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棘の数だけ 後編

ー/ー




 「伊吹さん、またその子に刺されたんですか」

声をかけてきたのは、同じフロアで働く野々花(ののか)だった。

生態応答の部署に所属する彼女は、月に数回この温室を訪れる。伊吹と同い年で、口数は少ないが、観察眼だけは人一倍鋭かった。


 伊吹は指先に巻いた絆創膏を隠すように握り込んだ。

「……気にしないでください。不注意なだけです」

「何回目ですか、今月」

「三回、くらい」


 野々花は答えず、棚の前にしゃがんだ。薔薇の鉢を正面からまじまじと見つめる。その目は研究者のそれだった。静かで、でもどこか慈しむような。

彼女はしばらく何も言わなかった。その沈黙は責めるものでも、慰めるものでもなかった。ただ、そこにいた。それだけで、温室の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。


「この子、最初からこんなに棘が多かったんですか」

「いや、挿し木した頃はほとんどなかった」

「いつから増えたんでしょう」


 伊吹は少し考えた。記録を見れば正確な日付はわかる。でもそれ以上に、感覚でわかっていた。自分が少しずつ、いろんなものを諦めていった時期と重なっていた。


「……三年くらい、かけて」


野々花は立ち上がり、伊吹の顔を見た。

「この子、あなたのこと心配してるんじゃないかな」

伊吹は思わず笑おうとした。研究者として、それは感傷的すぎる解釈だと。でも笑えなかった。

「……棘は、外敵を遠ざけるためのものです」

「そうですね。大切なものを守るために生やすんです」



 野々花の言葉が、静かに温室の空気に溶けた。

大切なもの。伊吹はもう一度、薔薇を見た。棘だらけの、近づきがたいその姿。それはまるで、と思った。まるで──傷ついた自分が、これ以上傷つかないように、少しずつ壁を厚くしていくようだった。


薔薇は今日も静かに、棘を立てていた。

でも伊吹には今、その棘が以前とは違って見えた。拒絶ではなく、訴えのように。

誰かにそっと話しかけてもらうまで、植物はずっとそうやって、言葉の代わりに形を変え続けていたのかもしれなかった。




― 了 ―


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 「伊吹さん、またその子に刺されたんですか」
声をかけてきたのは、同じフロアで働く|野々花《ののか》だった。
生態応答の部署に所属する彼女は、月に数回この温室を訪れる。伊吹と同い年で、口数は少ないが、観察眼だけは人一倍鋭かった。
 伊吹は指先に巻いた絆創膏を隠すように握り込んだ。
「……気にしないでください。不注意なだけです」
「何回目ですか、今月」
「三回、くらい」
 野々花は答えず、棚の前にしゃがんだ。薔薇の鉢を正面からまじまじと見つめる。その目は研究者のそれだった。静かで、でもどこか慈しむような。
彼女はしばらく何も言わなかった。その沈黙は責めるものでも、慰めるものでもなかった。ただ、そこにいた。それだけで、温室の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
「この子、最初からこんなに棘が多かったんですか」
「いや、挿し木した頃はほとんどなかった」
「いつから増えたんでしょう」
 伊吹は少し考えた。記録を見れば正確な日付はわかる。でもそれ以上に、感覚でわかっていた。自分が少しずつ、いろんなものを諦めていった時期と重なっていた。
「……三年くらい、かけて」
野々花は立ち上がり、伊吹の顔を見た。
「この子、あなたのこと心配してるんじゃないかな」
伊吹は思わず笑おうとした。研究者として、それは感傷的すぎる解釈だと。でも笑えなかった。
「……棘は、外敵を遠ざけるためのものです」
「そうですね。大切なものを守るために生やすんです」
 野々花の言葉が、静かに温室の空気に溶けた。
大切なもの。伊吹はもう一度、薔薇を見た。棘だらけの、近づきがたいその姿。それはまるで、と思った。まるで──傷ついた自分が、これ以上傷つかないように、少しずつ壁を厚くしていくようだった。
薔薇は今日も静かに、棘を立てていた。
でも伊吹には今、その棘が以前とは違って見えた。拒絶ではなく、訴えのように。
誰かにそっと話しかけてもらうまで、植物はずっとそうやって、言葉の代わりに形を変え続けていたのかもしれなかった。
― 了 ―