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写真を撮るのが好きだ。スマホでもカメラでも、何でも。古ぼけた物置のところで、ぼくは足を止める。自転車に積んでいたリュックを下ろし、中をまさぐる。虫かごの下――スマートフォンを取り出して、いつものようにカメラモードにする。  ぼくはスマートフォンを草むらに向ける。写真を撮ることは好きだが、三脚だとかレンズだとか数万円もするカメラだとか、そういうものには興味が無かった。まあ、カメラなんか買えないんだけど。おじいさんの家には高級なカメラがいくつも棚に飾られていたけど、それらを使ったことは一度も無い。せがんだこともない。ぼくは高校一年生の春にスマートフォンを買ってもらって、それで満足していた。  物置のすぐそば――この草むらにはキリギリスやカマキリがいる。今は六月。そろそろ、キリギリスが大きくなって来る時期だ。真夏ほど虫たちは成熟していないが、このぐらいの暑さの方が写真を撮るには好都合だった。  写真を撮るようになったきっかけは小学三年生の時の生物観察の授業だ。班に一つ学校のカメラを貸し出してもらうのだが、そのとき撮った写真の評判がよかったのだ。 「面白い写真だね」――先生の言葉だけは頭の中に今も残っている。  何を撮ったのかは覚えていない。小学生のぼくに写真を正確に撮る技術があったわけがない。それでも、褒められて嬉しかったことは確かな感覚だった。  その日からぼくは母にせがんで携帯を貸して貰い、たびたび写真を撮るようになった。家の近くにあった空き地の廃車、自転車のさび、蜂に刺されて腫れ上がった自分の掌に至るまで片っ端から撮影した。あれから今日に至るまでレンズを向け続けている。写真だけじゃなく動画を撮るのも好きだ。ハラビロカマキリが孵化する光景――薄い黄色の塊が一斉に蠢く姿は、なんとも神秘的だった。  写真を撮り過ぎてスマートフォンの容量がすぐ無くなるから、新しいSDカードが必要になってしまう。千枚まで写真がはいるフォルダーも五十を越えていた。  カマキリの脱皮、餌を加えて走っている蜘蛛――草の根を分ければ、被写体には事欠かない。虫を逃がさぬように、しゃがんで音を立てないよう柔らかく尖った雑草の葉を捲っていく。  緑の粒が密集して葉にくっついているのを見つけた――動きを止め、スマートフォンを近づける。アブラムシだ。そこにアリが群がっている。クロヤマアリ――最もよく見るアリだ。それからしばらくしゃがみながら草むらをまさぐり続けた。  一通りめぼしいものを撮り終わった。額を掌で拭うと、想像以上に汗ばんでいた。スマートフォンの画面――デジタル表示は三時半を差している。次は商店街だ。今日は好きな作家の新しい文庫本が出るんだった。  写真を撮る――その行為は一人で完結させられるという利点がある。人と関わることが苦手なぼくにとって、それに依存するのはある意味必然のことだった。小学生の頃は友達がいたような気もするが、中学生になってからはなんとなく一人だった。  いつも話していたクラスメイトが休んだ時、誰にも話しかけられなかった。その日は丸一日無言だった。自分には友達なんていなかった。その時ようやくそのことに気づいた。漠然と感じていた孤独を理解した。  高校生になった今も変わらない。同級生と遊びに行ったこともない。誰もが当たり前に経験していることがぼくには何もない。そのことから逃げるように、ぼくは日常の風景を撮り続けた。何か形になるものを生みだすことで自分の人生に価値を見いだしたかった。  ――写真ばっかり撮って勉強はどうなってるんだ。  ――やっぱりスマートフォンは早かったかもね。  ――いつも遊んでばかりだからな。  たまに言われる、ぼくに対する嘆き。ぼくにはどうすることもできない。一人では、写真を撮ることしかできないのだ。本当は家族や先生が言うように、将来を見据えた勉強ができればいいんだけど。  写真の数だけが増えていく毎日。  商店街まではなかなか遠い。おまけにこの暑さだ。太陽が突き刺すように照りつけるあの暑さはないが、一息ついたときに襲い来る蒸し暑さは真夏のそれとは違って陰湿だった。そのせいかあまり人はいない。  アーチ型のガードの中心で、標識が威圧している――この先自転車の乗り入れ禁止‼ アーチの向こう側に進むと途端に人が増える。人混み――眩暈がした。集団の中に分け入るのは苦手だった。ぼくは臆病で、弱くて、どうしようもなく小さかった。その事実を頭に浮かべさせるからだ。  ぼくは自転車を標識のすぐ近くに停めた。そこには折り重なるように自転車が連なっている。自転車の半分以上は黒で、よく見ないと区別が付かない。本当は本屋の前で自転車を停めるべきだが、本屋は商店街のかなり奥の方にある。正直自転車を押しながら人混みの中を進むのは面倒くさかった。  唐突に喉が渇きだした。この渇きを抱えたまま本屋に行って帰ってくる――かなり厳しい。ぼくはいったんアーチの外に出て、人の少ない右側を歩き出した。真っ直ぐ向かった先のコンビニがここからは一番近いはずだ。人が少なくなった代わりに、今度は高いビルが顔を見せ始めた。塾のテナント、商社、古書店、また別の塾テナント―― 「高いビルばっかだなあ」  ふと気配がして、空を見上げる。褐色の点が空を駆け抜ける。 「珍しい。トンビじゃん」  トンビがスピードを落とした。点が鳥になった。地上からかなり近い。ぼくはスマートフォンの画面――カメラを向けた。画面の中に交差点が広がった。ちょうど向かいのビルがすっぽり映り込んでいる。しかし、このままではスマートフォンの位置が低すぎてトンビは映らない。しかし、太陽が眩しすぎてスマートフォンでトンビを追えない。効果音――間違って、ムービーモードにしてしまったみたいだ。  ふと画面を見ると、ビルの上で、女の人が立っている。景色でも見ているのだろうか?ぼくは、スマートフォンの画面越しにぼんやりと女の人を眺めた。女の人が屋上の柵を越える。  僅かに鼓膜が揺さぶられた。遅れて結構な音がしたことに気づいた。 「え?」  スマートフォンのムービーモードを終了し、視線を交差点からビルの上、ビルの上から真下の道路沿いに移す。  深紅が道路に広がっていた。目が覚めるようなどす黒い赤だ。中心に固まりがある。見覚えのある色彩――スマートフォンの画面を確認する。さっきの女の人の服装。程なくしてどよめきが湧き上がる。死んでるぞ。飛び降りたのか。救急車!  様々な緊迫を含んだ声が、ぼくを飲み込み、通り過ぎていく。深紅はすぐに人混みに覆われぼくの位置からは見えなくなった。  しばらくの間、ぼくは立っていることしか出来なかった。  普段意識することのない母が洗う食器の擦れ合う音がやけに耳に障る。ダイニングテーブルにいるのはぼくと妹。父とは母は既に晩ご飯を食べ終えていた。母は片付け、父は寝転がりパソコンの画面を見つめている。我が家は何も変わりない――いつもと違うのはぼくだけ。 「そういえばうちの近くで、飛び降りがあったみたいじゃないか」  飛び降り――今日商店街の近くで起きた。心臓が軋んだ気がした。 「怖いねー」 「そういや陸久、おまえが今日遊びに行った近くじゃなかったか?」 「うん……でもぼくは、見なかったから」 「そうか――でもよかったな。人が死ぬ所なんて、いざ目にしたらお父さんでもきついだろうからな。陸久が出会わなくてよかったよ」 「確かにそれはそうね」 「お母さんジュースおかわり」  いつもはぼくが家族の会話の中で妹にちょっかいを出し一悶着あるのだが、今日に限っては何も言うことができなかった。  あれからすぐ、警察が来た。遠目で見ても即死だろうことは明らかだった。ぼくは後ろめたくなり、涼しくなる前にその場を立ち去った。  ぼくは現場からはある程度離れていたので、誰もぼくがカメラを向けて動画を撮影したことに気づかなかったのだ。警察に目撃者として呼ばれることもなかった。家族にぼくの嘘はばれていないままだ。 「明日の課題めんどくせー。ごちそうさま」 「おかわりいいの?」 「今日はもう腹いっぱい」 「そう」  ぼくは二階に上がっていった。自分の部屋に入ってひとりきりになった瞬間に、身体の力が抜けた。明日の課題――全く手つかずだった。明日の朝に急いでやればいい。何もやることがなくなり、本棚に手を伸ばした。文庫本を買うことをすっかり忘れていたことに今気づいた。



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