第十一話 よく出来た模造品
ー/ー ジルと食事会をした翌日、「トリスタンがネール領で騒ぎを起こす」と言われていた時間が刻々と近付いていた。
ニーナは大きな不安と少しの期待で心が焦り、朝から誰とも口を利いていなかった。
身だしなみを整えることもなく、ベッドの端に座って、右頬を触っていた。
クロエがニーナの部屋にやってきた。
ニーナは立ってクロエにお辞儀をする。
「大丈夫よ。無事にあなたをアッシュまで送り届けるから」と、彼女はニーナの両肩をポンと叩いた。
「はい……」
「いい?今日からとっても忙しくなるだろうけど、気持ちが負けてはいけない。何としてでも逃げ切るのよ」
「……はい!」
ニーナは顔を上げて、クロエを見つめた。
「あら、髪がぼさぼさじゃない。服も皺寄って」
クロエは服から櫛を取り出して、ニーナの髪をとかす。ニーナは口角を少し上げた。
「あなたが明日行ってしまうと思うと、寂しくなるわね」
クロエが手を動かしながら、ニーナに話しかける。
「え、そうですか?」
「妹が出来たみたいだったから。もう少し話をすれば良かった……」
クロエは頬をほころばせた。
ニーナは、
「そんなことを言っていただけるなんて……嬉しいです」と言って、目を閉じて笑みを浮かべた。髪をとかされる感覚が心地良く感じる。
「これくらいでいいわね」
クロエは優しくニーナの頭を撫でた。
「明日は会えないかもしれないから、お別れを言いに来たの。元気でいてね」
手を振って、クロエはニーナの部屋から立ち去った。
「……アッシュ……だったっけ。国境を越える準備をしなきゃ」
ニーナは深呼吸をして、越境の準備を始めた。
――ネールとアッシュの国境にて――
日没後、トリスタン、ニーナ、アルベルトの三人は固まって、ネール領とアッシュの交易路近くの茂みに入っていた。
トリスタンはいつものように右目に黒布を巻き、片手にぬいぐるみを持っていた。
熊のような姿をした愛らしいぬいぐるみは、『りりぃ』と名前が付けられていたものだ。
アルベルトは表情を一切出さず、周囲の気配を警戒している。
視界の先には警備兵がいる。
国境は風雨で荒れた石造りの門柱に木の門扉で区切られている。
周囲は柵で囲われ、上部には矢を射る為の小さな隙間があった。
そして、魔獣避けに松明が灯されていた。
ジルの話によれば、これから商人が交易路を馬車で通ることになっていた。
トリスタンはぬいぐるみを遠くに置いて戻ってきた。
「嬢ちゃん、アンタは左側を見てくれ。アルベルトは右側を警戒してくれ」
「うん」
「了解」
二人がそれぞれ小声で答える。
トリスタンを真ん中にして、三人はなるべく背の高い叢に隠れ、姿勢を低くして、草葉の狭間から様子を見る。
ニーナが隣を見ると、草をかき分けるトリスタンの手元が震えていた。
「トリスタン、怖いの?」
「いや、これはただの武者震いってやつだ」
トリスタンは答えた。
ニーナは英雄譚でしか聞いたことのないような言葉に、目をぱちくりさせる。
「だって……これから国家に叛逆して、重要な人間を逃す大罪を犯すんだぜ。……俺はその協力者だ。こんなのワクワクしねえ訳がねえだろ……!」
すわった琥珀色の瞳をギラギラと輝かせて、左手で右手を押さえている。
吊り上がった笑みを浮かべる横顔が目に焼き付くかのようだ。
「そろそろ来るな……」
トリスタンを全く気にも留めていないかのように、アルベルトが二人に声をかける。
前を見たら、国境近くの門をネール領の兵士たちが開こうとしていた。
「今から俺の魔導を見せてやるよ」
トリスタンは笑みを崩さないまま、ぬいぐるみの方に体を向け、腕を伸ばした。
そして、
「思いを込めて作られた物に、今一度、偽物の息吹を与えよ。『よく出来た模造品』……!」
トリスタンが指を鳴らすと、ぬいぐるみが影のようなものに覆われた。
ぬいぐるみの変貌は静かなものだった。
影に覆われたぬいぐるみが巨大に膨れ上がり、脚が地に着き、大きな四つ足の獣のようになった。
影が離れ、姿があらわにされると、禍々しい空気が一層強くなったように思えた。
ニーナは全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。思わず、目を逸らしてしまう。
ただのぬいぐるみが、本当に命を食らう魔獣になったかのようだ。
彼女はアルベルトに助けられた時に出会した、犬のような魔獣と、血の咽せるような匂いを思い出して、奥歯を噛み締めた。
獣となったぬいぐるみだったものは低い唸り声を上げて、門の方へ突進を始めた。
門の近くに立てられていた柵が壊れる音に、兵が振り向くと、恐怖に歪んだ顔をして、
「ひぃっ!ま、魔獣だーー!!」と叫んだ。
周りの兵が物々しく動き出し、敵襲を告げる鐘の音がなる。ネール領に入ってきた馬車を引く馬は驚き、いなないて逃亡を図る。
馬車の商人は制御出来なくなった馬を必死に打っていた。
「よし、これでいい」
トリスタンは動転する国境の警備兵たちを見て、満足げに頷いた。
門柱の明かりに照らされた『りりぃ』は魔獣そのものに思えるほど、精巧に再現されていた。
ただのぬいぐるみが、人を恐れ慌てふためかせる獣に変貌した様子を見て、ニーナは絶句した。
恐怖の象徴のようなものが暴れ狂っている。それなのに、彼女は『りりぃ』の様子に目を奪われてしまっていた。
「どうして明かりがあるのに、魔獣が来るんだ!」
警備兵が槍を持って立ち向かうが、『りりぃ』はその先端を弾く。折れた槍の先が大地に突き刺さった。門の上階から放たれた複数の矢が浅く刺さる。
「クソ!槍が通らないじゃないか!」
「矢が刺さっても倒れない!」
火矢が『りりぃ』に射られるが、魔獣と化したぬいぐるみの体に炎は広がらない。
『りりぃ』は門柱に体当たりをしていた。
兵たちの声や逃げ回る人々の悲鳴が、離れた場所からでも聞こえてくる。
しかし、誰かが倒れて命を落とした気配はなかった。
ニーナは深く息を吐いた。
「これで騒ぎは起こせたな。嬢ちゃん、ネール城に帰るぞ。アルベルトは『りりぃ』の回収を頼む」
トリスタンは落ち着いた様子で、ニーナに呼びかける。
ハッとして立ち上がり、頬にかかった髪を払った。
そして、静かに、しかし急いでトリスタンの後を追った。
アルベルトは二人に無言で手を振りながら、ニーナを一瞬だけ見て、彼女たちの足音が遠ざかるのを確認すると、門に向き直った。
それからは、息を殺して「魔獣騒ぎ」のぬいぐるみを回収する機会を測っていた。
ニーナは大きな不安と少しの期待で心が焦り、朝から誰とも口を利いていなかった。
身だしなみを整えることもなく、ベッドの端に座って、右頬を触っていた。
クロエがニーナの部屋にやってきた。
ニーナは立ってクロエにお辞儀をする。
「大丈夫よ。無事にあなたをアッシュまで送り届けるから」と、彼女はニーナの両肩をポンと叩いた。
「はい……」
「いい?今日からとっても忙しくなるだろうけど、気持ちが負けてはいけない。何としてでも逃げ切るのよ」
「……はい!」
ニーナは顔を上げて、クロエを見つめた。
「あら、髪がぼさぼさじゃない。服も皺寄って」
クロエは服から櫛を取り出して、ニーナの髪をとかす。ニーナは口角を少し上げた。
「あなたが明日行ってしまうと思うと、寂しくなるわね」
クロエが手を動かしながら、ニーナに話しかける。
「え、そうですか?」
「妹が出来たみたいだったから。もう少し話をすれば良かった……」
クロエは頬をほころばせた。
ニーナは、
「そんなことを言っていただけるなんて……嬉しいです」と言って、目を閉じて笑みを浮かべた。髪をとかされる感覚が心地良く感じる。
「これくらいでいいわね」
クロエは優しくニーナの頭を撫でた。
「明日は会えないかもしれないから、お別れを言いに来たの。元気でいてね」
手を振って、クロエはニーナの部屋から立ち去った。
「……アッシュ……だったっけ。国境を越える準備をしなきゃ」
ニーナは深呼吸をして、越境の準備を始めた。
――ネールとアッシュの国境にて――
日没後、トリスタン、ニーナ、アルベルトの三人は固まって、ネール領とアッシュの交易路近くの茂みに入っていた。
トリスタンはいつものように右目に黒布を巻き、片手にぬいぐるみを持っていた。
熊のような姿をした愛らしいぬいぐるみは、『りりぃ』と名前が付けられていたものだ。
アルベルトは表情を一切出さず、周囲の気配を警戒している。
視界の先には警備兵がいる。
国境は風雨で荒れた石造りの門柱に木の門扉で区切られている。
周囲は柵で囲われ、上部には矢を射る為の小さな隙間があった。
そして、魔獣避けに松明が灯されていた。
ジルの話によれば、これから商人が交易路を馬車で通ることになっていた。
トリスタンはぬいぐるみを遠くに置いて戻ってきた。
「嬢ちゃん、アンタは左側を見てくれ。アルベルトは右側を警戒してくれ」
「うん」
「了解」
二人がそれぞれ小声で答える。
トリスタンを真ん中にして、三人はなるべく背の高い叢に隠れ、姿勢を低くして、草葉の狭間から様子を見る。
ニーナが隣を見ると、草をかき分けるトリスタンの手元が震えていた。
「トリスタン、怖いの?」
「いや、これはただの武者震いってやつだ」
トリスタンは答えた。
ニーナは英雄譚でしか聞いたことのないような言葉に、目をぱちくりさせる。
「だって……これから国家に叛逆して、重要な人間を逃す大罪を犯すんだぜ。……俺はその協力者だ。こんなのワクワクしねえ訳がねえだろ……!」
すわった琥珀色の瞳をギラギラと輝かせて、左手で右手を押さえている。
吊り上がった笑みを浮かべる横顔が目に焼き付くかのようだ。
「そろそろ来るな……」
トリスタンを全く気にも留めていないかのように、アルベルトが二人に声をかける。
前を見たら、国境近くの門をネール領の兵士たちが開こうとしていた。
「今から俺の魔導を見せてやるよ」
トリスタンは笑みを崩さないまま、ぬいぐるみの方に体を向け、腕を伸ばした。
そして、
「思いを込めて作られた物に、今一度、偽物の息吹を与えよ。『よく出来た模造品』……!」
トリスタンが指を鳴らすと、ぬいぐるみが影のようなものに覆われた。
ぬいぐるみの変貌は静かなものだった。
影に覆われたぬいぐるみが巨大に膨れ上がり、脚が地に着き、大きな四つ足の獣のようになった。
影が離れ、姿があらわにされると、禍々しい空気が一層強くなったように思えた。
ニーナは全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。思わず、目を逸らしてしまう。
ただのぬいぐるみが、本当に命を食らう魔獣になったかのようだ。
彼女はアルベルトに助けられた時に出会した、犬のような魔獣と、血の咽せるような匂いを思い出して、奥歯を噛み締めた。
獣となったぬいぐるみだったものは低い唸り声を上げて、門の方へ突進を始めた。
門の近くに立てられていた柵が壊れる音に、兵が振り向くと、恐怖に歪んだ顔をして、
「ひぃっ!ま、魔獣だーー!!」と叫んだ。
周りの兵が物々しく動き出し、敵襲を告げる鐘の音がなる。ネール領に入ってきた馬車を引く馬は驚き、いなないて逃亡を図る。
馬車の商人は制御出来なくなった馬を必死に打っていた。
「よし、これでいい」
トリスタンは動転する国境の警備兵たちを見て、満足げに頷いた。
門柱の明かりに照らされた『りりぃ』は魔獣そのものに思えるほど、精巧に再現されていた。
ただのぬいぐるみが、人を恐れ慌てふためかせる獣に変貌した様子を見て、ニーナは絶句した。
恐怖の象徴のようなものが暴れ狂っている。それなのに、彼女は『りりぃ』の様子に目を奪われてしまっていた。
「どうして明かりがあるのに、魔獣が来るんだ!」
警備兵が槍を持って立ち向かうが、『りりぃ』はその先端を弾く。折れた槍の先が大地に突き刺さった。門の上階から放たれた複数の矢が浅く刺さる。
「クソ!槍が通らないじゃないか!」
「矢が刺さっても倒れない!」
火矢が『りりぃ』に射られるが、魔獣と化したぬいぐるみの体に炎は広がらない。
『りりぃ』は門柱に体当たりをしていた。
兵たちの声や逃げ回る人々の悲鳴が、離れた場所からでも聞こえてくる。
しかし、誰かが倒れて命を落とした気配はなかった。
ニーナは深く息を吐いた。
「これで騒ぎは起こせたな。嬢ちゃん、ネール城に帰るぞ。アルベルトは『りりぃ』の回収を頼む」
トリスタンは落ち着いた様子で、ニーナに呼びかける。
ハッとして立ち上がり、頬にかかった髪を払った。
そして、静かに、しかし急いでトリスタンの後を追った。
アルベルトは二人に無言で手を振りながら、ニーナを一瞬だけ見て、彼女たちの足音が遠ざかるのを確認すると、門に向き直った。
それからは、息を殺して「魔獣騒ぎ」のぬいぐるみを回収する機会を測っていた。
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