灰色の外側 前編
ー/ー 世界が色づいて見えるようになったのは、十二年前の春だ。
感情が、色として空気に滲み出るようになった。怒りは赤く、悲しみは青く、喜びは黄みがかった光として、その人のまわりにかすかに揺れる。政府はさまざまな説を発表したが、結局誰も原因を突き止められないまま、ただそれが世界の新しい当たり前になった。
隠せないから、人々は最初から感情を見せることを選んだ。
三十二歳の奈緒は、灰色の中を歩いていた。
それを奈緒は知らない。自分の色は、自分には見えない。ただ通りすがりの人々が、奈緒のまわりに漂う灰色をちらりと見て、静かに目を逸らした。灰色は疲弊と空虚の色だ。嫌悪でも同情でもない——ただ、触れにくい色だった。
別れて、三週間が経っていた。
五年付き合った相手だった。
激しい終わりではなかった。ある夜、向かい合って座って、どちらともなく話して、静かに終わった。泣かなかった。怒らなかった。声も荒げなかった。
そのことが、かえって奈緒の胸の奥にじわじわと染みていた。嵐のように終わるより、凪いだまま終わることのほうが、どうしてこんなに重いのだろうと、その夜から何度も思った。
できれば灰色さえ見せたくなかった。だから人混みを避け、休日は部屋にこもった。その日外に出たのは、冷蔵庫が空になったからだった。
スーパーへの道に、小さな花屋があった。
いつもは通り過ぎていた店だ。その日も素通りしようとして、ふと足が止まった。
店先のバケツに、薔薇が一本だけ立っていた。くすんだ空気の中で、その花だけが澄んでいた。
灰色に霞んだ視界の中で、その薔薇だけがくっきりと浮き上がって見えた。花の静謐な色が、奈緒の目の奥に静かに刺さった。
店に入ると、老いた店主が奥から出てきた。七十代くらいの男性で、まわりの空気は薄い草色に満ちていた。長い年月をかけて穏やかになった人の色だ、と奈緒は思った。
「あの薔薇、一本だけですか」
「今日はそれだけですね」と店主は言った。「ディンティベスという品種です。一重で、派手じゃない。でも見飽きない花ですよ」
奈緒は薔薇を一本買った。五百円だった。
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