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#2 Warmth

3/11





 あれからレイネはフィリオの家でしばらく休憩した。彼女はバターミルクを飲み終わった後も、相変わらずランプの灯りを眺めていた。フィリオはそんな彼女の姿を見て、海水でボサボサになっている彼女の髪がどうしても気になった。 「なぁレイネ、良かったら浴場行かないか? 体、結構汚れてるだろうし」 「おふろ?」 「お風呂も分かんないか……やっぱり記憶が無くなってるのか? まぁ、行ってみれば思い出すさ。よし、行こう。風呂に入ってしまえば疲れも取れるし」  二人は街の西側に位置する浴場へ出かけた。レイネはフィリオのお古の茶色い革靴を履いて外へ出た。フィリオが持つランプが、家の花壇にある今にも綻びそうな薔薇を照らした。彼の家は閑静な住宅街の一角にある為、夜になると外は虫と蛙の鳴き声だけが響き渡る。さっきキャンパスやら画材やらを抱えていた彼の右手は今、レイネの手と繋がっている。 「て……あったかい……」  レイネが呟く。 「君の手が冷たいんだよ」  しばらく二人が歩いていると、大きな木組みの建物が見えてきた。浴場だ。浴場の建物の大きな四角い磨りガラスの窓から光が漏れ、中から何やら楽しげな人の声が聞こえてくる。レイネが突然、フィリオの手を強く握った。フィリオが彼女の方に目をやると、彼女は怯えているようだった。 「……」 「人の多いところは苦手か? 大丈夫。僕がついてるからな」  フィリオはそう言って、レイネの手を優しく握り返した。  二人は浴場に着いた。ここは古くから街の人々が身支度を整える場となっている。風呂場は混浴で、木桶の風呂が向かい合わせに何個もならんでいる。フィリオは服を脱衣所で脱いで、レイネを待った。レイネはゆっくりと服を脱いで、またフィリオの手を握った。 「さ、入るよ。最初は熱いと思うけど、だんだん慣れていくからね」 「……ん」  二人は木桶の風呂にそれぞれ入った。浴場は夜にも関わらずたくさんの人で賑わっていた。 「どう? あったかいだろ」 「これも……あったかい」  二人は向かい合って言った。レイネはお湯の中から手を出して、指先から滴る水を見ていた。フィリオはそんな彼女の姿を目に焼き付けた。彼はこのレイネを警吏の元へ届けなければならないことは分かっていた。彼女にもきっと、いや確実に家族がいて、今も彼女の帰りを待っているはずだ。 「レイネ……君はどこから来たの?」 「……」 「分かんないか。じゃあ、自分が今何歳か分かる?」 「……」 「お父さんとお母さんの名前は覚えてる?」 「……」 「今夜が満月だって事、何で知ってたの?」 「……」 「何も覚えてない……か」  やがて風呂から上がって浴場から出た二人は、手を繋いで帰路に着いた。レイネが本当に夢の中の少女かは分からないが、それでもフィリオにはこの出会いがとても運命的で幸せな出来事だと思えた。彼はもう、レイネと別れる覚悟が出来ていた。  レイネとフィリオは一つのベットで寝ることになった。この家には一人しか住んでいないので当然のことである。 「それじゃ、おやすみ」 「……おや……すみ?」 「そう。夜寝る時の挨拶……って、君は逆に何なら覚えてるんだ……」  フィリオがそう言う前にレイネはもう寝てしまっていた。彼は彼女の頭をそっと撫でた。  次の日、心地よい春の陽気と小鳥達の歯切れのいい鳴き声で二人は目覚めた。 「……ん……おはよう。レイネ」 「おは……よう?」 「……うん、朝の挨拶。おはよう」 「おは……よう」  レイネはたどたどしく挨拶した。フィリオと出会ってから最初の挨拶だ。フィリオは今日、レイネを警吏の元へ預けることにしている。今日が別れの日だ。フィリオが朝食の準備をしに寝室のドアを開け、台所へ向かった。これが二人で食べる最初で最後の食事になるだろうと思うと、彼は途端、悲しみに襲われるのだった。別れる覚悟はできていたはずなのに。 「レイネ、おいで、ご飯食べよ。ペント、お前はこの林檎が今日の朝飯だ」  食事の支度ができたフィリオは、居間の窓辺にあるペントに一切れの林檎をやってレイネを呼んだ。しばらくするとレイネが目をこすりながら居間に出てきた。 「これ、今日の朝ごはん。あ、ちょっとだけ待ってて」  テーブルに朝食のパンとバターミルクを二人分置いた後、フィリオは一階のアトリエに向かった。レイネと一緒に朝食を食べるには椅子が足りなかったからだ。彼が絵を描く時にいつも使っている丸椅子をテーブルの側に置いて、彼はそれに座った。そして二人は一緒に朝食を食べ始めた。ペントは二人が朝食を食べ始める前にはもう林檎を丸呑みしてしまっていた。 「おいしい?このパン、僕の幼馴染が作ってんだ」 「うん、おいしい」  そう言ってレイネは両手でパンを持ったまま、小さく微笑んだ。レイネがフィリオに見せる初めての笑顔だった。フィリオは二人を包むこの温もりを噛み締めるように、彼女に微笑み返した。 「レイネ、ちょっと頼みがあってさ、今から出かけるんだけど、ついてきてくれるかな?」 「……うん」  そうして二人は家を出た。向かう先はルーンプレナ警吏の駐在所。フィリオの家から二十分ほど東に歩いた先にある。灰色の塔のような外観が特徴だ。 「すいませーん」  フィリオが大きな木の扉を叩いて言った。 「ん? 何か用か?」  扉を開けて出てきたのは、フィリオより二回りほど背の高い男だった。彼が被っているやけに派手な帽子はこちらを威圧しているように見える。 「え、えっと、この子なんですけど、身元が分からなくて、そちらの方で保護していただきたいんですが……」  フィリオは少し緊張気味に言って、レイネの方を向いた。一瞬この場に沈黙が流れる。するとため息をついた警吏の男は言った。 「事情はよく知らんが、生憎俺達はそんな小娘を引き取ってるほど暇じゃないんだ。とっとと帰ってくれ」 「そ、そんな……! この子にも家族がいて、帰りを待ってるはずです! どうか、この子をお願いします」 「お前、家族はいるか?」 「一人暮らしです」 「じゃあ、家族が見つかるまで、お前が養ってやったらどうだ? その小娘、お前に結構懐いてるみたいだしな」  警吏の男はそう言って下品に笑った。フィリオはそれを聞いてレイネの方をもう一度見ると、彼女は彼の右腕にしがみついていた。 「はぁ……分かりました。そうすることにします。それじゃ、失礼しました……」  フィリオはそう言って、二人は警吏の駐在所を後にした。 「警吏って信用ならないんだな……ま、これも運命か」  フィリオは警吏の態度と対応に落胆しつつも、内心ほっとしている自分に気づいた。 「僕はやっぱり、レイネと一緒にいたかったのかもしれないな……」  かくして、レイネはフィリオと共に暮らすこととなった。二人は手を繋いで、賑やかなルーンプレナの街をゆっくりと歩いていた。



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 あれからレイネはフィリオの家でしばらく休憩した。彼女はバターミルクを飲み終わった後も、相変わらずランプの灯りを眺めていた。フィリオはそんな彼女の姿を見て、海水でボサボサになっている彼女の髪がどうしても気になった。 「なぁレイネ、良かったら浴場行かないか? 体、結構汚れてるだろうし」 「おふろ?」 「お風呂も分かんないか……やっぱり記憶が無くなってるのか? まぁ、行ってみれば思い出すさ。よし、行こう。風呂に入ってしまえば疲れも取れるし」  二人は街の西側に位置する浴場へ出かけた。レイネはフィリオのお古の茶色い革靴を履いて外へ出た。フィリオが持つランプが、家の花壇にある今にも綻びそうな薔薇を照らした。彼の家は閑静な住宅街の一角にある為、夜になると外は虫と蛙の鳴き声だけが響き渡る。さっきキャンパスやら画材やらを抱えていた彼の右手は今、レイネの手と繋がっている。 「て……あったかい……」  レイネが呟く。 「君の手が冷たいんだよ」  しばらく二人が歩いていると、大きな木組みの建物が見えてきた。浴場だ。浴場の建物の大きな四角い磨りガラスの窓から光が漏れ、中から何やら楽しげな人の声が聞こえてくる。レイネが突然、フィリオの手を強く握った。フィリオが彼女の方に目をやると、彼女は怯えているようだった。 「……」 「人の多いところは苦手か? 大丈夫。僕がついてるからな」  フィリオはそう言って、レイネの手を優しく握り返した。  二人は浴場に着いた。ここは古くから街の人々が身支度を整える場となっている。風呂場は混浴で、木桶の風呂が向かい合わせに何個もならんでいる。フィリオは服を脱衣所で脱いで、レイネを待った。レイネはゆっくりと服を脱いで、またフィリオの手を握った。 「さ、入るよ。最初は熱いと思うけど、だんだん慣れていくからね」 「……ん」  二人は木桶の風呂にそれぞれ入った。浴場は夜にも関わらずたくさんの人で賑わっていた。 「どう? あったかいだろ」 「これも……あったかい」  二人は向かい合って言った。レイネはお湯の中から手を出して、指先から滴る水を見ていた。フィリオはそんな彼女の姿を目に焼き付けた。彼はこのレイネを警吏の元へ届けなければならないことは分かっていた。彼女にもきっと、いや確実に家族がいて、今も彼女の帰りを待っているはずだ。 「レイネ……君はどこから来たの?」 「……」 「分かんないか。じゃあ、自分が今何歳か分かる?」 「……」 「お父さんとお母さんの名前は覚えてる?」 「……」 「今夜が満月だって事、何で知ってたの?」 「……」 「何も覚えてない……か」  やがて風呂から上がって浴場から出た二人は、手を繋いで帰路に着いた。レイネが本当に夢の中の少女かは分からないが、それでもフィリオにはこの出会いがとても運命的で幸せな出来事だと思えた。彼はもう、レイネと別れる覚悟が出来ていた。  レイネとフィリオは一つのベットで寝ることになった。この家には一人しか住んでいないので当然のことである。 「それじゃ、おやすみ」 「……おや……すみ?」 「そう。夜寝る時の挨拶……って、君は逆に何なら覚えてるんだ……」  フィリオがそう言う前にレイネはもう寝てしまっていた。彼は彼女の頭をそっと撫でた。  次の日、心地よい春の陽気と小鳥達の歯切れのいい鳴き声で二人は目覚めた。 「……ん……おはよう。レイネ」 「おは……よう?」 「……うん、朝の挨拶。おはよう」 「おは……よう」  レイネはたどたどしく挨拶した。フィリオと出会ってから最初の挨拶だ。フィリオは今日、レイネを警吏の元へ預けることにしている。今日が別れの日だ。フィリオが朝食の準備をしに寝室のドアを開け、台所へ向かった。これが二人で食べる最初で最後の食事になるだろうと思うと、彼は途端、悲しみに襲われるのだった。別れる覚悟はできていたはずなのに。 「レイネ、おいで、ご飯食べよ。ペント、お前はこの林檎が今日の朝飯だ」  食事の支度ができたフィリオは、居間の窓辺にあるペントに一切れの林檎をやってレイネを呼んだ。しばらくするとレイネが目をこすりながら居間に出てきた。 「これ、今日の朝ごはん。あ、ちょっとだけ待ってて」  テーブルに朝食のパンとバターミルクを二人分置いた後、フィリオは一階のアトリエに向かった。レイネと一緒に朝食を食べるには椅子が足りなかったからだ。彼が絵を描く時にいつも使っている丸椅子をテーブルの側に置いて、彼はそれに座った。そして二人は一緒に朝食を食べ始めた。ペントは二人が朝食を食べ始める前にはもう林檎を丸呑みしてしまっていた。 「おいしい?このパン、僕の幼馴染が作ってんだ」 「うん、おいしい」  そう言ってレイネは両手でパンを持ったまま、小さく微笑んだ。レイネがフィリオに見せる初めての笑顔だった。フィリオは二人を包むこの温もりを噛み締めるように、彼女に微笑み返した。 「レイネ、ちょっと頼みがあってさ、今から出かけるんだけど、ついてきてくれるかな?」 「……うん」  そうして二人は家を出た。向かう先はルーンプレナ警吏の駐在所。フィリオの家から二十分ほど東に歩いた先にある。灰色の塔のような外観が特徴だ。 「すいませーん」  フィリオが大きな木の扉を叩いて言った。 「ん? 何か用か?」  扉を開けて出てきたのは、フィリオより二回りほど背の高い男だった。彼が被っているやけに派手な帽子はこちらを威圧しているように見える。 「え、えっと、この子なんですけど、身元が分からなくて、そちらの方で保護していただきたいんですが……」  フィリオは少し緊張気味に言って、レイネの方を向いた。一瞬この場に沈黙が流れる。するとため息をついた警吏の男は言った。 「事情はよく知らんが、生憎俺達はそんな小娘を引き取ってるほど暇じゃないんだ。とっとと帰ってくれ」 「そ、そんな……! この子にも家族がいて、帰りを待ってるはずです! どうか、この子をお願いします」 「お前、家族はいるか?」 「一人暮らしです」 「じゃあ、家族が見つかるまで、お前が養ってやったらどうだ? その小娘、お前に結構懐いてるみたいだしな」  警吏の男はそう言って下品に笑った。フィリオはそれを聞いてレイネの方をもう一度見ると、彼女は彼の右腕にしがみついていた。 「はぁ……分かりました。そうすることにします。それじゃ、失礼しました……」  フィリオはそう言って、二人は警吏の駐在所を後にした。 「警吏って信用ならないんだな……ま、これも運命か」  フィリオは警吏の態度と対応に落胆しつつも、内心ほっとしている自分に気づいた。 「僕はやっぱり、レイネと一緒にいたかったのかもしれないな……」  かくして、レイネはフィリオと共に暮らすこととなった。二人は手を繋いで、賑やかなルーンプレナの街をゆっくりと歩いていた。



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