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オフィスラブ、スタート! ②

ー/ー



「大丈夫ですよ。僕はこう見えて、けっこうメンタル強いんで。そうでもなければ、僕はとっくに会社を辞めてます」

 絢乃会長を安心させたくて、ついそんなことまで言ってしまった。
 前の部署で、あんな上司の下で散々こき使われてきて、お前はよく会社を辞めずにいられたなと自分で自分に感心してしまう。何人もの同僚や先輩たちが退職していくのを身近で見てきたにもかかわらず、だ。やっぱり僕はメンタルが強靭にできているのだろうか。
 でも、大好きな女性のためならどれだけ大変な仕事も苦に思わない。これはもう、愛の力としか言いようがないだろう。

 それに対して絢乃さんが「桐島さん、前の部署で相当ひどい目に遭ってたんだね」と表情を曇らせておられると、加奈子さんが横から「なになに、何の話?」と口を挟まれ、首を傾げられた。加奈子さんはどうやら、総務課のパワハラの事実をご存じなかったらしい。ということは亡き源一前会長もそうだったということになる。
 絢乃さんからその話を一通りお聞きになった加奈子さんは「う~ん」と唸った後、「あら……、あなた苦労してたのねぇ」と眉をひそめられた。

「多分、あの人も知らなかったんじゃないかしら。知っていたらもっと早く助けてあげられたのに」

 加奈子さんのこの言葉から、やっぱり先代はパワハラのことを把握されていなかったのだと僕は理解した。そして、彼がご自宅では会社や仕事に関する話題を避けておられたのだとも。
 とはいえ、僕は異動したことで島谷課長との接点がほぼなくなり、完全に彼のターゲットからは外れたようなので、僕の中ではもう終わったも同然だった。

「いえいえ、お気になさらず。もう終わったことですから」

 少なくとも自分ではそう思っていて、自分にそう言い聞かせていたので、もう蒸し返してほしくなかったというのが本音だった。

 それよりも、この先絢乃会長の姿勢が世間からどのように評価されるのか、ということの方が僕には重要だった。

「――そういえば、今日の会見はTV中継されるだけでなくネットでも同時配信されるそうですよ。そしたら絢乃会長は一躍(いちやく)有名人になりますね」

 そうなのだ。僕もその朝、久保から電話で聞かされて驚いた。
 ネットで配信されるということは、TV中継だけされる場合よりも世間的に注目を集めるということ。ネット社会の現代では、昨日まで一般人だった人が一夜にして有名人になり得てしまう時代なのだ。
 加奈子さんも「母親として鼻が高い」と悪ノリして盛り上がっていらっしゃったが、絢乃さんはそのことに苦言を呈しておられた。「グループの評判が上がるのはいいけど、わたし個人まで有名になっちゃうのはちょっと……」と。
 そして、それは僕も同感だった。彼女が大企業のトップとして表舞台に立つことは僕も秘書として大賛成だったが、有名人になってしまうことで彼女が妬みの対象となることは避けたかったのだ。
 ボスである絢乃さんのスケジュール管理は、僕の仕事になる。万が一(さば)ききれない数の取材を受けてしまうとその(シワ)寄せは僕に来てしまう、つまりは自分で自分の首を絞めてしまうということを意味していた。
 だから、彼女から「受ける取材の数は最低限に絞ってほしい」と懇願された時、僕はこう答えたのだ。

「分かってますよ。あなたが忙しくなりすぎたら、秘書である僕自身の首も絞めることになってしまいますからね。そこはこちらでどうにか調整します」

「よかった! ありがとう!」

 絢乃さんは満面の笑みで僕にお礼の言葉をおっしゃった。……そう、僕は彼女がこうしていつも笑顔でいられるようにしたいと思っていたのだ。お仕事中でもそれは変わらない。小川先輩の請け売りだが、それこそが僕の会長秘書としての〝愛〟なのだから。

「僕は秘書として、あなたに気持ちよくお仕事をして頂けるよう、これから色々な工夫をしていこうと考えてます。――絢乃さん、コーヒーお好きですよね?」

 これも先輩から仕入れた情報だったが、僕は絢乃会長にこんな質問をしてみた。
 彼女がそれに対して「どうして知ってるの?」と首を傾げられたので、僕は小川先輩から聞かされたという本当の理由を伏せて、お父さまの火葬中に缶入りのカフェオレをお飲みになっていたからだと答えた。

「僕も大のコーヒー好きなので、同じコーヒー好きの人は何となく分かるんです。実は昔、バリスタになりたいと思っていたこともあったので、()れる方にも凝っていて……。それで、絢乃会長がご休憩される時に、僕が淹れた美味しいコーヒーをぜひ飲んで頂こうと考えているんです。ご期待に沿えるかどうかは分かりませんが」

 彼女に喜んで頂きたいと思うあまり、僕は秘書としての決意を語りながら、つい自分がかつて抱いていた夢までもポロっと話してしまった。初対面の夜にはからかわれてしまうのがイヤで話すことを拒んでいたのに、弾みとはいえ言えるようになったのはきっと、彼女のことを信頼できるようになったからだと思う。
 絢乃さんは顔を綻ばせながら「それは楽しみ」とおっしゃったが、その前に少しの()があった。もしかしたら、これが僕の夢だったのだとお気づきになったかもしれない。
 そうこうしているうちに、窓の外にJR東京駅の赤レンガ造りの駅舎が見えてきた。篠沢商事の本社ビルまではあと数分、というところだった。


   * * * *


 ――入構ゲートをくぐった後、記者会見の行われる二階大ホールへ向かうエレベーターの中で、僕は絢乃さんにさりげなく司会進行役が久保であることを伝えた。

「……ああ、何となく憶えてるかも。ちょっと軽い感じの人だよね、確か」

 彼女もお父さまの社葬の時、彼が司会を務めていたことを憶えておられたようで、その時のヤツに対する彼女の評価がコレだった。……久保、お前、絢乃さんからもチャラチャラしてるって思われてるぞ。

「……う~ん、確かにアイツはちょっとチャラチャラしてますよね。特に妙齢(みょうれい)の女性に対しての態度が」

 僕もその辛辣なコメントに賛同した。入社した時からの長い付き合いなので、ヤツの女性遍歴はよく知っていた。今の彼女と付き合うまでにも色々あったのだ。そんな男なので、絢乃さんにも色目を使ったりしやしないかと、僕は不安で仕方がなかった。

「――っていうか、司会って広報の人がやるんじゃないんだね」

「確かに、そこは僕も不思議なんですよね。もしかしたら元々は広報の仕事だったのに、総務課長が手柄を横取りしたのかもしれません。あの人ならやりかねない」

 絢乃会長も僕と同じ疑問を口にされた。
 久保は結局そのあたりの経緯(いきさつ)を話してくれなかったので、僕は一番あり得るだろう可能性を持ち出して苦々しく吐き捨てた。
 彼女に島谷課長の話をしたことは一度もなかったが、僕のこの毒舌から彼が一体どういう人物なのかを彼女も想像できたのではないだろうか。
 ただ、あくまでもこれは可能性の問題であって、後から違うと分かったのだが。「目立ちたがりの久保が自分から名乗りを上げたかもしれない」と僕が言うと、絢乃さんは「なるほど」と曖昧に頷かれただけだった。
 そこで僕が彼女について分かったことは、彼女が親族を除く誰かのことを、決して悪く言わない人だということだった。
 彼女は相手を貶したり、傷付けるようなことを決して言わないのだ。それは彼女の生まれ持った性格なのか、ご両親の教育の賜物(たまもの)なのか、どちらなんだろうか。もしかしたら両方かもしれない。


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「大丈夫ですよ。僕はこう見えて、けっこうメンタル強いんで。そうでもなければ、僕はとっくに会社を辞めてます」
 絢乃会長を安心させたくて、ついそんなことまで言ってしまった。
 前の部署で、あんな上司の下で散々こき使われてきて、お前はよく会社を辞めずにいられたなと自分で自分に感心してしまう。何人もの同僚や先輩たちが退職していくのを身近で見てきたにもかかわらず、だ。やっぱり僕はメンタルが強靭にできているのだろうか。
 でも、大好きな女性のためならどれだけ大変な仕事も苦に思わない。これはもう、愛の力としか言いようがないだろう。
 それに対して絢乃さんが「桐島さん、前の部署で相当ひどい目に遭ってたんだね」と表情を曇らせておられると、加奈子さんが横から「なになに、何の話?」と口を挟まれ、首を傾げられた。加奈子さんはどうやら、総務課のパワハラの事実をご存じなかったらしい。ということは亡き源一前会長もそうだったということになる。
 絢乃さんからその話を一通りお聞きになった加奈子さんは「う~ん」と唸った後、「あら……、あなた苦労してたのねぇ」と眉をひそめられた。
「多分、あの人も知らなかったんじゃないかしら。知っていたらもっと早く助けてあげられたのに」
 加奈子さんのこの言葉から、やっぱり先代はパワハラのことを把握されていなかったのだと僕は理解した。そして、彼がご自宅では会社や仕事に関する話題を避けておられたのだとも。
 とはいえ、僕は異動したことで島谷課長との接点がほぼなくなり、完全に彼のターゲットからは外れたようなので、僕の中ではもう終わったも同然だった。
「いえいえ、お気になさらず。もう終わったことですから」
 少なくとも自分ではそう思っていて、自分にそう言い聞かせていたので、もう蒸し返してほしくなかったというのが本音だった。
 それよりも、この先絢乃会長の姿勢が世間からどのように評価されるのか、ということの方が僕には重要だった。
「――そういえば、今日の会見はTV中継されるだけでなくネットでも同時配信されるそうですよ。そしたら絢乃会長は|一躍《いちやく》有名人になりますね」
 そうなのだ。僕もその朝、久保から電話で聞かされて驚いた。
 ネットで配信されるということは、TV中継だけされる場合よりも世間的に注目を集めるということ。ネット社会の現代では、昨日まで一般人だった人が一夜にして有名人になり得てしまう時代なのだ。
 加奈子さんも「母親として鼻が高い」と悪ノリして盛り上がっていらっしゃったが、絢乃さんはそのことに苦言を呈しておられた。「グループの評判が上がるのはいいけど、わたし個人まで有名になっちゃうのはちょっと……」と。
 そして、それは僕も同感だった。彼女が大企業のトップとして表舞台に立つことは僕も秘書として大賛成だったが、有名人になってしまうことで彼女が妬みの対象となることは避けたかったのだ。
 ボスである絢乃さんのスケジュール管理は、僕の仕事になる。万が一|捌《さば》ききれない数の取材を受けてしまうとその|皺《シワ》寄せは僕に来てしまう、つまりは自分で自分の首を絞めてしまうということを意味していた。
 だから、彼女から「受ける取材の数は最低限に絞ってほしい」と懇願された時、僕はこう答えたのだ。
「分かってますよ。あなたが忙しくなりすぎたら、秘書である僕自身の首も絞めることになってしまいますからね。そこはこちらでどうにか調整します」
「よかった! ありがとう!」
 絢乃さんは満面の笑みで僕にお礼の言葉をおっしゃった。……そう、僕は彼女がこうしていつも笑顔でいられるようにしたいと思っていたのだ。お仕事中でもそれは変わらない。小川先輩の請け売りだが、それこそが僕の会長秘書としての〝愛〟なのだから。
「僕は秘書として、あなたに気持ちよくお仕事をして頂けるよう、これから色々な工夫をしていこうと考えてます。――絢乃さん、コーヒーお好きですよね?」
 これも先輩から仕入れた情報だったが、僕は絢乃会長にこんな質問をしてみた。
 彼女がそれに対して「どうして知ってるの?」と首を傾げられたので、僕は小川先輩から聞かされたという本当の理由を伏せて、お父さまの火葬中に缶入りのカフェオレをお飲みになっていたからだと答えた。
「僕も大のコーヒー好きなので、同じコーヒー好きの人は何となく分かるんです。実は昔、バリスタになりたいと思っていたこともあったので、|淹《い》れる方にも凝っていて……。それで、絢乃会長がご休憩される時に、僕が淹れた美味しいコーヒーをぜひ飲んで頂こうと考えているんです。ご期待に沿えるかどうかは分かりませんが」
 彼女に喜んで頂きたいと思うあまり、僕は秘書としての決意を語りながら、つい自分がかつて抱いていた夢までもポロっと話してしまった。初対面の夜にはからかわれてしまうのがイヤで話すことを拒んでいたのに、弾みとはいえ言えるようになったのはきっと、彼女のことを信頼できるようになったからだと思う。
 絢乃さんは顔を綻ばせながら「それは楽しみ」とおっしゃったが、その前に少しの|間《ま》があった。もしかしたら、これが僕の夢だったのだとお気づきになったかもしれない。
 そうこうしているうちに、窓の外にJR東京駅の赤レンガ造りの駅舎が見えてきた。篠沢商事の本社ビルまではあと数分、というところだった。
   * * * *
 ――入構ゲートをくぐった後、記者会見の行われる二階大ホールへ向かうエレベーターの中で、僕は絢乃さんにさりげなく司会進行役が久保であることを伝えた。
「……ああ、何となく憶えてるかも。ちょっと軽い感じの人だよね、確か」
 彼女もお父さまの社葬の時、彼が司会を務めていたことを憶えておられたようで、その時のヤツに対する彼女の評価がコレだった。……久保、お前、絢乃さんからもチャラチャラしてるって思われてるぞ。
「……う~ん、確かにアイツはちょっとチャラチャラしてますよね。特に|妙齢《みょうれい》の女性に対しての態度が」
 僕もその辛辣なコメントに賛同した。入社した時からの長い付き合いなので、ヤツの女性遍歴はよく知っていた。今の彼女と付き合うまでにも色々あったのだ。そんな男なので、絢乃さんにも色目を使ったりしやしないかと、僕は不安で仕方がなかった。
「――っていうか、司会って広報の人がやるんじゃないんだね」
「確かに、そこは僕も不思議なんですよね。もしかしたら元々は広報の仕事だったのに、総務課長が手柄を横取りしたのかもしれません。あの人ならやりかねない」
 絢乃会長も僕と同じ疑問を口にされた。
 久保は結局そのあたりの|経緯《いきさつ》を話してくれなかったので、僕は一番あり得るだろう可能性を持ち出して苦々しく吐き捨てた。
 彼女に島谷課長の話をしたことは一度もなかったが、僕のこの毒舌から彼が一体どういう人物なのかを彼女も想像できたのではないだろうか。
 ただ、あくまでもこれは可能性の問題であって、後から違うと分かったのだが。「目立ちたがりの久保が自分から名乗りを上げたかもしれない」と僕が言うと、絢乃さんは「なるほど」と曖昧に頷かれただけだった。
 そこで僕が彼女について分かったことは、彼女が親族を除く誰かのことを、決して悪く言わない人だということだった。
 彼女は相手を貶したり、傷付けるようなことを決して言わないのだ。それは彼女の生まれ持った性格なのか、ご両親の教育の|賜物《たまもの》なのか、どちらなんだろうか。もしかしたら両方かもしれない。