2年前。
俺の大事なハルは、何の前触れもなく突然旅立ってしまった。
俺の心に愛し合った記憶と、笑顔だけ残して。
ハルとは中学時代から仲の良い友達同士だったのだが、高校3年の夏、俺たちは互いの気持ちを確かめ合った上で、恋人になった。
それから、ハルと俺の間には色んなことがあった。
勿論、いいことばかりではなく、激しい嵐のような出来事も、心が凍り付くような出来事もあった。
俺たちはそんな荒波を乗り越えて、お互いなくてはならぬものと思うほどに愛を深めていった。
ハルは明るくて元気で、そして何より優しい奴なのだが、心の奥深い所には脆さと壊れやすさを併せ持っていた。
俺は、そんなあいつを守り抜くことが自分の使命と信じた。
学校では成績優秀・スポーツ万能・カリスマ性があるなんて言われて周囲から一目置かれていた俺だが、家庭ではそうではなかった。
両親の関心は優秀な兄に集まり、俺は兄のおまけのような存在で、正直いてもいなくてもいいような、そんな感じだった。
両親から注目されたくて、俺なりに頑張ってみたものの、全て無駄な努力だった。
そんなわけで、実際のところは、俺は孤独で自己肯定感の低い男だった。
ハルは、実に素直に俺に自身の脆さと壊れた心をさらけ出してきた。
俺に絶大な信頼を寄せ、心を預けてくれた。
俺はその信頼に応えたいと思った。
ハルは、両親からはどう頑張っても得ることが出来なかったものを、俺に与えてくれたのだ。
例えどんなことがあっても、全力でハルを守る。
俺はそう決めて生きることにした。
そして、それがそっくりそのまま、俺の存在意義になっていた。
社会人になって7年目の初夏、ハルは得意先に向かう途中で事故に遭い、身体の自由と言葉を奪われてしまった。
俺はハルのご両親と共に時間の許す限りあいつに寄り添い、日々の生活やリハビリに付き添った。
全てを奪われたあいつが絶望して荒れた時も、俺はあいつを見捨てたりはしなかった。
俺は、動かない身体で力の限り泣いて暴れるハルを抱きしめて、お前を愛していると言い続けた。
ハルは、リハビリを拒否した時期もあったが、俺たちの励ましと支えを受けて前を向くようになってくれた。
辛い思いをしながら懸命にリハビリに取り組んでくれた結果、あいつにも少しずつ自分で出来ることが増えてきた。
スプーンを使って何とか自分で食事が取れるようになったし、短い距離なら自力で歩くことも出来るようになってきた。
そんな風にして、出来なかったものが出来るようになった時に見せてくれたハルの笑顔を、俺は生涯忘れることはないだろう。
俺は、ハルが何とか自分のことは自分で出来るようになって、ひとりで留守番させても大丈夫な状態になったら、あいつを引き取って一緒に暮らすつもりだった。
生涯かけてハルの面倒を見る覚悟は出来ていた。
そんな矢先。
あいつは、俺を残して一人で逝ってしまった。
あまりにもあっさりと居なくなられたものだから、こっちが拍子抜けしたぐらいだ。
あいつは結局、日常生活を十分にこなすことも、言葉を喋ることも出来ないままだった。
あいつがそういった苦しみから解放されたと言えば、それはその通りなのだろうけど……。
俺は、どんな形であろうとも、よぼよぼの爺さんになるまでハルと共に生きていきたかった。
ただ、それだけだったのに。
ハルを失った俺は、その面影を全く忘れられないまま、ただ漫然と月日を過ごしていた。
レインと出会ったのは、そんなある夏の日だった。
レインは、俺とハルがよく行っていたハンバーガーショップに新しく入って来たアルバイトだ。
年の頃は20歳前後で、ウエーブのかかった明るい茶色の髪と、緑がかった優しい瞳が印象的だった。
顔も姿かたちもハルとは全く違うのだが、レインを最初に見た時、俺はハルがそこに居ると思った。
どうしてなのか、自分でもよくわからない。
「お客さん。俺の事、好きでしょ」
食べ終わりの皿を下げに来たレインは、突然そんなことを言って、ふふん、と鼻で笑った。
「え?」
レインが口にしたそれは、俺にとっては思いがけない指摘だった。
「どうして、そんなことを?」
心に波立つ感情を隠しながら、平然と尋ねてみると、
「だって、店に来ると俺の事ばっかり見てるから」
レインはさらりと髪を掻き上げて、熱を帯びた悪戯な瞳で俺を見つめてきた。
「……それは、君の気のせいだ」
俺は適当にごまかすと、レインから視線を逸らした。
レインは、会計の時に自分の連絡先を書いたメモを俺に握らせた。
「よかったら、いつでも連絡下さい」
そう言って、レインはにっこりと笑いかけた。
俺は戸惑ったが、どういうわけかそのメモを捨てることが出来なかった。
レインには悪いのだが――。
俺はレインが好きなのではない。
ただ、レインとハルを重ねて、そこにハルの姿を探していただけだ。
レインのことを知れば知るほど、ハルとの違いしか見つからないのに、俺は何故レインにハルを見続けているのだろう。
後日、俺はほんの気紛れからレインにメッセージを送った。
否。
俺は、心のどこかで、レインのことをもっと知りたいと思っていたのだろう。
レインを知ることで、自分がハルとレインを重ねている理由がわかる。
そんな気がしていたのだと思う。
「わ、ヒロさん!連絡くれてマジ嬉しいです!やったー!!」
俺の事務的なメッセージに対して、レインはこんな無邪気な返事をくれた。
レインとのやり取りは、楽しかった。
彼は年齢相応の男の子らしく、明るくて、無邪気で、世の中の面倒な事柄などあまり興味がなさそうだった。
時々俺のことをさりげなく訊いてきたりするが、それはあくまでも話の流れでそうなっただけといった感じだった。
レインは、好奇心も手伝って、年の離れた俺との会話を単純に楽しんでいるみたいに思えた。
それは、俺も同じだった。
「ヒロさん。美味しそうなスイーツの店が出来たみたいなんで、よかったら今度付き合ってくれません?」
レインのこんな誘いがきっかけで、俺とレインはプライベートで会うようになっていった。
夏が、終わりかけていた。
こんな風にして、レインは積極的に俺に近づいてきた。
レインはどうやら自分の魅力を熟知していて、それに絶大な自信を持っているようだった。
全くもって、ハルとは真逆のタイプの人間だ。
「ヒロさん、マジイケメンだし、背も高いし、俺とぴったりお似合いじゃん!」
そんな無邪気なことを言って、俺の腕に絡みついてくる。
むふ、と悪戯っぽく上目遣いで見つめてくるその顔は、何処となくハルのおねだり顔を連想させる。
俺は相変わらず、事あるごとにレインの中にハルの面影を探し続けている。
俺とレインは、いつの間にかストリートピアノが置いてある、駅前の広場に来ていた。
ハルはよく、ここに来ては俺にピアノを弾いてくれとねだったものだ。
『ヒロ。俺は、ヒロが俺のために弾いてくれるピアノが聴きたいんだよ』
……今も、そんなあいつの声が聞こえてくるようだ。
俺がそんな感傷に浸る中、
「あ、ピアノだ」
レインは目を輝かせた。
「ヒロさん。ピアノ、弾いていい?」
「え?」
我に返った俺は、きょとん、とレインの顔を見た。
「ヒロさんに、俺のピアノ、聴いて欲しいなって思って」
レインは笑顔で俺を見上げる。
俺が承諾すると、レインは嬉々としてピアノの前に座り、ぽろん、と鍵盤を鳴らした。
「じゃ、俺のお気に入りの曲から」
俺に聴かせたいというだけあって、レインのピアノは上手かった。
この後、俺とレインは暫くピアノで遊んでいた。
上手い相手と演奏を楽しむ心地よさとレインの明るさも手伝って、久し振りに心の底から笑った。
もしかしたら、心の底から笑ったのは、あの日以来初めてだったかもしれない。
……そう。ハルを失った、あの日。
「あー、楽しかった。ヒロさんもピアノ、上手なんですね」
レインは俺の腕に絡みついてきて、肩に頭を寄せてきた。
これは、普通だったら恋人に対してするような仕草だ。
「レイン」
「はい?」
「レインは俺のこと、好きなの?」
つい、そんなことを訊いてしまった。
「またまたあ。ヒロさんが俺のこと、好きなんでしょ?」
そう言って、レインは屈託なく笑う。
「いや……多分、それは違う」
俺がそう告げると、レインは立ち止まった。
そして、怒ったような口調でつっかかってくる。
「じゃあ、俺のこと、どうしてあんなに見てたの?」
……その問いに、俺は答えることが出来なかった。
レインと実際に会うようになって、確かに俺はレインを好ましく思うようになっていた。
明るくて無邪気な彼は会っていて楽しいし、年相応の世間知らずなところも可愛いと思う。
でも、レインのことが好きかと言われると、それは違うとしか言いようがない。
俺の心は相変わらずハルに向けられたままで、レインに向いてはいなかったからだ。
……だけど。
俺はレインが手を繋いでくるのも、腕を組んでくるのも、甘えるように頭をくっつけてくるのも許している。
そうやって腕から感じるレインの体温は、確かに心地良いものだった。
そして。
いつの間にか、季節は晩秋になっていた。