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約束へ至る道

ー/ー



「……え?」
 紅香の言葉に、雪乃が絶句する。
 当然のことだろう。たった今、神代の人間でしか、邪神を肉体に封じることはできないと、言われたばかりなのだから。
「そんな、無茶なのです! 邪神を身体に封じるなんてことは、よっぽど、その身体に耐性がなければ、耐えられません! 例え、身体が耐えられたとしても、人格を乗っ取られることだって……!」
 だが、雪乃の叫びをさえぎり、、紅香は首を横に振る。
「耐性なら……あるよ」
「……えっ?」
 まっすぐに見返す紅香に、雪乃の表情が困惑に染まる。
「私のこの身体は……邪神の力で再生されたもの。だったら、それに対する耐性も、あるはず。郁真も言ってたよ。『邪神の力が、身体になじんでいる』って」
「で、ですが……本来、邪神の力の半分を、紅香と静馬、二人で抑えていたはず……! 二人で抑えていたものを、さらに背負おうというのですよ!? やはり、いくら耐性があったとしても無理です!」


 なおも反対する雪乃に、紅香はかすかに微笑む。
「……大丈夫だよ」
「……だいじょうぶ、って……なにがですか!」
 紅香は微笑んだまま、今度は静馬を見る。
「……ね、静馬」
「……………」
 紅香の言葉と視線に、静馬は無言で目を伏せる。が、その表情が、ふと、あきらめたような笑みに変わった。
「……気づいていたのか……紅香」
「まあ、なんとなく……だったけど、ね」
 顔を上げた静馬に、雪乃が困惑の表情を向ける。
「どういうこと……なのですか」
「私は、邪神を封じてなんかいない……そういうことよ」
 紅香は穏やかな表情のまま、雪乃に向き直る。
「……ま、まさか……」
「そう。紅香の身体に、邪神は宿っていない。ただ、その力で再生されたことによって、身体能力が強化されただけにすぎない。邪神を抑えているのは、僕のほうだけだ」
 大きく息をつき、静馬が言う。

「そもそも……戦う力なんて、僕は紅香に与えるつもりはなかった。ただ……死んでほしくなかったから、邪神の力で彼女の体を再生しただけだ。だけど……なんの因果か、彼女の身体は、邪神の力を宿してしまった。だから……たしかに、紅香は今、邪神に対する耐性を持ちながら、邪神の封印には関わってない、特殊な状態にある」
「……そんなことって」
 雪乃が言葉を失い、静馬が紅香を見る。
「紅香がそれを知れば、きっと自分を犠牲にして邪神をその身体に封印しようとする。そう思ったから……言えなかった。でも……いつ、気がついた?」
「いろいろ考えたときはあったけど……ほんとは、最初からそんな気がしてた。静馬が自分で重荷だと思うものを、私に背負わせるっていうの、なんか想像できなくて」
 紅香の言葉に、静馬は意外そうに目を開き、そして、笑った。
「……ふう。まいったな。最初っから、か」
 だがすぐに表情を失い、鋭い視線で紅香を見る。
「でも、それなら、わかるだろう? 僕は、この邪神の存在を……君に背負わせたくない。たしかに、その身体は誰よりも、邪神を封じるのに適してはいるだろう。今まで邪神の力を使っても紅香自身がその侵食を受けなかったことから、精神的にも適しているのかもしれない……だけど、それでも……絶対にそれが可能だとは言えない」

「でも……それができるのは私しかいない。だから……お願い」
 紅香が、邪神を見上げながら、言う。
「……僕は……っ」
 今にも泣き出しそうな顔で、静馬が歯を食いしばる。ぐっと握られた両の拳が、震えている。
「……だいじょうぶ。約束、したじゃない。……それとも、あれは嘘だったの?」
 静馬が再び、下を向く。拳が震え、足が震えている。彼の頬を、すっと一滴、何かが流れていった。
「……わかっ、た」
「静馬!?」
 ゆっくりと顔を上げた静馬の顔に、涙はなかった。ただ険しい表情で、歯を食いしばって、何かに耐えるように、震えていた。
「でもっ……その代わり、約束は絶対守れ! そっちこそ……あの約束を嘘になんかしたら、絶対……絶対、許さないからな!」
 紅香が知る限り、初めてと言っていいほど語気を強めて、静馬が叫んだ。そして、紅香の前に、右手の小指を差し出して見せる。
「……わかってるよ。……約束」
 にっこりと微笑みながら、紅香がその小指に、自分の小指を絡ませる。

「じゃあ……やるよ」
 静馬の言葉に、紅香がうなずく。
「……あのさ、やっぱもう一つだけ、頼んでいい?」
「……ん?」
「小指、このままにしといて」
「……わかった」
 不思議と、紅香にも、そして静馬にも、もう震えはなかった。
「邪神を……紅香の身体に、封印する!」
 その言葉と同時に、雷に打たれたかのような衝撃が、紅香の身体を貫いた。それはすぐに、全身を覆う、灼熱の熱さへと変わる。
 だが、紅香は声を出さない。ここで悲鳴をあげたらなんだか負けのような気がして、歯を食いしばって耐える。目もつぶらない。邪神の、竜のその双眸を睨みつけながら、必死に耐える。
 徐々に、視界が紅く染まっていく。身体の感覚がなくなり、熱さも痛みも感じなくなっていく。
 紅香に唯一、残ったのは、ただ小指の感触。目の前にいるはずの、静馬の感触。
 そして、視界が戻った。
 そこは、真っ暗な場所だった。ビルの屋上でもなければ、どこになにがあるのかもわからない、ただ、暗黒の世界。

 だが、そこには以前、来た記憶があった。
「……私が、一度死んだときに、来た場所だ……」
 そう、あのバスの横転事故の後に気がつくといた場所……夢だったと思っていた、あの場所だった。
 しかし、紅香は強い瞳で前を見る。
「……いるんでしょ。出てきなさいよ」
 その言葉に答えるように、あのビルの屋上にいた邪神の、上半身が姿を現した。
「……人間とは、まこと小賢しきことよ。人の身でありながら、我の力をその身体に宿しせしめただけでは飽き足らず、今度は我を封じようと言うか。それも、小娘ごときがァ……ッ!」
 邪神が紅香を威嚇するように、憤怒の表情で吼えた。雷の轟音と、嵐の暴風が同時に吹き荒れたようなその様は、まるで嵐。
 それでも、紅香は微動だにしない。
 ただ、にっと野生的に笑って見せると、指きりをしたままの小指を、邪神に向けて立てて見せた。
「ふふんだ。あんたみたいな邪神、封印するのにこの小指一つで十分なんだから」
「おのれ小娘、なおのこと我を愚弄するかッ!」

 再び吼える邪神に、紅香が今度は鋭い瞳で睨み返す。
「あんたこそ、なめないでよ……っ! この小指で結んだ約束の強さは、あんたなんかに破れやしないっ! いや、破らせやしないっ!!」

 わずかな距離を置いて、紅香と邪神がにらみ合う。
 この勝負、普通に考えて分が悪い。あちらはもともと自分の力を使って戦っているのだから、その使い方には慣れているはずだ。そもそも、こちらはその邪神の力で強化されただけに過ぎない。
 だが、負けるわけにはいかない。
 紅香は、歯を食いしばり、握りこぶしを作る。
「いっくぞぉーーーーっ!!」
 わずかな距離を、全力で駆け抜ける。邪神はまだ動かない。紅香はそのまま、上半身のみの姿で地を這う邪神に拳を振りかぶる。
 だが、邪神は鍵爪のついた翼で顔をかばい、紅香の拳を止めた。
「くっ、硬っ!」
 邪神はすぐさま翼を翻すと、口から巨大な火球を放つ。
「……うっわ!」
 反射的に、横っ飛びでそれをかわす。火球は先ほどまで紅香がいた場所に着弾すると、手榴弾のような勢いで炸裂した。
「…………っ!」
 爆風で、思わず紅香が手で顔を庇う。それを好機と見たか、邪神が紅香の拳を止めた鍵爪を大きく振り上げる。

 邪神の体は大きい。いくら後ろや横に逃げても、恐らく届く。瞬間的にそう判断した紅香は、あえて邪神の懐へと飛び込む。
 やはり身体の大きさが災いしたか、鍵爪は紅香に届かず、背後で轟音をたてるにとどまった。
「これでも……食らえぇぇぇっ!」
 紅香は駆け寄る勢いを乗せたまま、邪神の顔面めがけてとび蹴りを放つ。
 が、その足は邪神の頬にめり込みはしたものの、さしたるダメージを与えられたようには見えない。
「今……なにかしたのか?」
 その目が、ギロリと紅香を捉えた。
 刹那、邪神が大きく口を開いた。
「……炎!?」
 警戒した紅香が、思わず後ろに下がる。が、放たれた攻撃は炎ではなく、その牙によるものだった。跳びすさった紅香の目の前で、邪神の牙ががちん、とまるでギロチンのような音をたてる。
「……っと!!」
 ギリギリのところでその牙から逃れた紅香が、さすがに冷や汗を流しながら着地した。
「ふーっ、あんなの見せられたら、さすがにぞっとしないね……」
 先ほどから放たれたどの一撃も、正直、一発でやられかねないように思えた。当たり前だ。相手はファンタジー映画に出てくるドラゴンみたいな邪神なのだ。強化されているとはいえ、人間の蹴りなど、小石がぶつかったようなものなのかもしれない。
「どうした? 小指一本で我を倒すのではなかったか?」
 今の攻防で、自分の優位を確信したか、邪神が不気味に笑う。
「うっさい! まだまだ、これからでしょっ!」
 再び、紅香が駆ける。
 が、その目の前に、再び火球が迫る。
 今度も横に跳んで直撃は免れるが、今度は炸裂した爆炎からは逃れ損ねた。
「あっつ!」
 その勢いに巻き込まれ、バランスを崩した紅香は地面にたたきつけられる。全身を炎の熱と、衝撃が走る。だが紅香は身体をさいなむ痛みを無視して、すぐさま走り出す。走らなければ。動かなければ。すぐに、次が来る。
 案の定、紅香が先ほど倒れこんだ場所に、鍵爪が振り下ろされた。
「ふはははは、逃げ惑え!」
 避けるのに精一杯の紅香を、邪神があざ笑う。

 駆ける紅香の行く手に、今度は横薙ぎに振るった鍵爪が迫る。駆ける方向を変えて避けようとするも、その爪がかすかに腕を裂いた。
「くっ……これじゃ、近づけない……っ」
 相手が大きすぎる。そのリーチに圧倒されて、懐に飛び込むことさえできない。
「となれば……これしかない!」
 紅香が、拳に炎を纏うと、その腕に徐々に力をこめていく。静馬がいない今、どこまでできるかわからないが、これをぶつけて攻撃するしかない。
 だが、邪神がそれを簡単に許すはずもない。邪神が大きく、その鍵爪を振りかぶる。
 紅香は右手に力を込めたまま、邪神に向かって突進する。先ほどと同じ要領で、鍵爪をかわし、距離を詰めながら、紅香は火球を放つ。
 狙いは、無防備になった、邪神の顔面。
「こんの……クソ邪神めっ!」
 大きく振りかぶって全身のばねを使い、邪神の顔面にそれを投げる。
 火球は一直線に邪神の顔面へと突っ込んでいき……その右目に、吸い込まれるように直撃した。
「ぐあああああああッ!?」
 目はさすがにダメージが通ったか、邪神が右手を鍵爪で押さえ、うずくまるようにして身悶える。

「……今だっ!」
 その好機に、紅香が駆ける。今のような奇襲は、警戒されてもう通用しないかもしれない。両腕に、強く、強く力を込める。
「この一撃にっ……」
 再び邪神の顔面に肉薄した紅香は、飛び上がりながら両手を組む。
「……賭けるっ!」
 飛び込んだ勢いそのままに、さながら鉄槌のごとく、紅香は組んだ両手を邪神の眉間に叩き込んだ。金属を殴ったような手ごたえとともに、パッと鮮血が舞う。
「う……ウオオオおおおおおッ!?」
 邪神の眉間を、割ったのだ。
「や……やった!?」
 右目と眉間を押さえうずくまる邪神を見、紅香が荒い息を吐く。
 だが。
「ニンゲン風情がぁッ……!!」
 突如、邪神がその顔をこちらに向けた。同時に右の鍵爪を振り下ろす。
「くっ、まだ!?」
 それを跳躍して避けた紅香だったが、跳んだその先にもう片方の鍵爪があることに気がつくのが、わずかに、遅れた。

「……あっ……」
 次の瞬間、全身をこれまでにないほどの衝撃が強襲した。一瞬で視界が反転し、襲い来る痛みに思考が鈍くなっていく。トラックにはねられたらこんな感じだろうか、という場違いな重いが、ちらりと脳裏をかすめた。
 気がつけば、紅香は地面に大の字になって倒れ伏していた。
「……あ……う……」
 ずきずきと全身をさいなむ痛みに、身体が動かない。
「はァッ……はァッ、ニンゲンめがッ……」
 遠く、邪神が毒づくのが聞こえる。
 動かなければ、動かなければ、このまま……。そう思いはしても、身体を動かすどころか、意識を保つことさえ、もう、難しかった。
「すぐ、楽にしてやるゥ……!」
 邪神の声が徐々に近くなる。
 しかし、意識が、もうもちそうにない。
 紅香が、そのまぶたを閉じようとした、その時。
『……うか……えるかっ……』
 誰かの声が、した。それは……聞きまちがえるはずもない人の、声。
『紅香……返事をしてくれっ!』
「しず……ま……?」
 まちがえるはずもない、神代静馬の声だった。
『紅香……あきらめるな! 約束しただろ、絶対帰ってくるって!』

 市庁舎ビル、屋上。
 静馬は、苦しみ始めた紅香に必死に呼びかけていた。
「紅香……あきらめるな!」
 今、紅香は己の精神世界で戦っている。その身体に邪神を封印するために、その心と戦っている。
 そして――――。
「静馬、今のうちに紅香を安全なところへ!」
 雪乃が、氷の障壁で邪神の炎を防ぎながら叫ぶ。
 現実世界では、邪神の実体との戦いが起きていた。心が紅香の精神世界に半ば捕らわれながらも、実体を強引に動かし、紅香の身体を滅ぼそうと動き出したのだ。
「……わかった!」
 静馬が紅香を運び、邪神から離れた、建物の陰に寝かせる。
 そして、邪神を強い瞳で、睨んだ。
 こちらでも、邪神が戦っている。だがそれは、逆に言えば、こちらでも戦うことによって、精神世界で戦う紅香への援護になるはずだ。
「……あの時、言っただろ。君に聞こえていたか、わからないけど――――」

 静馬が、穏やかに言いながら、その身体に炎を纏う。
「紅香一人に、背負わせやしないって!」
 静馬が駆ける。氷の壁が限界に来ていた雪乃の横を駆け抜け、邪神の顔面に炎を放つ。
「ぐあああああ! くそぉっ、くそぉおおおッ!」
 邪神がその顔を仰け反らせ、悶える。雪乃に放っていた炎が途切れ、邪神の攻撃が止まった。
だが、致命傷には至ってはいない。
 静馬が一旦、距離をとり、ともに戦う雪乃、水葉と合流した。三人ともすでに、肩で息をしている。考えてみれば当然だ。雪乃はビルに向かう車中で、水葉は煉獄の扉を開くことで、そして静馬は郁真との戦いで、すでにかなり消耗している。
「くっ……このまま戦力の削りあいをしていても、いずれは……」
 さすがに消耗しきった様子の水葉が、荒い息で言う。言いながら、ちらりと紅香を運んだ方向を一瞥する。
「それに……実体だけを倒したところで……」
「いや……帰ってくる。紅香は……帰ってくる! 絶対……絶対にだ!」
 だが、叫ぶ静馬に、復活した邪神が再び炎を放つ。
「させ……、ないのですっ!」
 歯を食いしばりながら、雪乃がもう一度、障壁を作る。氷の壁が、邪神の炎をさえぎる。だが、それを止めている雪乃の額からは、大粒の汗が滴り落ちる。

「くそっ、もう少し……せめて、せめてあと一撃が届けば……!」
 邪神の様子を見る限り、精神世界で紅香が邪神に大きなダメージを与えているように思える。だから、こちらであと少しでも援護ができれば、なんとか封印できるかもしれない。
 だが、追い込まれた邪神が放つ炎は、弱まるどころか逆に勢いを増している。その炎に押し込まれて、静馬も水葉も身動きが取れない。
「……お姉さまっ!」
 水葉が、障壁を支える雪乃に、腕を添える。
「水葉……いいから、邪神を……っ!」
「だめです! これ以上は、お姉さまがもちません!」
 氷の障壁が、再びかすかに勢いを盛り返すが、文字通り焼け石に水にしかならず、すぐにじりじりと押され始める。
「もう……だめ、です……。もたない……ッ!」
 雪乃が、がくりと片ひざを着いた、その時。
 黒い影が、駆けた。
 三人が突然現れたその影の気配に気づく間すら与えず、それは、邪神の片翼を一閃――――その一太刀の元に、邪神の翼を両断した。
「ぐがあああああああ!!」

「え……?」
 片翼をもがれた邪神が、のた打ち回る。
 その邪神の動きに飲まれまいと、後ろへ跳びすさったその影が、ゆっくり立ち上がる。
「へっ……正義の味方、ただいま参上……」
 片手に刀を構え、雪乃と邪神の間に立ちはだかった影――――それは。
「邪神さんよ、そのブサイク面で俺の女に手をだそうなんざ……、百年、はええぜ……」
 ラフに着込んだ黒シャツに、黒いハット――――。
「翔……さま……?」
 紛れもなく、須佐翔悟の姿であった。
「……翔様……っ!」
 雪乃が、崩れ落ちるように、翔悟にすがりつく。よく見ると、その翔悟のいつもの服装もすでにボロボロだ。
「静馬……行けっ! あと一発……あと一発ぶちこめば、あいつが、きっと……きっと、なんとかする!」
 よろよろと体勢を整え始めた邪神に向かって静馬が走る。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
 雄たけびをあげながら、その残った片翼に向けて、纏える限りの炎を纏い、駆ける。その様は、さながら天を駆ける朱雀のごとく。
「紅香……聞こえるかっ!」
 彼女の心に、問いかけるように。
「あきらめるなっ! 一人じゃない……っ! 一人になんか、もうさせないっ!」
 ただ、叫ぶ。
「……僕が……僕たちが……一緒にいる! だから……っ!」
 最後に叫んだその言葉をかき消すように、静馬の炎が、邪神の残った片翼を、焼き尽くした。

『約……束を……守ってくれ……っ!』
 静馬の声が、聞こえていた。薄れ掛けた意識に。消えかけていた、命に。
 そうだ……やく、そく。
「やくそく……した」
 風前の灯だったその意識が、まるで燃え尽きまいとするように、薄れゆく身体の感覚を取り戻していく。光の消えかけたその瞳に、たった一言の言葉が、命の灯を灯していく。
「そうだ……約束したっ!」
 その手が、拳を作る。その足が立ち上がろうと力を込める。
「絶対に……二人で生きて帰るって……」
 そして、火ノ宮紅香は、立ち上がった。
「約束……したんだぁっ!!」
 最後の力を振り絞り、全身の痛みを堪えて、走る。
 邪神は両方の翼を失い、その痛みを堪えるように震えている。
 一人じゃないと、彼が言った。
 もう一人になんかしないと、彼が言った。
 もう、ずっと……二度と帰ってこないと思っていた、彼が、言った。
 だから、自分も。
 静馬を、一人になんか、しない。

 その拳に炎を纏い、紅香は駆ける。まっすぐに、ただ、まっすぐに。
 もう二度と、一人になんてならないために。
 もう二度と、一人になんてしないために。
 その、約束へ至る道を。全力で、駆け抜けた。
「うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 そして、全力で。邪神の一角に、右手をたたきつけた。
 徐々に、その角に、細かなヒビが入る。やがて、音をたてて、角が砕け落ち、紅香の手に収まる。
 それは、その思いを顕現するかのように姿を変える。かつて邪神の角であったそれは、紅香の手の中で、巨大な大剣へと、姿を変えた。
 紅香はその重量にふらつきながらも、両手で大剣を振り上げる。
「静馬……今……帰るから、ね……」
 その言葉と、ともに。紅香は、邪神へと、大剣を振り下ろした。



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「……え?」
 紅香の言葉に、雪乃が絶句する。
 当然のことだろう。たった今、神代の人間でしか、邪神を肉体に封じることはできないと、言われたばかりなのだから。
「そんな、無茶なのです! 邪神を身体に封じるなんてことは、よっぽど、その身体に耐性がなければ、耐えられません! 例え、身体が耐えられたとしても、人格を乗っ取られることだって……!」
 だが、雪乃の叫びをさえぎり、、紅香は首を横に振る。
「耐性なら……あるよ」
「……えっ?」
 まっすぐに見返す紅香に、雪乃の表情が困惑に染まる。
「私のこの身体は……邪神の力で再生されたもの。だったら、それに対する耐性も、あるはず。郁真も言ってたよ。『邪神の力が、身体になじんでいる』って」
「で、ですが……本来、邪神の力の半分を、紅香と静馬、二人で抑えていたはず……! 二人で抑えていたものを、さらに背負おうというのですよ!? やはり、いくら耐性があったとしても無理です!」
 なおも反対する雪乃に、紅香はかすかに微笑む。
「……大丈夫だよ」
「……だいじょうぶ、って……なにがですか!」
 紅香は微笑んだまま、今度は静馬を見る。
「……ね、静馬」
「……………」
 紅香の言葉と視線に、静馬は無言で目を伏せる。が、その表情が、ふと、あきらめたような笑みに変わった。
「……気づいていたのか……紅香」
「まあ、なんとなく……だったけど、ね」
 顔を上げた静馬に、雪乃が困惑の表情を向ける。
「どういうこと……なのですか」
「私は、邪神を封じてなんかいない……そういうことよ」
 紅香は穏やかな表情のまま、雪乃に向き直る。
「……ま、まさか……」
「そう。紅香の身体に、邪神は宿っていない。ただ、その力で再生されたことによって、身体能力が強化されただけにすぎない。邪神を抑えているのは、僕のほうだけだ」
 大きく息をつき、静馬が言う。
「そもそも……戦う力なんて、僕は紅香に与えるつもりはなかった。ただ……死んでほしくなかったから、邪神の力で彼女の体を再生しただけだ。だけど……なんの因果か、彼女の身体は、邪神の力を宿してしまった。だから……たしかに、紅香は今、邪神に対する耐性を持ちながら、邪神の封印には関わってない、特殊な状態にある」
「……そんなことって」
 雪乃が言葉を失い、静馬が紅香を見る。
「紅香がそれを知れば、きっと自分を犠牲にして邪神をその身体に封印しようとする。そう思ったから……言えなかった。でも……いつ、気がついた?」
「いろいろ考えたときはあったけど……ほんとは、最初からそんな気がしてた。静馬が自分で重荷だと思うものを、私に背負わせるっていうの、なんか想像できなくて」
 紅香の言葉に、静馬は意外そうに目を開き、そして、笑った。
「……ふう。まいったな。最初っから、か」
 だがすぐに表情を失い、鋭い視線で紅香を見る。
「でも、それなら、わかるだろう? 僕は、この邪神の存在を……君に背負わせたくない。たしかに、その身体は誰よりも、邪神を封じるのに適してはいるだろう。今まで邪神の力を使っても紅香自身がその侵食を受けなかったことから、精神的にも適しているのかもしれない……だけど、それでも……絶対にそれが可能だとは言えない」
「でも……それができるのは私しかいない。だから……お願い」
 紅香が、邪神を見上げながら、言う。
「……僕は……っ」
 今にも泣き出しそうな顔で、静馬が歯を食いしばる。ぐっと握られた両の拳が、震えている。
「……だいじょうぶ。約束、したじゃない。……それとも、あれは嘘だったの?」
 静馬が再び、下を向く。拳が震え、足が震えている。彼の頬を、すっと一滴、何かが流れていった。
「……わかっ、た」
「静馬!?」
 ゆっくりと顔を上げた静馬の顔に、涙はなかった。ただ険しい表情で、歯を食いしばって、何かに耐えるように、震えていた。
「でもっ……その代わり、約束は絶対守れ! そっちこそ……あの約束を嘘になんかしたら、絶対……絶対、許さないからな!」
 紅香が知る限り、初めてと言っていいほど語気を強めて、静馬が叫んだ。そして、紅香の前に、右手の小指を差し出して見せる。
「……わかってるよ。……約束」
 にっこりと微笑みながら、紅香がその小指に、自分の小指を絡ませる。
「じゃあ……やるよ」
 静馬の言葉に、紅香がうなずく。
「……あのさ、やっぱもう一つだけ、頼んでいい?」
「……ん?」
「小指、このままにしといて」
「……わかった」
 不思議と、紅香にも、そして静馬にも、もう震えはなかった。
「邪神を……紅香の身体に、封印する!」
 その言葉と同時に、雷に打たれたかのような衝撃が、紅香の身体を貫いた。それはすぐに、全身を覆う、灼熱の熱さへと変わる。
 だが、紅香は声を出さない。ここで悲鳴をあげたらなんだか負けのような気がして、歯を食いしばって耐える。目もつぶらない。邪神の、竜のその双眸を睨みつけながら、必死に耐える。
 徐々に、視界が紅く染まっていく。身体の感覚がなくなり、熱さも痛みも感じなくなっていく。
 紅香に唯一、残ったのは、ただ小指の感触。目の前にいるはずの、静馬の感触。
 そして、視界が戻った。
 そこは、真っ暗な場所だった。ビルの屋上でもなければ、どこになにがあるのかもわからない、ただ、暗黒の世界。
 だが、そこには以前、来た記憶があった。
「……私が、一度死んだときに、来た場所だ……」
 そう、あのバスの横転事故の後に気がつくといた場所……夢だったと思っていた、あの場所だった。
 しかし、紅香は強い瞳で前を見る。
「……いるんでしょ。出てきなさいよ」
 その言葉に答えるように、あのビルの屋上にいた邪神の、上半身が姿を現した。
「……人間とは、まこと小賢しきことよ。人の身でありながら、我の力をその身体に宿しせしめただけでは飽き足らず、今度は我を封じようと言うか。それも、小娘ごときがァ……ッ!」
 邪神が紅香を威嚇するように、憤怒の表情で吼えた。雷の轟音と、嵐の暴風が同時に吹き荒れたようなその様は、まるで嵐。
 それでも、紅香は微動だにしない。
 ただ、にっと野生的に笑って見せると、指きりをしたままの小指を、邪神に向けて立てて見せた。
「ふふんだ。あんたみたいな邪神、封印するのにこの小指一つで十分なんだから」
「おのれ小娘、なおのこと我を愚弄するかッ!」
 再び吼える邪神に、紅香が今度は鋭い瞳で睨み返す。
「あんたこそ、なめないでよ……っ! この小指で結んだ約束の強さは、あんたなんかに破れやしないっ! いや、破らせやしないっ!!」
 わずかな距離を置いて、紅香と邪神がにらみ合う。
 この勝負、普通に考えて分が悪い。あちらはもともと自分の力を使って戦っているのだから、その使い方には慣れているはずだ。そもそも、こちらはその邪神の力で強化されただけに過ぎない。
 だが、負けるわけにはいかない。
 紅香は、歯を食いしばり、握りこぶしを作る。
「いっくぞぉーーーーっ!!」
 わずかな距離を、全力で駆け抜ける。邪神はまだ動かない。紅香はそのまま、上半身のみの姿で地を這う邪神に拳を振りかぶる。
 だが、邪神は鍵爪のついた翼で顔をかばい、紅香の拳を止めた。
「くっ、硬っ!」
 邪神はすぐさま翼を翻すと、口から巨大な火球を放つ。
「……うっわ!」
 反射的に、横っ飛びでそれをかわす。火球は先ほどまで紅香がいた場所に着弾すると、手榴弾のような勢いで炸裂した。
「…………っ!」
 爆風で、思わず紅香が手で顔を庇う。それを好機と見たか、邪神が紅香の拳を止めた鍵爪を大きく振り上げる。
 邪神の体は大きい。いくら後ろや横に逃げても、恐らく届く。瞬間的にそう判断した紅香は、あえて邪神の懐へと飛び込む。
 やはり身体の大きさが災いしたか、鍵爪は紅香に届かず、背後で轟音をたてるにとどまった。
「これでも……食らえぇぇぇっ!」
 紅香は駆け寄る勢いを乗せたまま、邪神の顔面めがけてとび蹴りを放つ。
 が、その足は邪神の頬にめり込みはしたものの、さしたるダメージを与えられたようには見えない。
「今……なにかしたのか?」
 その目が、ギロリと紅香を捉えた。
 刹那、邪神が大きく口を開いた。
「……炎!?」
 警戒した紅香が、思わず後ろに下がる。が、放たれた攻撃は炎ではなく、その牙によるものだった。跳びすさった紅香の目の前で、邪神の牙ががちん、とまるでギロチンのような音をたてる。
「……っと!!」
 ギリギリのところでその牙から逃れた紅香が、さすがに冷や汗を流しながら着地した。
「ふーっ、あんなの見せられたら、さすがにぞっとしないね……」
 先ほどから放たれたどの一撃も、正直、一発でやられかねないように思えた。当たり前だ。相手はファンタジー映画に出てくるドラゴンみたいな邪神なのだ。強化されているとはいえ、人間の蹴りなど、小石がぶつかったようなものなのかもしれない。
「どうした? 小指一本で我を倒すのではなかったか?」
 今の攻防で、自分の優位を確信したか、邪神が不気味に笑う。
「うっさい! まだまだ、これからでしょっ!」
 再び、紅香が駆ける。
 が、その目の前に、再び火球が迫る。
 今度も横に跳んで直撃は免れるが、今度は炸裂した爆炎からは逃れ損ねた。
「あっつ!」
 その勢いに巻き込まれ、バランスを崩した紅香は地面にたたきつけられる。全身を炎の熱と、衝撃が走る。だが紅香は身体をさいなむ痛みを無視して、すぐさま走り出す。走らなければ。動かなければ。すぐに、次が来る。
 案の定、紅香が先ほど倒れこんだ場所に、鍵爪が振り下ろされた。
「ふはははは、逃げ惑え!」
 避けるのに精一杯の紅香を、邪神があざ笑う。
 駆ける紅香の行く手に、今度は横薙ぎに振るった鍵爪が迫る。駆ける方向を変えて避けようとするも、その爪がかすかに腕を裂いた。
「くっ……これじゃ、近づけない……っ」
 相手が大きすぎる。そのリーチに圧倒されて、懐に飛び込むことさえできない。
「となれば……これしかない!」
 紅香が、拳に炎を纏うと、その腕に徐々に力をこめていく。静馬がいない今、どこまでできるかわからないが、これをぶつけて攻撃するしかない。
 だが、邪神がそれを簡単に許すはずもない。邪神が大きく、その鍵爪を振りかぶる。
 紅香は右手に力を込めたまま、邪神に向かって突進する。先ほどと同じ要領で、鍵爪をかわし、距離を詰めながら、紅香は火球を放つ。
 狙いは、無防備になった、邪神の顔面。
「こんの……クソ邪神めっ!」
 大きく振りかぶって全身のばねを使い、邪神の顔面にそれを投げる。
 火球は一直線に邪神の顔面へと突っ込んでいき……その右目に、吸い込まれるように直撃した。
「ぐあああああああッ!?」
 目はさすがにダメージが通ったか、邪神が右手を鍵爪で押さえ、うずくまるようにして身悶える。
「……今だっ!」
 その好機に、紅香が駆ける。今のような奇襲は、警戒されてもう通用しないかもしれない。両腕に、強く、強く力を込める。
「この一撃にっ……」
 再び邪神の顔面に肉薄した紅香は、飛び上がりながら両手を組む。
「……賭けるっ!」
 飛び込んだ勢いそのままに、さながら鉄槌のごとく、紅香は組んだ両手を邪神の眉間に叩き込んだ。金属を殴ったような手ごたえとともに、パッと鮮血が舞う。
「う……ウオオオおおおおおッ!?」
 邪神の眉間を、割ったのだ。
「や……やった!?」
 右目と眉間を押さえうずくまる邪神を見、紅香が荒い息を吐く。
 だが。
「ニンゲン風情がぁッ……!!」
 突如、邪神がその顔をこちらに向けた。同時に右の鍵爪を振り下ろす。
「くっ、まだ!?」
 それを跳躍して避けた紅香だったが、跳んだその先にもう片方の鍵爪があることに気がつくのが、わずかに、遅れた。
「……あっ……」
 次の瞬間、全身をこれまでにないほどの衝撃が強襲した。一瞬で視界が反転し、襲い来る痛みに思考が鈍くなっていく。トラックにはねられたらこんな感じだろうか、という場違いな重いが、ちらりと脳裏をかすめた。
 気がつけば、紅香は地面に大の字になって倒れ伏していた。
「……あ……う……」
 ずきずきと全身をさいなむ痛みに、身体が動かない。
「はァッ……はァッ、ニンゲンめがッ……」
 遠く、邪神が毒づくのが聞こえる。
 動かなければ、動かなければ、このまま……。そう思いはしても、身体を動かすどころか、意識を保つことさえ、もう、難しかった。
「すぐ、楽にしてやるゥ……!」
 邪神の声が徐々に近くなる。
 しかし、意識が、もうもちそうにない。
 紅香が、そのまぶたを閉じようとした、その時。
『……うか……えるかっ……』
 誰かの声が、した。それは……聞きまちがえるはずもない人の、声。
『紅香……返事をしてくれっ!』
「しず……ま……?」
 まちがえるはずもない、神代静馬の声だった。
『紅香……あきらめるな! 約束しただろ、絶対帰ってくるって!』
 市庁舎ビル、屋上。
 静馬は、苦しみ始めた紅香に必死に呼びかけていた。
「紅香……あきらめるな!」
 今、紅香は己の精神世界で戦っている。その身体に邪神を封印するために、その心と戦っている。
 そして――――。
「静馬、今のうちに紅香を安全なところへ!」
 雪乃が、氷の障壁で邪神の炎を防ぎながら叫ぶ。
 現実世界では、邪神の実体との戦いが起きていた。心が紅香の精神世界に半ば捕らわれながらも、実体を強引に動かし、紅香の身体を滅ぼそうと動き出したのだ。
「……わかった!」
 静馬が紅香を運び、邪神から離れた、建物の陰に寝かせる。
 そして、邪神を強い瞳で、睨んだ。
 こちらでも、邪神が戦っている。だがそれは、逆に言えば、こちらでも戦うことによって、精神世界で戦う紅香への援護になるはずだ。
「……あの時、言っただろ。君に聞こえていたか、わからないけど――――」
 静馬が、穏やかに言いながら、その身体に炎を纏う。
「紅香一人に、背負わせやしないって!」
 静馬が駆ける。氷の壁が限界に来ていた雪乃の横を駆け抜け、邪神の顔面に炎を放つ。
「ぐあああああ! くそぉっ、くそぉおおおッ!」
 邪神がその顔を仰け反らせ、悶える。雪乃に放っていた炎が途切れ、邪神の攻撃が止まった。
だが、致命傷には至ってはいない。
 静馬が一旦、距離をとり、ともに戦う雪乃、水葉と合流した。三人ともすでに、肩で息をしている。考えてみれば当然だ。雪乃はビルに向かう車中で、水葉は煉獄の扉を開くことで、そして静馬は郁真との戦いで、すでにかなり消耗している。
「くっ……このまま戦力の削りあいをしていても、いずれは……」
 さすがに消耗しきった様子の水葉が、荒い息で言う。言いながら、ちらりと紅香を運んだ方向を一瞥する。
「それに……実体だけを倒したところで……」
「いや……帰ってくる。紅香は……帰ってくる! 絶対……絶対にだ!」
 だが、叫ぶ静馬に、復活した邪神が再び炎を放つ。
「させ……、ないのですっ!」
 歯を食いしばりながら、雪乃がもう一度、障壁を作る。氷の壁が、邪神の炎をさえぎる。だが、それを止めている雪乃の額からは、大粒の汗が滴り落ちる。
「くそっ、もう少し……せめて、せめてあと一撃が届けば……!」
 邪神の様子を見る限り、精神世界で紅香が邪神に大きなダメージを与えているように思える。だから、こちらであと少しでも援護ができれば、なんとか封印できるかもしれない。
 だが、追い込まれた邪神が放つ炎は、弱まるどころか逆に勢いを増している。その炎に押し込まれて、静馬も水葉も身動きが取れない。
「……お姉さまっ!」
 水葉が、障壁を支える雪乃に、腕を添える。
「水葉……いいから、邪神を……っ!」
「だめです! これ以上は、お姉さまがもちません!」
 氷の障壁が、再びかすかに勢いを盛り返すが、文字通り焼け石に水にしかならず、すぐにじりじりと押され始める。
「もう……だめ、です……。もたない……ッ!」
 雪乃が、がくりと片ひざを着いた、その時。
 黒い影が、駆けた。
 三人が突然現れたその影の気配に気づく間すら与えず、それは、邪神の片翼を一閃――――その一太刀の元に、邪神の翼を両断した。
「ぐがあああああああ!!」
「え……?」
 片翼をもがれた邪神が、のた打ち回る。
 その邪神の動きに飲まれまいと、後ろへ跳びすさったその影が、ゆっくり立ち上がる。
「へっ……正義の味方、ただいま参上……」
 片手に刀を構え、雪乃と邪神の間に立ちはだかった影――――それは。
「邪神さんよ、そのブサイク面で俺の女に手をだそうなんざ……、百年、はええぜ……」
 ラフに着込んだ黒シャツに、黒いハット――――。
「翔……さま……?」
 紛れもなく、須佐翔悟の姿であった。
「……翔様……っ!」
 雪乃が、崩れ落ちるように、翔悟にすがりつく。よく見ると、その翔悟のいつもの服装もすでにボロボロだ。
「静馬……行けっ! あと一発……あと一発ぶちこめば、あいつが、きっと……きっと、なんとかする!」
 よろよろと体勢を整え始めた邪神に向かって静馬が走る。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
 雄たけびをあげながら、その残った片翼に向けて、纏える限りの炎を纏い、駆ける。その様は、さながら天を駆ける朱雀のごとく。
「紅香……聞こえるかっ!」
 彼女の心に、問いかけるように。
「あきらめるなっ! 一人じゃない……っ! 一人になんか、もうさせないっ!」
 ただ、叫ぶ。
「……僕が……僕たちが……一緒にいる! だから……っ!」
 最後に叫んだその言葉をかき消すように、静馬の炎が、邪神の残った片翼を、焼き尽くした。
『約……束を……守ってくれ……っ!』
 静馬の声が、聞こえていた。薄れ掛けた意識に。消えかけていた、命に。
 そうだ……やく、そく。
「やくそく……した」
 風前の灯だったその意識が、まるで燃え尽きまいとするように、薄れゆく身体の感覚を取り戻していく。光の消えかけたその瞳に、たった一言の言葉が、命の灯を灯していく。
「そうだ……約束したっ!」
 その手が、拳を作る。その足が立ち上がろうと力を込める。
「絶対に……二人で生きて帰るって……」
 そして、火ノ宮紅香は、立ち上がった。
「約束……したんだぁっ!!」
 最後の力を振り絞り、全身の痛みを堪えて、走る。
 邪神は両方の翼を失い、その痛みを堪えるように震えている。
 一人じゃないと、彼が言った。
 もう一人になんかしないと、彼が言った。
 もう、ずっと……二度と帰ってこないと思っていた、彼が、言った。
 だから、自分も。
 静馬を、一人になんか、しない。
 その拳に炎を纏い、紅香は駆ける。まっすぐに、ただ、まっすぐに。
 もう二度と、一人になんてならないために。
 もう二度と、一人になんてしないために。
 その、約束へ至る道を。全力で、駆け抜けた。
「うあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 そして、全力で。邪神の一角に、右手をたたきつけた。
 徐々に、その角に、細かなヒビが入る。やがて、音をたてて、角が砕け落ち、紅香の手に収まる。
 それは、その思いを顕現するかのように姿を変える。かつて邪神の角であったそれは、紅香の手の中で、巨大な大剣へと、姿を変えた。
 紅香はその重量にふらつきながらも、両手で大剣を振り上げる。
「静馬……今……帰るから、ね……」
 その言葉と、ともに。紅香は、邪神へと、大剣を振り下ろした。