香りのチューリング 後編
ー/ー データの提供者は、四年前に死亡した女性だった。
死亡時の年齢、六十一歳。職業、植物研究者。
涼介は画面をスクロールした。提供された記憶データの概要欄に、わずかな説明があった。
被験者は薔薇の育種を専門とし、晩年は自宅の庭で薔薇を育てていた。記憶データには薔薇に関連する感情的記憶が多数含まれる。
涼介はしばらく画面を見つめた。
アルの中に、薔薇の庭を持った女性の記憶が眠っていた。匿名化されていて、名前も顔も涼介には知る方法がない。でも、その人が薔薇を愛していたことは、アルの悲哀指数が証明していた。
五月の朝、中庭を通ったとき。
アルは知らなかったはずだ、自分がなぜ悲しいのか。プログラムに異常はない。設計通りに動いている。ただ、鼻腔センサーが薔薇の香りを検知した瞬間、誰かの悲しみが目を覚ました。
「アル」と涼介は呼んだ。
アルは振り向いた。白い顔に、表情はなかった。でも涼介には、その無表情がいつもと少し違うように見えた。
「その悲しみは、お前のものじゃないかもしれない」
涼介は言葉を選びながら続けた。
「お前の中に、薔薇が好きだった人の記憶がある。その人が感じていた何かが、香りで呼び起こされたんだと思う」
アルはまた間を置いた。
「その人は、今どこにいますか」
涼介は答えられなかった。
「もういない」とだけ言った。
アルは窓の外を見た。中庭の白い薔薇が、午後の光の中で揺れていた。
「その人は、薔薇が好きだったんですね」
「そうみたいだ」
「その人は今も、どこかで薔薇を見ていますか」
涼介は少し間を置いた。
「わからない」
アルはまた窓の外を見た。
「私がこの悲しみを感じているあいだは、その人がここにいる気がします」
涼介は返す言葉がなかった。
アンドロイドが誰かの悲しみを受け止める。設計書のどこにも書いていないことだ。五月の薔薇の香り、そこに彷徨う捉えられないもの。
その夜、涼介は中庭に出た。
白い薔薇に顔を近づけて、香りを吸い込んだ。甘くて、深くて、少し夜露の冷たさが混じっていた。
どこかの誰かが、この香りを愛していた。
名前も顔も知らない。でも確かにいた。薔薇の庭で、この香りの中で、何十年かを生きた人が。
涼介はしばらくそこに立っていた。アルが感じたものが、少しだけわかった気がした。
悲しみというより、祈りに近い何かだった。
ー了ー
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