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日記

ー/ー



「大丈夫だ。頭を強く打って気絶しているだけ。だが、取り憑いたあやかしが無理やり体を動かす危険性は?」

「大丈夫だと思います。動かせるなら、もう動いているはず」

思います(・・・・)? 確実じゃねぇな」

 吉良は心を落ち着かせて状況の分析を始めた。飛び掛かってきた、今回の怪異でこんなケースは初めてだ。今までは何かを食べることはあっても人間に取り憑いたあやかしが直接危害を加えることはなかった。

 報告がなかった? たまたま? いや、あれだけの数がいるのなら、もっと早くに同じことが起こっていてもおかしくない。だから最も適切な答えは、自分の欲求(・・)がわかってきているということ。

 特別な事情がない限り、お腹が空くと食べ物を欲するのは当然のことだ。特に肉にはタンパク質やビタミン類が豊富に含まれている。

 最初は、手当り次第何でもかんでも口にしていた異食だったが、そこから、足りない栄養素を、つまり食べたいものを選択して欲するようになったと考えれば、突然現れた人間に飛び掛かる理由も一応は説明がつく。

 それはあまりにも突飛な考えだった。だが、仮説としては辻褄が合っている。何よりも鬼灯に赤子の泣き声、形の無いあやかしから連想されるものとしては自然だった。

 つまり、赤子が日々認識を発展させていくように、このあやかしもまた認識を深めているのだ。無形が有形に、境界の曖昧な線がはっきりとした線に変わろうとしていた。

 あやかしには元々形など無い。連なる世界の中から人間が境界を決めて形を作ることで、初めて形が現れてくる。人間が認識を深めるほど、曖昧模糊とした形から精緻な形へと像を変化させていく。

 このあやかしは、そのために多くの人間に取り憑くことで、種としての形を創ろうとしているのかもしれない。

 吉良は慎重かつ大胆に老婆の側へと近寄り、片膝をついてしゃがみ込んだ。顔の前で手のひらを下に向けて動かすが何も反応がない。

 自分の形を認識できるようになっているということは、やはり動かそうと思えばすぐに動くはず。肉を求めて動き出すはず。そうならないということは動きが停止、気絶しているということ。

「月岡さん。大丈夫です。動きません」

「よし」

 月岡はスーツジャケットから白手袋を取り出し両手にはめた。

「月岡さん、あれ、は?」

「ああ、わかってる。今──」

 吉良の横に並ぶと、月岡は老婆の頑丈そうな白い歯に挟まっている紙切れのようなものを引き抜いた。

「見ろ」

 唾がびっしりと付着した白い紙だった。濡れて掠れてしまっているが、紙には何かペンで文字が書かれていた。立ち上がって老婆がいた辺りに目を向けると、小さな手帳が置かれていた。

「月岡さん、あそこに」

 月岡は取り出したスマホで写真を一枚撮ると、壊さぬよう優しく拾い上げた。噛み千切っていたのだろうか。まだ唾液がべとりとついた手帳はところどころが食い破られていた。

「月岡さん、見させてもらってもいいですか?」

「ああ」

 月岡からもう一組手袋をもらうと、吉良は手帳を預かった。

 真っ白な手帳だ。バインダー式で、あちこち破損はしているが、表紙も裏表紙も背表紙も全てが柔らかい白色をしていた。中を開くと、手触りのいい紙質のページが続く。この紙にペンを走らせると滑らかに文字が書けてとても気分がいいだろう。

「今、救急車と警察を呼ぶ。早く解読してくれよ。ここは県外だからな、病院のとき以上に非協力的な可能性もある。最悪すぐに追い出されるだろうなぁ。俺ならそうする」

 月岡が電話をかけ始めた。怒鳴るほどの大声でやり取りしているが、集中している吉良の耳には届かなかった。

 ─────
 9月4日(水)

 吉良先生は、いい先生。

 優しく何でも聞いて

     ありがとうござい

 ─────
   6日(水)

 本格的な寒さ。通うのは大変
 少しずつ       気がする。

 もう息が白

 ─────
 1月1日

 明けましておめでとうございます。

 元旦でも特別に話を聞いてくれる。約半年

 いい場所        通う

 ─────

 手帳のはじめはカウンセリングの開始日と同じだった。大きく破られているため、全容はわからないが、それからおそらくは毎月第一水曜日に、感想やちょっとした思いを書いている。

 ─────
  月4日(水)


 帰り道には          場所まで滑らないように

 ─────

 ペラペラとページを捲っていくと、ちょうど真ん中あたりで文字が終わっていた。

 ─────
  月1日(水)

 記念すべき2年目。こんなに長くかかるとは私も先生も思わなかった。先生は忙しそうだった。でもこれで

 後は



    終わり。

        ありがとう
 ─────

 文面から察するに昨日のカウンセリングの後に書いたものだ。他のページと同様、(あいだ)が抜けていて何が書いてあったのかわかりかねたが、妙に気にかかる文章だった。『終わり。』とはいったいどういう意味なのか。

 誰かのお腹の音が鳴った。月岡がお腹を空かせているのかとぼんやりと考えたところではたと気がつく。

「吉良! 逃げろ!」

 後ろを振り向けば、再び起き上がった老婆が──いや、餓鬼が口から涎を溢れ出させながらジリジリと歩み寄ってくる。電話を切った月岡が助けに入るために走ろうとしているが。

 老婆は一気に距離を詰めてきた。

 ガリガリと壁を齧る音が聞こえる。なんとか横に逃げて突進を避けたが、吉良の手にあった手帳が、動いた拍子に空中へと飛んでいく。畳の上に落ちた手帳は、破損が酷かった上に落下の衝撃を受けてバラバラになってしまった。

「吉良! 何やってる! 早く部屋の外へ!!」

 月岡の切羽詰まった声はしかし、今の吉良には届いていなかった。仕方なしに月岡はジャケットの裾に素早く手を入れると、右腰に提げた拳銃を取り出した。

 威嚇にはもちろん使えない。使うとしたら引き金を引き、体に向けて撃つという用途のみ。つまりは、老婆を射殺するということ。餓鬼はまだ壁を齧ったままだ。口に入れたものを呑み込むのには時間がかかるのかもしれない。

「頼むから、振り向くんじゃねえぞ」

 吉良はそんな状況など全く気が付かずに一枚一枚散らばってしまった紙を眺めていた。その中の一枚に書かれている文面を瞬きすらせず凝視し続けている。

 いつ書かれたのかはわからない。言葉の示す意味も意図もわからないが、破られた紙の上にはお手本のような綺麗な字でこう書かれていた。

 ─────
   へ行って、帰る
 ─────

「どこかへ行って帰ってきた」

「なに?」

 ただの偶然かもしれない。ありふれたよくある文章だ。だけど内容が酷似しすぎている。

 吉良の頭の中で今読んだ日記の文面が、ページが捲られるように浮かび上がる。

 ─────
   6日(水)

 本格的な寒さ。通うのは大変
 少しずつ       気がする。

 もう息が白

 ─────
 1月1日(水)

 明けましておめでとうございます。

 元旦でも特別に話を聞いてくれる。約半年

 いい場所        通う

 ─────
  月4日(水)


 帰り道には          場所まで滑らないように

 ─────

「通う……場所?」

 通うのは単純に相談所だと思っていた。でも、よく読めば違う場所を指しているような気もしてくる。特に最後の文面、『帰り道には……場所まで』は、相談所へ寄ったあとにどこかへ寄っているように読める。

 そんな話は今まで一度も依頼人から聞いたことがなかった。どこへ行った? カウンセリングの後にどこへ行って帰った?

「おい吉良! 限界だ!!」

 銃弾が放たれる。勢いよく飛び出た弾は窓ガラスを割った。

 激しいその音で、ようやく吉良は自分が置かれた状況を思い出した。吉良の腕が乱暴につかまれて引っ張り上げられる。

「逃げるぞ!」

 自分がたった今いた場所に老婆が飛び掛かる。月岡に連れて行かれながらも吉良は見た。血だらけになった歯と顔面を。餓鬼は下に落ちた紙切れを両手で拾って口に詰め込むと、唸り声を上げた。舞い上がった無数の紙が紙吹雪のように降り注ぎ、少しだけ開いていた押し入れの襖に入り込んでいった。

 階段を駆け下りて廊下を抜けて家の外へ出たときには降りしきる雨の音の中をパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 月岡は吉良の腕を離すと、拳銃を腰のホルダーへと戻す。

「なんだ、あれは! 悪いがもう化物としか思えねぇ!」

「化物……確かにそうかもしれません」

「あぁ? 何かわかったのか!?」

 息を整えて夜空を見上げる。雨粒がメガネのレンズを濡らした。

「わかりません……ただ、もしかしたら僕のせいかもしれない」

「……なんだって?」


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「大丈夫だ。頭を強く打って気絶しているだけ。だが、取り憑いたあやかしが無理やり体を動かす危険性は?」
「大丈夫だと思います。動かせるなら、もう動いているはず」
「|思います《・・・・》? 確実じゃねぇな」
 吉良は心を落ち着かせて状況の分析を始めた。飛び掛かってきた、今回の怪異でこんなケースは初めてだ。今までは何かを食べることはあっても人間に取り憑いたあやかしが直接危害を加えることはなかった。
 報告がなかった? たまたま? いや、あれだけの数がいるのなら、もっと早くに同じことが起こっていてもおかしくない。だから最も適切な答えは、自分の|欲求《・・》がわかってきているということ。
 特別な事情がない限り、お腹が空くと食べ物を欲するのは当然のことだ。特に肉にはタンパク質やビタミン類が豊富に含まれている。
 最初は、手当り次第何でもかんでも口にしていた異食だったが、そこから、足りない栄養素を、つまり食べたいものを選択して欲するようになったと考えれば、突然現れた人間に飛び掛かる理由も一応は説明がつく。
 それはあまりにも突飛な考えだった。だが、仮説としては辻褄が合っている。何よりも鬼灯に赤子の泣き声、形の無いあやかしから連想されるものとしては自然だった。
 つまり、赤子が日々認識を発展させていくように、このあやかしもまた認識を深めているのだ。無形が有形に、境界の曖昧な線がはっきりとした線に変わろうとしていた。
 あやかしには元々形など無い。連なる世界の中から人間が境界を決めて形を作ることで、初めて形が現れてくる。人間が認識を深めるほど、曖昧模糊とした形から精緻な形へと像を変化させていく。
 このあやかしは、そのために多くの人間に取り憑くことで、種としての形を創ろうとしているのかもしれない。
 吉良は慎重かつ大胆に老婆の側へと近寄り、片膝をついてしゃがみ込んだ。顔の前で手のひらを下に向けて動かすが何も反応がない。
 自分の形を認識できるようになっているということは、やはり動かそうと思えばすぐに動くはず。肉を求めて動き出すはず。そうならないということは動きが停止、気絶しているということ。
「月岡さん。大丈夫です。動きません」
「よし」
 月岡はスーツジャケットから白手袋を取り出し両手にはめた。
「月岡さん、あれ、は?」
「ああ、わかってる。今──」
 吉良の横に並ぶと、月岡は老婆の頑丈そうな白い歯に挟まっている紙切れのようなものを引き抜いた。
「見ろ」
 唾がびっしりと付着した白い紙だった。濡れて掠れてしまっているが、紙には何かペンで文字が書かれていた。立ち上がって老婆がいた辺りに目を向けると、小さな手帳が置かれていた。
「月岡さん、あそこに」
 月岡は取り出したスマホで写真を一枚撮ると、壊さぬよう優しく拾い上げた。噛み千切っていたのだろうか。まだ唾液がべとりとついた手帳はところどころが食い破られていた。
「月岡さん、見させてもらってもいいですか?」
「ああ」
 月岡からもう一組手袋をもらうと、吉良は手帳を預かった。
 真っ白な手帳だ。バインダー式で、あちこち破損はしているが、表紙も裏表紙も背表紙も全てが柔らかい白色をしていた。中を開くと、手触りのいい紙質のページが続く。この紙にペンを走らせると滑らかに文字が書けてとても気分がいいだろう。
「今、救急車と警察を呼ぶ。早く解読してくれよ。ここは県外だからな、病院のとき以上に非協力的な可能性もある。最悪すぐに追い出されるだろうなぁ。俺ならそうする」
 月岡が電話をかけ始めた。怒鳴るほどの大声でやり取りしているが、集中している吉良の耳には届かなかった。
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 9月4日(水)
 吉良先生は、いい先生。
 優しく何でも聞いて
     ありがとうござい
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   6日(水)
 本格的な寒さ。通うのは大変
 少しずつ       気がする。
 もう息が白
 ─────
 1月1日
 明けましておめでとうございます。
 元旦でも特別に話を聞いてくれる。約半年
 いい場所        通う
 ─────
 手帳のはじめはカウンセリングの開始日と同じだった。大きく破られているため、全容はわからないが、それからおそらくは毎月第一水曜日に、感想やちょっとした思いを書いている。
 ─────
  月4日(水)
 帰り道には          場所まで滑らないように
 ─────
 ペラペラとページを捲っていくと、ちょうど真ん中あたりで文字が終わっていた。
 ─────
  月1日(水)
 記念すべき2年目。こんなに長くかかるとは私も先生も思わなかった。先生は忙しそうだった。でもこれで
 後は
    終わり。
        ありがとう
 ─────
 文面から察するに昨日のカウンセリングの後に書いたものだ。他のページと同様、|間《あいだ》が抜けていて何が書いてあったのかわかりかねたが、妙に気にかかる文章だった。『終わり。』とはいったいどういう意味なのか。
 誰かのお腹の音が鳴った。月岡がお腹を空かせているのかとぼんやりと考えたところではたと気がつく。
「吉良! 逃げろ!」
 後ろを振り向けば、再び起き上がった老婆が──いや、餓鬼が口から涎を溢れ出させながらジリジリと歩み寄ってくる。電話を切った月岡が助けに入るために走ろうとしているが。
 老婆は一気に距離を詰めてきた。
 ガリガリと壁を齧る音が聞こえる。なんとか横に逃げて突進を避けたが、吉良の手にあった手帳が、動いた拍子に空中へと飛んでいく。畳の上に落ちた手帳は、破損が酷かった上に落下の衝撃を受けてバラバラになってしまった。
「吉良! 何やってる! 早く部屋の外へ!!」
 月岡の切羽詰まった声はしかし、今の吉良には届いていなかった。仕方なしに月岡はジャケットの裾に素早く手を入れると、右腰に提げた拳銃を取り出した。
 威嚇にはもちろん使えない。使うとしたら引き金を引き、体に向けて撃つという用途のみ。つまりは、老婆を射殺するということ。餓鬼はまだ壁を齧ったままだ。口に入れたものを呑み込むのには時間がかかるのかもしれない。
「頼むから、振り向くんじゃねえぞ」
 吉良はそんな状況など全く気が付かずに一枚一枚散らばってしまった紙を眺めていた。その中の一枚に書かれている文面を瞬きすらせず凝視し続けている。
 いつ書かれたのかはわからない。言葉の示す意味も意図もわからないが、破られた紙の上にはお手本のような綺麗な字でこう書かれていた。
 ─────
   へ行って、帰る
 ─────
「どこかへ行って帰ってきた」
「なに?」
 ただの偶然かもしれない。ありふれたよくある文章だ。だけど内容が酷似しすぎている。
 吉良の頭の中で今読んだ日記の文面が、ページが捲られるように浮かび上がる。
 ─────
   6日(水)
 本格的な寒さ。通うのは大変
 少しずつ       気がする。
 もう息が白
 ─────
 1月1日(水)
 明けましておめでとうございます。
 元旦でも特別に話を聞いてくれる。約半年
 いい場所        通う
 ─────
  月4日(水)
 帰り道には          場所まで滑らないように
 ─────
「通う……場所?」
 通うのは単純に相談所だと思っていた。でも、よく読めば違う場所を指しているような気もしてくる。特に最後の文面、『帰り道には……場所まで』は、相談所へ寄ったあとにどこかへ寄っているように読める。
 そんな話は今まで一度も依頼人から聞いたことがなかった。どこへ行った? カウンセリングの後にどこへ行って帰った?
「おい吉良! 限界だ!!」
 銃弾が放たれる。勢いよく飛び出た弾は窓ガラスを割った。
 激しいその音で、ようやく吉良は自分が置かれた状況を思い出した。吉良の腕が乱暴につかまれて引っ張り上げられる。
「逃げるぞ!」
 自分がたった今いた場所に老婆が飛び掛かる。月岡に連れて行かれながらも吉良は見た。血だらけになった歯と顔面を。餓鬼は下に落ちた紙切れを両手で拾って口に詰め込むと、唸り声を上げた。舞い上がった無数の紙が紙吹雪のように降り注ぎ、少しだけ開いていた押し入れの襖に入り込んでいった。
 階段を駆け下りて廊下を抜けて家の外へ出たときには降りしきる雨の音の中をパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
 月岡は吉良の腕を離すと、拳銃を腰のホルダーへと戻す。
「なんだ、あれは! 悪いがもう化物としか思えねぇ!」
「化物……確かにそうかもしれません」
「あぁ? 何かわかったのか!?」
 息を整えて夜空を見上げる。雨粒がメガネのレンズを濡らした。
「わかりません……ただ、もしかしたら僕のせいかもしれない」
「……なんだって?」