出せずにいた、どす黒い想いを、シュアンが代わりに言霊(ことだま)にした。
 醜い部分を(あば)かれた。なのに、心が、ふっと軽くなる。まるで呪縛から解き放たれたかのように。
 だから、なのだろう。
 綺麗な想いの裏側に沈み込ませ、存在そのものをなかったことにしたはずの(きたな)らしい(おり)が、ミンウェイの内部から急速に浮かび上がってきた。
 今なら、この想いを外に出してもいいのだろう、と。
 すべてを口にしても、シュアンなら、どこかに流してくれるから……。
「『彼』……、最後に、私に向かって『幸せにおなり』って言ったの。――それって、どういう意味だか分かる!?」
 切れ長の瞳をきっ、と(とが)らせ、ミンウェイは、シュアンに噛み付くように言い放った。いつもの敬語など、すっかり吹き飛んでいる。
「『自分では、私のことを幸せにするつもりはない』ってことよ!? 私に『ひとりで勝手に幸せになれ』ってことよ! 無責任だと思わない!?」
 こんなの子供の屁理屈だ。『ファンルゥのパパ』であるタオロンが言っていた、『娘の理不尽な癇癪』だ。大人のミンウェイが言うべきことではない。
 けれど。
 (せき)を切った想いは止まらない。
「『彼』だけじゃないの! オリジナルのお父様も同じだったの! お父様が最期に、なんて言ったのか、あのときは私、聞き取れなかった。――でも、さっき分かっちゃったのよ! だって、『彼』と同じ顔だったんだもの!」
 エルファンの刃を受け、地に倒れたオリジナルの父は、泣き叫ぶミンウェイを見上げ、とても満足そうな、幸せそうな顔をしていた。――『彼』と、そっくりな笑みだった。
 だから、理解してしまった。
『幸せにおなり、私の娘……』
 そう祈って、逝ったのだ。『父』も――。
「酷いじゃない、ふたりとも!」
 ミンウェイは柳眉を逆立てる。
「私を置き去りにして、自分たちだけ満足して、幸せになって、勝手に死んじゃうの! ほんと、まったく同じ!」
 吐き捨てても吐き捨てても、怒りのような感情がこみ上げる。
「だって、クローンだもの! そっくりで当然だわ! ――でも、それなら私は『お母様』のクローンよ……!」
 一気にまくし立て、酸素が足りなくて息を吸う。
 その際、何故だか、ひくっと嗚咽のような音がこぼれた。
「……それならっ……、私を選んでくれたって……よかったじゃない……! ずっと、私をお母様の身代わりにしていたんだから……!」
 いつの間にか『彼』と『お父様』が、ごちゃまぜになっている。もう支離滅裂で、滅茶苦茶だ。
 激しく叫んだことでミンウェイの肌は上気し、息が荒くなっていた。なのに体の芯は――心は、()てつくように寒かった。彼女は自分自身を抱きしめ、うずくまる。
 彼女が黙り込むと、窓から入る潮騒のような風音が、より一層はっきりと聞こえてきた。
 ざわざわと。
 時折、荒ぶる波濤の(ごと)く、ごうごうと。
「ミンウェイ」
 殻に閉じこもるように身を縮こめた彼女の名を、シュアンが呼んだ。
 少し離れたところで、胡座をかいていた彼は立ち上がり、彼女へと近づく。ゆっくりと、彼女が嫌がるようであれば、そこで自然に止まれるような速度で。
 ミンウェイは微動だにしなかった。だからシュアンは、彼女の隣に腰を下ろした。
 すぐそばに、シュアンの体温。寒さに震えるミンウェイの心が、ほんのり温まる。
 けれど彼は、決して自分からは、彼女に触れない。
 初対面のときは、べたべたと抱きついてきたくせに、あれは鷹刀一族と縁を結ぶための作戦に過ぎなかったとばかりに、まるで忘れたかのような態度を取る。いつだって、彼女の隣に座ろうとするくせに、必ず、ほんの少しだけ距離を置く。
 彼は、気づいているのだ。彼女が自分より『強くて、大きなもの』を無意識に怖がり、身構えることを。
 だから、彼の気遣いは有難い……はずだ。少なくとも、いつもはそうだ。なのに今は、素っ気なくて寂しいと感じる。
「ミンウェイ」
 再び――、今度は、至近距離で掛けられた声に、彼女は顔を上げた。
「あんたの今の状況を、分かりやすい言葉で教えてやるよ」
 シュアンの口調は軽薄で、(すが)めた三白眼は威圧的で。なのに、彼のまとう空気は、どこか優しい。
「『失恋』だ」
「なっ……!?」
 前言撤回。シュアンは無礼で失礼だ。
 ミンウェイは、ぎろりとシュアンを睨みつける。しかし、そんなことで動じるシュアンではない。変わらぬ調子で、彼は言葉を重ねる。
「オリジナルも『彼』も、最後には、あんたは誰の代わりでもなく『あんた』なんだと、きちんと認識した。その上で、オリジナルは死んだ妻のもとへ逝き、『彼』は『彼女』の手を取った。――それはつまり、あんたは振られた、ってことだろう?」
「……っ」
「想いが届かないのは、誰だって辛いさ。失恋した奴が、くだを巻いて荒れるのは当然だ。どうしようもないのさ。簡単に割り切れるもんでもねぇんだからよ」
 シュアンの口の端が緩やかに上がる。微笑んだのだと……思う。相変わらずの悪人面では、今ひとつ分かりにくいのだけれど。
「あんたは、いい女だ。愛した奴が幸せなら、それでいいんだと、必死に認めようと足掻(あが)いている。自分は、苦しくてたまらないのにさ」
「……そんなこと、ない……。私さっき、酷いことを言っていたわ……」
 ミンウェイの反論を、シュアンは鼻で笑い飛ばす。
「酷いのは、奴らのほうだろう? 『幸せになれ』なんて、振った側の常套句であんたを苦しめてさ。あんたの言う通り、無責任なだけだ」
「『常套句』ですって? 違うわ!」
 嘲笑(あざわら)うシュアンに、ミンウェイは、思わず『彼』と『お父様』を弁護するような台詞を口走る。
「ふたりとも、ちゃんと私のことを思って、幸せになってほしい、って――!」
 そのとき。
 不意に、ミンウェイの脳裏を幼い男の子の姿がよぎった。

『俺が貴族(シャトーア)をやめて商人になれば、ミンウェイは俺と結婚できるね!』
『待っていて、必ず迎えに行く。誓うよ!』
『約束するよ!』

「――――!」

 絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
「ミンウェイ!?」
 揶揄するような顔つきだったシュアンが、血相を変えて叫ぶ。
「忘れていたわ……! ……忘れていたなんて、私……、どうかしている……」
 真っ青な顔で、彼女は呟く。
「私は、幸せになったら駄目なの! だって私は、白詰草(しろつめくさ)の四つ葉に――!」

 遠い遠い、幼き日。ミンウェイはひとりの男の子と出会った。
 彼は彼女に、四つ葉のクローバーを贈った。
 花言葉の通り、彼は彼女の『幸運』を願い、『私のものになって』という愛の告白をし、一方的に将来を『約束』してくれた。
 四つ葉のクローバーに載せられた彼の想いは、ことごとく叶わなかった。
 ミンウェイが彼に毒を盛り、彼を殺したからだ。
 それが、父に命じられた仕事だった。
 裏切られた花言葉たちは、最後の花言葉に意味を変える。
 そう……。
 ――『復讐』に。

 ミンウェイは何かに取り憑かれたように立ち上がり、本棚に向かう。
 あのとき、彼に貰った四つ葉は、押し花にして栞にした。そして、姫と王子が出てくる、大好きだった絵本に挟んで封印した。
 ずらりと並べられた絵本の中から、彼女は迷わず、あの一冊を抜き取る。
 ぱらぱらとページを繰った。あのシーンを求めて。 
 王子が(うやうや)しく片膝を付き、姫に向かって求婚するクライマックス。
 憧れのあの場面。固く封印した、あの光景。
 ぱらり、と。
 あのページを開く。

 四つ葉は……出てこなかった。

「あ……、当たり前じゃない……。……だって、この絵本は、ファンルゥちゃんの……」
 嗤いがこみ上げる。
 愚かな自分が、可笑(おか)しくてたまらない。
 あの四つ葉は、古い家にあるミンウェイの絵本の中だ。
 天を仰ぐように白い喉を晒し、波打つ黒髪をわななかせながら、狂ったように彼女は嗤う。
『失恋』――確かにそうかもしれない。
 けれど、そもそも、彼女には誰かを愛する資格などなかったのだ。彼女は『幸運』を殺し、『復讐』の罪を背負ったのだから。
 強い風が窓から吹き込み、彼女の髪を巻き上げた。波に呑まれるように身を任せ、このまま、何もかもを手放したいと願う……。
 嗤い声がかすれ、涙も枯れ果てた。抜け殻のようになって、彼女はうなだれる。
 背後に、シュアンの気配を感じた。
 彼はまた、寄り添うように隣に座るのだろう。――彼女に触れることなく。
 そう思った瞬間、ミンウェイの体は、後ろから、ぐいとシュアンの胸元に引き寄せられた。まるで波間に漂う彼女を引き上げるかのように。
「悪かった。あんたは、いろいろ厄介なもんを抱えていたんだった」
 溜め息混じりの後悔が、耳元で囁かれる。
 銃を握る、グリップだこで変形した手が目の前で固く組まれ、ミンウェイを抱きすくめていた。重心を失った彼女はされるがまま、彼に身を委ねるように倒れ込む。
 中肉中背のシュアンは、ミンウェイの周りにいる凶賊(ダリジィン)たちと比べて、さして体格がよいとはいえない。けれど警察隊で鍛えた体は硬く引き締まり、彼の腕を振りほどくのは無理だと思う。
 ……振りほどく気は、ないけれど。彼に触れている背中が温かくて、心地良いから。
「初めて殺した相手のことを思い出したんだな? 四つ葉のクローバーの子供(ガキ)をさ」
「緋扇さん? どうして、彼のことを……?」
「あんたが話してくれただろう?」
「え?」
 不思議そうに返したミンウェイに、シュアンは「覚えてないのか?」と、困惑の声を上げた。
「ルイフォンに、あんたは『母親』のクローンだろうと言われた夜だ。あんたが引き籠もるときに使う温室で、俺は一晩中、あんたの話を聞いていた」
 ミンウェイは反射的に、むっと眉を寄せた。『引き籠もるときに使う温室』とは、随分と失礼な言い方だと思ったのだ。言葉の(はし)を捉えて、目くじらを立てている場合ではないのに、シュアンが相手だと、何故だか、そんな気持ちがもたげてしまう。
「あのときも、あんたは『自分は、幸せになってはいけない』と訴えていた。俺は、それを聞いていたのに迂闊だった。……悪かった」
「緋扇……さん……?」
 しばらくの間、シュアンは動かなかった。
 だから、ミンウェイも、そのままでいた。
 やがて、彼の口から、ひと呼吸だけ、逡巡の息が漏れる。
 何を迷っているのか、ミンウェイは問おうとした。だが、彼女が疑問を口にするよりも先に、シュアンのぼさぼさ頭が彼女の髪に(うず)められる。
「!?」
 次の瞬間、彼は、ぐっと脇を締め、両腕できつく彼女を抱きしめた。
 そのときになって初めて、ミンウェイは気づく。シュアンの腕は、緩く彼女を覆っていただけ。彼女が抜け出そうと思えば、いつでもそれは可能だったのだ。
 けれど今、彼は、彼女の逃げ道を完全にふさいだ。
 抗うことのできない力で押さえ込み、彼女の耳朶に凄みのある声を落とす。
「ミンウェイ。過去の出来ごとは不可逆だ。決して、なかったことにはならない」
「!」
子供(ガキ)だったあんたは、『父親』のために手を汚してきた。法的なことをいえば、判断力のない子供(ガキ)のしたことだと、あんたは罪に問われないかもしれない。――だが、そういう問題じゃねぇんだと、あんたは思っているだろうし、俺も分かっている」
 頬へと流れてきた吐息は、火傷するように熱く、そして、冷たい。
 ミンウェイは、思わず身をよじろうとしたが、シュアンの腕はそれを許さなかった。

「あんたには、あんたの事情があった」

「あんたは、もう充分に苦しんだ」

「殺された子供(ガキ)は、あんたを恨むような奴じゃなかった」

「何より、あんたを愛していた」

「あんたの幸せを願っているはずだ」 

 次々に打ち寄せられる、言葉の波。
 優しい意味合いは、しかし、シュアンは逆のことを思っているのだと、はっきり伝わる険しい口調で叩きつけられる。
 そして、案の定――。

「そんな安っぽい慰めを、俺は言わねぇ。――嘘だからな」

 怒気すら感じられる、濁った声。
 ミンウェイは小さく悲鳴を漏らしかけるが、それすらもシュアンは認めない。彼女を遮り、畳み掛けた。
「死んだ奴は、何も認識できない。それが現実だ」
 凛冽とした言葉に、彼女の身が震える。
「その子供(ガキ)は、あんたに毒を盛られたことを知らないから、あんたを恨んだことはないだろう。それどころか、あんたとの約束を守れずに死んでいくことを、あんたに詫び続けたに違いない。――だが、そんな想いも、子供(ガキ)が死んだ瞬間に消える。『死』とは、そういうものだからだ」
 諭すように、彼が告げる。
「現在のあんたが幸せでも、不幸でも、死んだ子供(ガキ)には伝わらねぇんだよ」
 淡々と、静かに。シュアンは摂理を説きつける。
「そんな当たり前のことを理解しないで、『自分は、幸せになってはいけない』と、信じ込むことは、『あんたは、その子供(ガキ)を殺したという事実から逃げている』ってことだ」
 彼に、容赦などない。
「何故なら、裏を返せば『自分が幸せにならなければ、あの子供(ガキ)に許してもらえる』という甘えた意味になるからだ」
 ミンウェイは、はっと口元を押さえた。
「違うだろう? あんたが幸せになっても、ならなくても、罪は罪だ。そのことに変わりはない」
 シュアンは投げかける。

「ならば、あんたの()すべきことは、本当に『あんたが幸せにならないこと』なのか?」

「――!」
 問いかけの形で示された彼の真理は、実に正鵠を射ていた。
「――だって、だって……」
 ミンウェイは無意識のうちに、シュアンの腕にしがみつく。この腕を離したら駄目だと、すがるように。
「じゃあ、私はどうすればいいのよ!?」
「さあな、俺には分からん」
「そんなっ!」
 無責任だと言わんばかりに責める口調は、ミンウェイが発する筋合いではないはずだ。だが、シュアンが彼女を咎めることはなかった。
「俺の手も、他人の血で染まっている。俺は(ろく)な死に方をしねぇんだろうなと、常に思っている」
「緋扇さんは、私とは違うわ。あなたは警察隊の仕事で!」
「変わらねぇさ。むしろ、俺のほうが非道(ひど)い。――俺の人生は、凶賊(ダリジィン)の抗争に巻き込まれて家族を失ったところから、ねじ曲がった。それだけの理由で、俺は好んで凶賊(ダリジィン)を血祭りにあげてきたことを否定しない。俺の憂さ晴らしの、とばっちりで死んだ奴もいたはずだ」
「……」
「先輩と殴り合って(たもと)を分かったときも、先輩のほうが正しいと理解していながら、俺は立ち止まれなかった。俺は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた」
 語られる過去とは裏腹に、シュアンの声は、凪いだ海のように落ち着いていた。それがかえって、かつて起きた嵐の大きさを感じさせた。
 彼から伝わる思いが切なくて、ミンウェイは惹き寄せられるように彼の手に触れた。グリップだこで変形した皮膚は、想像していた以上に固くて、温かかった。
 不意に、シュアンが動いた。
 断りもなく彼に触れたことを、不快に思ったのだろうか。
 恐れるミンウェイの耳元に、彼の柔らかな息が落ち、彼女の髪が波打つ。
「――でも……、俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺が()すべきことを()すための、まっとうな道筋をな」
 それは、とてもシュアンとは思えぬ、穏やかな声だった。
 彼は今、どんな顔をしているのだろう。
 確かめたくて、ミンウェイが後ろを振り向こうとすると、抱きすくめられていた腕が、すっと(ほど)かれた。
 彼の体温が、遠のく。
 瞬間的に訪れる、不安と寂しさ。
 胸に小さな痛みを感じながら身を返すと、少し照れたような、けれど誇らしげなシュアンの微笑が目に飛び込んできた。悪相であることに間違いはないのに、臆することなき力強さに魅せられる……。
 ミンウェイは悟った。

 彼は、不可逆の流れと向き合うことができたのだ。

 ふと気づけば、頬をひと筋の涙が伝っていた。
「私にも……、あなたのように言える日が来るでしょうか?」
 彼に近づきたいと思った。だから、焦がれるように、言葉が口を()いて出た。ミンウェイの視線がさまよい、指先が求める。
 シュアンの三白眼が、わずかに惑う。けれども彼の手は、彼女をそっと抱き寄せた。
「さてな。だいたい俺自身、まだまだどうなるか分からねぇんだからよ」
 彼の胸から響く、力強い鼓動。温かな血流が彼女を包み込む。
 体温には人を癒やす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが自己(われ)で、どこからが他者(かれ)であるかの境界線を不明瞭にする。
 彼のように、強くなれるだろうか。
 波音に(いだ)かれるように、たゆたうように。彼の腕の中でミンウェイは思う。
 その心の声が伝わったのだろうか。シュアンが耳元で囁いた。
「焦ることはねぇさ。……未来(これから)も長く、あんたは生きるんだから」
 シュアンの言葉と、窓からの風音が重なり合う。
 緑の海原を流れる風は、まるで潮騒。
 (まぶた)の裏側に、両親の墓標を(いだ)く、あの海を臨む丘が見える。
 ――彼岸に渡った彼らに、別れを告げよう。
 今までの想いは、潮騒の鎮魂歌に乗せて。
 そして。
 まっさらな砂浜から、未来(これから)の一歩を踏み出すのだ。


~ 第九章 了 ~


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 窓の外から、草原を抜ける風音が聞こえる。
 ざわざわと不規則なようでいながら、どこか一定のリズムを感じるそれは、まるで寄せては返す波のよう。
 緑の海原のさざめきは、父と母の眠る、あの海を臨む小さな丘を思い起こさせる。
 仲良く寄り添う、『両親』の墓標を。
 そして、固く抱きしめあったまま|骸《むくろ》となった『彼』と『彼女』の姿を――。
 ミンウェイは、|瞼《まぶた》の裏に浮かび上がった光景を打ち消すように、目元をこすり上げた。
「私っ……」
 震える唇から漏れ出したのは、しゃくりあげるような声だった。
「やっと……、やっと……、お父様に手が届いたと……思ったの……」
 視線を落とし、ミンウェイは自分の掌を見つめる。
「でも……」
 かすれた呟きと共に、ひと雫の涙が落ちた。
 やっと掴んだと思ったものは、砂粒のように指の隙間からこぼれ、足元に押し寄せてきた引き潮に連れ去られていってしまった。
 掌の中に残ったのは、自分自身の涙だけ。
「私……、お父様とは……、『彼』とは……、これでお別れなんだって――亡くなってしまうんだって……、納得していた! 疲れ切ってしまった『彼』が、『最高の|終幕《フィナーレ》』を迎えるのだと笑うから、私も笑って見送る覚悟はっ……、ちゃんとできていたわ!」
 自分が泣いているのか、怒っているのか、ミンウェイには分からなかった。
 ただ、胸に溜まった想いが苦しくてたまらないから、吐き出している。もう我慢することはないのだと、波の音が誘ってくれたから。
「だから、最後に、お父様に伝えたかった……! ずっと言えなかったことを。――言ってはいけないのか、言いたくないのか、ずっと分からなかったことを……!」
 ミンウェイは、ぐいと顔を上げた。
 長い黒髪が、緩やかに波打つ。草の香りが、ふわりと広がる。オリジナルの『母親』とも、硝子ケースの『彼女』とも違う、彼女だけの姿で、彼女だけの心を響かせる。
「『愛している』――って……」
 訴えるような叫びを、シュアンは、先ほどから変わらぬ切なげな三白眼のまま、驚くほど自然に受け止めてくれた。あたかも、彼女のその言葉を待っていたかのように。
「ああ、そうだな」
 決して綺麗ではない、むしろ|濁声《だみごえ》というべき声が、静かに落とされる。
「『彼』の最期の瞬間には、『愛している』と、あんたが言うつもりだった。いきなり出てきた『彼女』なんかじゃなくて、あんたの腕の中で『彼』は逝くはずだった」
 彼はそこで言葉を切り、一段、低い声で告げる。
「他の奴らは、良い臨終だと感じていたようだったが、あんただけは違った。『彼』は、あんたのものになるはずだったのに、そうならなかった。あんたにしてみれば、最後の最後で裏切られたも同然だった」
「――!」
 ミンウェイが口に出せずにいた、どす黒い想いを、シュアンが代わりに|言霊《ことだま》にした。
 醜い部分を|暴《あば》かれた。なのに、心が、ふっと軽くなる。まるで呪縛から解き放たれたかのように。
 だから、なのだろう。
 綺麗な想いの裏側に沈み込ませ、存在そのものをなかったことにしたはずの|穢《きたな》らしい|澱《おり》が、ミンウェイの内部から急速に浮かび上がってきた。
 今なら、この想いを外に出してもいいのだろう、と。
 すべてを口にしても、シュアンなら、どこかに流してくれるから……。
「『彼』……、最後に、私に向かって『幸せにおなり』って言ったの。――それって、どういう意味だか分かる!?」
 切れ長の瞳をきっ、と|尖《とが》らせ、ミンウェイは、シュアンに噛み付くように言い放った。いつもの敬語など、すっかり吹き飛んでいる。
「『自分では、私のことを幸せにするつもりはない』ってことよ!? 私に『ひとりで勝手に幸せになれ』ってことよ! 無責任だと思わない!?」
 こんなの子供の屁理屈だ。『ファンルゥのパパ』であるタオロンが言っていた、『娘の理不尽な癇癪』だ。大人のミンウェイが言うべきことではない。
 けれど。
 |堰《せき》を切った想いは止まらない。
「『彼』だけじゃないの! オリジナルのお父様も同じだったの! お父様が最期に、なんて言ったのか、あのときは私、聞き取れなかった。――でも、さっき分かっちゃったのよ! だって、『彼』と同じ顔だったんだもの!」
 エルファンの刃を受け、地に倒れたオリジナルの父は、泣き叫ぶミンウェイを見上げ、とても満足そうな、幸せそうな顔をしていた。――『彼』と、そっくりな笑みだった。
 だから、理解してしまった。
『幸せにおなり、私の娘……』
 そう祈って、逝ったのだ。『父』も――。
「酷いじゃない、ふたりとも!」
 ミンウェイは柳眉を逆立てる。
「私を置き去りにして、自分たちだけ満足して、幸せになって、勝手に死んじゃうの! ほんと、まったく同じ!」
 吐き捨てても吐き捨てても、怒りのような感情がこみ上げる。
「だって、クローンだもの! そっくりで当然だわ! ――でも、それなら私は『お母様』のクローンよ……!」
 一気にまくし立て、酸素が足りなくて息を吸う。
 その際、何故だか、ひくっと嗚咽のような音がこぼれた。
「……それならっ……、私を選んでくれたって……よかったじゃない……! ずっと、私をお母様の身代わりにしていたんだから……!」
 いつの間にか『彼』と『お父様』が、ごちゃまぜになっている。もう支離滅裂で、滅茶苦茶だ。
 激しく叫んだことでミンウェイの肌は上気し、息が荒くなっていた。なのに体の芯は――心は、|凍《い》てつくように寒かった。彼女は自分自身を抱きしめ、うずくまる。
 彼女が黙り込むと、窓から入る潮騒のような風音が、より一層はっきりと聞こえてきた。
 ざわざわと。
 時折、荒ぶる波濤の|如《ごと》く、ごうごうと。
「ミンウェイ」
 殻に閉じこもるように身を縮こめた彼女の名を、シュアンが呼んだ。
 少し離れたところで、胡座をかいていた彼は立ち上がり、彼女へと近づく。ゆっくりと、彼女が嫌がるようであれば、そこで自然に止まれるような速度で。
 ミンウェイは微動だにしなかった。だからシュアンは、彼女の隣に腰を下ろした。
 すぐそばに、シュアンの体温。寒さに震えるミンウェイの心が、ほんのり温まる。
 けれど彼は、決して自分からは、彼女に触れない。
 初対面のときは、べたべたと抱きついてきたくせに、あれは鷹刀一族と縁を結ぶための作戦に過ぎなかったとばかりに、まるで忘れたかのような態度を取る。いつだって、彼女の隣に座ろうとするくせに、必ず、ほんの少しだけ距離を置く。
 彼は、気づいているのだ。彼女が自分より『強くて、大きなもの』を無意識に怖がり、身構えることを。
 だから、彼の気遣いは有難い……はずだ。少なくとも、いつもはそうだ。なのに今は、素っ気なくて寂しいと感じる。
「ミンウェイ」
 再び――、今度は、至近距離で掛けられた声に、彼女は顔を上げた。
「あんたの今の状況を、分かりやすい言葉で教えてやるよ」
 シュアンの口調は軽薄で、|眇《すが》めた三白眼は威圧的で。なのに、彼のまとう空気は、どこか優しい。
「『失恋』だ」
「なっ……!?」
 前言撤回。シュアンは無礼で失礼だ。
 ミンウェイは、ぎろりとシュアンを睨みつける。しかし、そんなことで動じるシュアンではない。変わらぬ調子で、彼は言葉を重ねる。
「オリジナルも『彼』も、最後には、あんたは誰の代わりでもなく『あんた』なんだと、きちんと認識した。その上で、オリジナルは死んだ妻のもとへ逝き、『彼』は『彼女』の手を取った。――それはつまり、あんたは振られた、ってことだろう?」
「……っ」
「想いが届かないのは、誰だって辛いさ。失恋した奴が、くだを巻いて荒れるのは当然だ。どうしようもないのさ。簡単に割り切れるもんでもねぇんだからよ」
 シュアンの口の端が緩やかに上がる。微笑んだのだと……思う。相変わらずの悪人面では、今ひとつ分かりにくいのだけれど。
「あんたは、いい女だ。愛した奴が幸せなら、それでいいんだと、必死に認めようと|足掻《あが》いている。自分は、苦しくてたまらないのにさ」
「……そんなこと、ない……。私さっき、酷いことを言っていたわ……」
 ミンウェイの反論を、シュアンは鼻で笑い飛ばす。
「酷いのは、奴らのほうだろう? 『幸せになれ』なんて、振った側の常套句であんたを苦しめてさ。あんたの言う通り、無責任なだけだ」
「『常套句』ですって? 違うわ!」
 |嘲笑《あざわら》うシュアンに、ミンウェイは、思わず『彼』と『お父様』を弁護するような台詞を口走る。
「ふたりとも、ちゃんと私のことを思って、幸せになってほしい、って――!」
 そのとき。
 不意に、ミンウェイの脳裏を幼い男の子の姿がよぎった。
『俺が|貴族《シャトーア》をやめて商人になれば、ミンウェイは俺と結婚できるね!』
『待っていて、必ず迎えに行く。誓うよ!』
『約束するよ!』
「――――!」
 絹を裂くような悲鳴が響き渡った。
「ミンウェイ!?」
 揶揄するような顔つきだったシュアンが、血相を変えて叫ぶ。
「忘れていたわ……! ……忘れていたなんて、私……、どうかしている……」
 真っ青な顔で、彼女は呟く。
「私は、幸せになったら駄目なの! だって私は、|白詰草《しろつめくさ》の四つ葉に――!」
 遠い遠い、幼き日。ミンウェイはひとりの男の子と出会った。
 彼は彼女に、四つ葉のクローバーを贈った。
 花言葉の通り、彼は彼女の『幸運』を願い、『私のものになって』という愛の告白をし、一方的に将来を『約束』してくれた。
 四つ葉のクローバーに載せられた彼の想いは、ことごとく叶わなかった。
 ミンウェイが彼に毒を盛り、彼を殺したからだ。
 それが、父に命じられた仕事だった。
 裏切られた花言葉たちは、最後の花言葉に意味を変える。
 そう……。
 ――『復讐』に。
 ミンウェイは何かに取り憑かれたように立ち上がり、本棚に向かう。
 あのとき、彼に貰った四つ葉は、押し花にして栞にした。そして、姫と王子が出てくる、大好きだった絵本に挟んで封印した。
 ずらりと並べられた絵本の中から、彼女は迷わず、あの一冊を抜き取る。
 ぱらぱらとページを繰った。あのシーンを求めて。 
 王子が|恭《うやうや》しく片膝を付き、姫に向かって求婚するクライマックス。
 憧れのあの場面。固く封印した、あの光景。
 ぱらり、と。
 あのページを開く。
 四つ葉は……出てこなかった。
「あ……、当たり前じゃない……。……だって、この絵本は、ファンルゥちゃんの……」
 嗤いがこみ上げる。
 愚かな自分が、|可笑《おか》しくてたまらない。
 あの四つ葉は、古い家にあるミンウェイの絵本の中だ。
 天を仰ぐように白い喉を晒し、波打つ黒髪をわななかせながら、狂ったように彼女は嗤う。
『失恋』――確かにそうかもしれない。
 けれど、そもそも、彼女には誰かを愛する資格などなかったのだ。彼女は『幸運』を殺し、『復讐』の罪を背負ったのだから。
 強い風が窓から吹き込み、彼女の髪を巻き上げた。波に呑まれるように身を任せ、このまま、何もかもを手放したいと願う……。
 嗤い声がかすれ、涙も枯れ果てた。抜け殻のようになって、彼女はうなだれる。
 背後に、シュアンの気配を感じた。
 彼はまた、寄り添うように隣に座るのだろう。――彼女に触れることなく。
 そう思った瞬間、ミンウェイの体は、後ろから、ぐいとシュアンの胸元に引き寄せられた。まるで波間に漂う彼女を引き上げるかのように。
「悪かった。あんたは、いろいろ厄介なもんを抱えていたんだった」
 溜め息混じりの後悔が、耳元で囁かれる。
 銃を握る、グリップだこで変形した手が目の前で固く組まれ、ミンウェイを抱きすくめていた。重心を失った彼女はされるがまま、彼に身を委ねるように倒れ込む。
 中肉中背のシュアンは、ミンウェイの周りにいる|凶賊《ダリジィン》たちと比べて、さして体格がよいとはいえない。けれど警察隊で鍛えた体は硬く引き締まり、彼の腕を振りほどくのは無理だと思う。
 ……振りほどく気は、ないけれど。彼に触れている背中が温かくて、心地良いから。
「初めて殺した相手のことを思い出したんだな? 四つ葉のクローバーの|子供《ガキ》をさ」
「緋扇さん? どうして、彼のことを……?」
「あんたが話してくれただろう?」
「え?」
 不思議そうに返したミンウェイに、シュアンは「覚えてないのか?」と、困惑の声を上げた。
「ルイフォンに、あんたは『母親』のクローンだろうと言われた夜だ。あんたが引き籠もるときに使う温室で、俺は一晩中、あんたの話を聞いていた」
 ミンウェイは反射的に、むっと眉を寄せた。『引き籠もるときに使う温室』とは、随分と失礼な言い方だと思ったのだ。言葉の|端《はし》を捉えて、目くじらを立てている場合ではないのに、シュアンが相手だと、何故だか、そんな気持ちがもたげてしまう。
「あのときも、あんたは『自分は、幸せになってはいけない』と訴えていた。俺は、それを聞いていたのに迂闊だった。……悪かった」
「緋扇……さん……?」
 しばらくの間、シュアンは動かなかった。
 だから、ミンウェイも、そのままでいた。
 やがて、彼の口から、ひと呼吸だけ、逡巡の息が漏れる。
 何を迷っているのか、ミンウェイは問おうとした。だが、彼女が疑問を口にするよりも先に、シュアンのぼさぼさ頭が彼女の髪に|埋《うず》められる。
「!?」
 次の瞬間、彼は、ぐっと脇を締め、両腕できつく彼女を抱きしめた。
 そのときになって初めて、ミンウェイは気づく。シュアンの腕は、緩く彼女を覆っていただけ。彼女が抜け出そうと思えば、いつでもそれは可能だったのだ。
 けれど今、彼は、彼女の逃げ道を完全にふさいだ。
 抗うことのできない力で押さえ込み、彼女の耳朶に凄みのある声を落とす。
「ミンウェイ。過去の出来ごとは不可逆だ。決して、なかったことにはならない」
「!」
「|子供《ガキ》だったあんたは、『父親』のために手を汚してきた。法的なことをいえば、判断力のない|子供《ガキ》のしたことだと、あんたは罪に問われないかもしれない。――だが、そういう問題じゃねぇんだと、あんたは思っているだろうし、俺も分かっている」
 頬へと流れてきた吐息は、火傷するように熱く、そして、冷たい。
 ミンウェイは、思わず身をよじろうとしたが、シュアンの腕はそれを許さなかった。
「あんたには、あんたの事情があった」
「あんたは、もう充分に苦しんだ」
「殺された|子供《ガキ》は、あんたを恨むような奴じゃなかった」
「何より、あんたを愛していた」
「あんたの幸せを願っているはずだ」 
 次々に打ち寄せられる、言葉の波。
 優しい意味合いは、しかし、シュアンは逆のことを思っているのだと、はっきり伝わる険しい口調で叩きつけられる。
 そして、案の定――。
「そんな安っぽい慰めを、俺は言わねぇ。――嘘だからな」
 怒気すら感じられる、濁った声。
 ミンウェイは小さく悲鳴を漏らしかけるが、それすらもシュアンは認めない。彼女を遮り、畳み掛けた。
「死んだ奴は、何も認識できない。それが現実だ」
 凛冽とした言葉に、彼女の身が震える。
「その|子供《ガキ》は、あんたに毒を盛られたことを知らないから、あんたを恨んだことはないだろう。それどころか、あんたとの約束を守れずに死んでいくことを、あんたに詫び続けたに違いない。――だが、そんな想いも、|子供《ガキ》が死んだ瞬間に消える。『死』とは、そういうものだからだ」
 諭すように、彼が告げる。
「現在のあんたが幸せでも、不幸でも、死んだ|子供《ガキ》には伝わらねぇんだよ」
 淡々と、静かに。シュアンは摂理を説きつける。
「そんな当たり前のことを理解しないで、『自分は、幸せになってはいけない』と、信じ込むことは、『あんたは、その|子供《ガキ》を殺したという事実から逃げている』ってことだ」
 彼に、容赦などない。
「何故なら、裏を返せば『自分が幸せにならなければ、あの|子供《ガキ》に許してもらえる』という甘えた意味になるからだ」
 ミンウェイは、はっと口元を押さえた。
「違うだろう? あんたが幸せになっても、ならなくても、罪は罪だ。そのことに変わりはない」
 シュアンは投げかける。
「ならば、あんたの|為《な》すべきことは、本当に『あんたが幸せにならないこと』なのか?」
「――!」
 問いかけの形で示された彼の真理は、実に正鵠を射ていた。
「――だって、だって……」
 ミンウェイは無意識のうちに、シュアンの腕にしがみつく。この腕を離したら駄目だと、すがるように。
「じゃあ、私はどうすればいいのよ!?」
「さあな、俺には分からん」
「そんなっ!」
 無責任だと言わんばかりに責める口調は、ミンウェイが発する筋合いではないはずだ。だが、シュアンが彼女を咎めることはなかった。
「俺の手も、他人の血で染まっている。俺は|碌《ろく》な死に方をしねぇんだろうなと、常に思っている」
「緋扇さんは、私とは違うわ。あなたは警察隊の仕事で!」
「変わらねぇさ。むしろ、俺のほうが|非道《ひど》い。――俺の人生は、|凶賊《ダリジィン》の抗争に巻き込まれて家族を失ったところから、ねじ曲がった。それだけの理由で、俺は好んで|凶賊《ダリジィン》を血祭りにあげてきたことを否定しない。俺の憂さ晴らしの、とばっちりで死んだ奴もいたはずだ」
「……」
「先輩と殴り合って|袂《たもと》を分かったときも、先輩のほうが正しいと理解していながら、俺は立ち止まれなかった。俺は『狂犬』と呼ばれるほどに、荒れまくっていた」
 語られる過去とは裏腹に、シュアンの声は、凪いだ海のように落ち着いていた。それがかえって、かつて起きた嵐の大きさを感じさせた。
 彼から伝わる思いが切なくて、ミンウェイは惹き寄せられるように彼の手に触れた。グリップだこで変形した皮膚は、想像していた以上に固くて、温かかった。
 不意に、シュアンが動いた。
 断りもなく彼に触れたことを、不快に思ったのだろうか。
 恐れるミンウェイの耳元に、彼の柔らかな息が落ち、彼女の髪が波打つ。
「――でも……、俺は最近、ようやく自分の進むべき道を見つけた気がする。俺が|為《な》すべきことを|為《な》すための、まっとうな道筋をな」
 それは、とてもシュアンとは思えぬ、穏やかな声だった。
 彼は今、どんな顔をしているのだろう。
 確かめたくて、ミンウェイが後ろを振り向こうとすると、抱きすくめられていた腕が、すっと|解《ほど》かれた。
 彼の体温が、遠のく。
 瞬間的に訪れる、不安と寂しさ。
 胸に小さな痛みを感じながら身を返すと、少し照れたような、けれど誇らしげなシュアンの微笑が目に飛び込んできた。悪相であることに間違いはないのに、臆することなき力強さに魅せられる……。
 ミンウェイは悟った。
 彼は、不可逆の流れと向き合うことができたのだ。
 ふと気づけば、頬をひと筋の涙が伝っていた。
「私にも……、あなたのように言える日が来るでしょうか?」
 彼に近づきたいと思った。だから、焦がれるように、言葉が口を|衝《つ》いて出た。ミンウェイの視線がさまよい、指先が求める。
 シュアンの三白眼が、わずかに惑う。けれども彼の手は、彼女をそっと抱き寄せた。
「さてな。だいたい俺自身、まだまだどうなるか分からねぇんだからよ」
 彼の胸から響く、力強い鼓動。温かな血流が彼女を包み込む。
 体温には人を癒やす力がある。触れ合い、熱を繋げることで、どこまでが|自己《われ》で、どこからが|他者《かれ》であるかの境界線を不明瞭にする。
 彼のように、強くなれるだろうか。
 波音に|抱《いだ》かれるように、たゆたうように。彼の腕の中でミンウェイは思う。
 その心の声が伝わったのだろうか。シュアンが耳元で囁いた。
「焦ることはねぇさ。……|未来《これから》も長く、あんたは生きるんだから」
 シュアンの言葉と、窓からの風音が重なり合う。
 緑の海原を流れる風は、まるで潮騒。
 |瞼《まぶた》の裏側に、両親の墓標を|抱《いだ》く、あの海を臨む丘が見える。
 ――彼岸に渡った彼らに、別れを告げよう。
 今までの想いは、潮騒の鎮魂歌に乗せて。
 そして。
 まっさらな砂浜から、|未来《これから》の一歩を踏み出すのだ。
~ 第九章 了 ~