――――月のない、夜。人々がとうに寝静まった、深夜。
だが、街灯の明かりを避けるように歩く、人影があった。
引きずるような足取りに、かすかに荒い息。丸めた背中に、力なく垂らした腕。わずかに獣のようなうめき声を上げながら、その鈍重な動きに反し、瞳だけがぎょろぎょろと何かを捜し求めるようにせわしなく動いている。
その人影が、みっつ。誰の目にも留まることなく、その街――――前崎市の裏路地を、徘徊していた。
不意に、三つの影のうち、一つの影が動きを止める。数秒、何かを考えるように逡巡してから、顔を歪めた。
「……ぐ、ぐぐ……ぐ……」
そして、そののどの奥から、くぐもった声を出す。
――――それは、生者のものではない、笑い声。夜を歩む、死人の声。
その歩みが、先ほどよりも速くなる。何か目的のものを見つけたような――――そう、獣が、獲物を見つけたような。
先ほどまで落ち着きなく動き回っていた目が、一点を見つめている。
そこには、一人の少女の姿があった。
白いミニスカートのワンピースに、短く黒いスパッツを穿いている。さらに足元は白のニーソックスに、編み上げのショートブーツと、深夜の裏道にはまるで不釣合いな、元気な少女の装いだ。
少女は後ろに迫る気配に気づいた様子はなく、ゆっくりと歩いている。
人影たちの歩みが速まる。堪えきれぬ空腹に耐えかねたかのように、よだれを垂らしながら、醜悪な表情で、少女に迫る。そして、大きく両腕を振り上げ、倒れかかるように少女に向かった、その刹那――――。
「あーあ、やっと来た」
少女が、まるで遅れてきた約束の相手が現れたように、のんきな声をあげた。
次の瞬間――――。
少女のショートカットが、紅く染まった。
振り返った少女の紅い瞳が、後ろに迫った死人の姿を見る。同時に、その左手が死人の片腕を、とても少女とは思えない、猛烈な力で引き込んだ。
「まずは一名様、煉獄へごあんなーいっ!」
さらに引き込んだ反動を最大限利用しながら、少女は右の拳を死人の顔面にたたきこんだ。
すまさじい打撃音とともに吹き飛んだ死人は、5mほど空を舞い、歩道の街灯にたたきつけられ、その鉄柱を大きく捻じ曲げると、ようやくその動きを止めた。
「やっば! またやっちゃった!」
少女が、その西洋鎧の篭手のように奇妙に変化した両腕で、頭を抱えた。
「……ま、いっか。また経費で落とそう」
目の前に迫るあと二体の死人のことなどまるで眼中にない様子で、少女が場違いに朗らかに笑う。
「……経費っていうか、事務所で弁償だよね。今月に入って何回目さ? ……紅香」
紅香と呼ばれた少女の背後に、初夏だというのに茶色のコートにマフラー、手には手袋という姿の、呆れ顔の少年が現れた。その姿は不可思議なことに、ゆらゆらと宙に浮いている。
「……えーっと、こないだは路上駐車してた車を壊して、その前は民家のブロック塀を壊して、その前は電柱を……」
「……探偵事務所、潰れるよ?」
額に手を当てて、ため息をつく少年に、紅香ががなる。
「えーい、さっきからごちゃごちゃとうるっさーい! じゃあ、後は静馬がやればいいじゃん!」
「ええー、めんどくさいなあ。僕のほうは君と違って、バイト代出ないんだよ? まあ、守護霊がお金もらってもしょうがないけど……」
静馬と呼ばれた少年が、渋い顔で文句を言いながら、死人の前に立つ。
「働かざるもの、憑くべからずだよ!」
「……まったく、意味がわかりません。守護されてるほうが言うセリフじゃないと思うんだけど」
後ろから意味不明の言葉で発破をかける紅香に、静馬がげんなりした顔になる。
「……はあ。じゃあ、あなたたちには悪いけど、そろそろ成仏しましょう、ね?」
静馬がにっこりと笑って、片手を振り上げる。その手が振り下ろされた瞬間、二つの火球が飛び出し、二体の死人を焼き尽くした。
「……ほら、こういう風に、ちゃんと加減してやればいいんだよ。いつでも全力でぶっ飛ばすから、物を破壊するんだって。せっかく邪神を封印したのに、このままいくと、紅香自身が破壊神として伝説に残るよ」
「ぶー! いたいけな少女に向かって破壊神とはなによ! 破壊神とは!」
ぶうたれながら腕を振り回す紅香に、静馬は涼しい顔で答える。
「いたいけな少女は車や電柱を破壊しません。ていうか、できません。ほら、もう夜遅いんだから、早く帰って寝ないと、また明日遅刻して、補修だよ?」
「ううー、死人に対してはなんか優しげなくせに、幼なじみにはこのセリフ……この、口だけ悪霊守護霊!」
「はいはい。悪霊でもなんでもいいから、早く帰りましょうね」
やいのやいのと夜の街で騒ぎ立てながら、相変わらずの紅香と静馬は一路、家へと帰っていくのだった。
翌朝。
火ノ宮紅香のバイト先である、須佐翔悟探偵事務所。
「……毎朝毎朝、どうしても思っちゃうんだけどさ」
腰に手を当てて、その屋敷を見上げながら、制服姿の紅香が嘆息する。
「……どう見てもお化け屋敷だよね……でしょ?」
その後ろに立つ神代静馬が、こちらも嘆息しながら言う。
その二人の感想どおり、『須佐翔悟探偵事務所』は、一見、探偵事務所とは程遠い外観をしている。石造りの門の先は荒れかけた庭園、傾きかけたような不自然に背の高い建物の先には古城のような尖塔と、まるで古いB級ホラー映画の舞台だ。
「うん。なんでまた、翔さんはこんなとこ借りようと思ったんだろうね」
「……悪霊が出るんで安かったけど、さっさと自分で除霊しちゃって、安くて豪邸でうっはうはー、とか?」
静馬が、首をかしげて考える動作をして見せる。
「あー、なんかありえそう……」
二人の雇い主であり、この探偵事務所の主でもある須佐翔悟は、いわゆる陰陽師である。本人曰く、最近の怪異の黒幕は人間であることのほうが多く、陰陽師として仕事をしているうちに、探偵の真似事をするようになった、ということであるが……。正直、どちらの仕事でも、こんな外観の事務所では流行らなそうな気がする。
紅香は、そのお化け屋敷の入り口まで歩いていくと、その扉をどんどんとたたく。
「翔さーん、雪ちゃーん、いるー?」
その声に反応するように、扉の向こうから足音が聞こえた。やがて、ドアが開くと、そこに立っていたのは、白い髪の、小柄な少女だった。
「おー、雪ちゃん、おはよー。翔さん、今日はもう起きてる? 昨夜のバイトの報告があるからさ」
「紅香、おはようなのです。ちょっと待っててくださいね。翔様なら、さっきたたき起こしたところなので、そろそろ降りてくると思うのです」
この少女――――如月雪乃は、翔悟の式神にして助手であり、かつての恋人である。複雑な事情と運命により猫妖怪の半妖として生まれ変わったという、少々過酷な過去を背負っている。……が、今は、翔悟の助手という生き方にも生きがいを見出しているようにも見える。
「……ふわああああーーーあ……」
雪乃のその言葉に呼応するかのように、奥の階段から、この事務所の主が、大あくびをしながら現れた。黒いシャツに、ウエスタン風の黒いハット、すりきれたジーンズと、探偵にも陰陽師にも見えない男性が、須佐翔悟だ。
「お、翔さーん、おっはよー」
「ああーーーーあ、……うおっす。ああ、もうそんな時間か」
気だるげにふたたびあくびをしながら、翔悟が手をあげて紅香に答える。
「翔様、それでは学校に行ってまいります。それと、紅香から昨夜の仕事の報告があるそうです」
雪乃のその言葉に、翔悟の顔がげんなりと沈む。
「……今度はなんにも壊してねえだろうな? 毎回毎回、なにかしら弁償するはめになるんだからな、お前を行かせると」
「だいじょうぶだいじょうぶ、今度は街灯がちょっと曲がっただけだから」
あっけらかんと言う紅香に、翔悟が腕組みをしながらうなずく。
「そうかそうか、街灯くらいなら大丈夫だな――――って、んなわけあるか! お前を行かせると、依頼料をそのまま弁償に当てるはめになるんで、プラマイゼロなんだよ! 今度という今度は、バイト代から引いとくからな」
ぼりぼりと頭を掻き毟りながらうめく翔悟に、紅香が口を尖らせる。
「えーっ、今までは経費で落としてくれてたじゃん」
「あのなあ、今までが甘かったの! こんだけいろいろ破壊しまくってんだから、少しは自重しろっての」
「うー、翔さんのけち」
ぶうたれる紅香を無視して、翔悟は雪乃に向き直る。
「さて、そんなことより、そろそろ出なきゃいけない時間だろ? 学生どもはさっさと行った行った。じゃ、雪ちゃんもな」
しっしっと手を振る翔悟に、紅香がべーっと舌を出し、雪乃が手を振る。
雪乃の着る制服は、紅香が着るそれと同じ、霧ヶ丘高校の制服である、エンジ色のブレザーだ。もっとも、初夏である今の時期を考えると、あとわずかで夏服へと衣替えする季節ではあるが。
元々、雪乃は紅香たちと同じ学校に通っていたわけではない。ただ、以前遭遇した事件で紅香が狙われたことがあり、学校にいる間の監視役として転入してきた。後々、その事件は解決したのだが、『せっかくだから、ちょっと学園ライフを楽しんできたらどうだ?』などという翔悟に乗せられて、そのままずるずると通っているわけである。
まあ、その事件を通じて雪乃と仲良くなった紅香としては、それは歓迎するべきことであったわけだが。
翔悟の事務所の側から、紅香たちは駅へ向かうバスに乗る。
「……よっと。あー、バスに乗ると、なんかあの事件を思い出すなぁ」
バスの座席に座りながら、紅香が思わず漏らす。
――――あの事件。それは、今から一ヶ月ほど前。紅香の人生を一変させるような事件が起こった。紅香がある人物に狙われ、命を落とした。そしてその危機を救ったのが、紅香の守護霊である静馬だった。静馬は邪神の力を使い、紅香の身体を再生したのだ。それにより、紅香はその邪神の力を狙うものたちと戦うはめになった――――。
それが、一ヶ月前の事件だ。最終的に紅香らは邪神の力を狙うものを倒し、邪神を自らの身体に封印することに成功した。正直、今でも夢だったのではないかと思えるほど、現実離れした事件だった。
その発端となったのが、バスの横転事故だったのだから、思い出すのも無理はない。
やがて、バスが駅へ近づくに連れて、紅香たちのような通学の学生や通勤のサラリーマンの姿が増えてくる。その中に、見知った女子高生の姿があった。
「おーい、紅香。おはよーさん」
「うわっ、出た」
「なんやねん! そのゴキでもでたよーなリアクションは!」
それは、同じクラスの風間あきらの姿だった。将来の夢がジャーナリストだというこの悪友は、最近、オカルトにはまっているらしく、どこからか怪しい情報をつかんできては紅香や雪乃にしゃべりたがるので、紅香はすっかり辟易していた。しかも若干の霊感持ちらしく、どうやら静馬の姿もぼんやりと見えているらしいのが、また厄介な点である。
「あきらさん、おはよーさんなのです」
「おー、雪ちゃんもおはー。はー、どっこいしょ。あー、くたびれた」
ずいずいと人波を掻き分けながら紅香と雪乃の前まで来ると、あきらは二人の前の席にどっかと座り込んだ。
「あんたは買い物帰りのおばちゃんかっ」
「なにをー、だれが還暦過ぎのご老体やねん!」
「誰もそこまで言ってないし」
渋い顔をする紅香と、意味不明のボケを繰り広げるあきらを、雪乃と静馬は生温かい視線で見ている。
「あ、せやせや。ご老体で思い出したんやけど、紅香、昨日の夕方、あんなところで何しとったん?」
「へ? あんなところって?」
突然のあきらの問いに、紅香の顔が疑問符に染まる。
「駅から離れた老人ホームにいたやんか。あたし、ばあちゃんの様子見に行ったら紅香の後姿が見えたんで追っかけたんやけど、どっか行ってもうたろ」
「老人ホーム?」
あきらの言葉に、紅香の顔がますます困惑する。昨日の夕方といえば、バイトの打ち合わせに翔悟の事務所に行っていたはずだ。そもそも、祖父や祖母のいない紅香にとっては、まったくもって縁のない場所である。
「行ってないよ? そんなとこ。その時間は、私バイトの準備してたもん。後姿しか見なかったんなら、よく似た人だったんじゃないの?」
「たしかに、紅香はバイトの準備に来てたのですよ」
「うーん……でもなぁ、よく着てる白いワンピ、あるやろ? あの背中に羽のプリントがしてあるやつ。あれを着とったから間違いないと思ったんやけどなぁ」
納得いかない様子で、あきらが腕を組み、渋面を作る。が、やがて、閃いたようにぽん、と手を打った。
「わかった、あれや! ドッペルゲンガーってやつや!」
その様子に、紅香がげんなりした顔を作る。
「まーた、そういうオカルトチックな話になるわけ?」
正直、オカルトは邪神やら守護霊やら陰陽師やら半妖やらでおなかいっぱいなのだが、この悪友がそんなことを知るはずもなく。
「なんやねん、その嫌そうな顔は! もしもほんとにドッペルゲンガーやったら、紅香、死んでまうかも知れへんで!」
人差し指を立てながら、あきらがずずいっと身を乗り出してくる。
「なによ、死ぬかもしれないって」
「知らんのかいな? あー、もう、これだから素人はだめやっちゅーねん」
オーバーリアクションなあきらは、今度は額に手を当てて、嘆くように首を振って見せる。正直、うざい。
「ええか、ドッペルゲンガーが出るっちゅーのは、その人間の死の予兆と言われとんねん。昔っから、この手の話はよーけあってな。江戸時代とかでも、自分の姿を見た男が、その後、病気になって死んでしまうって話があったんやで」
「なにそれ。なんで自分の姿を見たら死ぬわけ? わけわかんない」
熱弁をふるうあきらに、うんざり顔の紅香が言う。
「そりゃー……魂が抜けかけてるとか、そんなんちゃう?」
「また微妙な……」
あきれた紅香がなにとはなく視線を静馬に向けると、意外にも、彼は少々真剣な顔つきで何かを考えている様子だった。
「……静馬、何を考え込んでるの?」
周りに聞こえないよう、小声で紅香が聞く。
「……ん? ああいや、ドッペルゲンガーって言われて、なんか引っかかるところがあってさ。最近、似たような人にであったような……」
うーん、とうなりながら考える静馬であるが、どうにも思い出せないらしく、落ち着かない様子だ。
「似たような人……?」
その様子に、紅香も首をかしげる。
「あ、駅につきますよ、二人とも、降りる準備をするのです」
放課後、紅香はいつも通り、アルバイトのために翔悟の探偵事務所へ向かった。
「やっほー、翔さん。今日はなんか、仕事ある?」
事務所へと入りながら、紅香が翔悟に声をかける。
「おう、来たか。んー、今日の仕事か……悪いんだがな、今日はお前さん向きの仕事はないんだわ。事務仕事を紅香にやってもらうわけにもいかんしな」
「えーっ、せっかく身体動かせると思ったのにー」
紅香は物足りないといわんばかりに、その場でシャドウボクシングの真似事をしてみせる。
「まあ、そう言うな。あの事件から一ヶ月たって、やっとこさ街も落ち着いてきたことの証拠でもあるんだからな。お前が一ヶ月、あの時の残党を片付けてきた成果が出たってことでもあるんだ」
ふーっと紫煙を吐きながら、翔悟が微笑む。
「そうだよ。死人が夜な夜なうろつくような事態が片付いたっていうのは、いいことじゃないか」
かたわらに立つ静馬も、紅香に微笑みかける。
そう、あの事件――――前崎市が鬼門とつながって、冥界の死者と、煉獄の邪神が街を占拠した、あの事件。邪神は紅香らによって封印されたもの、死人の残党たちは未だに夜な夜な徘徊し、人間を脅かしていた。そのため、陰陽師である翔悟の探偵事務所には、怪異の解決を趣旨とした依頼がひっきりなしだった。それがようやく、片付いたのである。
「うーん……確かに平和になったのはいいことだけど、ちょっと身体を動かしたいよー」
「ま、たまには身体を休めておけよ。まだすべての残党を倒したとも限らん。そのうちに、依頼が入ることもあるだろうさ。……むしろ、知性のある死者の類は、ほとぼりが冷めてきた頃に、本格的に動き出すってことも考えられるしな」
翔悟のその言葉に、紅香が今朝の出来事を思い出す。
「……そういえば、翔さん。人間の真似をする死者とかって、いるの?」
「人間の真似? そりゃ、ものにもよるが……なんかあったのか?」
怪訝な表情の翔悟に、紅香が今朝の話をする。
「うん。同級生の女の子が、私とそっくりな子を見たんだって、騒いでたからさ。ちょっと気になって。その子が言うには、夕方に老人ホームで私を見たらしいんだけど、その頃ってここにいたじゃない? だからその子がドッペルゲンガーやって騒いでさ」
紅香の言葉に、翔悟はタバコを灰皿に押し付けながら、難しい顔をする。
「……ふーむ、ドッペルゲンガ―ねえ……。現実的に言うなら、説明がつかんこともないんだが」
「へ? ほんとに?」
ぽかんとした顔の紅香に、翔悟がうなづく。
「ああ。まず医学的な観点から言うと、脳の機能の異常だ。人間の脳には、自分の姿をイメージする機能を持つ部分がある。そこが損傷なり何なりでダメージを受けると、自分の姿の幻覚を見る、という症例がある。つまり、脳の誤作動だな」
「えええ、ちょっと、怖いって」
げんなりした顔の紅香に、静馬がのほほんと笑顔を作る。
「それなら、紅香はだいじょうぶだね。脳がダメージを受けるほど、頭を使ったりしてないし」
「ちょっと、どおいう意味よっ!?」
頭からやかんのようにぴーっと蒸気を噴き出しそうな勢いで、紅香が静馬につめよる。
「ま、頭を使ってるの使ってないの関係なく、これは当てはまらんだろうな。あくまで、これは自分の姿を見てしまった場合に限られる。自分の姿のイメージをつかさどる部分の機能不全だからな。他者のドッペルゲンガーを見てしまった場合には、当てはまらない」
新たにタバコに火をつけながら、翔悟が言う。
「……じゃあ、誰かに自分のドッペルゲンガーが見られた場合は、どういうことなの?」
「……これは、俺の推測であって、実証されているわけではないんだが」
前置きをおきながら、翔悟は紫煙を吐き出す。
「人間に限らず、生き物や物は、必ず陰と陽の気を持っている。例外なく、な。例えば、普段表に出している自分と、無意識下にいる自分。光があれば影が生まれるように、それは誰にでも存在する」
静馬はなんとなくわかったような表情だが、紅香は頭痛でも起こしたかのように頭を抱えている。
「仮に、だ。そのバランスが崩れた時、普段、無意識下に存在している自分の影の部分――――つまり、陰の部分が独立した人間として、実体を持つということは、ありえるかもしれん。今はまだ、この街も鬼門との接続が切れたばかりで不安定だ。それに何より――――」
翔悟は一度言葉を切り、紅香を見る。
「お前さんは、その身体に邪神の半身を封印している。それが陰の気を持つ部分なのか、陽の気を持つ部分なのかはわからんが……それによって、お前さん自身の陰と陽のバランスが崩れている可能性はある……ってお前、理解できてんのか?」
渋い顔の翔悟が、頭を抱えている紅香を見る。
「……よしっ、何ひとつ分からない!」
やがて頭を抱えていた紅香が突然、胸をはった。
「お前な。わからんのなら、もうちょっとわからないリアクションを取れよ。胸を張る要素が何ひとつないぞ。……まあ、よーするに、だ。紅香の無意識の部分が、もう一人の紅香として現れているのかもしれない……ってことさ」
さらに渋い顔をしながら、翔悟が腕を組んだ。
「ふふんだ、つまりは、ヒーローものでよくある、偽者的なやつでしょ? もしくは、格ゲーの裏キャラ的な。殺意の……とか、オロチの……とか」
「まあ、まちがっちゃいないが……その例えはどうにかならんのか。格闘ゲームだったらいそうで怖いぞ。『邪神の血に目覚めた紅香』とか。バッドエンドまっしぐらだぞ」
完全にあきれた顔の翔悟に、紅香はノーリアクションで、なにやら、うっとり顔で妄想モードに入っている。
「主人公は私……そして、ラスボスも私。つまり、最強は……私」
「……だめだこいつ。ほんとに裏キャラになるんじゃねえのか」
思わずくわえたタバコを取り落としたことにも気づかず、翔悟がため息を付く。
「ということで、今日の仕事は決定!」
「……は?」
突然勝手に宣言した紅香に、翔悟も静馬もぽかんとした表情になる。
「私の偽者がいるというのなら、そんな奴を野放しにしてはおけないっ! なにか被害が出る前に、見つけ出してとっちめるの!」
「……今んとこ、偽者より、本人のほうが街に被害をもたらしてんだけどな」
その本人には聞こえないように、ぼそっと翔悟がつぶやいた。
「ん? 翔さん、なんか言った?」
「いーえ、なんにも言っておりません」
怪訝そうな顔をしながらも、紅香はぐっと拳を作る。
「まあ……そんな怪しい現象が、もしほんとに起きてるんだとすれば、なにかしら危険なものかもしれないのは確かだね。邪神のこともあるわけだし」
静馬が腕組みをしながら、うなづいてみせる。
「でしょ? ということで、今日の仕事はドッペル退治で決定!」
「……まだ、いると決まったわけでもないけどね」
再びシャドウボクシングを始めた紅香に、静馬が肩をすくめる。
「ま、いいんじゃねえか? 行くんだったら、その分の時間はバイトってことで付けといてやるよ」
「ほんと? 翔さん、話が分かるっ」
子どものようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、紅香が言う。
「その代わりに、パトロールもよろしくな。依頼が入ってないってだけで、この街も完全に安全になったとは限らないしな」
「ほんじゃ、張り切って行ってきまーす!」
「あ、ちょっと待ってよ。しょうがないな……じゃあ、行ってきます」
ばたばたと出て行った紅香を追いかけ、静馬も外へ出て行く。
「いいんですか? 翔様。報酬があるわけでもないのに」
「いいのさ。事件なんてのは、未然に防げれば、それに越したこたぁねえんだ。まあ……稼ぎにはならねえけど、な」
翔悟のその言葉に、雪乃が微笑む。
「まったく……ほんと、そういうところは翔様なんですから」
「それに、だ」
ふ、と紫煙を吐き出した翔悟が、ふと、デスクに向き直って、げんなりした顔を作る。
「未だに一ヶ月前の関係の依頼が入ってきて、事務仕事がぜんぜんおわんねえんだよぉ。外でなんか起きたってそっちにまわす手がねえんだよぉ……」
デスクに山のように積み上げられた書類の束に、雪乃がじっとりとした視線を翔悟に送る。
「まったく……ほんと、そういうところは翔様なんですから」
さっきと同じ言葉を、真逆の意味と声のトーンで、雪乃が言った。
「さて、勢いよく飛び出してきたのはいいものの……どこを探索しようか?」
腕を組みながら、紅香が言う。
「もう、少しは考えてから飛び出しなよ。……そうだね、まずは紅香の偽者らしきものが現れたっていう、老人ホームのほうにでも行ってみたらいいんじゃないかな」
「うん、なるほど。そうだね、そうしよっか。ここからそれほど遠い場所でもないしね」
あきらが紅香にそっくりな人間を見かけた老人ホームは、紅香の家や翔悟の事務所がある住宅街からそれほど離れてはいない。いわゆる郊外に位置しており、病院と併設しているのが特色である。
その方向へ向かって、紅香はゆっくりと歩き出す。
「だけど、ドッペルねえ……ほんとにそんなもの、いるのかな? 探すだのなんだの、自分で言っといてなんだけどさ」
「うーん、案外、ありえるかもしれないよ?」
いぶかしげな表情の紅香に、静馬が返す。
「翔さんの話を聞いてて思ったんだけど、ひとつ思い出したことがあってさ。一ヶ月前の事件……あれも、ある意味ではドッペルゲンガーが起こした事件とも言える……ってね」
「へ? どういうこと?」
完全に顔中が疑問符の紅香に静馬が続ける。
「あの事件を起こしたのは、神代郁真――――そして、その正体は僕の陰の側面が、秘術によって、一人の独立した人間として産まれたものだった。もし翔さんの説が正しいとすれば、郁真はある意味、僕のドッペルゲンガーだった、とも言える」
その名前に、紅香の顔がふと鋭さを帯びる。
神代郁真――――一ヶ月前の事件の首謀者。彼は邪神を復活させるために鬼門を開き、自らの身体に封印されていた、邪神の半身を蘇らせた。さらに、残りの封印である静馬をたおすことで、邪神の完全復活をもくろんだ。だが、邪神の半身を紅香の身体に封印することにより、彼のたくらみは失敗に終わったのだった。
「確かに……でも、あいつは特別な秘術をかけられて、一人の人間になったんでしょ? 自然にドッペルなんて発生するのかな?」
「……まあ、確かめてみないことにはなんともね。もしかしたら、人為的なものってこともありえるし」
静馬のその表情は、真剣そのものだ。確かに、産まれたときに人の手によって二人の人間に分けられたなんてことを知ったら、警戒するのも仕方のないことだろう。
二人は、話しながら、公園の中へと入っていく。件の老人ホームのほうへ行くには、ここを通り抜けていくのが早い。
二人が子どもの頃からあるこの公園は、遊び場としてよりも、子どもたちが自然と触れ合うことを主旨として作られたものらしく、遊具などよりも林や池などが広く配置されている。紅香と静馬も、幼い頃はこの公園で泥だらけになって遊んだものだ。
「だけど、見慣れた公園も夜になると、なんだか不気味だね。この辺りは結構深い林になってるから、余計かも」
紅香があたりをきょろきょろと見回しながら言う。自然と触れ合うことを目的とした公園だけあって、道も舗装されたものではなく、砂利を敷き詰めた遊歩道だ。そこを外れると、じゃりすらないむき出しの地面。その関係もあってか、街灯の類はほとんどない。
「……ちょっとまって」
不意に、静馬が足を止める。その顔は、かすかな緊張と剣呑な空気を含んでいる。
「……誰か、いる。それも、一人じゃない」
その言葉に、紅香が視線をめぐらす。少ない街灯が照らす遊歩道には、人の姿はない。……となれば、静馬の感じた気配は暗闇に閉ざされた、雑木林の中にいることになる。それも、灯りも持たずに。
「……夜のお散歩、ってわけじゃなさそうだね。まさか、死人?」
「いや……人間の気配だ」
静馬の言葉を実証するように、ゆっくりとした足音がこちらに向かってくるのが聞こえる。
土をしっかりと踏みしめるその足音は、確かに人間のもののように感じる。
やがて、その姿があらわになる。
それは、公園という場所にはあまりにも不釣合いなものだった。長身のその男がきこんだそれは、まるで教会の神父のそれである。白いゆったりとした服に、十字架の刺繍を施された服。だが異様なのは、やはり十字架の刺繍の入ったフードを目深に被っていることだった。
男は直立不動の姿勢で、無言で紅香を見つめている。
紅香が、鋭い視線を男に返す。
「……どうも、私に用があるみたいね」
「紅香、気をつけたほうがいい。どうも、普通の人間じゃない気配がする」
静馬の言葉に、紅香がうなづく。
「……お前が、火ノ宮紅香……か?」
不意に、男が言葉を発した。その発音に、紅香はふと違和感を覚えた。それは流暢な日本語ではあったが、かすかな違和感――――そう、普段、日本語以外の言語を使っているものが発したような、わずかなイントネーションの違いがあったような気がした。
「……だとしたら、なによ?」
「………………」
強気な声で言い返す紅香に、男は言葉も挙動も示さない。
「……なるほど。たしかに……」
ただ、ささやくようにその二言のみを発した。
そして、懐にゆっくりと手を差し込む。
「……死んでもらう」
刹那、その言葉と同時に懐から手を抜き放つ。そこには、刃渡り80センチほどの剣が握られていた。さらに左右の木立から、葉がざわめくような音とともに、二人の男が姿を現した。どちらも、目の前の男と同じ服装だ。
ただ違うのは、左の男が持つのは小型のボウガン、右の男が持つのはナイフであるということだった。
「ちょっ、なんなのよ!」
紅香がすばやく、その力を解放する。拳が篭手のように変形し、その髪と瞳が紅く染まった。
その紅香の元に、右手のナイフ男がすばやく駆け寄った。紅香が反応する前に、そのナイフが首元を狙って走る。
「とっ!」
紅香は上体を反らしてその一撃をかわす。体勢を傾けたその姿勢から、ナイフ男の腹を狙ってまわし蹴りを放つ。
が、紅香の攻撃が薙いだのは空気だけだった。
歯噛みする紅香の耳に、背後からの機械音が届いた。――――ボウガンだ。
次の瞬間、ひゅっという空気を斬り裂く音がかすかに届く。
「……おっと!」
だがその飛来する矢を、静馬が障壁を作って防ぐ。
「気をつけて、紅香。こいつら、動きの統率ができてる。場合によっては、剣を使うことも考えたほうがいい」
鋭く言う静馬に、紅香がうなづく。
「ふんだ、統率が取れてる度合いだったら、こっちだって負けてないでしょ」
叫びながら、紅香が再び駆ける。ナイフ男の目の前まで駆け寄ると、すばやくワンツーパンチを放った。
ナイフ男は始めのパンチをナイフで止め、二撃目をかがんでかわす。反撃に出ようとしてか、男が一歩踏み出したのを、紅香は見逃さなかった。
「もう一発っ!」
始めの二発のパンチはおとりで、すばやく身体を引いた紅香は、相手が攻勢に出る前に、本命の一撃を腹にぶちかました。
「……がっ!」
男がひざから崩れ落ちるのを確認し、紅香は振り返る。その目に映ったのは、すでにこちらに照準を合わせている、ボウガンの男。
「……はあっ!」
紅香は背中に意識を集中させ、邪神の翼を顕現させる。邪神をこの身体に封じて以来、自由にその翼が使えるようになっていた。翼を大きくはためかせ、紅香は旋風を巻き起こす。ボウガンの矢は風に煽られ、その狙いを外れた。
「……紅香、どんどん人外化していくよね」
「うっさい! 霊に言われたくない!」
静馬に言い返しながら、紅香は再び羽ばたく。その推進力を利用し、ボウガン男の目の前まで一瞬で到達した。
「とおりゃあああっ!」
半ば、翼で飛翔するようにしながら、紅香は、体重をかけたドロップキックをぶちかました。
「…………っ!」
顔面に紅香の足跡を刻んだボウガン男が、白目を剥いて倒れこむ。
「おのれ……っ」
不意に背後から響いた声と空気を切り裂く音に、紅香が反応する。
「来て……バーニング・オース!」
後ろに回した手に、燃えるような熱さを感じる。次の瞬間、紅い光を放ち、邪神にとどめを刺した、あの巨大な剣が現れる。邪神の角を磨いて鍛え上げたような、無骨で、まるで鉄塊のような、その剣。確かな質量ががっしりと右手に宿るのを感じ、紅香はその柄を握った。
その紅い鉄塊が、最初に現れた男が振り下ろした剣を軽々と弾き返した。
「……チッ、それが邪神の角の剣か」
男の言葉に、紅香が鋭い視線を返す。
「……あんた、何者なの? どうしてそれを知ってるわけ?」
紅香の言葉に、男は答えない。その瞳が、ちらりと倒れた二人の男を見た。次の瞬間、男がすばやく懐から何かを取り出した。それは、十字架だった。
男の行動を図りかね、紅香が思わず後ずさる。
男は紅香のその行動には目をくれず、十字架を地面にたたきつける。
その刹那、目を刺すような閃光が走った。
「なっ、なに!?」
反射的に紅香は目をつむり、手で顔を覆う。一瞬の後、光が晴れる。そこには、すでに男の姿はなかった。倒れていたはずの男たちも、姿を消している。
「……消えた?」
「辺りに気配もない……逃げられたみたいだね」
「なんなのよ! いきなりふっかけて来て、いきなり逃げるなんて! 何者なのよ、あいつら!」
どうもすっきりしないらしく、紅香がじだんだと踏みつける。
「さあ……でも邪神のことや紅香のことを知ってたね。……ん?」
周囲の気配を探っていたらしい静馬が、剣を持った男が最後にいた辺りで、しゃがみこんだ。
「これは、さっきの……」
静馬が拾い上げたのは、先ほど男が地面にたたきつけた十字架だった。
「……どういう仕組みかわからないけど、閃光弾のようなもの……なのかな?」
十字架は真っ二つに割れており、中は空洞になっている。どうやら、そこになにか入っていたようだ。
「紅香、一旦帰ろう。これ、翔さんに見せれば、なにかわかるかもしれない」