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10.獅子の耳に念仏 1

ー/ー



 あの(おとこ)は誰だ?
 
 いつものように大学の正門の近くまでムツミを迎えに来たレオは、広い門から続く構内のメインストリートをムツミと歩く男を見とめて、その金の目を獰猛に(すが)めた。
 彼らからの距離は約百メートル。間に幾人もの人々を通して、通常の人間ならば個を見分けられる距離ではない。野人の視力は猛禽並みである。
 ムツミの傍らを歩く男は、丸いグラスをかけた若い男だ。黒髪のほっそりした体格で上背もさほどではない。レオなら片方の拳を一度ふるうだけで、吹っ飛ぶ程度の。
 だが――
 れっきとした雄だ。
 そいつはムツミの隣に立ち、彼のつがいと笑い合っている。流石に声までは聞こえない。だが、そんなことは関係なかった。
 ――殺すころすコロス
 野人の本能が吹き上がる。
 彼はレオがムツミと初めて会った時にいた男のように、別に馴れ馴れしくしたり、手を握ったりする訳ではないが、レオにそんな理屈は通じない。野人の男にとっては、別の雄がつがいの横に立つだけで、万死に値する所業であった。
 しかも、なんだあれは。オソロイ?
 オソロイと言うのではなかったか?
 男はムツミと全く同じ丸いグラスをかけているのである。色だけ僅かに違う。いわゆるペアルックなのだ。
 二人はレオが見ているとは夢にも思わずに、何やら話をしながらそぞろ歩いていた。やがて男はムツミに手を振って右に折れると、学生部棟と示された古い赤煉瓦の建物の中に入って行った。ムツミもにこにこと手を振って男を見送っている。そして、やっぱり楽しそうに踵を返すと、レオのいる門の方へと足取りも軽く歩き出した。
 
「きゃ!」
 突然目の前に現れた大きな影に、ムツミは危うく尻もちをつきそうになった。よろけた瞬間、伸びた腕に腰を引き上げられたが。
「レオ君! ちょっとびっくり……」
「ムツミ! だれだあいつは誰だ! どうして一緒に歩くんだグラスまでオソロ……相似なのは、なんでなんだ!」
 お揃いと言う言葉を口にする事さえ嫌で、レオは乏しい語彙の中から別の単語を探し出した。
「……掃除?」
「ムツミ答えてくれ!」
「……レオ君汗すごいよ。それになんで泣いてるの?」
「……?」
 静かなムツミの声にはっと我に返る。
 慌てて目元に手をやると確かにそこは滂沱と濡れていた。汗の成分だけではないのは確かだ。
「ううう……」
 レオは巨大な拳でごしごしと顔をぬぐった。ハンカチなど持ったためしは無い。
「と、とにかくちょっとあっちに行こう」
 ムツミはとにかく、この子供のような男をこのままにはしておけないと思った。午後のメインストリートは、学生やら散歩をする市民やらで結構人通りがある。今気が付いたが、既に幾人かが遠巻きに眺めているのだ。視線は好奇心を帯びて二人に向けられている。目立つことを好まないムツミは男の大きな背中を柔らかく押した。
 
 二人が落ち着いたのはメインストリートから離れた、教育学部ゾーンの公園のベンチである。
 この一帯は緑や空間が多く、きれいでのんびりとした雰囲気だ。そこここに置かれた赤いベンチは二人用だが、レオがどんと座るとほとんどスペースが無くなり、ムツミは端っこにちょんと腰を下ろした。
 普段こういう事には細やかな彼だが、今は俯いているので分からない。
「少しは落ち着いた?」
「……」
 少しだけ顔が上がる。金色の目がそっとムツミを盗み見てすぐにまた伏せられた。
「話せる?」
 これでもムツミは教育学部の学生である、将来は教師を目指しているのだ。腕っぷしが強く、容積は自分の二倍はあろうかと思われるこの男だが、今何か非常な懸念を抱えているのは確かだった。
 だから自分は向き合わなければ。
「ゆっくりでいいから話してみて?」
 とっておきの教師口調でムツミは尋ねた。初めて会った時こそ怖かったが、この美しい男は悪人ではない。どころか、非常にやさしくて繊細な心を持った青年なのだ。――少なくともムツミはそう思っている。
「う……うん」
「うん?」
「あの……ムツミ……ムツミムツミむっ……」
 がばと顔が上がる。その目が縋るようにムツミを捕えた。
「なぁに?」
「あの……雄……いや、男は誰?」
「は? オトコ……? ああ、彼の事かな? さっき一緒にいた」
 一瞬何を言われたのか分からないムツミだったが、自分の周りに男などレオを含めて数人しかいない。数少ない友人の彼の事を男性だと意識した事はあまりなかったが、それでも男性には違いない。さっきまで一緒にいたから、レオの言うのはタツミの事なのだろう。見られていたとは分からなかったが。
「彼はタツミ君。ヤノ・タツミ君」
「タッ……タツミ君!?」
「うん。同じ学科で、実習や授業が一緒の事も多くて……色々相談したりする友だち」
「ソウダン? ソウダン……友だち!?」
「そう、友だち。おんなじ学部で学科も一緒なの。二人とも小学校の教員を目指してるし。他の授業もいろいろ被ったり……最初、隣同士で座った時、同じグラスをかけているねって私から声かけてね……そしたら名前もムツミとタツミで似てるし、共通点が多いなぁって、珍しくその日から友だちになって……って! レオ君!? ちょっと!」
 楽しげなムツミの容赦ない集中砲火を受けながら、レオはほとんど再起不能なまでに打ちのめされていた。丸めた背中が震え、褐色の石畳に丸い染みがいくつも落ちはじめる。
「レオ君! どこか痛いの?」
「痛くない……」
 痛くないけど、痛い。
 肋骨の奥にある何かが。
 いくらレオが人間社会のルールに疎くても、いくらつがいの横にいたからと言って、何の罪もない一般人を殺したりしたら身の破滅だという事ぐらいはよく承知している。
 そんな事をすれば危険極まりない野人として、公安局に拘束され、おそらく一生檻の中だろう。無論逃亡したとしても一生まともには暮らせない。自分一人ならそれもいい。だが、そうなってしまってはムツミに会えない。
 だから耐えた。
 野人の雄のつがいに対する猛烈な執着心、つがいに近づく他の雄への壮絶な敵愾心に。握りしめた掌が傷ついて震えている。
「なら、なんで泣いてるの? 私何かした?」
 ムツミの小さな手が肩に添えられ、心配そうな顔が自分を覗き込むのを感じながら、レオは思う。
 このままではダメだ。もっとずっとムツミといたい。会えないでいる間に他の雄に取られないように、この腕の中に囲い込んでしまいたい。
 どうすればいい? 方法は――ある。多分。
 レオは肩に添えられたムツミの華奢な手に頬を乗せた。
「……なれる……?」
「え? なぁに? レオ君なんて言ったの? 聞こえない」
「いや、なるんだ。こんだけ大きい組織だ。何かルートがある筈だ」
 甘えるように傾けていた首を引き起こす。もう泣いてはいなかった。
「? 話が見えないよ」
 恥ずかしそうに頬を染めながらも、何とかしてこの大きな子どものような青年を励まそうとしていたムツミは、突然の彼の代わりように今度は面食らってしまった。感情の起伏が激しいのも、子どもの特徴である。
「よし! 決めた!」
 レオはがっと立ち上がった。その拍子に、
「ひゃああ!」
 地面に置かれただけの洒落たベンチが勢いよく跳ね上がり、端っこに座っていたムツミがものの見事にベンチごと転がり落ちた。
「いたー!」
「ひ! ムツミ!」
「レオ君、ひどーい」
 仰のけに倒れた彼の愛しいつがい。
「ムツミ! すっ、すまねぇ! すまねぇえっ! 怪我はないか?」
 尻を擦りながら恨めしそうに見上げるムツミにレオは慌てて駆け寄り、膝をついて怪我をしていないか確かめてゆく。
「レオ君ちょっと! や! えっち!」
 ぱちん!
 尻をジーンズの上から撫で上げたレオ(誓って無意識)の頬に、ムツミの平手打ちが炸裂した。
 
「う……だから、その……」
「もう怒ってないから顔を上げて? ね? レオ君。私こそ|打(ぶ)ってごめんね。」
「いや俺が悪い……すまん」
 面目無さのあまり、これ以上ないほど体を縮めたレオは、地べたに座ったまま先ほど思いついた件について説明しようとしている。自慢ではないが、野人の雄の多くは口下手である(例外もいるが)。レオもご多分に漏れず、説明だの弁明だのが大いに苦手だ。遺伝子の保証書付なのだから仕方がない。
 しかし、
 最善は尽くすべきだ。常に――
「その、つまり俺は――学生になりたい」
「学生? 大学生に?」
「そう。ムツミといつも一緒に……いや、だから俺は、文字を読んだり書いたりするのが得意ではないから……」
「……」
「今からでも学びたい……と思って……」
「それは……」
 専門知識を学ぶための最高学府である、大学と言う所は不適切では?
 とは、ムツミは言えなかった。余りに彼の思いが純粋だったから。
 今までの言動からなんとなく想像していたことだが、彼はあまり教育を受けてこなかったのだ。この管理された社会では珍しいことではあるが。
「レオ君、勉強したいの?」
 ムツミ優しく尋ねた。
「あんまり学校……行けなかったの」
「学校……知らない。俺、野人だから」
「やじん……野人!?」
 ムツミは衝撃を受けた。
 聞いたことがある。
 見た目は人間とほとんど変わらないが、ほんの少しだけ遺伝子の並びが違う、稀な人たちがこの世界ににいる事を。
 彼らは精神構造が少し人間と異なるため、時に軋轢(あつれき)を生じることがあり、過去には大きな事件が起き騒ぎになったこともある。だから、野人のほとんどは群れ――つまり人間社会――と深くは関わらない人生を選択していると言う。
「そ……うだったの」
 ムツミはようやく、今まで不思議に思っていたことが腑に落ちたように感じた。
 だからだったの……
 彼の感情はあまりに豊かで純粋だ。まるで幼い子どものように。美しく頑丈な鎧の中に、激しくて傷つきやすい魂が隠されている。
 だが、黙り込んでしまったムツミを見て、野人は違う風に受け取ってしまったようだった。
「やっぱりダメか? そうだよな……俺みたいな野人なんかが……」
 こんな馬鹿な男が学びたいなどと。それもつがいに認められたい一心で――
 逞しい肩が震えた。
「ごめん」
「違う! そうじゃない、レオ君誤解だよ。私そんな事思ってない! 野人だろうがなんだろうが、勉強するのに遅いなんてことはきっとない。レオ君が勉強したいなら今がその時なんだよ」
 流石に教師志望のムツミは、すっかり打ち萎れてしまった青年の手を取った。
 ムツミ自身恵まれた環境で育ってきたわけではない。今だって苦学生なのだ。身よりもほとんどないと言ってもいい。子どもの頃は自己否定ばかりしていたような気がするし、今だって自信の持てないことばかりなのだ。
 レオの項垂れた様子は、ムツミの暖かい心にとっすんと刺さってしまった。母性本能に近いかもしれない。
「私、応援する!」
「でっ、できるのか?」
 単純極まりない男は、つがいから手を握ってもらえたことで心臓が跳ね、ついでにメンタルも半分くらい浮上した。離されないようにぎゅ、と小さな手を握り込む。
「……ムツミと一緒に学べる?」
「うん。何か手があると思う……何か……そうだ!」
 何か思いついたムツミは、ぱっと顔を上げた。丸眼鏡の奥の瞳がきらきらと輝いている。
「聴講生ならいけるかも!」
「……え?」
「だから聴講生」
「ちょうこう……って?」
 レオは何が何だか分からぬなりに、ムツミが手を握ってくれるのと、至近距離で顔を眺めていられる幸福に浸りながら尋ねた。
「えっと正規に入学していなくても、講義を受けられる制度があるのよ。良かったら事務局に聞いてみるけど」
「大学生になれるのか!?」
「なれると思う……多分。身分証明とか要るかもしれないけど……」
「持ってる。ハンターのもんだけど……」
 
 かくして野人レオは大学生になったのである。
 
 
 


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 あの|雄《おとこ》は誰だ?
 いつものように大学の正門の近くまでムツミを迎えに来たレオは、広い門から続く構内のメインストリートをムツミと歩く男を見とめて、その金の目を獰猛に|眇《すが》めた。
 彼らからの距離は約百メートル。間に幾人もの人々を通して、通常の人間ならば個を見分けられる距離ではない。野人の視力は猛禽並みである。
 ムツミの傍らを歩く男は、丸いグラスをかけた若い男だ。黒髪のほっそりした体格で上背もさほどではない。レオなら片方の拳を一度ふるうだけで、吹っ飛ぶ程度の。
 だが――
 れっきとした雄だ。
 そいつはムツミの隣に立ち、彼のつがいと笑い合っている。流石に声までは聞こえない。だが、そんなことは関係なかった。
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 野人の本能が吹き上がる。
 彼はレオがムツミと初めて会った時にいた男のように、別に馴れ馴れしくしたり、手を握ったりする訳ではないが、レオにそんな理屈は通じない。野人の男にとっては、別の雄がつがいの横に立つだけで、万死に値する所業であった。
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 オソロイと言うのではなかったか?
 男はムツミと全く同じ丸いグラスをかけているのである。色だけ僅かに違う。いわゆるペアルックなのだ。
 二人はレオが見ているとは夢にも思わずに、何やら話をしながらそぞろ歩いていた。やがて男はムツミに手を振って右に折れると、学生部棟と示された古い赤煉瓦の建物の中に入って行った。ムツミもにこにこと手を振って男を見送っている。そして、やっぱり楽しそうに踵を返すと、レオのいる門の方へと足取りも軽く歩き出した。
「きゃ!」
 突然目の前に現れた大きな影に、ムツミは危うく尻もちをつきそうになった。よろけた瞬間、伸びた腕に腰を引き上げられたが。
「レオ君! ちょっとびっくり……」
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「……掃除?」
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「……?」
 静かなムツミの声にはっと我に返る。
 慌てて目元に手をやると確かにそこは滂沱と濡れていた。汗の成分だけではないのは確かだ。
「ううう……」
 レオは巨大な拳でごしごしと顔をぬぐった。ハンカチなど持ったためしは無い。
「と、とにかくちょっとあっちに行こう」
 ムツミはとにかく、この子供のような男をこのままにはしておけないと思った。午後のメインストリートは、学生やら散歩をする市民やらで結構人通りがある。今気が付いたが、既に幾人かが遠巻きに眺めているのだ。視線は好奇心を帯びて二人に向けられている。目立つことを好まないムツミは男の大きな背中を柔らかく押した。
 二人が落ち着いたのはメインストリートから離れた、教育学部ゾーンの公園のベンチである。
 この一帯は緑や空間が多く、きれいでのんびりとした雰囲気だ。そこここに置かれた赤いベンチは二人用だが、レオがどんと座るとほとんどスペースが無くなり、ムツミは端っこにちょんと腰を下ろした。
 普段こういう事には細やかな彼だが、今は俯いているので分からない。
「少しは落ち着いた?」
「……」
 少しだけ顔が上がる。金色の目がそっとムツミを盗み見てすぐにまた伏せられた。
「話せる?」
 これでもムツミは教育学部の学生である、将来は教師を目指しているのだ。腕っぷしが強く、容積は自分の二倍はあろうかと思われるこの男だが、今何か非常な懸念を抱えているのは確かだった。
 だから自分は向き合わなければ。
「ゆっくりでいいから話してみて?」
 とっておきの教師口調でムツミは尋ねた。初めて会った時こそ怖かったが、この美しい男は悪人ではない。どころか、非常にやさしくて繊細な心を持った青年なのだ。――少なくともムツミはそう思っている。
「う……うん」
「うん?」
「あの……ムツミ……ムツミムツミむっ……」
 がばと顔が上がる。その目が縋るようにムツミを捕えた。
「なぁに?」
「あの……雄……いや、男は誰?」
「は? オトコ……? ああ、彼の事かな? さっき一緒にいた」
 一瞬何を言われたのか分からないムツミだったが、自分の周りに男などレオを含めて数人しかいない。数少ない友人の彼の事を男性だと意識した事はあまりなかったが、それでも男性には違いない。さっきまで一緒にいたから、レオの言うのはタツミの事なのだろう。見られていたとは分からなかったが。
「彼はタツミ君。ヤノ・タツミ君」
「タッ……タツミ君!?」
「うん。同じ学科で、実習や授業が一緒の事も多くて……色々相談したりする友だち」
「ソウダン? ソウダン……友だち!?」
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 楽しげなムツミの容赦ない集中砲火を受けながら、レオはほとんど再起不能なまでに打ちのめされていた。丸めた背中が震え、褐色の石畳に丸い染みがいくつも落ちはじめる。
「レオ君! どこか痛いの?」
「痛くない……」
 痛くないけど、痛い。
 肋骨の奥にある何かが。
 いくらレオが人間社会のルールに疎くても、いくらつがいの横にいたからと言って、何の罪もない一般人を殺したりしたら身の破滅だという事ぐらいはよく承知している。
 そんな事をすれば危険極まりない野人として、公安局に拘束され、おそらく一生檻の中だろう。無論逃亡したとしても一生まともには暮らせない。自分一人ならそれもいい。だが、そうなってしまってはムツミに会えない。
 だから耐えた。
 野人の雄のつがいに対する猛烈な執着心、つがいに近づく他の雄への壮絶な敵愾心に。握りしめた掌が傷ついて震えている。
「なら、なんで泣いてるの? 私何かした?」
 ムツミの小さな手が肩に添えられ、心配そうな顔が自分を覗き込むのを感じながら、レオは思う。
 このままではダメだ。もっとずっとムツミといたい。会えないでいる間に他の雄に取られないように、この腕の中に囲い込んでしまいたい。
 どうすればいい? 方法は――ある。多分。
 レオは肩に添えられたムツミの華奢な手に頬を乗せた。
「……なれる……?」
「え? なぁに? レオ君なんて言ったの? 聞こえない」
「いや、なるんだ。こんだけ大きい組織だ。何かルートがある筈だ」
 甘えるように傾けていた首を引き起こす。もう泣いてはいなかった。
「? 話が見えないよ」
 恥ずかしそうに頬を染めながらも、何とかしてこの大きな子どものような青年を励まそうとしていたムツミは、突然の彼の代わりように今度は面食らってしまった。感情の起伏が激しいのも、子どもの特徴である。
「よし! 決めた!」
 レオはがっと立ち上がった。その拍子に、
「ひゃああ!」
 地面に置かれただけの洒落たベンチが勢いよく跳ね上がり、端っこに座っていたムツミがものの見事にベンチごと転がり落ちた。
「いたー!」
「ひ! ムツミ!」
「レオ君、ひどーい」
 仰のけに倒れた彼の愛しいつがい。
「ムツミ! すっ、すまねぇ! すまねぇえっ! 怪我はないか?」
 尻を擦りながら恨めしそうに見上げるムツミにレオは慌てて駆け寄り、膝をついて怪我をしていないか確かめてゆく。
「レオ君ちょっと! や! えっち!」
 ぱちん!
 尻をジーンズの上から撫で上げたレオ(誓って無意識)の頬に、ムツミの平手打ちが炸裂した。
「う……だから、その……」
「もう怒ってないから顔を上げて? ね? レオ君。私こそ|打(ぶ)ってごめんね。」
「いや俺が悪い……すまん」
 面目無さのあまり、これ以上ないほど体を縮めたレオは、地べたに座ったまま先ほど思いついた件について説明しようとしている。自慢ではないが、野人の雄の多くは口下手である(例外もいるが)。レオもご多分に漏れず、説明だの弁明だのが大いに苦手だ。遺伝子の保証書付なのだから仕方がない。
 しかし、
 最善は尽くすべきだ。常に――
「その、つまり俺は――学生になりたい」
「学生? 大学生に?」
「そう。ムツミといつも一緒に……いや、だから俺は、文字を読んだり書いたりするのが得意ではないから……」
「……」
「今からでも学びたい……と思って……」
「それは……」
 専門知識を学ぶための最高学府である、大学と言う所は不適切では?
 とは、ムツミは言えなかった。余りに彼の思いが純粋だったから。
 今までの言動からなんとなく想像していたことだが、彼はあまり教育を受けてこなかったのだ。この管理された社会では珍しいことではあるが。
「レオ君、勉強したいの?」
 ムツミ優しく尋ねた。
「あんまり学校……行けなかったの」
「学校……知らない。俺、野人だから」
「やじん……野人!?」
 ムツミは衝撃を受けた。
 聞いたことがある。
 見た目は人間とほとんど変わらないが、ほんの少しだけ遺伝子の並びが違う、稀な人たちがこの世界ににいる事を。
 彼らは精神構造が少し人間と異なるため、時に|軋轢《あつれき》を生じることがあり、過去には大きな事件が起き騒ぎになったこともある。だから、野人のほとんどは群れ――つまり人間社会――と深くは関わらない人生を選択していると言う。
「そ……うだったの」
 ムツミはようやく、今まで不思議に思っていたことが腑に落ちたように感じた。
 だからだったの……
 彼の感情はあまりに豊かで純粋だ。まるで幼い子どものように。美しく頑丈な鎧の中に、激しくて傷つきやすい魂が隠されている。
 だが、黙り込んでしまったムツミを見て、野人は違う風に受け取ってしまったようだった。
「やっぱりダメか? そうだよな……俺みたいな野人なんかが……」
 こんな馬鹿な男が学びたいなどと。それもつがいに認められたい一心で――
 逞しい肩が震えた。
「ごめん」
「違う! そうじゃない、レオ君誤解だよ。私そんな事思ってない! 野人だろうがなんだろうが、勉強するのに遅いなんてことはきっとない。レオ君が勉強したいなら今がその時なんだよ」
 流石に教師志望のムツミは、すっかり打ち萎れてしまった青年の手を取った。
 ムツミ自身恵まれた環境で育ってきたわけではない。今だって苦学生なのだ。身よりもほとんどないと言ってもいい。子どもの頃は自己否定ばかりしていたような気がするし、今だって自信の持てないことばかりなのだ。
 レオの項垂れた様子は、ムツミの暖かい心にとっすんと刺さってしまった。母性本能に近いかもしれない。
「私、応援する!」
「でっ、できるのか?」
 単純極まりない男は、つがいから手を握ってもらえたことで心臓が跳ね、ついでにメンタルも半分くらい浮上した。離されないようにぎゅ、と小さな手を握り込む。
「……ムツミと一緒に学べる?」
「うん。何か手があると思う……何か……そうだ!」
 何か思いついたムツミは、ぱっと顔を上げた。丸眼鏡の奥の瞳がきらきらと輝いている。
「聴講生ならいけるかも!」
「……え?」
「だから聴講生」
「ちょうこう……って?」
 レオは何が何だか分からぬなりに、ムツミが手を握ってくれるのと、至近距離で顔を眺めていられる幸福に浸りながら尋ねた。
「えっと正規に入学していなくても、講義を受けられる制度があるのよ。良かったら事務局に聞いてみるけど」
「大学生になれるのか!?」
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「持ってる。ハンターのもんだけど……」
 かくして野人レオは大学生になったのである。