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3.菖蒲の館で叶う抱擁-1

ー/ー



 自分の言いたいことだけを告げて、〈(ムスカ)〉は一方的に通話を切った。あとには、無機質な終話の電子音だけが、虚しくスピーカーに残される。
「……いったい、なんだよ……?」
 かすれた声で、ルイフォンは呟いた。
(ムスカ)〉は、これから庭園の門を封鎖するという。
 それはすなわち、中にいる仲間たちが脱出できなくなったことを意味する。
 けれど代わりに、ルイフォンたちが菖蒲の館に招待された。
「……」
(ムスカ)〉はリュイセンに下り、主導権はこちらにあるはずだった。
 なのに、気づけば〈(ムスカ)〉の掌の上で踊らされている。
「『最高の終幕(フィナーレ)』だと……?」
 まったく想像もしていなかった方向へと転がり始めた事態に、しばし呆然としていたルイフォンだったが、突如、かっと猫の目を見開いた。
「ふざけんな!」
 怒号を放ち、握りしめていた受話器を叩きつけるようにしてテーブルの上の電話器に戻した。そして、メイシアと回線を繋げている自分の携帯端末を掴み取る。
「メイシア、聞こえていたか?」
『うんっ……』
 返ってきたのは、緊張に震えた、けれど、喜びを隠しきれない声。
(ムスカ)〉の腹に一物(いちもつ)あるのは分かりきっている。けれど、ルイフォンは〈(ムスカ)〉の誘いに応じる。
 だから、ルイフォンに逢える――そのことが嬉しくてたまらないという想いを、彼に伝えてくれている。
「お前を迎えに行く!」
 ルイフォンだって、想いは同じだ。
 やっと、この手で、メイシアを抱きしめることができる――!
「罠だろうがなんだろうが、〈(ムスカ)〉のほうからお前のところに行くように言ったんだ。乗らない手はない。待っていろ!」
 そのまま出発の準備を始めるべく、扉に向かって歩き出そうとしたときだった。
「おい、〈(フェレース)〉」
 (つや)のある、魅惑の低音。決して大声でもなく、荒々しくもないのだが、威厳に満ちた声がルイフォンの足を止めさせた。
「親父? ……あ、『鷹刀の総帥』」
 父イーレオが、ルイフォンを『〈(フェレース)〉』の名で呼ぶときには、それなりの意味があるのだ。彼は襟を正し、向き直る。
「鷹刀は、〈(フェレース)〉に指揮権を預けた。ならば、きちんと指示を出してもらわないと困る。お前とミンウェイが(くだん)の館に行くことは自明としても、他はどうするつもりだ?」
 秀でた額に皺を寄せ、イーレオは渋面を作る。だが、片肘を付いた頬杖の姿勢は相変わらずで、眼鏡の奥の瞳には浮かれた色が見え隠れしていた。この事態を楽しんでいるのだ。
 そこへすかさず、妙に(かん)に障る声が割り込んだ。
「俺も行かせてもらうぜ」
 にやりと口角を上げた悪人面。言わずもがなのシュアンである。
「〈(ムスカ)〉の野郎が、殊勝にも敗北を宣言したと聞いたとき、俺は耳を疑った。――騙されるものか、と思った」
 そこで彼は、ほんの少し言葉を切り、真顔になる。
「……だが、メイシア嬢の話が出てきてからは、〈(ムスカ)〉の言動が確信犯的なものに変わった。――凶賊(ダリジィン)の持つ、一種独特なイカれた使命感のような臭いのする、な」
「……」
 あのとき、〈(ムスカ)〉のまとう雰囲気が変わったのは、ルイフォンも感じた。だが、ルイフォンとしては、メイシアに固執する〈(ムスカ)〉は不快でしかない。
 ルイフォンの目が(とが)ったことはシュアンも気づいたであろう。しかし、彼の調子は変わらなかった。
「実のところ、俺は、あの野郎が本当はどんな奴なのかを知らない。俺が知っているのは、先輩や、ハオリュウとメイシア嬢の父親を〈影〉にして、ただの駒として扱った奴だ、ってことだけだ」
 シュアンは奥歯を噛み締め、血色の悪い不健康な顔を歪める。
「俺は、奴に恨みがある。断じて、許しはしない」
 凶相が凄みを増した。それを隠すかのように、特徴的な三白眼が静かに伏せられる。
 そして、「だが……」と続けた。『狂犬』と呼ばれる者とは思えぬような、理知的な声で。
「奴は決して、愉快犯というわけではない。奴は必要だと思ったから、先輩たちを駒にした。――俺と同じ……、引き金を引ける奴だ、ってだけだ」
 シュアンは、下げた目線で自分の掌を見る。グリップだこで変形した、硬い手を。
「間違えるなよ? 俺は、奴のしたことを認めたわけじゃねぇ。絶対に殺してやる」
「シュアン……」
「ただ、如何(いか)にも胡散臭い呼び出しをしてきた奴が、いったい何をしようとしているのか。――この目で見届けたい。だから、行かせてもらう」
 ぐっと顔を上げ、威圧的な視線でルイフォンを睨みつけた。同行を申し出るというよりも、脅しを掛けているようにしか見えない。
「ああ、お前も来い」
 ルイフォンは深く頷いた。シュアンには、その資格がある。
 ほんの一瞬、本業である警察隊の仕事はどうするのだと思ったが、また例によって適当になんとかするのだろう。
 そんなやり取りを見ていたイーレオが、静かに口を開いた。
「指揮権を持つ〈(フェレース)〉に頼みがある」
「ん? なんだよ?」
 一族の総帥は、いつもと変わらぬ、足を組んだ尊大な姿勢のまま。しかし、改まった物言いに、ルイフォンは戸惑う。
「シュアンに、〈(ムスカ)〉への発砲を許可してほしい」
「え?」
「〈(フェレース)〉の提案では、リュイセンは〈(ムスカ)〉の首級(くび)を手柄に、一族への復帰を果たすことになっていた」
「ああ、そうだけど……?」
「だが、〈(ムスカ)〉の首級(くび)などなくとも、リュイセンは鷹刀の後継者にふさわしい人物であることを、自らの行動をもって示した。――一族の長たる俺が、認める。あいつは、俺の期待を遥かに超えた」
 イーレオは頬杖で支えた顎をわずかに上げ、慈愛に満ちた瞳を遥かな庭園へと向けた。
 それから、おもむろに表情を改め、朗々たる王者の声を放つ。
「鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、現時点をもって、鷹刀リュイセンの追放を解く」
「!?」
 望んでいた言葉であるが、あまりにも唐突だった。当惑を隠せぬルイフォンは、しばし瞳を瞬かせ、そして思い至る。
「なるほど。〈(ムスカ)〉へのとどめは、リュイセンではなく、シュアンに――ってことか」
 総帥を狙われはしたものの、まるで被害のなかった鷹刀一族が粛清を求めるのと、恩義ある先輩を永遠に失ったシュアンが仇討(あだう)ちを望むのとでは、どちらがより強い思いであるかは明白だ。
「分かった。〈(フェレース)〉は、シュアンの発砲を許可する。……というよりも、〈(ムスカ)〉への断罪は、シュアンのほうがふさわしいだろう」
 そういうことだろ? と、ルイフォンがイーレオを見やると、イーレオは凪いだ海のような静かな眼差しを返してきた。
「親父……?」
 ルイフォンは、違和感に首をかしげる。
 しかし、イーレオは何も言わずにシュアンへと視線を移し、彼に向かって口を開いた。
「聞いての通りだ、シュアン。〈(フェレース)〉から発砲許可が降りた」
「イーレオさん?」
 シュアンは、あからさまな不審の声を上げた。けれど、構わず、イーレオは言葉を重ねる。
「だから、お前は引き金を引くべきと思ったら、迷わず、〈(ムスカ)〉を撃て」
「!」
 シュアンの三白眼が見開かれ、血走った眼球が、ぎょろりと誇張された。彼は、ごくりと唾を呑み、尋ねる。
「――それは、どういう意味ですか?」
 わずかに警戒を含んだ困惑顔。低く、うなるような声はそこで止まらず、更に一歩、踏み込む。
「その口ぶりですと、イーレオさんは『俺は引き金を引かない』と信じているようにしか聞こえないんですが?」
「……え?」
 ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれた。シュアンの弁が理解できなかったのだ。
 どうしてそうなる? と、声を張り上げて問いただしたいところであるが、今はシュアンとイーレオの会話の途中だ。邪魔をしてはならぬと、ぐっと自分を抑え、そろりとイーレオを窺う。
 そのイーレオは、驚きに目を見張り、それから照れたように破顔した。
「まさか、お前に見抜かれるとはな」
「俺は職業柄、悪巧みには鼻が効くんですよ」
 国一番の凶賊(ダリジィン)の総帥の称賛は、シュアンとしても悪い気はしないらしい。彼は、得意げに口の端を上げる。
「すまんな、シュアン」
「いえ」
 かしこまったように応じながらも、当然のことながら、シュアンの三白眼はイーレオの真意を問うていた。それを受け、イーレオはゆっくりと瞳を巡らせ、シュアンのみならず、その場の者たちへと語りかける。
「ルイフォンの言う通り、〈(ムスカ)〉にとどめを刺すのなら、リュイセンよりも、シュアンに正当な権利があると思っているのは本当だ。――だが」
 そこで、イーレオは組んでいた長い足を戻し、ぐっと前へと身を乗り出した。その動きに惹き込まれるように、皆の体が自然と前のめりになる。
「リュイセンが〈(ムスカ)〉を『ヘイシャオ』だと認めた。――あいつの言動が、自分が何者であるかに迷っていた『作り物の駒』の『〈(ムスカ)〉』を『ヘイシャオ』にした」
 イーレオは目尻に皺を寄せ、低く喉を震わせる。
「奇跡だ」
 ――と。
 そして、不敵に笑う。清々しいくらいに、禍々しく。
「俺の知る『ヘイシャオ』なら、シュアンに撃たれたりはしない」
「イーレオさん……?」
 戸惑いに、シュアンが語尾を揺らした。
 そんな彼を、イーレオは正面から見つめる。
「もし、お前が引き金を引くべきだと思ったなら、それは〈(ムスカ)〉が『〈(ムスカ)〉』のままであったときだ。遠慮なく撃て」
 静かな低音が、執務室に響き渡る。
「〈(ムスカ)〉に血族の情を感じたリュイセンよりも、お前のほうが素早く動けるだろう。だから、皆を守るためには、お前に委ねるのがよいと思った。……いわば、お前は保険だ。悪いな」
「構いませんよ。むしろ、天下の鷹刀の総帥に、えらく買われているようで、身に余る光栄です。……ですが、『俺に撃たれたりしない』――ということは……」
 そこまで言いかけて、シュアンは首を振り、別のことを口にする。
「随分と、『ヘイシャオ』とやらを信頼しているんですね?」
 揶揄のような口調でありながら、シュアンの三白眼はじっと何かを期待しているかのようであった。
 イーレオは、にやりと目を細め、胸を張る。
「俺の自慢の娘婿(むすこ)だからな」
 その答えに、シュアンが満足したのか否かは、ルイフォンには分からない。だが、シュアンは「承知いたしました」と、ぼさぼさ頭を揺らして会釈した。
 そこで、会話が途切れた。
 傍聴者として、じっと沈黙していたルイフォンは、今だとばかりに、「親父に質問がある」と切り込む。
「親父は、〈(ムスカ)〉の言う『最高の終幕(フィナーレ)』が、どういう意味だか分かっているんだな?」
 その問いを、イーレオは予期していたのだろう。絶世の美貌を閃かせる。
「さて、な」
「親父!」
「お前が〈(ムスカ)〉の指名を受けたんだ。自分の目で確かめてくればいいだけだろう」
「けど、あらかじめ予測できていることなら知っておくべきだ。できるだけ多くの情報が、俺たちの安全に繋が……」
「ルイフォン」
 喰らいつこうとするルイフォンの言葉を、低い声が遮った。
 イーレオ……ではない。同じ声質を持つ、次期総帥エルファンである。
「私も行こう」
「エルファン?」
 意外な発言だった。
 イーレオにしろ、エルファンにしろ、その身に万一のことがあれば、一族に多大な影響を及ぼす立場にある者は、それが敵を誘う作戦ならばともかく、安易には危険な前線に出ないものだ。
「あの日、私はヘイシャオに乞われて、あいつを裁いた。何も訊かず、求められるままに」
 玲瓏な響きが、唐突に過去を語る。
「それが間違いであったとは思わない。救いを求めていたヘイシャオは、確かに解放された。……けれど、別の道もあったのだと思う」
 氷の無表情は冷たく閉ざされ、その心の内を窺い知ることはできない。けれど、ルイフォンには、エルファンが後悔しているように感じられてならなかった。
「私を呼ぶのではなく、リュイセンに何かを思い、ミンウェイと向き合い、ルイフォンとメイシアを待つというヘイシャオの〈影〉は、『あのとき』を超えた先にいる『もうひとりのヘイシャオ』だ。――干渉するつもりはない。ただ、見守りたいと思う」
 音もなく氷が溶けていくように、エルファンの言葉が低く消えていく。
「分かった。エルファンも一緒だ」
 ルイフォンは鋭く答えた。
 どうやら年寄り連中には、それぞれに深い思いがあるらしい。それを言葉で語られたところで、おそらくルイフォンには実感できまい。
 だから、すべては、自分自身で確かめる――!
「解散だ! 『最高の終幕(フィナーレ)』に向けて、少しでも仮眠をとっておこう」
 ルイフォンは、くるりと身を翻し、背中で金の鈴を煌めかせた。


 そして、夜が明ける。
 ルイフォンたち一行は、シュアンの運転する車に乗り込み、屋敷を発った。
 帰りの人数を考えての広々とした大型車は、ハオリュウの車の隠し空間に押し込められて、あの庭園に潜入したときとは、雲泥の差の快適さであった。
 あれから、まだほんの数週間しか経っていないのに、随分と昔のことのような気がする。
 前回は、館で待っているのが身分を振りかざす王族(フェイラ)の摂政であったがために、自家用車での訪問にハオリュウが苦心した。だが、今回は〈(ムスカ)〉からの招待だ。如何(いか)にも胡散臭い黒塗りの車であるにも関わらず、近衛隊はあっさりと通してくれた。
 勿論、〈(ムスカ)〉への警戒は怠っていない。それぞれに得意の武器を手にしており、また念のために爆発物を積んである。
 万が一、〈(ムスカ)〉が約束を違え、近衛隊に命じて門を封鎖――ルイフォンたちの車を外に出られないようにした場合でも、『国宝級の科学者が、実験に失敗して、爆発事故を起こした』『科学者は大怪我をしており、急いで病院に搬送する必要がある』と言って、脱出する算段である。
 そんなものは必要ないと、エルファンの氷の瞳が無言で告げていたが、用心深くあっても損はしないだろう。
 車は緩やかな緑の丘陵を行き、少しずつ枯れ始めてきた、けれど、いまだ鮮やかさを残す紫の菖蒲園の脇を抜けた。
 やがて、草原の海に凛とたたずむ、石造りの塔が見えてくる。
 展望塔を目にした瞬間、ルイフォンは、ミンウェイの「危ないでしょ!」という制止の声も聞かずに、車の窓を全開にして身を乗り出した。
 強い南風を頬に受ける。
 流された髪の先で、金の鈴が煌めく。
 朝陽を浴びる壮麗な塔を見上げると、硝子で覆われた最上階の展望室が、天上の宝石のようにきらきらと輝いていた。
 ルイフォンは遥かな天空に向かって、大きく手を振る。
 地表を()く自分は、ちっぽけかもしれない。けれど、地上から伸ばすこの手が、メイシアの瞳に映るようにと。
 展望塔にたどり着き、車が停まると同時にルイフォンは飛び降りる。
 その刹那、塔の扉が重い音を響かせた。
 長い黒絹の髪をなびかせ。
 白磁の肌を薔薇色に染め。
 天から舞い降りてきた彼女が、疾風(かぜ)を渡る。
 彼もまた地を蹴り、疾風(かぜ)に乗る。

 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、仕組まれた運命。

 けれど、絡め合わせたこの手は、決して離さない――。


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〈|蝿《ムスカ》〉は、これから庭園の門を封鎖するという。
 それはすなわち、中にいる仲間たちが脱出できなくなったことを意味する。
 けれど代わりに、ルイフォンたちが菖蒲の館に招待された。
「……」
〈|蝿《ムスカ》〉はリュイセンに下り、主導権はこちらにあるはずだった。
 なのに、気づけば〈|蝿《ムスカ》〉の掌の上で踊らされている。
「『最高の|終幕《フィナーレ》』だと……?」
 まったく想像もしていなかった方向へと転がり始めた事態に、しばし呆然としていたルイフォンだったが、突如、かっと猫の目を見開いた。
「ふざけんな!」
 怒号を放ち、握りしめていた受話器を叩きつけるようにしてテーブルの上の電話器に戻した。そして、メイシアと回線を繋げている自分の携帯端末を掴み取る。
「メイシア、聞こえていたか?」
『うんっ……』
 返ってきたのは、緊張に震えた、けれど、喜びを隠しきれない声。
〈|蝿《ムスカ》〉の腹に|一物《いちもつ》あるのは分かりきっている。けれど、ルイフォンは〈|蝿《ムスカ》〉の誘いに応じる。
 だから、ルイフォンに逢える――そのことが嬉しくてたまらないという想いを、彼に伝えてくれている。
「お前を迎えに行く!」
 ルイフォンだって、想いは同じだ。
 やっと、この手で、メイシアを抱きしめることができる――!
「罠だろうがなんだろうが、〈|蝿《ムスカ》〉のほうからお前のところに行くように言ったんだ。乗らない手はない。待っていろ!」
 そのまま出発の準備を始めるべく、扉に向かって歩き出そうとしたときだった。
「おい、〈|猫《フェレース》〉」
 |艶《つや》のある、魅惑の低音。決して大声でもなく、荒々しくもないのだが、威厳に満ちた声がルイフォンの足を止めさせた。
「親父? ……あ、『鷹刀の総帥』」
 父イーレオが、ルイフォンを『〈|猫《フェレース》〉』の名で呼ぶときには、それなりの意味があるのだ。彼は襟を正し、向き直る。
「鷹刀は、〈|猫《フェレース》〉に指揮権を預けた。ならば、きちんと指示を出してもらわないと困る。お前とミンウェイが|件《くだん》の館に行くことは自明としても、他はどうするつもりだ?」
 秀でた額に皺を寄せ、イーレオは渋面を作る。だが、片肘を付いた頬杖の姿勢は相変わらずで、眼鏡の奥の瞳には浮かれた色が見え隠れしていた。この事態を楽しんでいるのだ。
 そこへすかさず、妙に|癇《かん》に障る声が割り込んだ。
「俺も行かせてもらうぜ」
 にやりと口角を上げた悪人面。言わずもがなのシュアンである。
「〈|蝿《ムスカ》〉の野郎が、殊勝にも敗北を宣言したと聞いたとき、俺は耳を疑った。――騙されるものか、と思った」
 そこで彼は、ほんの少し言葉を切り、真顔になる。
「……だが、メイシア嬢の話が出てきてからは、〈|蝿《ムスカ》〉の言動が確信犯的なものに変わった。――|凶賊《ダリジィン》の持つ、一種独特なイカれた使命感のような臭いのする、な」
「……」
 あのとき、〈|蝿《ムスカ》〉のまとう雰囲気が変わったのは、ルイフォンも感じた。だが、ルイフォンとしては、メイシアに固執する〈|蝿《ムスカ》〉は不快でしかない。
 ルイフォンの目が|尖《とが》ったことはシュアンも気づいたであろう。しかし、彼の調子は変わらなかった。
「実のところ、俺は、あの野郎が本当はどんな奴なのかを知らない。俺が知っているのは、先輩や、ハオリュウとメイシア嬢の父親を〈影〉にして、ただの駒として扱った奴だ、ってことだけだ」
 シュアンは奥歯を噛み締め、血色の悪い不健康な顔を歪める。
「俺は、奴に恨みがある。断じて、許しはしない」
 凶相が凄みを増した。それを隠すかのように、特徴的な三白眼が静かに伏せられる。
 そして、「だが……」と続けた。『狂犬』と呼ばれる者とは思えぬような、理知的な声で。
「奴は決して、愉快犯というわけではない。奴は必要だと思ったから、先輩たちを駒にした。――俺と同じ……、引き金を引ける奴だ、ってだけだ」
 シュアンは、下げた目線で自分の掌を見る。グリップだこで変形した、硬い手を。
「間違えるなよ? 俺は、奴のしたことを認めたわけじゃねぇ。絶対に殺してやる」
「シュアン……」
「ただ、|如何《いか》にも胡散臭い呼び出しをしてきた奴が、いったい何をしようとしているのか。――この目で見届けたい。だから、行かせてもらう」
 ぐっと顔を上げ、威圧的な視線でルイフォンを睨みつけた。同行を申し出るというよりも、脅しを掛けているようにしか見えない。
「ああ、お前も来い」
 ルイフォンは深く頷いた。シュアンには、その資格がある。
 ほんの一瞬、本業である警察隊の仕事はどうするのだと思ったが、また例によって適当になんとかするのだろう。
 そんなやり取りを見ていたイーレオが、静かに口を開いた。
「指揮権を持つ〈|猫《フェレース》〉に頼みがある」
「ん? なんだよ?」
 一族の総帥は、いつもと変わらぬ、足を組んだ尊大な姿勢のまま。しかし、改まった物言いに、ルイフォンは戸惑う。
「シュアンに、〈|蝿《ムスカ》〉への発砲を許可してほしい」
「え?」
「〈|猫《フェレース》〉の提案では、リュイセンは〈|蝿《ムスカ》〉の|首級《くび》を手柄に、一族への復帰を果たすことになっていた」
「ああ、そうだけど……?」
「だが、〈|蝿《ムスカ》〉の|首級《くび》などなくとも、リュイセンは鷹刀の後継者にふさわしい人物であることを、自らの行動をもって示した。――一族の長たる俺が、認める。あいつは、俺の期待を遥かに超えた」
 イーレオは頬杖で支えた顎をわずかに上げ、慈愛に満ちた瞳を遥かな庭園へと向けた。
 それから、おもむろに表情を改め、朗々たる王者の声を放つ。
「鷹刀一族総帥、鷹刀イーレオは、現時点をもって、鷹刀リュイセンの追放を解く」
「!?」
 望んでいた言葉であるが、あまりにも唐突だった。当惑を隠せぬルイフォンは、しばし瞳を瞬かせ、そして思い至る。
「なるほど。〈|蝿《ムスカ》〉へのとどめは、リュイセンではなく、シュアンに――ってことか」
 総帥を狙われはしたものの、まるで被害のなかった鷹刀一族が粛清を求めるのと、恩義ある先輩を永遠に失ったシュアンが|仇討《あだう》ちを望むのとでは、どちらがより強い思いであるかは明白だ。
「分かった。〈|猫《フェレース》〉は、シュアンの発砲を許可する。……というよりも、〈|蝿《ムスカ》〉への断罪は、シュアンのほうがふさわしいだろう」
 そういうことだろ? と、ルイフォンがイーレオを見やると、イーレオは凪いだ海のような静かな眼差しを返してきた。
「親父……?」
 ルイフォンは、違和感に首をかしげる。
 しかし、イーレオは何も言わずにシュアンへと視線を移し、彼に向かって口を開いた。
「聞いての通りだ、シュアン。〈|猫《フェレース》〉から発砲許可が降りた」
「イーレオさん?」
 シュアンは、あからさまな不審の声を上げた。けれど、構わず、イーレオは言葉を重ねる。
「だから、お前は引き金を引くべきと思ったら、迷わず、〈|蝿《ムスカ》〉を撃て」
「!」
 シュアンの三白眼が見開かれ、血走った眼球が、ぎょろりと誇張された。彼は、ごくりと唾を呑み、尋ねる。
「――それは、どういう意味ですか?」
 わずかに警戒を含んだ困惑顔。低く、うなるような声はそこで止まらず、更に一歩、踏み込む。
「その口ぶりですと、イーレオさんは『俺は引き金を引かない』と信じているようにしか聞こえないんですが?」
「……え?」
 ルイフォンの口から、思わず疑問がこぼれた。シュアンの弁が理解できなかったのだ。
 どうしてそうなる? と、声を張り上げて問いただしたいところであるが、今はシュアンとイーレオの会話の途中だ。邪魔をしてはならぬと、ぐっと自分を抑え、そろりとイーレオを窺う。
 そのイーレオは、驚きに目を見張り、それから照れたように破顔した。
「まさか、お前に見抜かれるとはな」
「俺は職業柄、悪巧みには鼻が効くんですよ」
 国一番の|凶賊《ダリジィン》の総帥の称賛は、シュアンとしても悪い気はしないらしい。彼は、得意げに口の端を上げる。
「すまんな、シュアン」
「いえ」
 かしこまったように応じながらも、当然のことながら、シュアンの三白眼はイーレオの真意を問うていた。それを受け、イーレオはゆっくりと瞳を巡らせ、シュアンのみならず、その場の者たちへと語りかける。
「ルイフォンの言う通り、〈|蝿《ムスカ》〉にとどめを刺すのなら、リュイセンよりも、シュアンに正当な権利があると思っているのは本当だ。――だが」
 そこで、イーレオは組んでいた長い足を戻し、ぐっと前へと身を乗り出した。その動きに惹き込まれるように、皆の体が自然と前のめりになる。
「リュイセンが〈|蝿《ムスカ》〉を『ヘイシャオ』だと認めた。――あいつの言動が、自分が何者であるかに迷っていた『作り物の駒』の『〈|蝿《ムスカ》〉』を『ヘイシャオ』にした」
 イーレオは目尻に皺を寄せ、低く喉を震わせる。
「奇跡だ」
 ――と。
 そして、不敵に笑う。清々しいくらいに、禍々しく。
「俺の知る『ヘイシャオ』なら、シュアンに撃たれたりはしない」
「イーレオさん……?」
 戸惑いに、シュアンが語尾を揺らした。
 そんな彼を、イーレオは正面から見つめる。
「もし、お前が引き金を引くべきだと思ったなら、それは〈|蝿《ムスカ》〉が『〈|蝿《ムスカ》〉』のままであったときだ。遠慮なく撃て」
 静かな低音が、執務室に響き渡る。
「〈|蝿《ムスカ》〉に血族の情を感じたリュイセンよりも、お前のほうが素早く動けるだろう。だから、皆を守るためには、お前に委ねるのがよいと思った。……いわば、お前は保険だ。悪いな」
「構いませんよ。むしろ、天下の鷹刀の総帥に、えらく買われているようで、身に余る光栄です。……ですが、『俺に撃たれたりしない』――ということは……」
 そこまで言いかけて、シュアンは首を振り、別のことを口にする。
「随分と、『ヘイシャオ』とやらを信頼しているんですね?」
 揶揄のような口調でありながら、シュアンの三白眼はじっと何かを期待しているかのようであった。
 イーレオは、にやりと目を細め、胸を張る。
「俺の自慢の|娘婿《むすこ》だからな」
 その答えに、シュアンが満足したのか否かは、ルイフォンには分からない。だが、シュアンは「承知いたしました」と、ぼさぼさ頭を揺らして会釈した。
 そこで、会話が途切れた。
 傍聴者として、じっと沈黙していたルイフォンは、今だとばかりに、「親父に質問がある」と切り込む。
「親父は、〈|蝿《ムスカ》〉の言う『最高の|終幕《フィナーレ》』が、どういう意味だか分かっているんだな?」
 その問いを、イーレオは予期していたのだろう。絶世の美貌を閃かせる。
「さて、な」
「親父!」
「お前が〈|蝿《ムスカ》〉の指名を受けたんだ。自分の目で確かめてくればいいだけだろう」
「けど、あらかじめ予測できていることなら知っておくべきだ。できるだけ多くの情報が、俺たちの安全に繋が……」
「ルイフォン」
 喰らいつこうとするルイフォンの言葉を、低い声が遮った。
 イーレオ……ではない。同じ声質を持つ、次期総帥エルファンである。
「私も行こう」
「エルファン?」
 意外な発言だった。
 イーレオにしろ、エルファンにしろ、その身に万一のことがあれば、一族に多大な影響を及ぼす立場にある者は、それが敵を誘う作戦ならばともかく、安易には危険な前線に出ないものだ。
「あの日、私はヘイシャオに乞われて、あいつを裁いた。何も訊かず、求められるままに」
 玲瓏な響きが、唐突に過去を語る。
「それが間違いであったとは思わない。救いを求めていたヘイシャオは、確かに解放された。……けれど、別の道もあったのだと思う」
 氷の無表情は冷たく閉ざされ、その心の内を窺い知ることはできない。けれど、ルイフォンには、エルファンが後悔しているように感じられてならなかった。
「私を呼ぶのではなく、リュイセンに何かを思い、ミンウェイと向き合い、ルイフォンとメイシアを待つというヘイシャオの〈影〉は、『あのとき』を超えた先にいる『もうひとりのヘイシャオ』だ。――干渉するつもりはない。ただ、見守りたいと思う」
 音もなく氷が溶けていくように、エルファンの言葉が低く消えていく。
「分かった。エルファンも一緒だ」
 ルイフォンは鋭く答えた。
 どうやら年寄り連中には、それぞれに深い思いがあるらしい。それを言葉で語られたところで、おそらくルイフォンには実感できまい。
 だから、すべては、自分自身で確かめる――!
「解散だ! 『最高の|終幕《フィナーレ》』に向けて、少しでも仮眠をとっておこう」
 ルイフォンは、くるりと身を翻し、背中で金の鈴を煌めかせた。
 そして、夜が明ける。
 ルイフォンたち一行は、シュアンの運転する車に乗り込み、屋敷を発った。
 帰りの人数を考えての広々とした大型車は、ハオリュウの車の隠し空間に押し込められて、あの庭園に潜入したときとは、雲泥の差の快適さであった。
 あれから、まだほんの数週間しか経っていないのに、随分と昔のことのような気がする。
 前回は、館で待っているのが身分を振りかざす|王族《フェイラ》の摂政であったがために、自家用車での訪問にハオリュウが苦心した。だが、今回は〈|蝿《ムスカ》〉からの招待だ。|如何《いか》にも胡散臭い黒塗りの車であるにも関わらず、近衛隊はあっさりと通してくれた。
 勿論、〈|蝿《ムスカ》〉への警戒は怠っていない。それぞれに得意の武器を手にしており、また念のために爆発物を積んである。
 万が一、〈|蝿《ムスカ》〉が約束を違え、近衛隊に命じて門を封鎖――ルイフォンたちの車を外に出られないようにした場合でも、『国宝級の科学者が、実験に失敗して、爆発事故を起こした』『科学者は大怪我をしており、急いで病院に搬送する必要がある』と言って、脱出する算段である。
 そんなものは必要ないと、エルファンの氷の瞳が無言で告げていたが、用心深くあっても損はしないだろう。
 車は緩やかな緑の丘陵を行き、少しずつ枯れ始めてきた、けれど、いまだ鮮やかさを残す紫の菖蒲園の脇を抜けた。
 やがて、草原の海に凛とたたずむ、石造りの塔が見えてくる。
 展望塔を目にした瞬間、ルイフォンは、ミンウェイの「危ないでしょ!」という制止の声も聞かずに、車の窓を全開にして身を乗り出した。
 強い南風を頬に受ける。
 流された髪の先で、金の鈴が煌めく。
 朝陽を浴びる壮麗な塔を見上げると、硝子で覆われた最上階の展望室が、天上の宝石のようにきらきらと輝いていた。
 ルイフォンは遥かな天空に向かって、大きく手を振る。
 地表を|征《ゆ》く自分は、ちっぽけかもしれない。けれど、地上から伸ばすこの手が、メイシアの瞳に映るようにと。
 展望塔にたどり着き、車が停まると同時にルイフォンは飛び降りる。
 その刹那、塔の扉が重い音を響かせた。
 長い黒絹の髪をなびかせ。
 白磁の肌を薔薇色に染め。
 天から舞い降りてきた彼女が、|疾風《かぜ》を渡る。
 彼もまた地を蹴り、|疾風《かぜ》に乗る。
 天と地が手を繋ぎ合うような奇跡の出逢いは、仕組まれた運命。
 けれど、絡め合わせたこの手は、決して離さない――。