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きっと、

ー/ー



──開きっぱなしの窓と、そこから射し込む鈍い朝日が、目蓋の裏を焼いていた。だからだろうか、僕は起床の気配を感じながら、夢現ともつかない感覚のなかで、まどろんでいる。

それから分かりやすく眉をしかめて、重い右腕をようよう持ち上げてから、さして眩しくもない日射しを手で遮った。 

昨夜は何時に寝ただろうか。順を追って、回らない頭を無理やり回す。あの後、夕食を食べようとしたけれど、ほとんど喉に通らなかったことは覚えていた。祖父母や、おじさんやおばさんも、「彩織はこんなに少食だったか」と心配するくらいだった。唯一、小夜だけが、その光景を気まずそうに眺めていた。そこからのことはほとんど覚えていない。お風呂には入ったらしい。布団にも寝た。蛍光灯は、点きっぱなしだ。

それを消す気力も起きなくて、言ってしまえば、身体を起こす気力さえもなかった。一瞥した窓の向こうからは、生ぬるい空気が入り込んでくる。#紗__しゃ__#をかけたように仄暗い、どこか薄ぼけたような曇天が、あたり一面に広がっていた。

かろうじて、朝日──と思える朧気な何かが、分厚い雲間を突き抜けている。六時近くを指したアナログ時計の文字盤も、この天気のせいか、少しだけくすぶったような色をしていた。

──あやめが死んでいるなんて、信じられない。この四年間で、彼女の訃報なんて耳に入れていない。何より僕は昨日、あの場所で、彼女と会ったのだ。麦わら帽子に純白のワンピースを着て、昔と変わらない#眉目良__みめよ__#い#顔貌__かおかたち__#をして、そこに存在していた。

本当にあやめが死んでいるのなら、僕が再会を果たしたあの少女は、いったい、誰なのだろう。それを考えるだけで、心臓が締め付けられるようだった。鼻腔に伝わる苦しさで、思わず息を吸う。

わざわざ小夜が、『あやめちゃんはもう死んでいる』などと、そんな冗談を演技で創り上げるとも思えなかった。もしかしたら彼女は、本当に死んでいるのかもしれない。

──それなのに、僕はあやめのことを認識している。その#齟齬__そご__#があること自体、根本からおかしいのだ。いっそのこと小夜も連れて、彼女にもう一度、会いに行ってみようか。そうすれば何かが分かるかもしれない。#一縷__いちる__#の望みとともに、僕は起き上がった。





「──彩織ちゃんは、本当にあやめちゃんに会ったん?」


祖父母には朝の散歩と称して、僕と小夜は早々に家を出る。彼女は昨夜のことを誰にも話していないらしく、こちらが何かを言われることはなかった。ただ、早くから居間へと起きていた小夜の面持ちを見るに、何か言い知れぬ不安を胸の内に渦巻かせているらしい。立場は違っても、それは僕だって同じことだった。


「うん、会った。ずっと一緒にいたし、話もした」

「……死んでるのに?」

「……うん。僕はそんなこと、まったく知らなかったけど」

「だからって、死んだ人が見えて話せるん?」

「まさか。でも──少なくとも僕はそうだった」

「……それで、ウチを連れて試すんかぁ」


いつもの明朗快活な態度とは違って、小夜は珍しく弱気だった。それもそうだろう──死んだはずの人間と『会って話した』と言われれば、誰でもまずは嘘を疑うに決まっている。ただ、お互いにその相手が嘘を吐くなどとは思えないのだから、こうして臆する以外に仕様がないのだろう。

……僕だってきっと、そうしていた。とにかくなんでもいいから、この現況を理解するだけの余裕と判断材料が欲しいだけなのだ。

そのまま二人は、無言で歩いていった。なんとなく歩調を早めたいような、遅めたいような──そんな雑多な心持ちでいる。アスファルトに硬く鳴る靴音が響いて、どこかで雀がさえずっていて、烏が鳴いていた。

蝉時雨にはまだ遠くて、それでも頬は生ぬるい。木立が行く手を阻む、行き止まりの道が見えてきて、そこを右に折れると、あやめの家へと続く坂道が現れる。昔から何度も、ここを通ってきた。

鈍色の空を仰いでいる木々は、やはりうなだれて#悄然__しょうぜん__#としている。消え入りそうな影が、アスファルトに落ちては微かに揺れ、落ちてはまた揺れて、その薄ぼけた色合いとは掛け離れた、妙な胸の重苦しさを感じていた。

もしかしたら、彼女はいないのかもしれない──そんな悲観した推測を、どこかで抱いたからなのだろう。枝葉の影を踏むごとに、かつてのあやめの面影が、強くなっていくような気がした。

緩やかな坂ばいを進んでいく。青青とした木々の匂いも、立ち込める土草の匂いも、今の僕には届かなかった。ここまで来ても、蝉時雨にはまだ遠い。

張り詰めた空気の中に、たった何匹かの蝉が鳴いて、たった二人の足音がして、息遣いがして──それだけを聞くともなく聞いているうちに、視界は晴れてきてしまった。瞳を焼くような、あの夏の白い眩しさは、残念ながら、見えてこない。けれど、思わず息が詰まった。

──民家の軒先に、あやめはいた。昨日と変わらない場所で、まったく変わらない格好で、ただ、やはり、どこかを茫洋と見つめている。それがおかしいことに、僕はもう気が付いてしまったのだ。

脈搏が段々と速度を増していく。心臓が締め付けられるように痛い。僕はいま、間違いなく彼女のことを凝視しているのだろう。そんな自覚を胸の内に抱きながら、いきおい隣に並ぶ小夜へ目配せした。


「……いる、んよね?」


「……そっか」と小夜は呟いた。伏せがちにしたその瞳には、どんな感情の色が現れていたか、よく分からない。そうしてやにわに踵を返した彼女を、僕はどうしようも出来なかった。

引き止める理由も、かと言って素直に行かせる理由も、今の僕には有りはしない。その後ろ姿を、呆然として見送るきりだった。

視線を今一度、あやめに向ける。彼女はもう、死んでいるらしい。まったくそんな風には見えない。鈍い日射しに反照する黒髪も、その一筋一筋までが繊細になびいていた。

健康的な肌も、指先の爪も──とにかく彼女の存在そのものが、生きている人間そのもののように思われて仕様がない。そんな、望みにもならない馬鹿馬鹿しさだけを、幾度も幾度も胸の内に渦巻かせていた。余計に意味が分からなくなった。

依然として、あやめは僕に気が付いていないらしい。とにかくもう一度、彼女と話がしたい。その一心で歩を踏み出す。それが嫌に重かった。

これがきっと、僕があやめに抱いている愚考の重さなのだろう。分かりきっている現実を直視できていない、自分自身の弱さでもある。それでも、進まなければいけなかった。本当のことが彼女の口から語られることを期待して、或いは同時に、恐怖してもいる。


「……ぁ」


砂利を踏む足音で、ようやく彼女は僕に気が付いたらしい。不意を突かれたように肩を跳ねさせると、ほんの小さな、声にもならない声を、この虚空に洩らした。たった一、二メートルかそこらの距離を隔てて、お互いの息遣いが、夏の朝に融けてゆく。

透き通った少女の瞳は僕を見つめて、けれど、またもや右往左往と落ち着かない。この妙な視線、目つきも、今となってはすべて勘ぐってしまう。あやめは僕を、見ているのだろうか。


「……来ちゃったんだ」


彼女は僕から視線を落とすと、気恥ずかしいような物悲しいような、そんな何かが綯い交ぜになったらしい笑みを洩らした。その言葉の意味が、今はよく分かる。

──本当は来てはいけなかったのかもしれない。でも僕は、来てしまった。自分の標榜したエゴをここまで抱きかかえて、彼女に、会いに来てしまった。


「──来ない方がきっと、幸せだったのにね」


果たしてその言葉を、僕とあやめの、どちらが言ったのだろう。或いは、二人とも言ったのかもしれない。──来ない方がきっと、幸せだった。確かにその通りなのだ。僕も彼女も、きっと。
 
あやめは#瞑目__めいもく__#するように目蓋を閉じると、それが深く長い瞬きであるかのように、やがて瞳を覗かせる。そうして、もう一度、僕を見上げた。細やかに伸びた指先が、彼女の胸に添えられる。


「──私、もう死んでるんだよ」


脳髄をありったけの力で殴られたような気がした。酷く眩暈がする。血の気が引いていく感覚がする。思わず眉をひそめてしまった。立つのさえ限界だ。分かりきっていたことのはずなのに。口の中が嫌に乾いてくる。呼吸が段々と浅くなる。心臓が締め付けられるように痛い。脈搏が幾つを打っているかなどは、意識する余裕すらなかった。理解しようと努めた現実を直視するのが、関の山だった。


「……でも、それだけじゃなかったの」


あくまでも淡々と、彼女は告げる。


「──なんかね、目が見えないんだ」


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──開きっぱなしの窓と、そこから射し込む鈍い朝日が、目蓋の裏を焼いていた。だからだろうか、僕は起床の気配を感じながら、夢現ともつかない感覚のなかで、まどろんでいる。
それから分かりやすく眉をしかめて、重い右腕をようよう持ち上げてから、さして眩しくもない日射しを手で遮った。 
昨夜は何時に寝ただろうか。順を追って、回らない頭を無理やり回す。あの後、夕食を食べようとしたけれど、ほとんど喉に通らなかったことは覚えていた。祖父母や、おじさんやおばさんも、「彩織はこんなに少食だったか」と心配するくらいだった。唯一、小夜だけが、その光景を気まずそうに眺めていた。そこからのことはほとんど覚えていない。お風呂には入ったらしい。布団にも寝た。蛍光灯は、点きっぱなしだ。
それを消す気力も起きなくて、言ってしまえば、身体を起こす気力さえもなかった。一瞥した窓の向こうからは、生ぬるい空気が入り込んでくる。#紗__しゃ__#をかけたように仄暗い、どこか薄ぼけたような曇天が、あたり一面に広がっていた。
かろうじて、朝日──と思える朧気な何かが、分厚い雲間を突き抜けている。六時近くを指したアナログ時計の文字盤も、この天気のせいか、少しだけくすぶったような色をしていた。
──あやめが死んでいるなんて、信じられない。この四年間で、彼女の訃報なんて耳に入れていない。何より僕は昨日、あの場所で、彼女と会ったのだ。麦わら帽子に純白のワンピースを着て、昔と変わらない#眉目良__みめよ__#い#顔貌__かおかたち__#をして、そこに存在していた。
本当にあやめが死んでいるのなら、僕が再会を果たしたあの少女は、いったい、誰なのだろう。それを考えるだけで、心臓が締め付けられるようだった。鼻腔に伝わる苦しさで、思わず息を吸う。
わざわざ小夜が、『あやめちゃんはもう死んでいる』などと、そんな冗談を演技で創り上げるとも思えなかった。もしかしたら彼女は、本当に死んでいるのかもしれない。
──それなのに、僕はあやめのことを認識している。その#齟齬__そご__#があること自体、根本からおかしいのだ。いっそのこと小夜も連れて、彼女にもう一度、会いに行ってみようか。そうすれば何かが分かるかもしれない。#一縷__いちる__#の望みとともに、僕は起き上がった。
「──彩織ちゃんは、本当にあやめちゃんに会ったん?」
祖父母には朝の散歩と称して、僕と小夜は早々に家を出る。彼女は昨夜のことを誰にも話していないらしく、こちらが何かを言われることはなかった。ただ、早くから居間へと起きていた小夜の面持ちを見るに、何か言い知れぬ不安を胸の内に渦巻かせているらしい。立場は違っても、それは僕だって同じことだった。
「うん、会った。ずっと一緒にいたし、話もした」
「……死んでるのに?」
「……うん。僕はそんなこと、まったく知らなかったけど」
「だからって、死んだ人が見えて話せるん?」
「まさか。でも──少なくとも僕はそうだった」
「……それで、ウチを連れて試すんかぁ」
いつもの明朗快活な態度とは違って、小夜は珍しく弱気だった。それもそうだろう──死んだはずの人間と『会って話した』と言われれば、誰でもまずは嘘を疑うに決まっている。ただ、お互いにその相手が嘘を吐くなどとは思えないのだから、こうして臆する以外に仕様がないのだろう。
……僕だってきっと、そうしていた。とにかくなんでもいいから、この現況を理解するだけの余裕と判断材料が欲しいだけなのだ。
そのまま二人は、無言で歩いていった。なんとなく歩調を早めたいような、遅めたいような──そんな雑多な心持ちでいる。アスファルトに硬く鳴る靴音が響いて、どこかで雀がさえずっていて、烏が鳴いていた。
蝉時雨にはまだ遠くて、それでも頬は生ぬるい。木立が行く手を阻む、行き止まりの道が見えてきて、そこを右に折れると、あやめの家へと続く坂道が現れる。昔から何度も、ここを通ってきた。
鈍色の空を仰いでいる木々は、やはりうなだれて#悄然__しょうぜん__#としている。消え入りそうな影が、アスファルトに落ちては微かに揺れ、落ちてはまた揺れて、その薄ぼけた色合いとは掛け離れた、妙な胸の重苦しさを感じていた。
もしかしたら、彼女はいないのかもしれない──そんな悲観した推測を、どこかで抱いたからなのだろう。枝葉の影を踏むごとに、かつてのあやめの面影が、強くなっていくような気がした。
緩やかな坂ばいを進んでいく。青青とした木々の匂いも、立ち込める土草の匂いも、今の僕には届かなかった。ここまで来ても、蝉時雨にはまだ遠い。
張り詰めた空気の中に、たった何匹かの蝉が鳴いて、たった二人の足音がして、息遣いがして──それだけを聞くともなく聞いているうちに、視界は晴れてきてしまった。瞳を焼くような、あの夏の白い眩しさは、残念ながら、見えてこない。けれど、思わず息が詰まった。
──民家の軒先に、あやめはいた。昨日と変わらない場所で、まったく変わらない格好で、ただ、やはり、どこかを茫洋と見つめている。それがおかしいことに、僕はもう気が付いてしまったのだ。
脈搏が段々と速度を増していく。心臓が締め付けられるように痛い。僕はいま、間違いなく彼女のことを凝視しているのだろう。そんな自覚を胸の内に抱きながら、いきおい隣に並ぶ小夜へ目配せした。
「……いる、んよね?」
「……そっか」と小夜は呟いた。伏せがちにしたその瞳には、どんな感情の色が現れていたか、よく分からない。そうしてやにわに踵を返した彼女を、僕はどうしようも出来なかった。
引き止める理由も、かと言って素直に行かせる理由も、今の僕には有りはしない。その後ろ姿を、呆然として見送るきりだった。
視線を今一度、あやめに向ける。彼女はもう、死んでいるらしい。まったくそんな風には見えない。鈍い日射しに反照する黒髪も、その一筋一筋までが繊細になびいていた。
健康的な肌も、指先の爪も──とにかく彼女の存在そのものが、生きている人間そのもののように思われて仕様がない。そんな、望みにもならない馬鹿馬鹿しさだけを、幾度も幾度も胸の内に渦巻かせていた。余計に意味が分からなくなった。
依然として、あやめは僕に気が付いていないらしい。とにかくもう一度、彼女と話がしたい。その一心で歩を踏み出す。それが嫌に重かった。
これがきっと、僕があやめに抱いている愚考の重さなのだろう。分かりきっている現実を直視できていない、自分自身の弱さでもある。それでも、進まなければいけなかった。本当のことが彼女の口から語られることを期待して、或いは同時に、恐怖してもいる。
「……ぁ」
砂利を踏む足音で、ようやく彼女は僕に気が付いたらしい。不意を突かれたように肩を跳ねさせると、ほんの小さな、声にもならない声を、この虚空に洩らした。たった一、二メートルかそこらの距離を隔てて、お互いの息遣いが、夏の朝に融けてゆく。
透き通った少女の瞳は僕を見つめて、けれど、またもや右往左往と落ち着かない。この妙な視線、目つきも、今となってはすべて勘ぐってしまう。あやめは僕を、見ているのだろうか。
「……来ちゃったんだ」
彼女は僕から視線を落とすと、気恥ずかしいような物悲しいような、そんな何かが綯い交ぜになったらしい笑みを洩らした。その言葉の意味が、今はよく分かる。
──本当は来てはいけなかったのかもしれない。でも僕は、来てしまった。自分の標榜したエゴをここまで抱きかかえて、彼女に、会いに来てしまった。
「──来ない方がきっと、幸せだったのにね」
果たしてその言葉を、僕とあやめの、どちらが言ったのだろう。或いは、二人とも言ったのかもしれない。──来ない方がきっと、幸せだった。確かにその通りなのだ。僕も彼女も、きっと。
あやめは#瞑目__めいもく__#するように目蓋を閉じると、それが深く長い瞬きであるかのように、やがて瞳を覗かせる。そうして、もう一度、僕を見上げた。細やかに伸びた指先が、彼女の胸に添えられる。
「──私、もう死んでるんだよ」
脳髄をありったけの力で殴られたような気がした。酷く眩暈がする。血の気が引いていく感覚がする。思わず眉をひそめてしまった。立つのさえ限界だ。分かりきっていたことのはずなのに。口の中が嫌に乾いてくる。呼吸が段々と浅くなる。心臓が締め付けられるように痛い。脈搏が幾つを打っているかなどは、意識する余裕すらなかった。理解しようと努めた現実を直視するのが、関の山だった。
「……でも、それだけじゃなかったの」
あくまでも淡々と、彼女は告げる。
「──なんかね、目が見えないんだ」