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#22 Black

ー/ー



 フィリオは怖かった。「もう誰とも別れたくない」そんな思いが、彼の心臓に突き刺さって抜けなくなった。彼らは今まで幸せに生きていた。そんな彼らの、のどかで平和な、なんてことない日常が、豪快な音を立てながら崩れようとしている。そんな気がしてくるのだった。
 フィリオはアトリエに一人篭る。自分の気持ちもなんとか整理しようと、自分自身を見つめていたのだ。絵とはモチーフとの対話。そして自分自身を映し出す鏡。そしてキャンバスに投影された己の感情は、時に人の心を動かす。彼は、そんな絵の世界に魅せられたのだ。だから、フィリオは絵を描き続けた。大好きな美しいこの世界をキャンバスに切り取る為に。そして自己を表現する為に。
 フィリオは、はぁ、はぁと呼吸と整えながら、激しい動悸をなんとか抑えようとする。寂しい、辛い、悲しい……負の感情が彼を絶えず襲う。
 彼は背を丸めて、椅子に座って黙り込んでいた。彼の呼吸の音だけが、薄暗いアトリエ全体に響き渡る。

「どうせ僕はダメな人間なんだ。僕はいつまで経っても父さんを越えられない。どれだけ絵を描いても、どれだけ生きても、父さんには追いつけない」

 独り言がアトリエに響く。
 ドアが開く音がした。レイネが帰ってきたのだ。フィリオは彼女に見向きもせずにうずくまっていた。

「ただいま」

「おかえり、レイネ……」

「どうしたの?」
 
 レイネは何も言わずじっとしているフィリオの側に歩み寄って、そう言った。

「レイネ……今日はもう寝るよ……何もしたくないから」

「そう……」

 レイネは言われるがまま、フィリオと共に二階へ上がった。テーブルの、レイネがいつも座っている側に、パンが二つ、皿の上に乗せられている。フィリオが彼女の為に夕食を用意していたのだ。いつもなら、夕食はフィリオの手料理であるのだが、今日はパンだった。彼女はそれを見て呟く。

「わたしの……だけ?」

「僕はいい。君の夕食も、作る元気がなかったんだ……ごめん」

「だったら……たべて。げんきになるために」

 ベッドへ向かうフィリオを、レイネが止める。

「ほら……これ、ひとつあげる」

 彼女は彼にパンをひとつ差し出した。

「ありがとう……でも……ごめん。やっぱり僕はいいや」

「そう……」
 
 そしてフィリオはベッドに横になって、眠りについた。
 レイネは彼に何も言わなかった。言えなかったと言った方が正しいのかもしれない。
 次の日の朝から、フィリオはアトリエに籠り続けた。外出する事なく、ただキャンパスと対峙する。漆黒の絵の具を白と混ぜ合わせ濃淡を作る。何日もの時が過ぎ、やがて純白のキャンパスに現れたのは、灰色の世界だった。キャンパスをただ染める灰色。フィリオはもう、絵が描けなくなっていた。
 無意識のうちに、ある日の思い出が呼び起こされる。「やっぱりひと……いっぱい」いつかの春の終わり、レイネが震える声で言った。「いいかレイネ。世の中には沢山の人がいる。君も僕も、沢山いる人々のうちの一人に過ぎないんだ。でも、その一人一人が、みんな特別な存在なんだよ」フィリオはそう言って、レイネに微笑みかけた。彼女と過ごした日々が、彼の心を包む。「あれ……なに?」「あれは雲」「あれ……なに?」「あれは羊」「これはなに?」「これは蟻」「これは?」「これは……君へのプレゼント。シロツメクサの花冠さ」

「きょうも……さんぽしないの?」

 レイネ二階から降りてきてフィリオに訊いた。

「あぁ。ごめんな」

「わたし……さみしい」

「レイネ。どうせ君は帰っちゃうんだろ? 自分の故郷へ。僕はもう耐えられないんだ……リーフ爺さんは死ぬし、もうこれ以上誰も失いたくないんだ。父さんを失った時、僕は絵があったから、前に進むことができた。でも、絵を描く気力がもう、僕には無いんだ。僕にはもう、心の支えが何も無い。僕はもう、死んだも同然だよ」

 そしてフィリオは筆を床に落とした。

「せつなにさくはなは かぜのようにきよく きおくにふるあめは キミのようにふかく」

 レイネが歌い出した。

「このうた……つづきがあるって、クリスおばあちゃんが、おしえてくれた」

「続き?」

 フィリオは知らなかった。幼少期から慣れ親しんだあの歌に続きがあったとは、思いもしなかった。

「いつかはかえる かなたへかえる ボクにわかれもつげずに」

 どこか切ない響きだった。でも、何故か安心する。そんな不思議な力が宿っている様に思えた。

「わたし……ずっとおもってた。わたしも、ずっといっしょに、こうやってくらしていきたいって。はなれたくないって。わかれるのってかなしい。けど……このきもちはむだじゃない……そんなきがする……」

「そうか……でも、もう僕は誰とも別れたくないや」

「でも、わかれは、ひとをまえにすすませるって、クリスおばあちゃんはいってた。きっと、リーフおじいちゃんは、わたしたちを、まえにすすませてくれる。わかれをこわがらなくてもいいとおもう」

 フィリオはこの言葉に聞き覚えがあった。ジタンの言葉だ。

「レイネ……君は……」

「わたしね、ずっといえてなかったことがあるの。それは、いままでわたしといっしょにいてくれて、ありがとうってこと」

 気付けばフィリオは涙が止まらなかった。レイネはその涙を包み込む様に、彼女の方へ体を向けた彼をそっと抱きついた。
 彼は落とした筆を拾い上げ、握りしめた。

「レイネ……今までごめん。レイネが帰らなくちゃいけないってなったり、リーフ爺さんが死んだりして、僕は父さんに教えてもらった事、信じられなくなってた。でもやっと理解できたよ。別れは立ち止まる為にあるんじゃないって」

 そう言ってフィリオは、レイネを抱き返してゆっくりと立ち上がり、彼女の瞳を見つめた。それはまるで、春の陽に咲く花の様であった。

「僕、今までは父さんの言葉に助けられてたって気付いた。けど、これからは自分の言葉、自分の心で、自分自身を支えていきたい。こっちこそ、大切な事に気付かせてくれて、ありがとう」

 フィリオの言葉に、レイネは優しい笑顔で返した。


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みんなのリアクション

 フィリオは怖かった。「もう誰とも別れたくない」そんな思いが、彼の心臓に突き刺さって抜けなくなった。彼らは今まで幸せに生きていた。そんな彼らの、のどかで平和な、なんてことない日常が、豪快な音を立てながら崩れようとしている。そんな気がしてくるのだった。
 フィリオはアトリエに一人篭る。自分の気持ちもなんとか整理しようと、自分自身を見つめていたのだ。絵とはモチーフとの対話。そして自分自身を映し出す鏡。そしてキャンバスに投影された己の感情は、時に人の心を動かす。彼は、そんな絵の世界に魅せられたのだ。だから、フィリオは絵を描き続けた。大好きな美しいこの世界をキャンバスに切り取る為に。そして自己を表現する為に。
 フィリオは、はぁ、はぁと呼吸と整えながら、激しい動悸をなんとか抑えようとする。寂しい、辛い、悲しい……負の感情が彼を絶えず襲う。
 彼は背を丸めて、椅子に座って黙り込んでいた。彼の呼吸の音だけが、薄暗いアトリエ全体に響き渡る。
「どうせ僕はダメな人間なんだ。僕はいつまで経っても父さんを越えられない。どれだけ絵を描いても、どれだけ生きても、父さんには追いつけない」
 独り言がアトリエに響く。
 ドアが開く音がした。レイネが帰ってきたのだ。フィリオは彼女に見向きもせずにうずくまっていた。
「ただいま」
「おかえり、レイネ……」
「どうしたの?」
 レイネは何も言わずじっとしているフィリオの側に歩み寄って、そう言った。
「レイネ……今日はもう寝るよ……何もしたくないから」
「そう……」
 レイネは言われるがまま、フィリオと共に二階へ上がった。テーブルの、レイネがいつも座っている側に、パンが二つ、皿の上に乗せられている。フィリオが彼女の為に夕食を用意していたのだ。いつもなら、夕食はフィリオの手料理であるのだが、今日はパンだった。彼女はそれを見て呟く。
「わたしの……だけ?」
「僕はいい。君の夕食も、作る元気がなかったんだ……ごめん」
「だったら……たべて。げんきになるために」
 ベッドへ向かうフィリオを、レイネが止める。
「ほら……これ、ひとつあげる」
 彼女は彼にパンをひとつ差し出した。
「ありがとう……でも……ごめん。やっぱり僕はいいや」
「そう……」
 そしてフィリオはベッドに横になって、眠りについた。
 レイネは彼に何も言わなかった。言えなかったと言った方が正しいのかもしれない。
 次の日の朝から、フィリオはアトリエに籠り続けた。外出する事なく、ただキャンパスと対峙する。漆黒の絵の具を白と混ぜ合わせ濃淡を作る。何日もの時が過ぎ、やがて純白のキャンパスに現れたのは、灰色の世界だった。キャンパスをただ染める灰色。フィリオはもう、絵が描けなくなっていた。
 無意識のうちに、ある日の思い出が呼び起こされる。「やっぱりひと……いっぱい」いつかの春の終わり、レイネが震える声で言った。「いいかレイネ。世の中には沢山の人がいる。君も僕も、沢山いる人々のうちの一人に過ぎないんだ。でも、その一人一人が、みんな特別な存在なんだよ」フィリオはそう言って、レイネに微笑みかけた。彼女と過ごした日々が、彼の心を包む。「あれ……なに?」「あれは雲」「あれ……なに?」「あれは羊」「これはなに?」「これは蟻」「これは?」「これは……君へのプレゼント。シロツメクサの花冠さ」
「きょうも……さんぽしないの?」
 レイネ二階から降りてきてフィリオに訊いた。
「あぁ。ごめんな」
「わたし……さみしい」
「レイネ。どうせ君は帰っちゃうんだろ? 自分の故郷へ。僕はもう耐えられないんだ……リーフ爺さんは死ぬし、もうこれ以上誰も失いたくないんだ。父さんを失った時、僕は絵があったから、前に進むことができた。でも、絵を描く気力がもう、僕には無いんだ。僕にはもう、心の支えが何も無い。僕はもう、死んだも同然だよ」
 そしてフィリオは筆を床に落とした。
「せつなにさくはなは かぜのようにきよく きおくにふるあめは キミのようにふかく」
 レイネが歌い出した。
「このうた……つづきがあるって、クリスおばあちゃんが、おしえてくれた」
「続き?」
 フィリオは知らなかった。幼少期から慣れ親しんだあの歌に続きがあったとは、思いもしなかった。
「いつかはかえる かなたへかえる ボクにわかれもつげずに」
 どこか切ない響きだった。でも、何故か安心する。そんな不思議な力が宿っている様に思えた。
「わたし……ずっとおもってた。わたしも、ずっといっしょに、こうやってくらしていきたいって。はなれたくないって。わかれるのってかなしい。けど……このきもちはむだじゃない……そんなきがする……」
「そうか……でも、もう僕は誰とも別れたくないや」
「でも、わかれは、ひとをまえにすすませるって、クリスおばあちゃんはいってた。きっと、リーフおじいちゃんは、わたしたちを、まえにすすませてくれる。わかれをこわがらなくてもいいとおもう」
 フィリオはこの言葉に聞き覚えがあった。ジタンの言葉だ。
「レイネ……君は……」
「わたしね、ずっといえてなかったことがあるの。それは、いままでわたしといっしょにいてくれて、ありがとうってこと」
 気付けばフィリオは涙が止まらなかった。レイネはその涙を包み込む様に、彼女の方へ体を向けた彼をそっと抱きついた。
 彼は落とした筆を拾い上げ、握りしめた。
「レイネ……今までごめん。レイネが帰らなくちゃいけないってなったり、リーフ爺さんが死んだりして、僕は父さんに教えてもらった事、信じられなくなってた。でもやっと理解できたよ。別れは立ち止まる為にあるんじゃないって」
 そう言ってフィリオは、レイネを抱き返してゆっくりと立ち上がり、彼女の瞳を見つめた。それはまるで、春の陽に咲く花の様であった。
「僕、今までは父さんの言葉に助けられてたって気付いた。けど、これからは自分の言葉、自分の心で、自分自身を支えていきたい。こっちこそ、大切な事に気付かせてくれて、ありがとう」
 フィリオの言葉に、レイネは優しい笑顔で返した。