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50 戦士の傷 北海道編 その2

ー/ー




星野side

 真夜中0時、いつものように目が覚める。
 隣の布団で寝ているのは芦屋さん。なぜか颯人様とスクナビコナ殿に挟まれて、ワンちゃんが枕をして、足の間に童子姿の妖怪が丸まって眠っている…。
 あんなに囲まれて、苦しくないんだろうか。寝る時までこんなに複数顕現しているのにも驚きを隠せない。


 今日はとても楽しかった。芦屋さんと二人でお仕事するのは……本当に憧れていたんです。
そんな彼と、お祭り屋台を一緒に回れたのは忘れられない思い出になるでしょう。
 
 焼きそば、たこ焼き、りんご飴、なんて事のない食べ物があんなに美味しく感じたのは初めての事だった。
神様達も混ざって、お腹がはち切れそうなほどに食べたのも。お店の人達が屋台を全部制覇した神様達に驚いていた。
 
 満ち足りた気持ちでいるはずなのに、いつものように足が…勝手に洗面所に向かってしまう。

 
 
 薄暗いそこは足元から冷気が漂い、鳥肌が立つほどの寒さ。
芦屋さんが抱きしめてくれたあたたかさは、もう体に残っていない。
 暴漢の暴力に怯え、フラッシュバックを起こして過呼吸になった自分を優しく宥めてくれた彼は、起きないでいてくれるだろうか。
 
 柏手一つで大の男を圧倒してしまった、陰陽師になって一年足らずで課長にまでのし上がった彼が傍に居るのに…まだ恥を晒すつもりの自分に嫌気がさす。

 
 
 辞令が発表された朝礼の後、私だけでなく同僚達は皆口々に『稀代の陰陽師が現れた』と言っていた。
明確な目標もなく、ふわふわと仕事をしていた私たちは、初めて地に足がついた心地になった。
 きっと、これからはもっといい仕事をしていける。あの人を目指せばいい、と目標ができた瞬間だった。
 
 なのに何故、浴衣の袖にカミソリが入っているんだろう。
私はどうしてこの癖をやめられないんだろう。


 
 鏡を見つめ、ひどい顔を眺める。
 真夜中になると、自分に宿ったハラエドノオオカミの気配が薄くなる。
午前零時は生気が死気に転ずる時間。
 自分の中の理性がゆるみ、自傷衝動が起こるのは決まってこの時間だった。
暴力を抑えるためだけじゃなく、私は痛みに縋っていないと自分を保てない。

 
 暗い闇の中で、洗面台を掴んで力一杯握り込む。
 付き合いはじめたばかりの彼女には、まだ自分のダメなところを知られていない。手首の包帯を気にしてはいたが、何も言われずにいる。
 
 芦屋さんのように見守ってくれるつもりなのか、触れないでいるつもりなのかはわからない。

 袖に手を入れた瞬間、声が聞こえてくる。囁くような声なのに、はっきりと耳に届いている。


 
──人は則ち天下の神物なり(ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり)
 須らく掌る静謐心は(すべからくしづまることをつかさどるこころは)
 則 神 明の本主たり(すなわち かみとかみとの もとのあるじたり)──


 
 芦屋さんの声だ。祝詞に(いざな)われてふらふらと部屋に戻る。彼は窓辺の椅子に腰掛けて胸に手を当ながら目を瞑り、静かに宣りを続けた。

──心神を傷ましむること莫れ(わがたましいをいたましることなかれ)
 是の故に(このゆえに)
 諸の法は影と像の如し(もろもろののりはかげとかたちのごとし)  
 清く潔ければ(きよくきよければ)
 仮にも穢るること無し(かりにもけがるることなし)
 説を取らば得べからず(ことをとらばうべからず)
 皆花よりぞ木実とは生る(みなはなよりぞこのみとはなる)
 我が身は則ち(わがみはすなわち)

 六根清浄なり(ろくこんしょうじょうなり)──
 

 六根清浄大祓だ…芦屋さんは私が起き出したのに気づいていたんだ。私が手首に(やいば)を当てようとした事を知っている。
 六根清浄大祓が優しい言霊になって自分の心に染み込んでくる。

 自分自身が神と等しく尊い命だと、傷つけてはいけない、心を強く持てと。芦屋さんが語りかけてくれていた。

 

 呆然と立ち尽くす私に気付いた芦屋さんが、穏やかな微笑みを浮かべる。
 暖房を消しているはずなのに、部屋の中は驚くほど暖かい。芦屋さんの祝詞の効果だろうか。彼に手招きされて、窓辺の椅子に座って手を握られる。
 

「おかえり、星野さん。」
「……はい」
「我慢できたんだな、良かった。タバコ吸う?」
「……はい」

 

 手巻きタバコを渡され、マッチで火をつけてくれて、それを吸う。
燻る熱に紙と葉がパリパリと音を立てて焼かれ、葉の甘い味と煙の苦い味が口の中に広がってくる。…こんなに甘い味の葉が、あっただろうか…。

 芦屋さんは何も言わず、ただただ私の手首の包帯を優しく撫でる。
暖かく、優しい手のひら。そこには彼が小さな頃傷つけられた痕があった。
 

「いつも真夜中なの?」
「……はい」
「ちゃんと風呂上がりに消毒した?」
「……はい」
「ならよし」
「……はい」

 おうむ返しのようにはい、しか言えない。私の愚かな行いを責めもせず、悲しみもせず、怒りもなく穏やかなままの彼が…優しくて、切なくて。口が勝手に喋り出す。
 
 芦屋さんの、声が聞きたい。

 
 
「六根清浄大祓がお好きですか」
「うん。祝詞やってるとさぁ、言葉の意味をよく知ることになるだろ?
 六根清浄大祓は一番好きかも。人を思う気持ちを伝えられるし、相手を信じているからこその言葉が連なっているからね」

「相手を信じてる…」

 喉が痛い。泣く前の熱が胸元から迫り上がってくる。私を信じていると、そう芦屋さんは伝えてくれている。
 自傷の念に駆られた私を無理やり止めず、戻るのを待ってくれていた。
涙が出るのを堪えるために、グッと奥歯を噛み締める。

 
「目も耳も心も、清らかであれば何事も泡沫(うたかた)なんだよ。
 嫌な言葉も、暴力も、何もかも自分の奥底には響かない、届かない筈なんだけど……難しいよね。
 この世の全てって、大きくて。それに比べたらほんのわずかな揺らぎで苦しい、悲しい、時には死にたくなる事もある。」
 
「はい」

「それでも、生きてる。自分のために生きるんだ。それが人の為になる事もある。
 戦って、傷ついて、倒れて、泥水を啜りながらも、立ち上がる。
星野さんのこの傷は、そう言うものだ。痛い思いはしてほしくないけどさ。」

「……」
 
「俺は、星野さんの傷が愛おしいよ。自分自身と闘った、戦士の傷なんだ、これは」
 
「……戦士の、傷……」

 
 胸が痛い。きゅうきゅうと音を立てて締め付けられて、息ができない。
 
 芦屋さんの手はよく見ると、火傷の他にも細かい傷跡がたくさんある。
腕にも、足にも、首にも。 
 小さな頃についた傷は治りにくい。深ければ深いほどそれは痕を残して、身体の成長とともに広がり、心の傷は血を流し続ける。

 それを全部抱えたままでこうして私に優しくしてくれる。慈しんでくれる。
なんてあたたかい人なんだろう。

 

「どうして、そんなふうに優しくなれるんです?私は自分で自分を傷つけた。自らを軽んじて痛みに縋って、暴力を見ただけであんな風に崩れてしまう。……情けないです」
 
「情けなくなんかない。星野さんは立ちあがろうとしてる。乗り越えようとしてる。
 どんな手段でも、自分で自分を立ち上がらせる為に苦しんで悩んで…傷ついても、人の為に仕事をしてる」
「……はい」


 穏やかな沈黙が落ちる。外は風が吹き荒れて、パウダースノーが舞い上がっている。ダイヤモンドダストだ…。
月明かりにそれが煌めき、風の形を象って流れていく。
 芦屋さんと、自分の瞳の中にその輝きが宿ったような気がした。
 

 
 
「彼女さんは星野さんのどこが好きだって言ってた?」
「え……?」
 
「恋バナしようよ。俺した事ないんだ。今日は初体験ばっかりだな」
「は、はい。えぇと……優しいとか、褒める言葉が綺麗だとか、優男だけど粘り強いとか」
 
「うんうん、それから?」
 
「メガネを外した時のギャップが萌えるとか、時々する怖い目が好きとか、うぅ……恥ずかしいんですが」


 むふふ、とわらった彼が両手で手首を包んでくる。
 小さく「魚彦」と声をかけて、そこからじわじわ…あたたかい何かが侵食してきた。
 

「星野さんが戦った傷は、俺が治す。心の傷はきっと彼女さんが癒してくれる。
 自分のダメなところを許して、彼女さんが好きだって言ってくれる所を好きになって欲しいな。俺も星野さんの事が大好きだ。」
「暴力を見ただけで過呼吸を起こして、自傷を抑えられない私をですか」


 
 月の光を湛えた瞳が私をじっと見つめて、奥の奥まで見透かされた様な気持ちになる。透き通ったその瞳に、柔らかい色が見えた。
 瞳に吸い込まれそうだ…鈴村さんの言った通り、こんな人に惚れない理由がない。

 
 
「そうだよ。星野さんは彼女さんが言う様に粘り強くて諦めない。人の良いところを見つけて、カッコいい言葉で褒めちゃうイケメンなんだ。」
 
「イケメンではないでしょう…」

「そう?少なくともこの世で二人はそう思ってるよ。
 星野さんは赤城山でもゴミを拾った時に、瓶についた蓋と区別して捨ててたろ?後で気づいた鬼一さんがやり直してた」
「えぇ…?」
 
「ふふ。それに、持ち物をちゃんと大切にしてる。ハンカチも、水晶も、俺みたいに適当にポッケに突っ込まない」
「……」
 
「屋台でも手が届かない子を持ち上げてあげたり、誰かが捨てたゴミを拾ってゴミ箱に入れたり、俺が飛行機でうつらうつらしてた時も壁にぶつからない様に支えてくれてた」
「はい……」

 手首の包帯が、解かれていく。
慢性化していたジクジクした痛みが嘘の様に消えて、つるんとした自分の腕が現れる。


 
「小さいことが積み重なって星野さんと言う人を形作ってる。『こんな些細な事』って思うかもしれないけどさ。それを一つ一つ尊いと思う人もいるんだよ。自分でもそれをちゃんと見て、認めてあげてくれ」
「………………はい」

 
 
 パタパタと自分の涙が落ちて手首を叩く。
こんな風に言われて、我慢なんかできるわけがない。
 
 心地いい沈黙の中で、言葉を交わさなくてもお互いの気持ちが通じ合うように感じた。

 吸い差しのタバコの火が消えて、煙が途切れて…ふと自分の中に確固たるものが残っていることに気づく。

  
 芦屋さんが、残してくれたんだ。
 自分の中の一番柔らかい場所にそれを抱え込み、空っぽの器にそれが満ち満ちて溢れ、揺らいでいた何もかもがしっかりと立ち上がる。

  

 綺麗になった腕を撫でてくれる、芦屋さんの傷こそが私には愛おしい。
誰も彼もを立ち直らせてしまう、魔法使いの様な彼の手が、彼自身が。
 あなたに『あたたかい』と言ったのは体温ではなく心のことなんですよ。わかってますか?
 
 もう、私は自分を傷つけることはしない。他者を傷つけたりもしない。
信じてくれた芦屋さんの心に応えたい。

 自らがつけた意味のない傷を、戦士の傷だと敬ってくれた。そんな彼を裏切るなんて絶対にしたくない。


 
 彼が治してくれた自分の腕が……わずかに残った傷痕が、まるで勲章の様に思えた。

 
 ━━━━━━




 
 
「はぁ、はぁ…うぁーキッツぅ!!!」
「我が抱いてやると言っているのに」
 
「魚彦ではないが、お主は真幸の努力に水を差すでない。無粋じゃろう」
 
「ククノチ。昨日から傍に(はべ)らせているのだ。控えよ」
 
「いやじゃのぉ。余裕のない悋気はみっともないのうー。神格が高い割には大人気ないのう〜」
「くっ…」

 
 膝に手を置いて、荒い息で苦笑いしてる芦屋さん。ククノチさん、颯人様相手になかなかやりますね。
 私はハラエドノオオカミに抱えられてズルをしている気分です。

 
「と言うか、芦屋さんはどこまで陰陽術を使える様になっているんですか。式神に速歩術…目が回りそうです」
「はっは、俺も色々と練習…」

芦屋さんが言い切る前に颯人様が顔をグイグイ近付けている。
褒められに来た大型犬のように見える。
 


「ふん。ふん。」
「あー、はいはい。颯人のおかげだよ。優秀な先生だからな。ありがとう」
「ふんっ」
「こんにゃろめ」

 颯人様をつついて笑い声をあげ、ククノチノカミに引っ張られてそちらもつつき出す彼は、昨日とはまるで別人の様だ。
 いや、違う。これも彼の一面なのだろう。人としての深みがある彼はどこか掴みどころのない人で、それでも朗らかで、優しくて、無邪気でそして芯の強い人。
 あの伏見さんがべったりくっついていた訳がよく分かりました。
鬼一さんや鈴村さんがあんな風に変わったのも彼のおかげで間違いなさそうだ。

 

「さて、奥の宮到着!」
「お疲れ様でした」
 
 樽前山神社からタクシー移動、徒歩で登山して約30km。霊山と言われる樽前山の頂上にある奥宮に到着。
 ここが樽前山神社の元祖らしいですが、参拝客は当然ながら居ない。
インターネットで見たら複数人が訪れてはいるが、なるほど麓の神社は参拝しやすい場所に作ったんですね。

 
「鳥居は新しくしたんだな、ピカピカだ」
「石塚にトンネルの社とは。堅牢と言えば堅牢ですが」
「殺風景だね!ワハハ!」

 ようやく息が整った芦屋さんが気持ちよさそうに腕を伸ばし、汗を拭く。
 私が速歩術を使えていれば一緒に走れたのに。悔しいです。

 

「あぐろ」
「はい」

「なっ!や、山彦!?ずいぶん変わりましたね……」
「そうだろー!京都でメタモルフォーゼしたんだ。可愛いのは変わらないけどね」

 赤城山で調伏した、いやあれは押し付けられたんでしょうけど。山彦があぐろ、と呼ばれて顕現された。
 水干姿だったはずが黒い狩衣を着て、髪が伸びて芦屋さんと同じくハーフアップにしている。背丈は変わらず、眦に朱を引いて巫女化粧をしていた。
明らかに階位が上がってますね、これは。
 
 妖怪に名を与えたのか…そう言えば昨日殴られてびくともしていなかった彼も暉人と呼んでいた。
 依代が神々に名を与えるなんて見たことも聞いたこともない。名を与え魂を下し、眷属にできるのは神のみのはずなのに。
 

「オオヤマツミノカミーどこー」
「ククノチが参ったぞ。早よ出てこんか」
「そんな呼び方でいいんですか……」

 鳥居に頭を下げ、潜り抜けて周りを探してみてもありの子一匹出てこない。
お臍を曲げていると前崎さんが仰ってましたね。

 
 
「ふむ、臍曲がりが隠れん坊しておるな」
「面倒だ。祝詞でも唱えてやればよい。朝の修練をここでやってしまおう」
 
「お、了解。星野さん、自分に結界張ってくれるか?多分バタンキューしちゃうよ」
 
「はっ!はい!!」

 朝礼のアレを、本当に毎朝しているんですか!?恐ろしい…。
慌てて略式祓で結界を貼り、ハラエドノオオカミに霊壁で囲んでもらう。
 
「ありがとうございます」
「なんのことはない」

 

 ハラエドノオオカミと微笑みを交わし、顕現を解いて手印を組む。
 芦屋さんの祝詞は恐ろしい熟練度に達している。朝礼では酷い目を見た。山神の鎮めの時よりも強い力で、私はあっという間に気絶してしまっていた。

 姿勢を正し、綺麗に腰を折って拝した後柏手が打たれる。
山彦は水を得た魚の様に周りをぴょんぴょん飛び回り始めた。やはり山が好きなんですね。

 

「今日は鳥居祓と山神祓(やまかみはらい)だけでよい」
「えっ、いいの?大祓は?」

 二つでも普通じゃないと突っ込める雰囲気ではないですが。
祝詞をマスターされてるんですか。芦屋さんが怖くなってきた。
 

(そら)が近い。アレが来るかもしれぬ。危ういのだ」
「なるほど理解した。んじゃ、はじめます」

 
 芦屋さんが朗々と祝詞を嘔う。
昨日の六根清浄大祓よりも高く、透き通るような響きの声。
びゅうびゅう吹き荒ぶ風がぴたりと止まり、雲が割れ、陽が差して、山々にその声が響き渡る。
 
 天候を左右できるまでの祝詞はそうそうできるものではない。そのような方は宮内庁や伊勢神宮にしか居なかったはず。
 浮かんできた畏怖が背筋に冷たい汗を伝わせる。
降り積もった雪の中を通り、冷え切った気温がゆっくりと暖かくなっていき、鳥居祓が終わる。
 

 
 ――高天原に神留座す(たかまのはらにかみづまりまします)
 皇親神漏岐神漏美の命(すめむつかむろぎかむろみのみこと)(もち)
 大山祇大神を奉請て(おほやますみのおほかみをおぎまつりて)
 青體の和幣三本(あをとのにきてみもと)
 白體の和幣三本を(しろとのにきてみもとを)
 一行に置立て(ひとつらにおきたてて)
 種々の備物 置高成て(くさぐさのそなへもの おきたかなして)
 神祈に禱給へば(かみほぎにみほぎたまへば) 速納受て(はやきこしめして)
 禍事咎祟は(あしきこととがたたりは) 不在物をと(あらじものをと)
 祓給ひ 清給由を(はらひたまひ きよめたまふよしを)
 八百萬神等諸共に(やをよろづのかみたちもろともに)
 所聞食と申す(きこしめせとまをす)──

 
 オオヤマツミノカミは大山祇尊(オオヤマヅミノミコト)。山神の総元と言われる山神代表の神様。
 山神祓は山神のための祝詞だ。大祓や六根清浄、稲荷祝詞を覚えているなら間違いやすいはずなのに。迷いもなくすらすらと宣りが終わり、結界の中にいるはずの自分に目眩が訪れる。
 

 これは当てられていると言うよりも、芦屋さんの言霊が清すぎて窒息しかけていると言うべきだろう。
 神々の住まう場所に限りなく近く、そして清浄な気配が満ちている。人の穢れを持つ自分が耐えきれず、まるで祓われる悪霊の様な気持ちになってくる。
 禊をしたとしても、人は人であるはずなのに芦屋さんはそれを超えている。

 祝詞が終わると、熱い風が吹き始めた。
巻き上がった雪たちが水の粒に溶け、霧に変わって白く漂う。
 

 
「お前が真幸か」
「初めまして、オオヤマツミノカミ。そうだよ」
「ふん。()が社からククノチノカミを連れ出しおって」
「それで拗ねてたのか?」
 
「そうではない。おお、山彦ではないか、久しいのう」

 
 普通に会話をしていますが、山神代表のオオヤマツミノカミが姿を表した。
 山彦を抱き上げ、腕に抱えてようやく微笑みを浮かべている。初っ端のひと睨みは肝が冷えた。
 
 頭の上で髷を結い、金の(かむろ)を乗せてややふくよかな姿の男神(おのかみ)。着物ではなく古墳時代の左衽着装法(さじんちゃくそうほう)で着られた袴と上衣は白、足首と手首を縛る紐は赤い。随所に金紐を結んで華やかな神様ですね。

 
 
「山彦じゃなくて、赤黒(あぐろ)です、御方(おかた)さま」
「なにっ!?名を下したのか!!確かに魂は結びついておる……ぬぬぬ」
「オオヤマツミノカミ、社をここに作りたいんだがいいか?」
 
「よい。前崎から先触れがあった。お前の手紙も見た。だが何故だ」
「なにが?」

 
「何故吾が魂ではなく、ククノチノカミなのだ!!」
「あー、えー、そう言う?あれは偶然だったんだよ。ククノチさんとの出会いはデステニーなの」
 
「吾が出会いは!?吾が勾玉を差し出してもよい!交代せよ!」
 
「ダメだよ。見てわかるだろ?それに主祭神がいなくなったら困るでしょ」

「吾が(まなこ)には見えているぞ。妖怪に、神格の高い神ばかり宿しているではないか。それぞれ社があるはずだろう」
 
「これもデステニーなの。偶然なの。ちゃんと社の仕事もして貰ってるよ。
て言うかなんで俺について来たいんだみんなして」
 

 
「昨晩の高説を聞いた。麓の社でもその眼鏡小僧を助けていただろう。それに、神々の間では真幸の武勇伝が(まこと)しやかに伝わっておる。お前の名を知らぬ神などおらん。そう、巫女舞により稀有な降臨を……あのアマむぐ」
 
「へいへいストップ。それ誰から聞いたの?颯人、伏見さん口止めできてないじゃん!!」

 アマ…まさか…まさかですよね?
 どう言うことですか?


「伏見が悪いのではない、神は噂が好きなのだ。真偽の程が定かではなくともな。好き好きに尾鰭がついてまわっているのだろう」
 
「最悪じゃないかそれは!」

 颯人様と芦屋さん、オオヤマツミノカミが顔を突き合わせてヒソヒソ何か始めてしまった。


 
(ハラエドノオオカミは何かご存知ですか)
(我が依代といえども答えられぬ。口にしただけで芦屋殿の害になる。主も口にするな。)
(それはもう答えなのでは……)

 
 話し出した輪の中に、ククノチノカミまで加わって楽しげにしている。
 名のある神々…颯人様とククノチノカミ、スクナビコナ殿は分かっているが、樽前山神社で拳を受けていた金髪の大きな方は茨城県で出会ったらしいし、昨日膝で丸まって寝ていた子も名の知れた大妖怪らしい。それを全て身に宿している。それに、鈴村さんも鬼一さんも神が代わっていた。

 
 
 それらを全て芦屋さんがされた事だとしたら……あまりにも非現実的な考えに、頭が痺れてくる。
だが、きっとそうだろう。
 
 天変地異も、彼が赴いた場所にはもう無くなっている。
ここもきっと、季節通りに夏が訪れる。
 雪が溶け、川に流れて大地を潤し、たくさんの花が咲き乱れ…暑い夏風に青い木々が身を揺らす、正しい姿へと戻っていく。


 彼が身に背負った使命を分け合っているのは伏見さん、鬼一さんと鈴村さんだ。
 私もいつか、その輪の中に入りたい。
それを目指すなら自分を傷つけ、いつまでも怯えている暇なんかきっとないだろう。

 

「だから勾玉はいらんって言ってるだろ!もう腹いっぱいなの!」
 
「そう言わず持ってくれ。もうすでに下された物があるだろう?」
 
「コレクターじゃないんだよ、もう!」
 
「いけずだな、真幸。こうしてくれる」
「ひゃっ!?ちょ、やめ…んふふ」

「貴様!我のばでぃに触れるなど万死に値する!!」


 
「颯人様は毎晩同衾されておりますよね?吾が眼が見ていないとでも?」
「ぐ……ぬぅ」

「え?なにその反応。颯人寝てる時に何かしてるのか?」
「し、しておらぬ」
 
「おい、なんで目を逸らす?俺の目を見てもう一度」
 
「しておらぬ!!!」
「おかしいなぁ。目が泳いでるぞ颯人ぉ」

「吾が見たのは懐に手を入れて撫でておったな」
「なっ……」
 
「それは違う。食べすぎて腹がおかしくなりそうなのを治していた」
 
「そりゃどうも…って、()()()ってなんだ!!他にもしてるんじゃないか!コラ!」

「知らぬ!!」


 
 颯人様がこちらに走って来て、背中に隠れる。背が大きいんだから私には隠しきれませんよ?
 
「星野さんを人質に取るのはやめろ!」
「ふん、真幸は星野に弱いだろう」
「くっ、颯人!こっち来いって!おい!」

 私の周りでぐるぐる追いかけっこを始めた二人。もう、もうこれは何なんだろう。
 どうしてこんなに幸せな気持ちになるんだろう。


 山頂に響き渡る笑い声が、吹き始めた夏の風に乗って…遥か遠くまで届く様な気がした。
 
 

 
  

 


 


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 真夜中0時、いつものように目が覚める。
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明確な目標もなく、ふわふわと仕事をしていた私たちは、初めて地に足がついた心地になった。
 きっと、これからはもっといい仕事をしていける。あの人を目指せばいい、と目標ができた瞬間だった。
 なのに何故、浴衣の袖にカミソリが入っているんだろう。
私はどうしてこの癖をやめられないんだろう。
 鏡を見つめ、ひどい顔を眺める。
 真夜中になると、自分に宿ったハラエドノオオカミの気配が薄くなる。
午前零時は生気が死気に転ずる時間。
 自分の中の理性がゆるみ、自傷衝動が起こるのは決まってこの時間だった。
暴力を抑えるためだけじゃなく、私は痛みに縋っていないと自分を保てない。
 暗い闇の中で、洗面台を掴んで力一杯握り込む。
 付き合いはじめたばかりの彼女には、まだ自分のダメなところを知られていない。手首の包帯を気にしてはいたが、何も言われずにいる。
 芦屋さんのように見守ってくれるつもりなのか、触れないでいるつもりなのかはわからない。
 袖に手を入れた瞬間、声が聞こえてくる。囁くような声なのに、はっきりと耳に届いている。
──|人は則ち天下の神物なり《ひとはすなわちあめがしたのみたまものなり》
 |須らく掌る静謐心は《すべからくしづまることをつかさどるこころは》
 |則 神 明の本主たり《すなわち かみとかみとの もとのあるじたり》──
 芦屋さんの声だ。祝詞に|誘《いざな》われてふらふらと部屋に戻る。彼は窓辺の椅子に腰掛けて胸に手を当ながら目を瞑り、静かに宣りを続けた。
──|心神を傷ましむること莫れ《わがたましいをいたましることなかれ》
 |是の故に《このゆえに》
 |諸の法は影と像の如し《もろもろののりはかげとかたちのごとし》  
 |清く潔ければ《きよくきよければ》
 |仮にも穢るること無し《かりにもけがるることなし》
 |説を取らば得べからず《ことをとらばうべからず》
 |皆花よりぞ木実とは生る《みなはなよりぞこのみとはなる》
 |我が身は則ち《わがみはすなわち》
 |六根清浄なり《ろくこんしょうじょうなり》──
 六根清浄大祓だ…芦屋さんは私が起き出したのに気づいていたんだ。私が手首に|刃《やいば》を当てようとした事を知っている。
 六根清浄大祓が優しい言霊になって自分の心に染み込んでくる。
 自分自身が神と等しく尊い命だと、傷つけてはいけない、心を強く持てと。芦屋さんが語りかけてくれていた。
 呆然と立ち尽くす私に気付いた芦屋さんが、穏やかな微笑みを浮かべる。
 暖房を消しているはずなのに、部屋の中は驚くほど暖かい。芦屋さんの祝詞の効果だろうか。彼に手招きされて、窓辺の椅子に座って手を握られる。
「おかえり、星野さん。」
「……はい」
「我慢できたんだな、良かった。タバコ吸う?」
「……はい」
 手巻きタバコを渡され、マッチで火をつけてくれて、それを吸う。
燻る熱に紙と葉がパリパリと音を立てて焼かれ、葉の甘い味と煙の苦い味が口の中に広がってくる。…こんなに甘い味の葉が、あっただろうか…。
 芦屋さんは何も言わず、ただただ私の手首の包帯を優しく撫でる。
暖かく、優しい手のひら。そこには彼が小さな頃傷つけられた痕があった。
「いつも真夜中なの?」
「……はい」
「ちゃんと風呂上がりに消毒した?」
「……はい」
「ならよし」
「……はい」
 おうむ返しのようにはい、しか言えない。私の愚かな行いを責めもせず、悲しみもせず、怒りもなく穏やかなままの彼が…優しくて、切なくて。口が勝手に喋り出す。
 芦屋さんの、声が聞きたい。
「六根清浄大祓がお好きですか」
「うん。祝詞やってるとさぁ、言葉の意味をよく知ることになるだろ?
 六根清浄大祓は一番好きかも。人を思う気持ちを伝えられるし、相手を信じているからこその言葉が連なっているからね」
「相手を信じてる…」
 喉が痛い。泣く前の熱が胸元から迫り上がってくる。私を信じていると、そう芦屋さんは伝えてくれている。
 自傷の念に駆られた私を無理やり止めず、戻るのを待ってくれていた。
涙が出るのを堪えるために、グッと奥歯を噛み締める。
「目も耳も心も、清らかであれば何事も|泡沫《うたかた》なんだよ。
 嫌な言葉も、暴力も、何もかも自分の奥底には響かない、届かない筈なんだけど……難しいよね。
 この世の全てって、大きくて。それに比べたらほんのわずかな揺らぎで苦しい、悲しい、時には死にたくなる事もある。」
「はい」
「それでも、生きてる。自分のために生きるんだ。それが人の為になる事もある。
 戦って、傷ついて、倒れて、泥水を啜りながらも、立ち上がる。
星野さんのこの傷は、そう言うものだ。痛い思いはしてほしくないけどさ。」
「……」
「俺は、星野さんの傷が愛おしいよ。自分自身と闘った、戦士の傷なんだ、これは」
「……戦士の、傷……」
 胸が痛い。きゅうきゅうと音を立てて締め付けられて、息ができない。
 芦屋さんの手はよく見ると、火傷の他にも細かい傷跡がたくさんある。
腕にも、足にも、首にも。 
 小さな頃についた傷は治りにくい。深ければ深いほどそれは痕を残して、身体の成長とともに広がり、心の傷は血を流し続ける。
 それを全部抱えたままでこうして私に優しくしてくれる。慈しんでくれる。
なんてあたたかい人なんだろう。
「どうして、そんなふうに優しくなれるんです?私は自分で自分を傷つけた。自らを軽んじて痛みに縋って、暴力を見ただけであんな風に崩れてしまう。……情けないです」
「情けなくなんかない。星野さんは立ちあがろうとしてる。乗り越えようとしてる。
 どんな手段でも、自分で自分を立ち上がらせる為に苦しんで悩んで…傷ついても、人の為に仕事をしてる」
「……はい」
 穏やかな沈黙が落ちる。外は風が吹き荒れて、パウダースノーが舞い上がっている。ダイヤモンドダストだ…。
月明かりにそれが煌めき、風の形を象って流れていく。
 芦屋さんと、自分の瞳の中にその輝きが宿ったような気がした。
「彼女さんは星野さんのどこが好きだって言ってた?」
「え……?」
「恋バナしようよ。俺した事ないんだ。今日は初体験ばっかりだな」
「は、はい。えぇと……優しいとか、褒める言葉が綺麗だとか、優男だけど粘り強いとか」
「うんうん、それから?」
「メガネを外した時のギャップが萌えるとか、時々する怖い目が好きとか、うぅ……恥ずかしいんですが」
 むふふ、とわらった彼が両手で手首を包んでくる。
 小さく「魚彦」と声をかけて、そこからじわじわ…あたたかい何かが侵食してきた。
「星野さんが戦った傷は、俺が治す。心の傷はきっと彼女さんが癒してくれる。
 自分のダメなところを許して、彼女さんが好きだって言ってくれる所を好きになって欲しいな。俺も星野さんの事が大好きだ。」
「暴力を見ただけで過呼吸を起こして、自傷を抑えられない私をですか」
 月の光を湛えた瞳が私をじっと見つめて、奥の奥まで見透かされた様な気持ちになる。透き通ったその瞳に、柔らかい色が見えた。
 瞳に吸い込まれそうだ…鈴村さんの言った通り、こんな人に惚れない理由がない。
「そうだよ。星野さんは彼女さんが言う様に粘り強くて諦めない。人の良いところを見つけて、カッコいい言葉で褒めちゃうイケメンなんだ。」
「イケメンではないでしょう…」
「そう?少なくともこの世で二人はそう思ってるよ。
 星野さんは赤城山でもゴミを拾った時に、瓶についた蓋と区別して捨ててたろ?後で気づいた鬼一さんがやり直してた」
「えぇ…?」
「ふふ。それに、持ち物をちゃんと大切にしてる。ハンカチも、水晶も、俺みたいに適当にポッケに突っ込まない」
「……」
「屋台でも手が届かない子を持ち上げてあげたり、誰かが捨てたゴミを拾ってゴミ箱に入れたり、俺が飛行機でうつらうつらしてた時も壁にぶつからない様に支えてくれてた」
「はい……」
 手首の包帯が、解かれていく。
慢性化していたジクジクした痛みが嘘の様に消えて、つるんとした自分の腕が現れる。
「小さいことが積み重なって星野さんと言う人を形作ってる。『こんな些細な事』って思うかもしれないけどさ。それを一つ一つ尊いと思う人もいるんだよ。自分でもそれをちゃんと見て、認めてあげてくれ」
「………………はい」
 パタパタと自分の涙が落ちて手首を叩く。
こんな風に言われて、我慢なんかできるわけがない。
 心地いい沈黙の中で、言葉を交わさなくてもお互いの気持ちが通じ合うように感じた。
 吸い差しのタバコの火が消えて、煙が途切れて…ふと自分の中に確固たるものが残っていることに気づく。
 芦屋さんが、残してくれたんだ。
 自分の中の一番柔らかい場所にそれを抱え込み、空っぽの器にそれが満ち満ちて溢れ、揺らいでいた何もかもがしっかりと立ち上がる。
 綺麗になった腕を撫でてくれる、芦屋さんの傷こそが私には愛おしい。
誰も彼もを立ち直らせてしまう、魔法使いの様な彼の手が、彼自身が。
 あなたに『あたたかい』と言ったのは体温ではなく心のことなんですよ。わかってますか?
 もう、私は自分を傷つけることはしない。他者を傷つけたりもしない。
信じてくれた芦屋さんの心に応えたい。
 自らがつけた意味のない傷を、戦士の傷だと敬ってくれた。そんな彼を裏切るなんて絶対にしたくない。
 彼が治してくれた自分の腕が……わずかに残った傷痕が、まるで勲章の様に思えた。
 ━━━━━━
「はぁ、はぁ…うぁーキッツぅ!!!」
「我が抱いてやると言っているのに」
「魚彦ではないが、お主は真幸の努力に水を差すでない。無粋じゃろう」
「ククノチ。昨日から傍に|侍《はべ》らせているのだ。控えよ」
「いやじゃのぉ。余裕のない悋気はみっともないのうー。神格が高い割には大人気ないのう〜」
「くっ…」
 膝に手を置いて、荒い息で苦笑いしてる芦屋さん。ククノチさん、颯人様相手になかなかやりますね。
 私はハラエドノオオカミに抱えられてズルをしている気分です。
「と言うか、芦屋さんはどこまで陰陽術を使える様になっているんですか。式神に速歩術…目が回りそうです」
「はっは、俺も色々と練習…」
芦屋さんが言い切る前に颯人様が顔をグイグイ近付けている。
褒められに来た大型犬のように見える。
「ふん。ふん。」
「あー、はいはい。颯人のおかげだよ。優秀な先生だからな。ありがとう」
「ふんっ」
「こんにゃろめ」
 颯人様をつついて笑い声をあげ、ククノチノカミに引っ張られてそちらもつつき出す彼は、昨日とはまるで別人の様だ。
 いや、違う。これも彼の一面なのだろう。人としての深みがある彼はどこか掴みどころのない人で、それでも朗らかで、優しくて、無邪気でそして芯の強い人。
 あの伏見さんがべったりくっついていた訳がよく分かりました。
鬼一さんや鈴村さんがあんな風に変わったのも彼のおかげで間違いなさそうだ。
「さて、奥の宮到着!」
「お疲れ様でした」
 樽前山神社からタクシー移動、徒歩で登山して約30km。霊山と言われる樽前山の頂上にある奥宮に到着。
 ここが樽前山神社の元祖らしいですが、参拝客は当然ながら居ない。
インターネットで見たら複数人が訪れてはいるが、なるほど麓の神社は参拝しやすい場所に作ったんですね。
「鳥居は新しくしたんだな、ピカピカだ」
「石塚にトンネルの社とは。堅牢と言えば堅牢ですが」
「殺風景だね!ワハハ!」
 ようやく息が整った芦屋さんが気持ちよさそうに腕を伸ばし、汗を拭く。
 私が速歩術を使えていれば一緒に走れたのに。悔しいです。
「あぐろ」
「はい」
「なっ!や、山彦!?ずいぶん変わりましたね……」
「そうだろー!京都でメタモルフォーゼしたんだ。可愛いのは変わらないけどね」
 赤城山で調伏した、いやあれは押し付けられたんでしょうけど。山彦があぐろ、と呼ばれて顕現された。
 水干姿だったはずが黒い狩衣を着て、髪が伸びて芦屋さんと同じくハーフアップにしている。背丈は変わらず、眦に朱を引いて巫女化粧をしていた。
明らかに階位が上がってますね、これは。
 妖怪に名を与えたのか…そう言えば昨日殴られてびくともしていなかった彼も暉人と呼んでいた。
 依代が神々に名を与えるなんて見たことも聞いたこともない。名を与え魂を下し、眷属にできるのは神のみのはずなのに。
「オオヤマツミノカミーどこー」
「ククノチが参ったぞ。早よ出てこんか」
「そんな呼び方でいいんですか……」
 鳥居に頭を下げ、潜り抜けて周りを探してみてもありの子一匹出てこない。
お臍を曲げていると前崎さんが仰ってましたね。
「ふむ、臍曲がりが隠れん坊しておるな」
「面倒だ。祝詞でも唱えてやればよい。朝の修練をここでやってしまおう」
「お、了解。星野さん、自分に結界張ってくれるか?多分バタンキューしちゃうよ」
「はっ!はい!!」
 朝礼のアレを、本当に毎朝しているんですか!?恐ろしい…。
慌てて略式祓で結界を貼り、ハラエドノオオカミに霊壁で囲んでもらう。
「ありがとうございます」
「なんのことはない」
 ハラエドノオオカミと微笑みを交わし、顕現を解いて手印を組む。
 芦屋さんの祝詞は恐ろしい熟練度に達している。朝礼では酷い目を見た。山神の鎮めの時よりも強い力で、私はあっという間に気絶してしまっていた。
 姿勢を正し、綺麗に腰を折って拝した後柏手が打たれる。
山彦は水を得た魚の様に周りをぴょんぴょん飛び回り始めた。やはり山が好きなんですね。
「今日は鳥居祓と|山神祓《やまかみはらい》だけでよい」
「えっ、いいの?大祓は?」
 二つでも普通じゃないと突っ込める雰囲気ではないですが。
祝詞をマスターされてるんですか。芦屋さんが怖くなってきた。
「|天《そら》が近い。アレが来るかもしれぬ。危ういのだ」
「なるほど理解した。んじゃ、はじめます」
 芦屋さんが朗々と祝詞を嘔う。
昨日の六根清浄大祓よりも高く、透き通るような響きの声。
びゅうびゅう吹き荒ぶ風がぴたりと止まり、雲が割れ、陽が差して、山々にその声が響き渡る。
 天候を左右できるまでの祝詞はそうそうできるものではない。そのような方は宮内庁や伊勢神宮にしか居なかったはず。
 浮かんできた畏怖が背筋に冷たい汗を伝わせる。
降り積もった雪の中を通り、冷え切った気温がゆっくりと暖かくなっていき、鳥居祓が終わる。
 ――|高天原に神留座す《たかまのはらにかみづまりまします》
 |皇親神漏岐神漏美の命《すめむつかむろぎかむろみのみこと》を|以《もち》て
 |大山祇大神を奉請て《おほやますみのおほかみをおぎまつりて》
 |青體の和幣三本《あをとのにきてみもと》
 |白體の和幣三本を《しろとのにきてみもとを》
 |一行に置立て《ひとつらにおきたてて》
 |種々の備物 置高成て《くさぐさのそなへもの おきたかなして》
 |神祈に禱給へば《かみほぎにみほぎたまへば》 |速納受て《はやきこしめして》
 |禍事咎祟は《あしきこととがたたりは》 |不在物をと《あらじものをと》
 |祓給ひ 清給由を《はらひたまひ きよめたまふよしを》
 |八百萬神等諸共に《やをよろづのかみたちもろともに》
 |所聞食と申す《きこしめせとまをす》──
 オオヤマツミノカミは|大山祇尊《オオヤマヅミノミコト》。山神の総元と言われる山神代表の神様。
 山神祓は山神のための祝詞だ。大祓や六根清浄、稲荷祝詞を覚えているなら間違いやすいはずなのに。迷いもなくすらすらと宣りが終わり、結界の中にいるはずの自分に目眩が訪れる。
 これは当てられていると言うよりも、芦屋さんの言霊が清すぎて窒息しかけていると言うべきだろう。
 神々の住まう場所に限りなく近く、そして清浄な気配が満ちている。人の穢れを持つ自分が耐えきれず、まるで祓われる悪霊の様な気持ちになってくる。
 禊をしたとしても、人は人であるはずなのに芦屋さんはそれを超えている。
 祝詞が終わると、熱い風が吹き始めた。
巻き上がった雪たちが水の粒に溶け、霧に変わって白く漂う。
「お前が真幸か」
「初めまして、オオヤマツミノカミ。そうだよ」
「ふん。|吾《あ》が社からククノチノカミを連れ出しおって」
「それで拗ねてたのか?」
「そうではない。おお、山彦ではないか、久しいのう」
 普通に会話をしていますが、山神代表のオオヤマツミノカミが姿を表した。
 山彦を抱き上げ、腕に抱えてようやく微笑みを浮かべている。初っ端のひと睨みは肝が冷えた。
 頭の上で髷を結い、金の|冠《かむろ》を乗せてややふくよかな姿の|男神《おのかみ》。着物ではなく古墳時代の|左衽着装法《さじんちゃくそうほう》で着られた袴と上衣は白、足首と手首を縛る紐は赤い。随所に金紐を結んで華やかな神様ですね。
「山彦じゃなくて、|赤黒《あぐろ》です、|御方《おかた》さま」
「なにっ!?名を下したのか!!確かに魂は結びついておる……ぬぬぬ」
「オオヤマツミノカミ、社をここに作りたいんだがいいか?」
「よい。前崎から先触れがあった。お前の手紙も見た。だが何故だ」
「なにが?」
「何故吾が魂ではなく、ククノチノカミなのだ!!」
「あー、えー、そう言う?あれは偶然だったんだよ。ククノチさんとの出会いはデステニーなの」
「吾が出会いは!?吾が勾玉を差し出してもよい!交代せよ!」
「ダメだよ。見てわかるだろ?それに主祭神がいなくなったら困るでしょ」
「吾が|眼《まなこ》には見えているぞ。妖怪に、神格の高い神ばかり宿しているではないか。それぞれ社があるはずだろう」
「これもデステニーなの。偶然なの。ちゃんと社の仕事もして貰ってるよ。
て言うかなんで俺について来たいんだみんなして」
「昨晩の高説を聞いた。麓の社でもその眼鏡小僧を助けていただろう。それに、神々の間では真幸の武勇伝が|実《まこと》しやかに伝わっておる。お前の名を知らぬ神などおらん。そう、巫女舞により稀有な降臨を……あのアマむぐ」
「へいへいストップ。それ誰から聞いたの?颯人、伏見さん口止めできてないじゃん!!」
 アマ…まさか…まさかですよね?
 どう言うことですか?
「伏見が悪いのではない、神は噂が好きなのだ。真偽の程が定かではなくともな。好き好きに尾鰭がついてまわっているのだろう」
「最悪じゃないかそれは!」
 颯人様と芦屋さん、オオヤマツミノカミが顔を突き合わせてヒソヒソ何か始めてしまった。
(ハラエドノオオカミは何かご存知ですか)
(我が依代といえども答えられぬ。口にしただけで芦屋殿の害になる。主も口にするな。)
(それはもう答えなのでは……)
 話し出した輪の中に、ククノチノカミまで加わって楽しげにしている。
 名のある神々…颯人様とククノチノカミ、スクナビコナ殿は分かっているが、樽前山神社で拳を受けていた金髪の大きな方は茨城県で出会ったらしいし、昨日膝で丸まって寝ていた子も名の知れた大妖怪らしい。それを全て身に宿している。それに、鈴村さんも鬼一さんも神が代わっていた。
 それらを全て芦屋さんがされた事だとしたら……あまりにも非現実的な考えに、頭が痺れてくる。
だが、きっとそうだろう。
 天変地異も、彼が赴いた場所にはもう無くなっている。
ここもきっと、季節通りに夏が訪れる。
 雪が溶け、川に流れて大地を潤し、たくさんの花が咲き乱れ…暑い夏風に青い木々が身を揺らす、正しい姿へと戻っていく。
 彼が身に背負った使命を分け合っているのは伏見さん、鬼一さんと鈴村さんだ。
 私もいつか、その輪の中に入りたい。
それを目指すなら自分を傷つけ、いつまでも怯えている暇なんかきっとないだろう。
「だから勾玉はいらんって言ってるだろ!もう腹いっぱいなの!」
「そう言わず持ってくれ。もうすでに下された物があるだろう?」
「コレクターじゃないんだよ、もう!」
「いけずだな、真幸。こうしてくれる」
「ひゃっ!?ちょ、やめ…んふふ」
「貴様!我のばでぃに触れるなど万死に値する!!」
「颯人様は毎晩同衾されておりますよね?吾が眼が見ていないとでも?」
「ぐ……ぬぅ」
「え?なにその反応。颯人寝てる時に何かしてるのか?」
「し、しておらぬ」
「おい、なんで目を逸らす?俺の目を見てもう一度」
「しておらぬ!!!」
「おかしいなぁ。目が泳いでるぞ颯人ぉ」
「吾が見たのは懐に手を入れて撫でておったな」
「なっ……」
「それは違う。食べすぎて腹がおかしくなりそうなのを治していた」
「そりゃどうも…って、|そ《・》|れ《・》|は《・》ってなんだ!!他にもしてるんじゃないか!コラ!」
「知らぬ!!」
 颯人様がこちらに走って来て、背中に隠れる。背が大きいんだから私には隠しきれませんよ?
「星野さんを人質に取るのはやめろ!」
「ふん、真幸は星野に弱いだろう」
「くっ、颯人!こっち来いって!おい!」
 私の周りでぐるぐる追いかけっこを始めた二人。もう、もうこれは何なんだろう。
 どうしてこんなに幸せな気持ちになるんだろう。
 山頂に響き渡る笑い声が、吹き始めた夏の風に乗って…遥か遠くまで届く様な気がした。