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第2話 その男、似嵐鏡月

ー/ー



 東京都と神奈川県の辺境(へんきょう)に位置する山脈地帯(さんみゃくちたい)

 とびきり標高(ひょうこう)のある一角(いっかく)をすっぽりと(けず)()って、この(かく)(ざと)はつくられていた。

 ネギ(ばたけ)はその中の小さな日本家屋(にほんかおく)併設(へいせつ)されたもので、彼らの食料はほぼここの農作物(のうさくぶつ)でまかなわれている。

 家のほうは屋敷(やしき)というより、大きめの(いおり)といった感じだ。

 長方形の母屋(おもや)前座敷(まえざしき)奥座敷(おくざしき)に分かれていて、そこから直角(ちょっかく)に折れる(わた)廊下(ろうか)の向こうに「はなれ」、そしてさらに直角(ちょっかく)頑丈(がんじょう)(へい)が建てられている。

 上空から見ると「コの字」型になっているわけだ。

 その中には簡素(かんそ)ではあるが庭園(ていえん)――植えこみの松や花々(はなばな)石燈籠(いしどうろう)錦鯉(にしきごい)の泳ぐ池などが設置されている。

 この里は空からの目視(もくし)では死角(しかく)になるよう設計(せっけい)されており、地中(ちちゅう)にはソナーなどの音波(おんぱ)、GPSなどの電磁波(でんじは)誤認識(ごにんしき)させるシステムが組みこまれていた。

 (はた)からはただの山にしか見えないのである。

 しだいに(かたむ)いてくる太陽の角度から、二人はそろそろ夕刻(ゆうこく)であることを意識した。

「ウツロ、日が暮れるぞ」

「うん」

「腹あ、減ったな」

「うん、(おれ)もだ。でも、もう少しで終わるよ」

 アクタは手を止めて、天を(あお)ぎながら(ひたい)をぬぐった。

 ウツロは会話をしながら、せっせとネギを引っこ抜いている。

 里へと近づいてくる気配(けはい)を、彼らは少し前から感じ取っていた。

 そしてそれが、自分たちの育ての親・似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)であることも。

 その男は傭兵(ようへい)上がりの殺し屋で、暗殺の請負(うけおい)生計(せいけい)を立てている。

 ウツロとアクタをこれまで(やしな)ってきたのは、自分の暗殺稼業(あんさつかぎょう)後継者(こうけいしゃ)()えるためであり、実際に二人はその方法を徹底的(てっていてき)指導(しどう)されてきた。

 さまざまな武器・暗器(あんき)の使用方法から古今東西(ここんとうざい)体術(たいじゅつ)()ては諜報(ちょうほう)極意(ごくい)から実戦(じっせん)における戦略(せんりゃく)()(かた)まで。

 人間を殺傷(さっしょう)するために必要な技術の多くを教育されたのである。

「ウツロ、お師匠様(ししょうさま)が来る、急ぐぞ」

「いまはまだ、『(ひる)背中(せなか)』のあたりだ。この(あゆ)みなら、あと三十分はかかる」

夕餉(ゆうげ)支度(したく)をしなきゃならんだろ?」

「今日は『さしいれ』があるみたいだよ。ひとりぶんの携行食(けいこうしょく)にしては強すぎる」

「おまえ、においまでわかるのか?」

「こっちはいま、風下(かざしも)だからね」

「いや、そういうことじゃなくてだな……」

 『(ひる)背中(せなか)』とは、(かく)(ざと)からだいぶ山を(くだ)った、渓谷沿(けいこくぞ)いの難所(なんしょ)()している。

 ()りあがった(かた)土壌(どじょう)がすっかり湿(しめ)って(こけ)むしていることから、彼らだけに(つう)じる暗号(あんごう)として(もち)いられている言葉だった。

 そんな場所の状況をたちどころに言い当てる(けもの)のような嗅覚(きゅうかく)に、アクタは(おどろ)いて呆気(あっけ)に取られている。

 その態度にウツロ当人(とうにん)は不思議そうな眼差(まなざ)しを送った。

 自分の気づかない(あいだ)に成長を続けている弟分(おとうとぶん)に、アクタはポカンと(ひら)気味(ぎみ)だった口をすっと()め、(ひか)えめに笑ってみせた。

「どうかした?」

「なんでもねえ。ほれ、仕事仕事」

「変なの……」

 ウツロとアクタがそれぞれ最後の一束(ひとたば)をギュッと結び、大きく()びをして一息(ひといき)ついたところへ、その男は現れた。

 杉の大木(たいぼく)が作る密な並木(なみき)の、人ひとりがやっとくぐれる程度の間隙(かんげき)

 木漏(こも)()も弱まってきて、すっかりぼやけているその林の奥から、獣道(けものみち)を通り抜けて姿を見せる、ゆがんだ蜃気楼(しんきろう)

 それは黄昏(たそがれ)(やみ)背負(せお)ってなお暗い、黒炎(こくえん)のような。

 彼こそウツロとアクタの育ての親である殺し屋・似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)その人である。

 群青色(ぐんじょういろ)のストールから、ほぼ白髪(しらが)だが中年(ちゅうねん)としては端正(たんせい)な顔がのぞいている。

 藍色(あいいろ)羽織(はおり)着流(きなが)しの下には、筋肉細胞を爆縮(ばくしゅく)したような、屈強極(くっきょうきわ)まる体躯(たいく)(かく)してある。

 ただでさえ豪奢(ごうしゃ)に見えるが、これでも着痩(きや)せしているのだ。

 腰にはマルエージング鋼製の愛刀・黒彼岸(くろひがん)を差している。

 ()るというよりは「(くだ)く」ことに主眼(しゅがん)を置く大業物(おおわざもの)だ。

 軍靴(ぐんか)を改造した黒色(こくしょく)のロングブーツで大地を重く踏みしめながら、彼は二人の前までゆっくりと(あゆ)()ってきた。

 その右手には、風呂敷包(ふろしきづつ)みを()()げている。

 ウツロの予見(よけん)どおり、その中には三人分の夕食が(おさ)められていた。

「お帰りなさいませ、お師匠様(ししょうさま)

 ウツロとアクタはすぐさま片膝(かたひざ)をついて、その男の前にかしずいた。

せい(・・)が出るじゃないか、二人とも」

 ウネの横いっぱいに結束されたネギの列をながめ、水晶(すいしょう)帯留(おびど)めをいじりながら、似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)は満足げな表情を()かべた。

 同時に彼はその状況から、小脇(こわき)(かか)えた食事の存在を(さと)られていたことを察知(さっち)した。

「ウツロ、わしのさしいれを()()てたな?」

「ご無礼(ぶれい)をお許しください、お師匠様(ししょうさま)

 ウツロはハッとした。

 彼は心のどこかに、自分の成長をほめてもらいたいという願望があった。

 だからアクタにも、晩の支度(したく)はしないよう(うなが)したのだ。

 アクタもそれに気がついていたから、あえて反対はしなかった。

 しかしウツロは、この親代わりの殺し屋を前にして、突如(とつじょ)自責(じせき)の念に()られた。

 こざかしい承認欲求(しょうにんよっきゅう)をさらし、自分をはぐくんでくれた(とうと)い存在を、不快な気分にさせてしまったのではないかと。

 お師匠様(ししょうさま)がそんなことをするはずがないと、彼は重々(じゅうじゅう)理解している。

 しかしどこかで、自分を否定してしまうのではないかという恐怖が芽生(めば)えたのだ。

 それは決壊寸前のダムの水のように、緩徐(かんじょ)として、しかし十二分(じゅうにぶん)の重量感を持ってあふれ出てきた。

 ()無礼(ぶれい)を働いたと考えているのか、それとも自分の保身のことしか考えていないのか、それすらもわからなくなってきた。

 頭が混乱する。

 思考の堂々(どうどう)めぐり。

 ウツロはひたすら平伏(へいふく)し、(もく)して許しを()うた。

 しかしそこは、いやしくも育ての親。

 似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)本人は、ウツロの複雑な胸中(きょうちゅう)をすぐに(さっ)し、(くち)もとを(ゆる)めてみせた。

「よいよい、わしはほめているのだ。お前のその鋭敏(えいびん)嗅覚(きゅうかく)、いや、嗅覚(きゅうかく)だけではない。五感のすべてが突出(とっしゅつ)してすぐれている。しかも日に日に、その(するど)さを増しているな? それがどれほど、わしにとって有益(ゆうえき)なことであるか。ウツロ、おまえの存在は本当に心強(こころづよ)いぞ」

 ウツロはグッと(こぶし)(にぎ)った。

 俺はなんて最低なんだ、心の底からそう思った。

 大恩(だいおん)あるお師匠様(ししょうさま)をわずらわせた挙句(あげく)、あらぬ疑いまで持ってしまった。

 俺はつくづく、最低だ。

 恥ずかしい、この世に存在しているという事実が。

 可能であるならば、いますぐに消えてしまいたい。

 俺はこの世に、存在してはならないんだ。

 彼はいよいよ、思考の泥沼(どろぬま)へ。

 その(にぶ)く重い深みへと、はまりこんでいく。

 落ちる先は自己否定(じこひてい)という名の深淵(しんえん)

 たどり着くことのない、奈落(ならく)へと。

「頭を上げてくれ、ウツロ。アクタもだ」

 ウツロは反射的に顔を上げた。

 似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)はひざまずいて、ウツロに目線(めせん)を合わせている。

 やさしい顔で、ほほえんでいた。

「あ……」

 ウツロはのどの奥から、嗚咽(おえつ)にも似た声を()した。

 似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)はそっと、ウツロの頭に手を当てた。

「ウツロ、おまえは心根(こころね)のよい子だ。それゆえ、そのように自分を()めてしまうのだね? ()じることなど、何もないのだ。それがおまえの、おまえという人間の、個性なのだから」

 ()を見つめるそのまさざしが(にご)る。

「う……お師匠様(ししょうさま)……」

 アクタも気丈(きじょう)(よそお)ってはいるが、そのまなじりはにじんでいる。

「ウツロ、アクタ。何があろうと、おまえたちはわしにとって、かけがえのない存在だ。たとえ天が()け、地が()れることがあっても、おまえたちを否定することなど、あるはずがない。それだけはどうか、わかってほしいのだ」

 似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)は身を()せて、ウツロとアクタを両腕(りょううで)(かか)えこむ。

 伝わってくるそのぬくもりを、二人はしばし享受(きょうじゅ)した。

「よし、もう大丈夫だな。ウツロ、おまえは強い子だ。アクタ、どうかこれからも、ウツロのよき支えとなってくれ。おまえがいてこそなのだ、アクタ。車輪(しゃりん)と同じように、どちらかが欠けても成り立たない。おまえたちは、二人でひとつだ」

「もったいない、お言葉です……お師匠様(ししょうさま)……」

 アクタは(かく)しているつもりだが、体が小刻(こきざ)みに(ふる)えている。

 兄貴分(あにきぶん)として、気を強く持とうとつねづねふるまってはいるが、彼もウツロと同じ境遇(きょうぐう)には違いない。

 思いのたけをぶつけたくなるときとてある。

 それを(さっ)してくれる()の存在は、何ものにも代えがたい。

 ウツロもアクタも、心は決意に変わっていた。

 アクタはウツロを、ウツロはアクタを、絶対に守り抜く。

 そしてお師匠様(ししょうさま)に、この偉大なる救い主に、絶対の忠誠(ちゅうせい)(ちか)うと。

「うむ、よきかな。さあ、立ってくれ二人とも。今夜はうまい飯を手に入れてきたのだ。()めないうちにいただこう」

「はい、お師匠様(ししょうさま)

 気を使って先に立ちあがる師に、二人は(うやうや)しく(じゅん)じる。

「ウツロのやつ、さっきから腹ぁ減ったって、グーグーいわしてたんですよ? お師匠様(ししょうさま)

「なっ、それはおまえだろ、アクタ!」

「お師匠様(ししょうさま)、早くご馳走(ちそう)持ってこないかな~って言ってたくせに」

「アクタっ、虚偽(きょぎ)弁論(べんろん)をするな! お師匠様(ししょうさま)っ、反駁(はんばく)の機会を俺に!」

 こんなふうに、アクタはウツロをからかってみせた。

「ははは、本当に仲がよいなあ、お前たちは」

「よくないです!」

 ふくれっつらをしてのにぎやかなやり取りに、似嵐鏡月(にがらし きょうげつ)破顔(はがん)していた。

(『第3話 ウツロ、その決意』へ続く)


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 東京都と神奈川県の|辺境《へんきょう》に位置する|山脈地帯《さんみゃくちたい》。
 とびきり|標高《ひょうこう》のある|一角《いっかく》をすっぽりと|削《けず》り|取《と》って、この|隠《かく》れ|里《ざと》はつくられていた。
 ネギ|畑《ばたけ》はその中の小さな|日本家屋《にほんかおく》に|併設《へいせつ》されたもので、彼らの食料はほぼここの|農作物《のうさくぶつ》でまかなわれている。
 家のほうは|屋敷《やしき》というより、大きめの|庵《いおり》といった感じだ。
 長方形の|母屋《おもや》は|前座敷《まえざしき》と|奥座敷《おくざしき》に分かれていて、そこから|直角《ちょっかく》に折れる|渡《わた》り|廊下《ろうか》の向こうに「はなれ」、そしてさらに|直角《ちょっかく》に|頑丈《がんじょう》な|塀《へい》が建てられている。
 上空から見ると「コの字」型になっているわけだ。
 その中には|簡素《かんそ》ではあるが|庭園《ていえん》――植えこみの松や|花々《はなばな》、|石燈籠《いしどうろう》、|錦鯉《にしきごい》の泳ぐ池などが設置されている。
 この里は空からの|目視《もくし》では|死角《しかく》になるよう|設計《せっけい》されており、|地中《ちちゅう》にはソナーなどの|音波《おんぱ》、GPSなどの|電磁波《でんじは》を|誤認識《ごにんしき》させるシステムが組みこまれていた。
 |端《はた》からはただの山にしか見えないのである。
 しだいに|傾《かたむ》いてくる太陽の角度から、二人はそろそろ|夕刻《ゆうこく》であることを意識した。
「ウツロ、日が暮れるぞ」
「うん」
「腹あ、減ったな」
「うん、|俺《おれ》もだ。でも、もう少しで終わるよ」
 アクタは手を止めて、天を|仰《あお》ぎながら|額《ひたい》をぬぐった。
 ウツロは会話をしながら、せっせとネギを引っこ抜いている。
 里へと近づいてくる|気配《けはい》を、彼らは少し前から感じ取っていた。
 そしてそれが、自分たちの育ての親・|似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》であることも。
 その男は|傭兵《ようへい》上がりの殺し屋で、暗殺の|請負《うけおい》で|生計《せいけい》を立てている。
 ウツロとアクタをこれまで|養《やしな》ってきたのは、自分の|暗殺稼業《あんさつかぎょう》の|後継者《こうけいしゃ》に|据《す》えるためであり、実際に二人はその方法を|徹底的《てっていてき》に|指導《しどう》されてきた。
 さまざまな武器・|暗器《あんき》の使用方法から|古今東西《ここんとうざい》の|体術《たいじゅつ》、|果《は》ては|諜報《ちょうほう》の|極意《ごくい》から|実戦《じっせん》における|戦略《せんりゃく》の|立《た》て|方《かた》まで。
 人間を|殺傷《さっしょう》するために必要な技術の多くを教育されたのである。
「ウツロ、お|師匠様《ししょうさま》が来る、急ぐぞ」
「いまはまだ、『|蛭《ひる》の|背中《せなか》』のあたりだ。この|歩《あゆ》みなら、あと三十分はかかる」
「|夕餉《ゆうげ》の|支度《したく》をしなきゃならんだろ?」
「今日は『さしいれ』があるみたいだよ。ひとりぶんの|携行食《けいこうしょく》にしては強すぎる」
「おまえ、においまでわかるのか?」
「こっちはいま、|風下《かざしも》だからね」
「いや、そういうことじゃなくてだな……」
 『|蛭《ひる》の|背中《せなか》』とは、|隠《かく》れ|里《ざと》からだいぶ山を|下《くだ》った、|渓谷沿《けいこくぞ》いの|難所《なんしょ》を|指《さ》している。
 |盛《も》りあがった|硬《かた》い|土壌《どじょう》がすっかり|湿《しめ》って|苔《こけ》むしていることから、彼らだけに|通《つう》じる|暗号《あんごう》として|用《もち》いられている言葉だった。
 そんな場所の状況をたちどころに言い当てる|獣《けもの》のような|嗅覚《きゅうかく》に、アクタは|驚《おどろ》いて|呆気《あっけ》に取られている。
 その態度にウツロ|当人《とうにん》は不思議そうな|眼差《まなざ》しを送った。
 自分の気づかない|間《あいだ》に成長を続けている|弟分《おとうとぶん》に、アクタはポカンと|開《ひら》き|気味《ぎみ》だった口をすっと|締《し》め、|控《ひか》えめに笑ってみせた。
「どうかした?」
「なんでもねえ。ほれ、仕事仕事」
「変なの……」
 ウツロとアクタがそれぞれ最後の|一束《ひとたば》をギュッと結び、大きく|伸《の》びをして|一息《ひといき》ついたところへ、その男は現れた。
 杉の|大木《たいぼく》が作る密な|並木《なみき》の、人ひとりがやっとくぐれる程度の|間隙《かんげき》。
 |木漏《こも》れ|日《び》も弱まってきて、すっかりぼやけているその林の奥から、|獣道《けものみち》を通り抜けて姿を見せる、ゆがんだ|蜃気楼《しんきろう》。
 それは|黄昏《たそがれ》の|闇《やみ》を|背負《せお》ってなお暗い、|黒炎《こくえん》のような。
 彼こそウツロとアクタの育ての親である殺し屋・|似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》その人である。
 |群青色《ぐんじょういろ》のストールから、ほぼ|白髪《しらが》だが|中年《ちゅうねん》としては|端正《たんせい》な顔がのぞいている。
 |藍色《あいいろ》の|羽織《はおり》と|着流《きなが》しの下には、筋肉細胞を|爆縮《ばくしゅく》したような、|屈強極《くっきょうきわ》まる|体躯《たいく》を|隠《かく》してある。
 ただでさえ|豪奢《ごうしゃ》に見えるが、これでも|着痩《きや》せしているのだ。
 腰にはマルエージング鋼製の愛刀・|黒彼岸《くろひがん》を差している。
 |斬《き》るというよりは「|砕《くだ》く」ことに|主眼《しゅがん》を置く|大業物《おおわざもの》だ。
 |軍靴《ぐんか》を改造した|黒色《こくしょく》のロングブーツで大地を重く踏みしめながら、彼は二人の前までゆっくりと|歩《あゆ》み|寄《よ》ってきた。
 その右手には、|風呂敷包《ふろしきづつ》みを|引《ひ》っ|提《さ》げている。
 ウツロの|予見《よけん》どおり、その中には三人分の夕食が|納《おさ》められていた。
「お帰りなさいませ、お|師匠様《ししょうさま》」
 ウツロとアクタはすぐさま|片膝《かたひざ》をついて、その男の前にかしずいた。
「|せい《・・》が出るじゃないか、二人とも」
 ウネの横いっぱいに結束されたネギの列をながめ、|水晶《すいしょう》の|帯留《おびど》めをいじりながら、|似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は満足げな表情を|浮《う》かべた。
 同時に彼はその状況から、|小脇《こわき》に|抱《かか》えた食事の存在を|悟《さと》られていたことを|察知《さっち》した。
「ウツロ、わしのさしいれを|嗅《か》ぎ|当《あ》てたな?」
「ご|無礼《ぶれい》をお許しください、お|師匠様《ししょうさま》」
 ウツロはハッとした。
 彼は心のどこかに、自分の成長をほめてもらいたいという願望があった。
 だからアクタにも、晩の|支度《したく》はしないよう|促《うなが》したのだ。
 アクタもそれに気がついていたから、あえて反対はしなかった。
 しかしウツロは、この親代わりの殺し屋を前にして、|突如《とつじょ》|自責《じせき》の念に|駆《か》られた。
 こざかしい|承認欲求《しょうにんよっきゅう》をさらし、自分をはぐくんでくれた|尊《とうと》い存在を、不快な気分にさせてしまったのではないかと。
 お|師匠様《ししょうさま》がそんなことをするはずがないと、彼は|重々《じゅうじゅう》理解している。
 しかしどこかで、自分を否定してしまうのではないかという恐怖が|芽生《めば》えたのだ。
 それは決壊寸前のダムの水のように、|緩徐《かんじょ》として、しかし|十二分《じゅうにぶん》の重量感を持ってあふれ出てきた。
 |師《し》に|無礼《ぶれい》を働いたと考えているのか、それとも自分の保身のことしか考えていないのか、それすらもわからなくなってきた。
 頭が混乱する。
 思考の|堂々《どうどう》めぐり。
 ウツロはひたすら|平伏《へいふく》し、|黙《もく》して許しを|請《こ》うた。
 しかしそこは、いやしくも育ての親。
 |似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》本人は、ウツロの複雑な|胸中《きょうちゅう》をすぐに|察《さっ》し、|口《くち》もとを|緩《ゆる》めてみせた。
「よいよい、わしはほめているのだ。お前のその|鋭敏《えいびん》な|嗅覚《きゅうかく》、いや、|嗅覚《きゅうかく》だけではない。五感のすべてが|突出《とっしゅつ》してすぐれている。しかも日に日に、その|鋭《するど》さを増しているな? それがどれほど、わしにとって|有益《ゆうえき》なことであるか。ウツロ、おまえの存在は本当に|心強《こころづよ》いぞ」
 ウツロはグッと|拳《こぶし》を|握《にぎ》った。
 俺はなんて最低なんだ、心の底からそう思った。
 |大恩《だいおん》あるお|師匠様《ししょうさま》をわずらわせた|挙句《あげく》、あらぬ疑いまで持ってしまった。
 俺はつくづく、最低だ。
 恥ずかしい、この世に存在しているという事実が。
 可能であるならば、いますぐに消えてしまいたい。
 俺はこの世に、存在してはならないんだ。
 彼はいよいよ、思考の|泥沼《どろぬま》へ。
 その|鈍《にぶ》く重い深みへと、はまりこんでいく。
 落ちる先は|自己否定《じこひてい》という名の|深淵《しんえん》。
 たどり着くことのない、|奈落《ならく》へと。
「頭を上げてくれ、ウツロ。アクタもだ」
 ウツロは反射的に顔を上げた。
 |似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》はひざまずいて、ウツロに|目線《めせん》を合わせている。
 やさしい顔で、ほほえんでいた。
「あ……」
 ウツロはのどの奥から、|嗚咽《おえつ》にも似た声を|漏《も》した。
 |似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》はそっと、ウツロの頭に手を当てた。
「ウツロ、おまえは|心根《こころね》のよい子だ。それゆえ、そのように自分を|責《せ》めてしまうのだね? |恥《は》じることなど、何もないのだ。それがおまえの、おまえという人間の、個性なのだから」
 |師《し》を見つめるそのまさざしが|濁《にご》る。
「う……お|師匠様《ししょうさま》……」
 アクタも|気丈《きじょう》を|装《よそお》ってはいるが、そのまなじりはにじんでいる。
「ウツロ、アクタ。何があろうと、おまえたちはわしにとって、かけがえのない存在だ。たとえ天が|裂《さ》け、地が|割《わ》れることがあっても、おまえたちを否定することなど、あるはずがない。それだけはどうか、わかってほしいのだ」
 |似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は身を|寄《よ》せて、ウツロとアクタを|両腕《りょううで》で|抱《かか》えこむ。
 伝わってくるそのぬくもりを、二人はしばし|享受《きょうじゅ》した。
「よし、もう大丈夫だな。ウツロ、おまえは強い子だ。アクタ、どうかこれからも、ウツロのよき支えとなってくれ。おまえがいてこそなのだ、アクタ。|車輪《しゃりん》と同じように、どちらかが欠けても成り立たない。おまえたちは、二人でひとつだ」
「もったいない、お言葉です……お|師匠様《ししょうさま》……」
 アクタは|隠《かく》しているつもりだが、体が|小刻《こきざ》みに|震《ふる》えている。
 |兄貴分《あにきぶん》として、気を強く持とうとつねづねふるまってはいるが、彼もウツロと同じ|境遇《きょうぐう》には違いない。
 思いのたけをぶつけたくなるときとてある。
 それを|察《さっ》してくれる|師《し》の存在は、何ものにも代えがたい。
 ウツロもアクタも、心は決意に変わっていた。
 アクタはウツロを、ウツロはアクタを、絶対に守り抜く。
 そしてお|師匠様《ししょうさま》に、この偉大なる救い主に、絶対の|忠誠《ちゅうせい》を|誓《ちか》うと。
「うむ、よきかな。さあ、立ってくれ二人とも。今夜はうまい飯を手に入れてきたのだ。|冷《さ》めないうちにいただこう」
「はい、お|師匠様《ししょうさま》」
 気を使って先に立ちあがる師に、二人は|恭《うやうや》しく|準《じゅん》じる。
「ウツロのやつ、さっきから腹ぁ減ったって、グーグーいわしてたんですよ? お|師匠様《ししょうさま》」
「なっ、それはおまえだろ、アクタ!」
「お|師匠様《ししょうさま》、早くご|馳走《ちそう》持ってこないかな~って言ってたくせに」
「アクタっ、|虚偽《きょぎ》の|弁論《べんろん》をするな! お|師匠様《ししょうさま》っ、|反駁《はんばく》の機会を俺に!」
 こんなふうに、アクタはウツロをからかってみせた。
「ははは、本当に仲がよいなあ、お前たちは」
「よくないです!」
 ふくれっつらをしてのにぎやかなやり取りに、|似嵐鏡月《にがらし きょうげつ》は|破顔《はがん》していた。
(『第3話 ウツロ、その決意』へ続く)