表示設定
表示設定
目次 目次




幕間その1〜(阪神タイガースの)優勝を知らない子供たち〜2010年・前編

ー/ー



その年、中野虎太郎(なかのこたろう)は、小学5年生になっていた。
 この少年は、多くの小学5年生男子がそうであるように、まだ、恋というモノがどういうモノなのかわかっていなかった。

 だが――――――。

 クラスの特定の女子と会話を交わすとき、友人の男子たちと話しをするのとは異なる感情が芽生えていることには気づいていて、彼の内面で、ナニかが変わろうとしていた。

「なぁ、その下敷きの選手、鳥谷(とりたに)やろ?」

 授業の準備のために、文房具を学習机に置いた虎太郎に声を掛けてきたのは、5月の席替えで隣の席になった桟原(さじきはら)めぐみ。
 クラスの女子の中でも垢抜けた存在で、男女わけ隔てなく、誰とでも話すことから、虎太郎の所属する5年1組の中心的な存在だった。

 昭和の時代とは異なり、平成の世も終盤に入っていたこの時代、タイガースのお膝元の小学校と言えど、プロ野球選手の文房具グッズを使っている子どもは、かなり少数派になっていたので、虎太郎は、女子から、そんな話しをフラれるとは思ってもいなかった。
 
「そうやで! 桟原(さじきはら)、よく知ってるな?」 

 彼が返事をすると、めぐみは、ニコッと太陽のように明るい笑顔で応じる。

「うん! ウチのお父ちゃんが、毎日サンテレビで阪神の試合見てるからな。ちょっとずつ選手の名前も覚えていってんねん。鳥谷は、カッコいいよな〜」

 クラスメートのなにげない一言に、虎太郎のココロが弾む。
 
「そうやろ! 特にショートの守備でゴロを捕るときと、打席に立って流し打ちをするときが!」

 勢い余って、上半身でバットを振り抜く仕草をしながらそう答えると、相手は、苦笑いをしながら、

「いや、それは知らんけど……ウチは、単純に顔がカッコいいな〜、と思ってるだけやから」

と、申し訳なさそうに答える。
 
「あっ、そっか……そうなんや……」

 相手からすると、単純な世間話しに過ぎなかったであろうなにげない会話にテンションを上げてしまったことを気恥ずかしく思いつつ、少年は言葉を加える。
 なにより、自分の憧れのヒーローが、クラスメートの女子から「カッコいい」と褒められたことが嬉しかった。

「でも、たしかに、顔もカッコいいよな! 阪神では、あと能見(のうみ)くらいかな? 顔が良いの。この前、ケガしてしまったけど……」

 後年、多くの野球ファンと同様、虎太郎も能見篤史(のうみあつし)投手のことを「ノウミサン」と敬称付きで呼ぶことになるのだが……。
 この頃は、外国人打者の()()()()(注1)より以前の時期にあたるため、彼は、能見投手のことを敬称を付けずに呼んでいた。

「あ〜、たしかに、能見もカッコいいな〜! 知らんかったけど、ケガしてしまったんや……残念やな」

「うん……早く戻って来てくれると良いんやけど……能見がおらんと、阪神優勝できへん」

「そっか〜……中野虎太郎(なかのこたろう)は、ホンマに野球が好きなんやな。そしたら、次の体育の授業のソフトボールも楽しみなんちゃう? 鳥谷みたいに打ってくれるの期待してるで」

 桟原(さじきはら)めぐみは、隣の席の少年をフルネームで呼んで、そう語ると、またも、真夏の太陽のような笑顔を見せた。
 その微笑みにつられ、思わずうなずいた虎太郎は、

「わかった! デキるかどうかわからんけど、やってみるわ!」

と、笑みを浮かべながら、めぐみの言葉を請け合う。

「おっ!? 言うたな〜! 中野選手の活躍、楽しみやわ〜」

 隣の席の少女の言葉に刺激を受けた虎太郎は、算数の授業が終わり、体育の授業が始まるのが待ち遠しくて仕方がなかった。

 ※

 四時間目の体育の授業は、予定どおり、「学校体育ソフトボール」が行われた。
 2012年度より全面実施された新しい学習指導要領において、義務教育の体育授業で必修化となったこの球技は、オリンピック競技にもなっていたソフトボールの国際ルールから若干のアレンジが加えられ、バットやボールなどの用具が柔らかい素材でできている。

 虎太郎たちの通う小学校では、必修化の数年前から、「学校体育ソフトボール」が実施されていて、少年少女野球団のチームに所属している児童たちを中心に人気の高い競技だった。

 準備体操を終えた5年1組の面々は、先攻(さきぜ)めと後攻(あとぜ)め2つのチームに別れて、三十分制限の試合(ゲーム)を行う。

 チームの全員が一度は打席に立てるよう、アウトカウントの上限なしで攻守交代を行う特別ルールで行われたゲームは、時間制限の間際、1点差を追う虎太郎たち後攻(あとぜ)めチームの攻撃が続いていた。

 審判を務める担任の桧山(ひやま)先生が声をあげる。
 
「ヒットでも、アウトでも、中野くんで試合終了にするよ〜!」

 ここで、バッターボックスに向かうのは、中野虎太郎。

 前のバッターの関本(せきもと)くんが、打席に立っているときから、彼は、ウェイティング・サークル(と思い込んでいる場所)でピッチャーの投球に合わせ、祖父から教えてもらった掛布雅之(かけふまさゆき)が打席に入る時のルーティンをお(まじな)いのように行っていた。
 
 二塁ベースを省いた三角ベースで行われる一塁の塁上には、桟原(さじきはら)めぐみが立っている。

「中野虎太郎〜逆転サヨナラヒット頼むで〜!」

 クラスメートの声が聞こえたことで、虎太郎は、意識を自分の()に切り替える。
 
 ♪ 夢のせて 羽ばたけよ 鋭いスイング見せてくれ
 ♪ さぁ 君が ヒーローだ 鳥谷敬(とりたにたかし)

 めぐみの声援に軽く手を挙げ、小声で鼻歌を口ずさみながら、右利きの虎太郎は、憧れのヒーローと同じ左のバッターボックスに入る。
 彼が、身体を開き気味に構えるオープンスタンスの姿勢を取ると、相手のピッチャーは、左足を踏み出し、「学校体育ソフトボール」のルールに(のっと)って、フワリとした山なりのボールを投じた。

 ゆっくりと近づくボールを目で追いながら、虎太郎は、開き気味に構えた右足を振り子のように内側に上げ、タイミングを取りながら、山なりの頂きから落ちてくるボールをバットで捉える。

 低い弾道でレフト前に弾き返された打球は、守備についていた相手チームの外野手の横をあっという間に抜けて行く。
 三塁にいたチームメイトに続いて、四月に行われた体力測定の五○メートル走で、女子の最速タイムを記録していためぐみは俊足を飛ばし、外野手がボールに追いつく頃には、ホームベースを駆け抜けていた。

「ゲームセット! 後攻(あとぜ)めチームの勝ち!」
 
 めぐみたちチームメイトが、虎太郎に駆け寄る中、桧山先生が試合終了の宣言を行い、授業は終わった。




みんなのリアクション

その年、|中野虎太郎《なかのこたろう》は、小学5年生になっていた。
 この少年は、多くの小学5年生男子がそうであるように、まだ、恋というモノがどういうモノなのかわかっていなかった。
 だが――――――。
 クラスの特定の女子と会話を交わすとき、友人の男子たちと話しをするのとは異なる感情が芽生えていることには気づいていて、彼の内面で、ナニかが変わろうとしていた。
「なぁ、その下敷きの選手、|鳥谷《とりたに》やろ?」
 授業の準備のために、文房具を学習机に置いた虎太郎に声を掛けてきたのは、5月の席替えで隣の席になった|桟原《さじきはら》めぐみ。
 クラスの女子の中でも垢抜けた存在で、男女わけ隔てなく、誰とでも話すことから、虎太郎の所属する5年1組の中心的な存在だった。
 昭和の時代とは異なり、平成の世も終盤に入っていたこの時代、タイガースのお膝元の小学校と言えど、プロ野球選手の文房具グッズを使っている子どもは、かなり少数派になっていたので、虎太郎は、女子から、そんな話しをフラれるとは思ってもいなかった。
「そうやで! |桟原《さじきはら》、よく知ってるな?」 
 彼が返事をすると、めぐみは、ニコッと太陽のように明るい笑顔で応じる。
「うん! ウチのお父ちゃんが、毎日サンテレビで阪神の試合見てるからな。ちょっとずつ選手の名前も覚えていってんねん。鳥谷は、カッコいいよな〜」
 クラスメートのなにげない一言に、虎太郎のココロが弾む。
「そうやろ! 特にショートの守備でゴロを捕るときと、打席に立って流し打ちをするときが!」
 勢い余って、上半身でバットを振り抜く仕草をしながらそう答えると、相手は、苦笑いをしながら、
「いや、それは知らんけど……ウチは、単純に顔がカッコいいな〜、と思ってるだけやから」
と、申し訳なさそうに答える。
「あっ、そっか……そうなんや……」
 相手からすると、単純な世間話しに過ぎなかったであろうなにげない会話にテンションを上げてしまったことを気恥ずかしく思いつつ、少年は言葉を加える。
 なにより、自分の憧れのヒーローが、クラスメートの女子から「カッコいい」と褒められたことが嬉しかった。
「でも、たしかに、顔もカッコいいよな! 阪神では、あと|能見《のうみ》くらいかな? 顔が良いの。この前、ケガしてしまったけど……」
 後年、多くの野球ファンと同様、虎太郎も|能見篤史《のうみあつし》投手のことを「ノウミサン」と敬称付きで呼ぶことになるのだが……。
 この頃は、外国人打者の|例《・》|の《・》|発《・》|言《・》(注1)より以前の時期にあたるため、彼は、能見投手のことを敬称を付けずに呼んでいた。
「あ〜、たしかに、能見もカッコいいな〜! 知らんかったけど、ケガしてしまったんや……残念やな」
「うん……早く戻って来てくれると良いんやけど……能見がおらんと、阪神優勝できへん」
「そっか〜……|中野虎太郎《なかのこたろう》は、ホンマに野球が好きなんやな。そしたら、次の体育の授業のソフトボールも楽しみなんちゃう? 鳥谷みたいに打ってくれるの期待してるで」
 |桟原《さじきはら》めぐみは、隣の席の少年をフルネームで呼んで、そう語ると、またも、真夏の太陽のような笑顔を見せた。
 その微笑みにつられ、思わずうなずいた虎太郎は、
「わかった! デキるかどうかわからんけど、やってみるわ!」
と、笑みを浮かべながら、めぐみの言葉を請け合う。
「おっ!? 言うたな〜! 中野選手の活躍、楽しみやわ〜」
 隣の席の少女の言葉に刺激を受けた虎太郎は、算数の授業が終わり、体育の授業が始まるのが待ち遠しくて仕方がなかった。
 ※
 四時間目の体育の授業は、予定どおり、「学校体育ソフトボール」が行われた。
 2012年度より全面実施された新しい学習指導要領において、義務教育の体育授業で必修化となったこの球技は、オリンピック競技にもなっていたソフトボールの国際ルールから若干のアレンジが加えられ、バットやボールなどの用具が柔らかい素材でできている。
 虎太郎たちの通う小学校では、必修化の数年前から、「学校体育ソフトボール」が実施されていて、少年少女野球団のチームに所属している児童たちを中心に人気の高い競技だった。
 準備体操を終えた5年1組の面々は、|先攻《さきぜ》めと|後攻《あとぜ》め2つのチームに別れて、三十分制限の|試合《ゲーム》を行う。
 チームの全員が一度は打席に立てるよう、アウトカウントの上限なしで攻守交代を行う特別ルールで行われたゲームは、時間制限の間際、1点差を追う虎太郎たち|後攻《あとぜ》めチームの攻撃が続いていた。
 審判を務める担任の|桧山《ひやま》先生が声をあげる。
「ヒットでも、アウトでも、中野くんで試合終了にするよ〜!」
 ここで、バッターボックスに向かうのは、中野虎太郎。
 前のバッターの|関本《せきもと》くんが、打席に立っているときから、彼は、ウェイティング・サークル(と思い込んでいる場所)でピッチャーの投球に合わせ、祖父から教えてもらった|掛布雅之《かけふまさゆき》が打席に入る時のルーティンをお|呪《まじな》いのように行っていた。
 二塁ベースを省いた三角ベースで行われる一塁の塁上には、|桟原《さじきはら》めぐみが立っている。
「中野虎太郎〜逆転サヨナラヒット頼むで〜!」
 クラスメートの声が聞こえたことで、虎太郎は、意識を自分の|間《・》に切り替える。
 ♪ 夢のせて 羽ばたけよ 鋭いスイング見せてくれ
 ♪ さぁ 君が ヒーローだ |鳥谷敬《とりたにたかし》
 めぐみの声援に軽く手を挙げ、小声で鼻歌を口ずさみながら、右利きの虎太郎は、憧れのヒーローと同じ左のバッターボックスに入る。
 彼が、身体を開き気味に構えるオープンスタンスの姿勢を取ると、相手のピッチャーは、左足を踏み出し、「学校体育ソフトボール」のルールに|則《のっと》って、フワリとした山なりのボールを投じた。
 ゆっくりと近づくボールを目で追いながら、虎太郎は、開き気味に構えた右足を振り子のように内側に上げ、タイミングを取りながら、山なりの頂きから落ちてくるボールをバットで捉える。
 低い弾道でレフト前に弾き返された打球は、守備についていた相手チームの外野手の横をあっという間に抜けて行く。
 三塁にいたチームメイトに続いて、四月に行われた体力測定の五○メートル走で、女子の最速タイムを記録していためぐみは俊足を飛ばし、外野手がボールに追いつく頃には、ホームベースを駆け抜けていた。
「ゲームセット! |後攻《あとぜ》めチームの勝ち!」
 めぐみたちチームメイトが、虎太郎に駆け寄る中、桧山先生が試合終了の宣言を行い、授業は終わった。