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夜魚の住む町

ー/ー



 七月の湿った熱気が、アスファルトの照り返しとなって足元から這い上がってくる。
 品川駅のホームは、まるで巨大な蒸し器のようだった。ワイシャツの背中が張り付く不快感と、絶え間なく流れる発車ベルの電子音。視界の端を無数の人間が流れていく。

 私はその流れの中にあるひとつの石ころのようだった。転がされ、削られ、どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ消耗していく。
 深夜一時過ぎ。誰もいないオフィスの、ブルーライトに照らされたデスクで、私はコンビニの冷え切ったパスタをフォークで突きながら転職サイトをスクロールしていた。
 総務部から企画部へ異動になって半年。
「君ならできると期待しているんだよ」
 部長の言葉は、最初は誇らしかった。定時で帰宅し、趣味の映画鑑賞をして自炊をする。そんな穏やかな「総務の私」から、バリバリとプロジェクトを回す「企画の私」への変身。それはステップアップのはずだった。
 でも、現実は甘くなかった。終わりのない会議、クライアントの理不尽な要求、先輩社員の冷ややかな視線、そして何より、自分の無能さを突きつけられる敗北感。終電で帰宅し、化粧も落とさずにソファで気絶するように眠り、また朝が来る。
「辞めたい」とは言えなかった。逃げたことになるのが怖かった。でも、心は確実に悲鳴を上げていた。

◇◇◇
山奥の古民家で過ごしませんか?
モニター特別企画、1泊2日3,000円
※申込み多数の場合は抽選になります
◇◇◇

 それは、溺れるものが見つけた(わら)のようなものだった。
 そのバナー広告が画面の端にポップアップした時、私は考えるよりも先にクリックしていた。「逃げたい」という本能が指先を動かしたのだと思う。
 都会から逃げたかった。
 仕事から逃げたかった。
 自分自身から逃げたかった。
 一泊二日、たった三千円。場所は聞いたこともない山奥の集落で、怪しさ満点だ。
 三週間前、「当選しました」というメールが届いた時、私はもしこれが新手の詐欺だったとしても構わないと思った。騙されて身ぐるみ剥がされるなら、それはそれで、会社に行かなくて済む理由になるかもしれない。そんな破滅的な考えすら浮かんでいた。

「あるものは全部自由に使ってくださいね。では、ごゆっくり」
 私は今、東京から電車とバスを乗り継いで四時間、さらに山道を三十分ほど歩いた先にある、古い日本家屋の玄関に立っていた。
 目の前にいるのは管理人の女性だ。年齢は私と同じくらいだろうか。麻のシャツに緩いパンツを合わせ、黒髪を無造作に後ろで束ねている。
 偏見かもしれないが、「山奥の古民家の管理人」という響きだけで、私は勝手に七十か八十くらいの、腰の曲がった老婆を想像していた。だから、こんなに若く、しかも肌の艶やかな女性が出てきたことに、少し驚いてしまったのだ。
 彼女はもう一度、にっこりと笑った。作り笑いではない、日向(ひなた)のような温かい笑みだった。つられて私も、ひきつった顔でどうにか笑顔を返す。
「ありがとうございます。お世話になります」
 私の声は、久しぶりに発したせいか、少し(かす)れていた。

 案内された部屋は、十畳ほどの和室だった。高い天井には太い(はり)が渡り、壁は(すす)で少し黒ずんでいるが、畳は新しく、い草の青々とした香りが満ちている。
 縁側のガラス戸は開け放たれていて、そこから見えるのは圧倒的な緑だ。庭の木々、その奥に続く深い森。視界を遮るビルも、電線も、看板もない。
 荷物を畳の隅に置き、私は大の字に寝転がった。ひんやりとした畳の感触が、背中の熱を吸い取っていく。
 ――ふぅ……。
 重い息を吐き出す。肺の中に溜まっていた都会の黒いものが、少しだけ出て行った気がした。
 蝉の声が降るように響いている。ミンミンゼミの陽気な声と、ヒグラシのどこか寂しげな音色が混ざり合う。風が吹くと、軒先に吊るされた風鈴がチリンと鳴り、裏山の木々の葉が擦れてサワサワと音を立てる。
 東京にいた頃、蝉の声は暑苦しい騒音でしかなかった。アスファルトの隙間で必死に鳴く彼らの声は、焦燥感を煽る耳障りなBGM以外の何ものでもない。
 でも、ここでは違う。この音は、風景の一部だ。圧倒的な自然の営みの中に、私が「お邪魔している」という感覚。自分がちっぽけな存在に思えてくる。それが、今は心地よかった。
 企画書の締め切りも、部長の嫌味も、受信トレイに溜まっていく未読メールの数々も、ここでは何の意味も持たない。
 まぶたが重くなる。
 泥のような眠りではなく、風に揺られるような穏やかな眠気が私を包み込んでいった。

 目が覚めると、部屋の中は藍色に沈んでいた。畳の匂いが昼間よりも濃くなっている気がする。
 体を起こし、縁側の方を見る。空は深い青から紫へのグラデーションを描き、山の端だけが残り火のように微かなオレンジ色を帯びていた。
 時計を見ると、十九時を回っている。三時間も眠ってしまったらしい。
 お腹がぐぅと鳴った。そういえば、ここに来る前に駅でサンドイッチを食べたきりだ。管理人の女性は「食事は出ませんが、台所は自由に使ってください」と言っていた。食材は持ってきていない。近くにコンビニはあるだろうか。
 寝転がったまま、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「圏外」
 アンテナのマークは一本も立っていなかった。
 ――え、嘘でしょ?
 思わず上半身を起こして画面を凝視するが、表示は変わらない。完全に陸の孤島だ。不安が一瞬よぎったが、すぐに「まぁいいか」と思い直した。誰とも繋がらないこと。それは今の私にとって、最高の贅沢かもしれない。買い物は諦めよう。リュックの中に、非常食代わりのチョコレートとミネラルウォーターがあったはずだ。今夜はそれで凌げばいい。

 再び畳に身を預けようとした時、縁側の端に「何か」が置かれていることに気がついた。昼間はあんなもの、なかったはずだ。
 暗闇の中で、それはぼんやりと丸い輪郭を浮かび上がらせている。私は立ち上がり、畳を踏む足音を忍ばせて縁側へと向かった。近づくにつれて、それがガラス製の器だとわかった。昔ながらのフリルがついた金魚鉢だ。中には水が張られ、一匹の金魚が泳いでいる。
 ――へぇ、珍しい。
 私はしゃがみ込み、金魚鉢を覗き込んだ。金魚といえば赤や朱色、あるいは白の斑模様が一般的だ。でも、この金魚は違った。
 深い、深い藍色。
 いや、黒に近い紺色だろうか。それは、夜空を切り取って魚の形にしたようだった。鱗の一枚一枚が微かな月明かりを反射して、星屑のように瞬いている。尾ひれは長く、ゆらり、ゆらりと水の中でたなびく様は、ドレスの裾のようだ。
「きれい……」
 思わず独り言が漏れた。金魚は私の声に反応したのか、くるりと身を翻し、ガラス越しに私の方を向いた。
 小さく黒い瞳と目が合った瞬間、ドクン、と心臓が大きく脈打った。視界が揺らぐ。めまいかと思ったが、違う。
 縁側の床が抜け落ちたような、あるいは重力がひっくり返ったような、奇妙な浮遊感が私を襲った。
 気がつくと、セミの声が消えていた。風鈴の音も、風の音もしない。代わりに聞こえてくるのは、ゴボ、ゴボ……という水の音。
 ――え……ここって、水の中?
 驚いて周りを見渡すと、私はいつの間にか水底に立っていた。呼吸をしようと口を開けるが、水が入ってくる苦しさはない。空気と同じように、自然に息ができる。
 私の髪が、服の裾が、重力を失ってふわりと舞い上がる。
 周囲は深い青色に満たされていた。でも暗くはない。どこからともなく差し込む光の粒が、シャンデリアのようにきらきらと輝きながらゆっくりと降り注いでいる。それは、昼間に縁側で見た木漏れ日のようでもあり、夜空の星のようでもあった。
 私の目の前を、さっきの金魚がすいすいと泳いでいく。鉢の中にいた時よりも、ずっと大きく見えた。私の手のひらサイズだったものが、今は猫くらいの大きさがあるように感じる。

『ついてきて』

 声が聞こえた。耳からではなく、頭の中に直接響くような、澄んだ鈴の音のような声だった。
 金魚が口をパクパクさせたわけではない。でも、直感的にそれがこの金魚の言葉だと分かった。怖いとは思わなかった。むしろ、懐かしさに似た感情が胸を満たす。
 私は裸足のまま、水の底を蹴った。体は驚くほど軽く、一歩踏み出すだけで数メートル先まで進むことができた。金魚は私のスピードに合わせて、優雅に尾ひれを揺らしながら先導する。
 私たちは底へ、底へと降りていった。光の粒が少なくなり、青が濃くなっていく。深海のような静けさ。
 ――どこまで行くんだろう。
 少しだけ心細くなって足を止めかけた時、金魚が振り返った。
『大丈夫よ。もうすぐだから』
 その声に促され、私は再び歩き出す。やがて、眼下に淡い光の群れが見えてきた。それは街だった。水底に広がる不思議な街。建物は全て、巨大な珊瑚(さんご)や貝殻でできているようだった。白やピンク、淡い黄色の有機的な形をした家々が、ぼんやりと自ら発光している。
 クラゲの群れが街灯のようにふわふわと漂い、その触手が描く光の軌跡が道を照らしていた。
「すごい……」
 街に降り立つと、そこには賑わいがあった。お祭りのような、夜市のような、屋台のようなものが並び、その間を行き交う「人々」がいる。いや、よく見ると、彼らは人間ではなかった。
 半透明の影のような存在。輪郭はぼやけていて、性別も年齢も判然としない。でも、不思議と恐怖感はない。彼らは皆、どこか安らかな顔をしているように見えた。
『ここは、迷った心が集まる場所』
 金魚は私の肩のあたりを泳ぎながら言った。
『悲しみも、苦しさも、虚しさも、ここで(ほど)けていくの』
 私は影たちを眺めた。
 ある影は、重そうな石のようなものを抱えて歩いていた。しかし、一歩歩くごとにその石は砂のように崩れ、水に溶けていく。
 ある影は、体中に刺さった棘のようなものを、別の影に優しく抜いてもらっていた。
 ある影は、ただ静かにベンチのような珊瑚に座り、漂うクラゲを見上げていた。
 私も彼らと同じなのだろうか。
 ふと、自分の胸元を見ると、そこには真っ黒なタールのようなものがへばりついていた。胸から腹にかけて、べっとりと。
 ――ああ、これは。
 これは、私が飲み込んできた言葉たちだ。
「できません」と言えなかった弱さ。「助けて」と言えなかったプライド。「理不尽だ」と叫べなかった怒り。それらが積み重なって、固まって、私を息苦しくさせていた正体。
 それを自覚した途端、黒い塊はずしりと重みを増した気がした。
『出した方がいいわ』
 金魚が私の目の前で止まり、じっと私を見つめた。
『ここでは誰もあなたを責めない。誰もあなたに期待しない。ただ置いていけばいいの』
 金魚の黒い瞳に、私の顔が映っていた。疲れ切って、情けなくて、泣きそうな顔。
 私は震える手で、胸元の黒い塊に触れた。冷たくて硬い。それを両手で掴み、引き剥がそうとする。
 ――痛い。
 心が千切れるように痛い。黒い塊は完全に私の一部になってしまっていた。でも、もういらない。
「う……あぁ……」
 口から言葉にならない声が漏れ、それは気泡となって立ち上っていく。
 私は力を込めた。
 企画部のデスクで、トイレの個室で、満員電車の中で、ずっと耐えてきた力を逆方向に使う。
 ベリリ、と音がした気がした。黒い塊が胸から剥がれる。私はそれを思い切り遠くへ投げ捨てた。
 塊は水の中をゆっくりと沈んでいき、地面に触れた瞬間、パッと無数の小さな泡になって弾けた。泡はきらきらと光りながら上昇し、やがて見えなくなった。
 軽かった。体が、心が、羽が生えたように軽い。
 涙が溢れてきた。海水の中で泣いているようなものなのに、熱い雫が頬を伝うのがはっきりと分かった。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、堰き止められていた川がようやく海に流れ着いたような、そんな安堵感だった。
『よかった』
 金魚が私の涙を吸い取るように、頬の近くをすり抜けた。
『もう、大丈夫ね』
 私は何度も頷いた。
 影たちが、私を見て微笑んでいる気がした。彼らもまた、そうやって何かを捨てて軽くなった人たちなのだろうか。
 私はここで、いつまでもこうしていたいと思った。この優しい水の中で、ただ漂っていたいと。すると、金魚は上の方へと泳ぎ始めた。
『帰りましょう。朝が来るわ』
 そうだ。私は帰らなければならない。私は地面を蹴り、金魚の後を追って上昇した。
 光の方へ。水面の方へ。

 気がつくと、私は縁側で丸くなって眠っていた。肌寒さで目が覚めた。タオルケットもかけずに寝ていたのだから当然だ。
 空は白み始めていた。朝霧が庭の木々を包み込み、世界は乳白色に染まっている。鳥の声が聞こえる。チュンチュン、ピー、と賑やかだ。
 私は体を起こし、大きく伸びをした。体の節々が痛むかと思ったが、不思議と体は軽かった。昨夜の、あの重苦しさが嘘のようだ。
 視線を足元に落とすと、そこにはあの金魚鉢があった。でも、中には水草と砂利が入っているだけで、金魚の姿はどこにもなかった。水面が、朝の光を受けて静かに揺れているだけだった。
「夢……?」
 私は呟く。
 あまりにも鮮明な夢だった。水の冷たさも、金魚の言葉も、黒い何かを胸から塊を引き剥がした感覚も、まだ肌に残っている。
 私は胸に手を当てた。深く息を吸い込むと、朝の冷たく澄んだ空気が肺の隅々まで染み渡るのが分かる。こんなに深く呼吸をしたのはいつぶりだろう。
 ガララ、と玄関の方で戸が開く音がした。部屋を出て玄関へ向かうと、そこには管理人の女性が立っていた。手には籠を持っていて、中には採れたての野菜が入っている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
 彼女は昨日と同じ、柔らかな笑みを向けてくれた。
「はい……不思議なくらい、ぐっすりと」
 私は正直に答えた。彼女は「よかった」と言って土間に上がった。
「朝ごはん、一緒にどうですか? 美味しい卵が手に入ったので」
 お腹が鳴った。そういえば、昨夜は何も食べていなかったのだ。
 台所の土間にあるテーブルで、私たちは向かい合って朝食を取った。メニューは炊きたてのご飯、豆腐とワカメの味噌汁、きゅうりの浅漬け、そしてだし巻き卵。何てことのない食事なのに、涙が出るほど美味しかった。だし巻き卵の甘さと味噌汁の温かさが、空っぽだった胃袋と心に染み込んでいく。
「あの……」
 箸を置いて、私は気になっていたことを切り出した。
「昨日、縁側に金魚鉢があったんです。青っぽい、きれいな金魚が入っていて……」
 管理人の女性は、お茶を啜りながら小首を傾げた。
「金魚鉢? うーん、物置にはあるかもしれないけど、縁側には出してないわねぇ」
 ――やっぱり夢だったのか。
 私が少し落胆したのを見て、彼女は目を細めて悪戯っぽく笑った。
「でも、もしかしたら……『夜魚(よるうお)』じゃないかしら」
「よるうお?」
 初めて聞く言葉だった。
「ええ。この辺りの古い言い伝えなの。心が疲れきって、行き場をなくした人の前にだけ現れる、不思議な金魚。その金魚はね、迷った心を水底の都へ連れて行って、洗い流してくれるんだって」
 彼女はまるで、昨日の天気の話でもするかのように、さらりと言った。
 私はハッとして彼女の顔を見た。彼女の瞳は、あの金魚と同じように深く、何かを見透かしているようだった。もしかしたら、彼女も会ったことがあるのかもしれない。あるいは、彼女自身が――。
 一瞬、そんな空想が頭をよぎったが、私はすぐにそれを打ち消した。
 理屈なんてどうでもよかった。私が救われたという事実。それだけが確かだったから。

 身支度を整え、私は帰る準備をした。たった一泊二日。時間にすれば二十四時間も経っていない。でも、来る時とは世界が違って見えた。
 蝉の声も、日差しの強さも、もう私を()かすことはない。
「お世話になりました」
 玄関先で頭を下げる。
「必ず、また来ます」
 それは社交辞令ではなく、心からの言葉だった。ここが私の逃げ場所であり、帰る場所になったから。
 予約していたタクシーが、砂利を踏んでやってくる。乗り込もうとしてドアに手をかけた時、背後から声がした。
「ねぇ」
 振り返ると、彼女が少しだけ身を乗り出していた。
「ここで一緒に働かない?」
 唐突な提案に、私は目を丸くした。
「えっ……?」
「この古民家、私一人じゃ手入れが追いつかなくて。管理人の仕事、結構大変なのよ。草むしりとか、掃除とか、買い出しとか。お給料はそんなに出せないけど、ご飯と寝床はあるわよ? どう?」
 彼女はニコニコしている。冗談を言っているようには見えない。
 私は絶句した。
 会社はどうする?
 プロジェクトは?
 東京のマンションの家賃は?
 常識的な「大人の私」が、矢継ぎ早に冷静な反論を並べる。
 でも――。
 もう一人の私が、胸の奥で小さく跳ねた。あの水底で軽くなった私が。
 私は企画部での日々を思い出し、同時にここの縁側で感じた風を思い出した。
 天秤にかけるまでもない。
 私が本当に求めていたのは、承認欲求を満たすことでも、高い給料をもらうことでもなく、ただ自分らしく呼吸ができる場所だったのだ。
「少し、考えさせてください」
 震える声でそう答えるのが精一杯だった。彼女は満足そうに頷いた。
「ええ、待ってるわ。いつでも」
 まるで、私がなんて答えるかを知っているかのような、確信に満ちた笑顔だった。
 タクシーが走り出す。
 砂煙の向こうで、彼女が大きく手を振っているのが見えた。
 私は窓を開け、風を浴びた。

『答えは、もう出てるんでしょう?』

 ふと、耳元であの鈴のような声が聞こえた気がした。幻聴かもしれないし、私の内なる声なのかもしれない。
 私はバックミラー越しに、遠ざかる古民家と管理人さんを見つめた。
 そして、小さく呟いた。

「ええ、そうね」

 私は目を閉じ、ふふっと笑った。
 夏草の匂いを含んだ風が、私の前髪を優しく揺らして通り過ぎていった。

(了)


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 私はその流れの中にあるひとつの石ころのようだった。転がされ、削られ、どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ消耗していく。
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 でも、現実は甘くなかった。終わりのない会議、クライアントの理不尽な要求、先輩社員の冷ややかな視線、そして何より、自分の無能さを突きつけられる敗北感。終電で帰宅し、化粧も落とさずにソファで気絶するように眠り、また朝が来る。
「辞めたい」とは言えなかった。逃げたことになるのが怖かった。でも、心は確実に悲鳴を上げていた。
◇◇◇
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◇◇◇
 それは、溺れるものが見つけた|藁《わら》のようなものだった。
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 一泊二日、たった三千円。場所は聞いたこともない山奥の集落で、怪しさ満点だ。
 三週間前、「当選しました」というメールが届いた時、私はもしこれが新手の詐欺だったとしても構わないと思った。騙されて身ぐるみ剥がされるなら、それはそれで、会社に行かなくて済む理由になるかもしれない。そんな破滅的な考えすら浮かんでいた。
「あるものは全部自由に使ってくださいね。では、ごゆっくり」
 私は今、東京から電車とバスを乗り継いで四時間、さらに山道を三十分ほど歩いた先にある、古い日本家屋の玄関に立っていた。
 目の前にいるのは管理人の女性だ。年齢は私と同じくらいだろうか。麻のシャツに緩いパンツを合わせ、黒髪を無造作に後ろで束ねている。
 偏見かもしれないが、「山奥の古民家の管理人」という響きだけで、私は勝手に七十か八十くらいの、腰の曲がった老婆を想像していた。だから、こんなに若く、しかも肌の艶やかな女性が出てきたことに、少し驚いてしまったのだ。
 彼女はもう一度、にっこりと笑った。作り笑いではない、|日向《ひなた》のような温かい笑みだった。つられて私も、ひきつった顔でどうにか笑顔を返す。
「ありがとうございます。お世話になります」
 私の声は、久しぶりに発したせいか、少し|掠《かす》れていた。
 案内された部屋は、十畳ほどの和室だった。高い天井には太い|梁《はり》が渡り、壁は|煤《すす》で少し黒ずんでいるが、畳は新しく、い草の青々とした香りが満ちている。
 縁側のガラス戸は開け放たれていて、そこから見えるのは圧倒的な緑だ。庭の木々、その奥に続く深い森。視界を遮るビルも、電線も、看板もない。
 荷物を畳の隅に置き、私は大の字に寝転がった。ひんやりとした畳の感触が、背中の熱を吸い取っていく。
 ――ふぅ……。
 重い息を吐き出す。肺の中に溜まっていた都会の黒いものが、少しだけ出て行った気がした。
 蝉の声が降るように響いている。ミンミンゼミの陽気な声と、ヒグラシのどこか寂しげな音色が混ざり合う。風が吹くと、軒先に吊るされた風鈴がチリンと鳴り、裏山の木々の葉が擦れてサワサワと音を立てる。
 東京にいた頃、蝉の声は暑苦しい騒音でしかなかった。アスファルトの隙間で必死に鳴く彼らの声は、焦燥感を煽る耳障りなBGM以外の何ものでもない。
 でも、ここでは違う。この音は、風景の一部だ。圧倒的な自然の営みの中に、私が「お邪魔している」という感覚。自分がちっぽけな存在に思えてくる。それが、今は心地よかった。
 企画書の締め切りも、部長の嫌味も、受信トレイに溜まっていく未読メールの数々も、ここでは何の意味も持たない。
 まぶたが重くなる。
 泥のような眠りではなく、風に揺られるような穏やかな眠気が私を包み込んでいった。
 目が覚めると、部屋の中は藍色に沈んでいた。畳の匂いが昼間よりも濃くなっている気がする。
 体を起こし、縁側の方を見る。空は深い青から紫へのグラデーションを描き、山の端だけが残り火のように微かなオレンジ色を帯びていた。
 時計を見ると、十九時を回っている。三時間も眠ってしまったらしい。
 お腹がぐぅと鳴った。そういえば、ここに来る前に駅でサンドイッチを食べたきりだ。管理人の女性は「食事は出ませんが、台所は自由に使ってください」と言っていた。食材は持ってきていない。近くにコンビニはあるだろうか。
 寝転がったまま、ポケットからスマートフォンを取り出す。
「圏外」
 アンテナのマークは一本も立っていなかった。
 ――え、嘘でしょ?
 思わず上半身を起こして画面を凝視するが、表示は変わらない。完全に陸の孤島だ。不安が一瞬よぎったが、すぐに「まぁいいか」と思い直した。誰とも繋がらないこと。それは今の私にとって、最高の贅沢かもしれない。買い物は諦めよう。リュックの中に、非常食代わりのチョコレートとミネラルウォーターがあったはずだ。今夜はそれで凌げばいい。
 再び畳に身を預けようとした時、縁側の端に「何か」が置かれていることに気がついた。昼間はあんなもの、なかったはずだ。
 暗闇の中で、それはぼんやりと丸い輪郭を浮かび上がらせている。私は立ち上がり、畳を踏む足音を忍ばせて縁側へと向かった。近づくにつれて、それがガラス製の器だとわかった。昔ながらのフリルがついた金魚鉢だ。中には水が張られ、一匹の金魚が泳いでいる。
 ――へぇ、珍しい。
 私はしゃがみ込み、金魚鉢を覗き込んだ。金魚といえば赤や朱色、あるいは白の斑模様が一般的だ。でも、この金魚は違った。
 深い、深い藍色。
 いや、黒に近い紺色だろうか。それは、夜空を切り取って魚の形にしたようだった。鱗の一枚一枚が微かな月明かりを反射して、星屑のように瞬いている。尾ひれは長く、ゆらり、ゆらりと水の中でたなびく様は、ドレスの裾のようだ。
「きれい……」
 思わず独り言が漏れた。金魚は私の声に反応したのか、くるりと身を翻し、ガラス越しに私の方を向いた。
 小さく黒い瞳と目が合った瞬間、ドクン、と心臓が大きく脈打った。視界が揺らぐ。めまいかと思ったが、違う。
 縁側の床が抜け落ちたような、あるいは重力がひっくり返ったような、奇妙な浮遊感が私を襲った。
 気がつくと、セミの声が消えていた。風鈴の音も、風の音もしない。代わりに聞こえてくるのは、ゴボ、ゴボ……という水の音。
 ――え……ここって、水の中?
 驚いて周りを見渡すと、私はいつの間にか水底に立っていた。呼吸をしようと口を開けるが、水が入ってくる苦しさはない。空気と同じように、自然に息ができる。
 私の髪が、服の裾が、重力を失ってふわりと舞い上がる。
 周囲は深い青色に満たされていた。でも暗くはない。どこからともなく差し込む光の粒が、シャンデリアのようにきらきらと輝きながらゆっくりと降り注いでいる。それは、昼間に縁側で見た木漏れ日のようでもあり、夜空の星のようでもあった。
 私の目の前を、さっきの金魚がすいすいと泳いでいく。鉢の中にいた時よりも、ずっと大きく見えた。私の手のひらサイズだったものが、今は猫くらいの大きさがあるように感じる。
『ついてきて』
 声が聞こえた。耳からではなく、頭の中に直接響くような、澄んだ鈴の音のような声だった。
 金魚が口をパクパクさせたわけではない。でも、直感的にそれがこの金魚の言葉だと分かった。怖いとは思わなかった。むしろ、懐かしさに似た感情が胸を満たす。
 私は裸足のまま、水の底を蹴った。体は驚くほど軽く、一歩踏み出すだけで数メートル先まで進むことができた。金魚は私のスピードに合わせて、優雅に尾ひれを揺らしながら先導する。
 私たちは底へ、底へと降りていった。光の粒が少なくなり、青が濃くなっていく。深海のような静けさ。
 ――どこまで行くんだろう。
 少しだけ心細くなって足を止めかけた時、金魚が振り返った。
『大丈夫よ。もうすぐだから』
 その声に促され、私は再び歩き出す。やがて、眼下に淡い光の群れが見えてきた。それは街だった。水底に広がる不思議な街。建物は全て、巨大な|珊瑚《さんご》や貝殻でできているようだった。白やピンク、淡い黄色の有機的な形をした家々が、ぼんやりと自ら発光している。
 クラゲの群れが街灯のようにふわふわと漂い、その触手が描く光の軌跡が道を照らしていた。
「すごい……」
 街に降り立つと、そこには賑わいがあった。お祭りのような、夜市のような、屋台のようなものが並び、その間を行き交う「人々」がいる。いや、よく見ると、彼らは人間ではなかった。
 半透明の影のような存在。輪郭はぼやけていて、性別も年齢も判然としない。でも、不思議と恐怖感はない。彼らは皆、どこか安らかな顔をしているように見えた。
『ここは、迷った心が集まる場所』
 金魚は私の肩のあたりを泳ぎながら言った。
『悲しみも、苦しさも、虚しさも、ここで|解《ほど》けていくの』
 私は影たちを眺めた。
 ある影は、重そうな石のようなものを抱えて歩いていた。しかし、一歩歩くごとにその石は砂のように崩れ、水に溶けていく。
 ある影は、体中に刺さった棘のようなものを、別の影に優しく抜いてもらっていた。
 ある影は、ただ静かにベンチのような珊瑚に座り、漂うクラゲを見上げていた。
 私も彼らと同じなのだろうか。
 ふと、自分の胸元を見ると、そこには真っ黒なタールのようなものがへばりついていた。胸から腹にかけて、べっとりと。
 ――ああ、これは。
 これは、私が飲み込んできた言葉たちだ。
「できません」と言えなかった弱さ。「助けて」と言えなかったプライド。「理不尽だ」と叫べなかった怒り。それらが積み重なって、固まって、私を息苦しくさせていた正体。
 それを自覚した途端、黒い塊はずしりと重みを増した気がした。
『出した方がいいわ』
 金魚が私の目の前で止まり、じっと私を見つめた。
『ここでは誰もあなたを責めない。誰もあなたに期待しない。ただ置いていけばいいの』
 金魚の黒い瞳に、私の顔が映っていた。疲れ切って、情けなくて、泣きそうな顔。
 私は震える手で、胸元の黒い塊に触れた。冷たくて硬い。それを両手で掴み、引き剥がそうとする。
 ――痛い。
 心が千切れるように痛い。黒い塊は完全に私の一部になってしまっていた。でも、もういらない。
「う……あぁ……」
 口から言葉にならない声が漏れ、それは気泡となって立ち上っていく。
 私は力を込めた。
 企画部のデスクで、トイレの個室で、満員電車の中で、ずっと耐えてきた力を逆方向に使う。
 ベリリ、と音がした気がした。黒い塊が胸から剥がれる。私はそれを思い切り遠くへ投げ捨てた。
 塊は水の中をゆっくりと沈んでいき、地面に触れた瞬間、パッと無数の小さな泡になって弾けた。泡はきらきらと光りながら上昇し、やがて見えなくなった。
 軽かった。体が、心が、羽が生えたように軽い。
 涙が溢れてきた。海水の中で泣いているようなものなのに、熱い雫が頬を伝うのがはっきりと分かった。悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。ただ、堰き止められていた川がようやく海に流れ着いたような、そんな安堵感だった。
『よかった』
 金魚が私の涙を吸い取るように、頬の近くをすり抜けた。
『もう、大丈夫ね』
 私は何度も頷いた。
 影たちが、私を見て微笑んでいる気がした。彼らもまた、そうやって何かを捨てて軽くなった人たちなのだろうか。
 私はここで、いつまでもこうしていたいと思った。この優しい水の中で、ただ漂っていたいと。すると、金魚は上の方へと泳ぎ始めた。
『帰りましょう。朝が来るわ』
 そうだ。私は帰らなければならない。私は地面を蹴り、金魚の後を追って上昇した。
 光の方へ。水面の方へ。
 気がつくと、私は縁側で丸くなって眠っていた。肌寒さで目が覚めた。タオルケットもかけずに寝ていたのだから当然だ。
 空は白み始めていた。朝霧が庭の木々を包み込み、世界は乳白色に染まっている。鳥の声が聞こえる。チュンチュン、ピー、と賑やかだ。
 私は体を起こし、大きく伸びをした。体の節々が痛むかと思ったが、不思議と体は軽かった。昨夜の、あの重苦しさが嘘のようだ。
 視線を足元に落とすと、そこにはあの金魚鉢があった。でも、中には水草と砂利が入っているだけで、金魚の姿はどこにもなかった。水面が、朝の光を受けて静かに揺れているだけだった。
「夢……?」
 私は呟く。
 あまりにも鮮明な夢だった。水の冷たさも、金魚の言葉も、黒い何かを胸から塊を引き剥がした感覚も、まだ肌に残っている。
 私は胸に手を当てた。深く息を吸い込むと、朝の冷たく澄んだ空気が肺の隅々まで染み渡るのが分かる。こんなに深く呼吸をしたのはいつぶりだろう。
 ガララ、と玄関の方で戸が開く音がした。部屋を出て玄関へ向かうと、そこには管理人の女性が立っていた。手には籠を持っていて、中には採れたての野菜が入っている。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
 彼女は昨日と同じ、柔らかな笑みを向けてくれた。
「はい……不思議なくらい、ぐっすりと」
 私は正直に答えた。彼女は「よかった」と言って土間に上がった。
「朝ごはん、一緒にどうですか? 美味しい卵が手に入ったので」
 お腹が鳴った。そういえば、昨夜は何も食べていなかったのだ。
 台所の土間にあるテーブルで、私たちは向かい合って朝食を取った。メニューは炊きたてのご飯、豆腐とワカメの味噌汁、きゅうりの浅漬け、そしてだし巻き卵。何てことのない食事なのに、涙が出るほど美味しかった。だし巻き卵の甘さと味噌汁の温かさが、空っぽだった胃袋と心に染み込んでいく。
「あの……」
 箸を置いて、私は気になっていたことを切り出した。
「昨日、縁側に金魚鉢があったんです。青っぽい、きれいな金魚が入っていて……」
 管理人の女性は、お茶を啜りながら小首を傾げた。
「金魚鉢? うーん、物置にはあるかもしれないけど、縁側には出してないわねぇ」
 ――やっぱり夢だったのか。
 私が少し落胆したのを見て、彼女は目を細めて悪戯っぽく笑った。
「でも、もしかしたら……『|夜魚《よるうお》』じゃないかしら」
「よるうお?」
 初めて聞く言葉だった。
「ええ。この辺りの古い言い伝えなの。心が疲れきって、行き場をなくした人の前にだけ現れる、不思議な金魚。その金魚はね、迷った心を水底の都へ連れて行って、洗い流してくれるんだって」
 彼女はまるで、昨日の天気の話でもするかのように、さらりと言った。
 私はハッとして彼女の顔を見た。彼女の瞳は、あの金魚と同じように深く、何かを見透かしているようだった。もしかしたら、彼女も会ったことがあるのかもしれない。あるいは、彼女自身が――。
 一瞬、そんな空想が頭をよぎったが、私はすぐにそれを打ち消した。
 理屈なんてどうでもよかった。私が救われたという事実。それだけが確かだったから。
 身支度を整え、私は帰る準備をした。たった一泊二日。時間にすれば二十四時間も経っていない。でも、来る時とは世界が違って見えた。
 蝉の声も、日差しの強さも、もう私を|急《せ》かすことはない。
「お世話になりました」
 玄関先で頭を下げる。
「必ず、また来ます」
 それは社交辞令ではなく、心からの言葉だった。ここが私の逃げ場所であり、帰る場所になったから。
 予約していたタクシーが、砂利を踏んでやってくる。乗り込もうとしてドアに手をかけた時、背後から声がした。
「ねぇ」
 振り返ると、彼女が少しだけ身を乗り出していた。
「ここで一緒に働かない?」
 唐突な提案に、私は目を丸くした。
「えっ……?」
「この古民家、私一人じゃ手入れが追いつかなくて。管理人の仕事、結構大変なのよ。草むしりとか、掃除とか、買い出しとか。お給料はそんなに出せないけど、ご飯と寝床はあるわよ? どう?」
 彼女はニコニコしている。冗談を言っているようには見えない。
 私は絶句した。
 会社はどうする?
 プロジェクトは?
 東京のマンションの家賃は?
 常識的な「大人の私」が、矢継ぎ早に冷静な反論を並べる。
 でも――。
 もう一人の私が、胸の奥で小さく跳ねた。あの水底で軽くなった私が。
 私は企画部での日々を思い出し、同時にここの縁側で感じた風を思い出した。
 天秤にかけるまでもない。
 私が本当に求めていたのは、承認欲求を満たすことでも、高い給料をもらうことでもなく、ただ自分らしく呼吸ができる場所だったのだ。
「少し、考えさせてください」
 震える声でそう答えるのが精一杯だった。彼女は満足そうに頷いた。
「ええ、待ってるわ。いつでも」
 まるで、私がなんて答えるかを知っているかのような、確信に満ちた笑顔だった。
 タクシーが走り出す。
 砂煙の向こうで、彼女が大きく手を振っているのが見えた。
 私は窓を開け、風を浴びた。
『答えは、もう出てるんでしょう?』
 ふと、耳元であの鈴のような声が聞こえた気がした。幻聴かもしれないし、私の内なる声なのかもしれない。
 私はバックミラー越しに、遠ざかる古民家と管理人さんを見つめた。
 そして、小さく呟いた。
「ええ、そうね」
 私は目を閉じ、ふふっと笑った。
 夏草の匂いを含んだ風が、私の前髪を優しく揺らして通り過ぎていった。
(了)