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シドー:轍(1/4)

ー/ー



 洋上賃貸は人気の物件ではあるが、人の出入りが激しい。ベルティナの灯台は数十年前の怪獣の襲撃によって倒されて久しい。少なくとも、ナオミチはそれが灯りを灯しているどころか建っている姿も見たことがない。洋上賃貸はそんな灯台の代わりでもあった。

 だから住んでみると意外と手間であったり不便であったりする。今のところは短期滞在者向けの物件であった。そんなところに『住む』なんてどんな無知の都会人だと思った。これがダミアン・ラムラスに対する最初の印象である。

 ヒバルのオフィスにある本棚には彼の著書がいくつかある。開いてみたがナオミチには歯が浮くような言葉が並び、目が滑って仕方がない。なんてキザな奴だと思った。

 しかもスキャンダルがある。これはニュースペーパーの他、そういう情報を集めたマガジンを手繰ればいくらでも出てきた。

 あの小説家は女編集者を手篭めにしたらしい。あるトーク番組に出演した当時の写真が大きく使われ、爽やかな人気作家の裏の顔、だなんて報道されている。よりにもよって仕事上のパートナーを?

 ラムラスの親友だったと語る小説家、ジェレミー・シェパードはこう語る。

『恐れ慄いたエミリアの肩を支えてあげることすら躊躇した。そのくらいに私はショックを受けたのです。
 ですがあの怖がり方は本物だと確信しました。そしてラムラス君にはこう言ったのです。
 友として最後の忠告だ。この都市から出て行けと』

 その他……『あの経済界の首領に愛人か!? 九年間に及ぶ爛れた愛憎劇』『アドレア嬢、クラムコレクションと共に海に消ゆ』『資金横領の疑い、およそ二十五年分が流出か』くだらない特集が延々と続いている。

 都会人というのは暇なのだと思った。こっちはその日その日を必死でやっているというのに。

 そんなわけなので、ナオミチが抱くラムラスの印象は最悪だった。

 会ってみるとヒョロッとした都会人で弱々しい。そこの角材で殴ったら瓜のように割れるんじゃないかと思った。顧客だからしなかったし、今はそんなことを考えていてもすべきじゃないことはわかっている。しかし機嫌がいいとは言えなかった。

 怪獣に襲われた様子もナオミチは目の当たりにしている。正直なところ、ラムラスのことよりも物件の状況の方が気になった。どうせ怪獣に襲われたら助からないからだ。建築は残る。残るが売るのは難しくなるだろう。

 だがそうはならなかった。ラムラスは無傷で生還したのだ。精神的におかしくなってしまったようだった。しかし彼が引っ越して間も無くは、ずいぶん崩れた生活を送っていたようなので気にしなかった。

 背が高く、身なりが整っているラムラスの姿は港町では珍しくて人目を引く。
 だから怪獣が襲撃する前の期間で、ラムラスが暗くなってから外にノロノロと出てきて、萎びたニンジンみたいになりながら必要な食料と飲料だけを買ってまた引っ込む姿はかなり異様だったのだ。怪獣の恐怖で壊れたというよりは、元々そういう生きづらい性質だったのだと思った。

 こういうものをトラウマというらしい。

 心の傷。なんてヤワな響き!
 まさに弱々しいラムラスにお似合いの症状だ。まるで絵に描いたような悲劇の主人公? 繊細? 都会人というのはそのシステムで生かされているに過ぎない。ほとんどの都会人はその場所を奪われたら死ぬしかない。

 弱い奴は死ね! 邪魔だ!

(やめて……いやだ……)
 だから、あの時。

(やめろ! 近づくなよ! オレに近づくんじゃねえ!! 触んな!!)
 刃物を右手に取った。

 妙な匂いのする一室。ナオミチはふかふかのベッドに寝かされている。カーテンがぐるりと囲っているのが見えた。そこに何者かが顔を覗き込む。顔を近づけてくる。
 奴が目を離した瞬間に刃物を、その首に突き刺すんだ。

 枕元とベッドの下にはいつも短刀を忍ばせている。いや、体のどこかにはいつも。覚えていた。どんな極限状態であっても、どこに短刀があるのか、どの短刀を使って手放したのかを無意識で覚えている。だからいつだってナオミチは丸腰にはならないのだ。

 いつだって。そうしてきた。外で生きるというのはそういうことだったからだ。

(ぶっ殺してやる!! ()ってしまえばオレのものだ!)

 だがこの時は違った。シドーは手首を掴まれた。

 その瞬間まで眠っていたはずのナオミチが急に飛び掛かったのを受け、医者が驚いて腰を抜かしてしまっている。ただそこに立って、ナオミチの手首を掴んだヒバルだけが静かに見据えていた。刃物だと思っていたのは柔らかいぬいぐるみだった。魚のぬいぐるみ。そんなことにも気が付かなかった。

 見開いたはずの目は開ききらない。包帯で覆われた手のひらと指ではぬいぐるみの感触もわからなかった。口の中が乾いている。

「ひ、ヒバルさん……」
「元気そうで何よりだ」

 驚くほど自分の声は掠れていて、弱々しかった。

 ドッと汗が噴き出る。急にガクガクと体が震えた。強烈なフラッシュバックが襲いかかってきて、歯の根も合わずに奥歯をカチカチと鳴らしていた。

 ズキっと一際強い痛みが右目を襲う。右目が開いていない。引き攣るような痛み、引きちぎられるような、焼きつくような痛み。右目が見えないことに気がついた。しかも左腕も動かない。拘束されている上、こちらもまるで割れるような、引きちぎられるような強烈な痛みを訴えている。

「いて……いてえ!!」
 なにが自分の身に起きているのかわからなかった。頭の中に情報が一気に流れ込んで、何一つとして整理できない。自分の名前。居場所。記憶。全てが痛みの激流に流されてしまい、身体の動かし方すらわからなくなってしまった。

 暗闇。足首と手首に重たくて冷たい枷が付けられている。なぜだかナオミチは今、そう判断してしまった。

「動くな。落ち着け。お前は治療されている。暴れんなよ」

 大きな手が近づき迫り、触れられる。手首に加えて肩。ベッドに寝かせようとした動きに、ぞわりとした感覚が腰から背中に広がった。

「あああっ!! いやだ! 放せよ! やめろ!!」

 確かに先ほど、恩人の名前を口にしたはずなのに、ナオミチは再び悍ましい夢の中に引きずり込まれた。力強く、太い指。ベッドに押さえつけられている上、体の一部の自由が利かないように拘束されている。

 思い出したくない記憶が、忘れていたはずの記憶が『ナオミチ』を振り回し、弱った彼をいよいよ乱暴に引き裂こうとしている。そして思い知らせようとしているのだ。

 (けが)らわしいお前は罪人。血肉と汚泥に塗れて暮らした襲撃者だと。

 医者と看護師が慌てふためく中、ヒバルだけが冷静に『ナオミチ』を押さえ込んでいた。ベッドのフレームが軋み、今にも壊れそうなほど揺れて激しくなる中、錯乱状態の若者の声が今や手負いの獣に近しいものになっていた。

 ガシャン、と一際強くベッドが揺れた。ヒバルが彼の顔を掴み、強引にベッドフレームに叩きつけたのだ。怪我人にするような所業ではないが、その一撃でようやく彼の動きが沈静化した。

「あ、ぐ、うぅ……」
「安心しろ。ナオ、ここは病院だ」

 それを聞いたからだろうか。ゆっくりとナオミチは瞼を下ろし、それに合わせてぐったりと体がベッドに沈み込む。

 トラウマはナオミチにもあった。意図せず溢れかえる吐き気と涙で、一気にボロボロになった気さえした。ズキズキとする屈辱。触れるもの全てに怯える体。拘束され逃げ場のない恐怖。

 しかし彼に同情や憐憫を向けるものはほぼいない。だから彼も誰にも言わなかったし、一人で堪えてきたのだ。


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 洋上賃貸は人気の物件ではあるが、人の出入りが激しい。ベルティナの灯台は数十年前の怪獣の襲撃によって倒されて久しい。少なくとも、ナオミチはそれが灯りを灯しているどころか建っている姿も見たことがない。洋上賃貸はそんな灯台の代わりでもあった。
 だから住んでみると意外と手間であったり不便であったりする。今のところは短期滞在者向けの物件であった。そんなところに『住む』なんてどんな無知の都会人だと思った。これがダミアン・ラムラスに対する最初の印象である。
 ヒバルのオフィスにある本棚には彼の著書がいくつかある。開いてみたがナオミチには歯が浮くような言葉が並び、目が滑って仕方がない。なんてキザな奴だと思った。
 しかもスキャンダルがある。これはニュースペーパーの他、そういう情報を集めたマガジンを手繰ればいくらでも出てきた。
 あの小説家は女編集者を手篭めにしたらしい。あるトーク番組に出演した当時の写真が大きく使われ、爽やかな人気作家の裏の顔、だなんて報道されている。よりにもよって仕事上のパートナーを?
 ラムラスの親友だったと語る小説家、ジェレミー・シェパードはこう語る。
『恐れ慄いたエミリアの肩を支えてあげることすら躊躇した。そのくらいに私はショックを受けたのです。
 ですがあの怖がり方は本物だと確信しました。そしてラムラス君にはこう言ったのです。
 友として最後の忠告だ。この都市から出て行けと』
 その他……『あの経済界の首領に愛人か!? 九年間に及ぶ爛れた愛憎劇』『アドレア嬢、クラムコレクションと共に海に消ゆ』『資金横領の疑い、およそ二十五年分が流出か』くだらない特集が延々と続いている。
 都会人というのは暇なのだと思った。こっちはその日その日を必死でやっているというのに。
 そんなわけなので、ナオミチが抱くラムラスの印象は最悪だった。
 会ってみるとヒョロッとした都会人で弱々しい。そこの角材で殴ったら瓜のように割れるんじゃないかと思った。顧客だからしなかったし、今はそんなことを考えていてもすべきじゃないことはわかっている。しかし機嫌がいいとは言えなかった。
 怪獣に襲われた様子もナオミチは目の当たりにしている。正直なところ、ラムラスのことよりも物件の状況の方が気になった。どうせ怪獣に襲われたら助からないからだ。建築は残る。残るが売るのは難しくなるだろう。
 だがそうはならなかった。ラムラスは無傷で生還したのだ。精神的におかしくなってしまったようだった。しかし彼が引っ越して間も無くは、ずいぶん崩れた生活を送っていたようなので気にしなかった。
 背が高く、身なりが整っているラムラスの姿は港町では珍しくて人目を引く。
 だから怪獣が襲撃する前の期間で、ラムラスが暗くなってから外にノロノロと出てきて、萎びたニンジンみたいになりながら必要な食料と飲料だけを買ってまた引っ込む姿はかなり異様だったのだ。怪獣の恐怖で壊れたというよりは、元々そういう生きづらい性質だったのだと思った。
 こういうものをトラウマというらしい。
 心の傷。なんてヤワな響き!
 まさに弱々しいラムラスにお似合いの症状だ。まるで絵に描いたような悲劇の主人公? 繊細? 都会人というのはそのシステムで生かされているに過ぎない。ほとんどの都会人はその場所を奪われたら死ぬしかない。
 弱い奴は死ね! 邪魔だ!
(やめて……いやだ……)
 だから、あの時。
(やめろ! 近づくなよ! オレに近づくんじゃねえ!! 触んな!!)
 刃物を右手に取った。
 妙な匂いのする一室。ナオミチはふかふかのベッドに寝かされている。カーテンがぐるりと囲っているのが見えた。そこに何者かが顔を覗き込む。顔を近づけてくる。
 奴が目を離した瞬間に刃物を、その首に突き刺すんだ。
 枕元とベッドの下にはいつも短刀を忍ばせている。いや、体のどこかにはいつも。覚えていた。どんな極限状態であっても、どこに短刀があるのか、どの短刀を使って手放したのかを無意識で覚えている。だからいつだってナオミチは丸腰にはならないのだ。
 いつだって。そうしてきた。外で生きるというのはそういうことだったからだ。
(ぶっ殺してやる!! |奪《と》ってしまえばオレのものだ!)
 だがこの時は違った。シドーは手首を掴まれた。
 その瞬間まで眠っていたはずのナオミチが急に飛び掛かったのを受け、医者が驚いて腰を抜かしてしまっている。ただそこに立って、ナオミチの手首を掴んだヒバルだけが静かに見据えていた。刃物だと思っていたのは柔らかいぬいぐるみだった。魚のぬいぐるみ。そんなことにも気が付かなかった。
 見開いたはずの目は開ききらない。包帯で覆われた手のひらと指ではぬいぐるみの感触もわからなかった。口の中が乾いている。
「ひ、ヒバルさん……」
「元気そうで何よりだ」
 驚くほど自分の声は掠れていて、弱々しかった。
 ドッと汗が噴き出る。急にガクガクと体が震えた。強烈なフラッシュバックが襲いかかってきて、歯の根も合わずに奥歯をカチカチと鳴らしていた。
 ズキっと一際強い痛みが右目を襲う。右目が開いていない。引き攣るような痛み、引きちぎられるような、焼きつくような痛み。右目が見えないことに気がついた。しかも左腕も動かない。拘束されている上、こちらもまるで割れるような、引きちぎられるような強烈な痛みを訴えている。
「いて……いてえ!!」
 なにが自分の身に起きているのかわからなかった。頭の中に情報が一気に流れ込んで、何一つとして整理できない。自分の名前。居場所。記憶。全てが痛みの激流に流されてしまい、身体の動かし方すらわからなくなってしまった。
 暗闇。足首と手首に重たくて冷たい枷が付けられている。なぜだかナオミチは今、そう判断してしまった。
「動くな。落ち着け。お前は治療されている。暴れんなよ」
 大きな手が近づき迫り、触れられる。手首に加えて肩。ベッドに寝かせようとした動きに、ぞわりとした感覚が腰から背中に広がった。
「あああっ!! いやだ! 放せよ! やめろ!!」
 確かに先ほど、恩人の名前を口にしたはずなのに、ナオミチは再び悍ましい夢の中に引きずり込まれた。力強く、太い指。ベッドに押さえつけられている上、体の一部の自由が利かないように拘束されている。
 思い出したくない記憶が、忘れていたはずの記憶が『ナオミチ』を振り回し、弱った彼をいよいよ乱暴に引き裂こうとしている。そして思い知らせようとしているのだ。
 |穢《けが》らわしいお前は罪人。血肉と汚泥に塗れて暮らした襲撃者だと。
 医者と看護師が慌てふためく中、ヒバルだけが冷静に『ナオミチ』を押さえ込んでいた。ベッドのフレームが軋み、今にも壊れそうなほど揺れて激しくなる中、錯乱状態の若者の声が今や手負いの獣に近しいものになっていた。
 ガシャン、と一際強くベッドが揺れた。ヒバルが彼の顔を掴み、強引にベッドフレームに叩きつけたのだ。怪我人にするような所業ではないが、その一撃でようやく彼の動きが沈静化した。
「あ、ぐ、うぅ……」
「安心しろ。ナオ、ここは病院だ」
 それを聞いたからだろうか。ゆっくりとナオミチは瞼を下ろし、それに合わせてぐったりと体がベッドに沈み込む。
 トラウマはナオミチにもあった。意図せず溢れかえる吐き気と涙で、一気にボロボロになった気さえした。ズキズキとする屈辱。触れるもの全てに怯える体。拘束され逃げ場のない恐怖。
 しかし彼に同情や憐憫を向けるものはほぼいない。だから彼も誰にも言わなかったし、一人で堪えてきたのだ。