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第6話:黄金郷の晩餐

ー/ー



​ 大容量排水ポンプの重低音の轟音が、エルドラドの最下層ドックに激しい渦を巻いていた。
 油膜の浮いた海水がじわじわと引き、忠茂の『アイアン・レスキュー』の残骸とリーパーの鋼鉄の死骸がヘドロの中に晒される頃、頭上の鋼鉄隔壁がプシューと音を立てて開放された。純白の人工光が、暗黒の底へと容赦なく差し込む。
 上空から無機質な黒い防弾スーツを着た私兵たちが、超炭素繊維のラダーを降ろしてきた。
「生還者は速やかに上昇せよ。これより検疫および肉体修復を行う」
 感情の去勢された合成音声。忠茂と彩花は、凍りついた身体を動かしてラダーを上がった。彩花の指先は、皮膚が裂けるほどの強さで、忠茂の防護ジャケットの袖を掴んだまま離そうとしなかった。
​ 気密エレベーターは、重力制御によって上層階へと急速に加速していく。
 数十秒後、電子チャイムと共に特殊樹脂の扉が開いた瞬間、忠茂は思わず網膜の焦点を疑った。
 ――別の惑星の、特権ドームに迷い込んだのかと思った。
​ 床一面に敷き詰められた最高級の人工大理石。天井で怪しく光を屈折させる結晶シャンデリア。遺伝子調整された本物の生花の香りが、鼻腔の奥の重油の臭いを強制的に上書きしていく。柔らかなクラシックの弦楽三重奏が流れる、メガロポリスの超一等地ホテルそのままの静謐な絢爛。
 血と硝煙、そしてドブネズミの泥にまみれた生還者たちが、その清潔すぎる空間を歩かされる。汚物を運び込まれた最先端の美術館のような、狂気的な違和感。それこそが帝国金融という「システム」が用意した、生存者たちの精神を揺さぶるためのサディスティックな演出なのだと、忠茂は即座に理解した。
 勝者には王の贅沢を。敗者には分子レベルの分解を。
​ 黒服の警備兵が、生体認証機能付きの非接触ルームキーを2枚展開しようとして、その指先を止めた。
「……生体ID照合。『有賀忠茂』『松本彩花』。お二方は同室に設定されています。第一遊戯における債務連動データの特異性によるものです。拒否権はありません」
 彩花が、前髪の隙間から怯えたように視線を上げた。忠茂は何も言わなかった。システムに抗議するだけ、限られたアドレナリンを無駄遣いするだけだと分かっていたからだ。
​ 客室は、地方都市の安アパートが5つは入る広さだった。
 強化偏光ガラスの向こうには、月のない漆黒の瀬戸内海が広がっている。中央には、贅沢な合成シルクで覆われたダブルベッドが一つ。サイドテーブルには、超高級ドーム栽培された果実の盛り合わせと、冷却されたシャンパン。
 すべてが、悪夢のように完璧に整っていた。
「……あたし、先に座るね」
 彩花は、糸が切れたようにベッドの端に深く腰を沈めた。化粧の完全に落ちた、どこか幼さの残る顔で、ぼんやりと黒い海面を見つめている。
「シャワーを借りるぞ。体内のナノマシンを洗浄しなきゃならん」
「うん……」
​ バスルームのスマート鏡に、忠茂の肉体が映し出された。
 頬にはリーパーの爪が掠めた鋭利な擦り傷、額には衝撃ゲルの圧力による皮下出血、目の下には死線を超えた男特有の、どす黒い隈。二十四年の人生の中で、これほどまでに獰猛で、これほどまでに飢えた獣の顔を、彼はしたことがなかった。
 超音波を混ぜた熱い除染シャワーを浴びる。錆とドックの重金属、そして他人の血の痕跡が、白いタイルの上を黒い大河となって流れていった。
 ――俺は、生き残った。
 その厳然たる事実が、熱気と共にようやく骨の髄へと染み渡る。同時に、胸の奥底から、もう一つの黒い感情がマグマのように噴き出してきた。
 山口。
 あの男は今、どこの安全圏で、何を貪っているのか。俺に二千万の死刑宣告を押し付けた報いを、少しでも脳髄の片隅で感じているのか。
(――いや、あいつは笑っているはずだ。他人を喰って生き延びるのが、あの世界のルールだった)
 忠茂の濡れた指先が、鏡の表面を叩き割らんばかりに固く握り締められた。激しい憎悪は、極限状態において心臓を動かし続ける最高の燃料(クオリティ)になる。
​ 浴室を出ると、彩花はバスローブに身を包み、ベッドの上で膝を抱えて丸くなっていた。
「おい、入れ。体温が落ちる前にナノマシンの除染を終わらせろ」
「うん……ありがと」
 彼女が入れ替わりで浴室に消えた後、忠茂はベッドサイドの空間に投影された内線ホログラムに目を留めた。網膜を同期させると、冷徹な合成音声が耳に滑り込んでくる。
『生存者専用メインダイニングのご案内です。開放時間は19時から22時。支給される特級カロリーの摂取を推奨します』
 現在時刻、19時45分。
 行くしかない。次の地獄を生き抜くための情報を得るには、生き残った人間たちの顔を観察するしかなかった。
​ 除染を終えた彩花が、濡れた髪を拭きながら出てきた。すべての虚飾を剥ぎ取られた彼女の素顔は、思ったよりも遥かに若く、そして致命的なほどに摩耗していた。
「……ごはん、行くの?」
「ああ。情報を拾う。あんたはどうする」
「行く。……この部屋に一人でいると、足元から水が上がってくる気がするの」
​ メインダイニングは、さながら世紀末の狂宴の場だった。
 長さ30メートルの結晶化テーブルに、湯気を立てる極上の料理が山と積まれている。完全統制された保護ドーム内で人工授精された本物の和牛、遺伝子汚染のない深海から釣り上げられた天然の刺身。メガコーポの最高幹部しか口にできない本物の「生命の結晶」が、そこには贅沢に並んでいた。合成肉のペーストと人工微細藻類の栄養剤(ゲル)で育ってきた忠茂の網膜が、その圧倒的な色彩の暴力に激しく明滅する。
​ しかし――その贅沢な食卓につく生存者の影は、あまりにもまばらだった。
 三百人のうち、生還したのはわずかに六十人。そして、この空間に姿を現したのは、その半数の三十人程度。残りは恐怖で部屋から出られないか、あるいは精神が崩壊して咀嚼の機能を失っているのだろう。
 無言で肉を切り裂く者、ローストビーフを喉に詰め込みながら音もなく嗚咽を漏らす者、脳のネジが飛んだように爆笑しながらワインを煽る者。
​ その狂乱の中心に、あの「50枚(五千万)」の怪物がいた。
 軍用サイバネティクスの巨体を揺らし、骨付きの生肉を素手で引き千切りながら、合成酒ではない本物のヴィンテージ・ワインをボトルごと喉へ流し込んでいる。
 忠茂と彩花が、広間の端の席を確保しようとしたその瞬間、鼓膜を震わせるダミ声が響いた。
「おうおう! 『10枚』のベット数で死神の裏をかいた、戦術家(インテリ)の兄ちゃんじゃねえか!」
​ 忠茂の足が、大理石の床にピタリと止まる。
 大男は肉汁で汚れた手をジャケットで拭い、椅子を引き摺りながら巨体を近づけてきた。
「日垣だ。日垣・剛三。よろしくな、計算通りの生き残り君」
「……なぜ、俺の数値を」
「ハッ、広間のホログラム・マトリクスにお前らのIDと賭け金が全件ログ流出しとったろうが。必死すぎて目に入らんかったか? 無理もねえな」
 日垣はガハハと内臓を揺らすように笑い、忠茂の真隣の席に勝手に巨体をねじ込んだ。彩花が対面の席で、小動物のように肩を縮める。
「兄ちゃん、お前さんは頭が良い。だがな、このエルドラドじゃ、賢すぎる奴ほど次のステージで綺麗に死ぬぞ」
「……どういう意味だ、日垣さん」
「まあ本物のワインでも飲め。話は血糖値を上げてからだ」
 日垣は、透明なクリスタルグラスに深紅の液体を満たし、忠茂の前へと滑らせた。
「俺はな、この地獄(クルーズ)はこれで3回目だ」
​「3回……? 借金を帳消しにするゲームじゃないのか」
 忠茂はグラスを持ち上げかけた手を、完全に静止させた。
「帝国金融のシステムを舐めるなよ。遊戯は月に一度、四国全域の不渡り奴隷を回収して開催される。俺は過去2回、肉体をサイバネティクスに置換されながら生き残ったが、利息の自動更新に追いつかず、まだ完済のライン(境界)を超えられとらん。……そして、大事なのは『明日』だ」
 日垣はフォアグラをババロアのように噛み砕き、冷徹に声を潜めた。
「第二遊戯、『負債の連鎖』。運営の黒服の通信を傍受した奴から仕入れた情報だ。ルールは【三人一組の電脳チーム戦】。リーダーは、開始と同時に小卓のインジケーターが明滅してランダムに決定される。課題は5つ。すべて脳の処理能力を試す頭脳系(暗号解読、嘘発見、論理マトリクス)。……誰か一人が脳を焼き切られて失敗すれば、その失敗者の借金がチーム全員に強制分配される」
「……分配の比率は?」
「リーダーが7割、残りのメンバーが1割五分ずつだ」
 日垣の機械化された左眼のレンズが、カチリと絞られた。
「リーダーを引いた時点で死刑宣告だ。誰か一人のミスで、数千万の負債が頭の上に降ってくる。全員が無傷でクリアしても、リーダーという『標的』にされただけで重加算の手数料が乗るシステムだ」
​ 忠茂は、渋みの強いワインを喉へ流し込んだ。極上の味が、今は毒液のように苦い。
「……降りる(リタイア)権利はあるはずだ」
「ある。ゲーム開始前なら、手持ちのプレートを全没収される代わりに、生身で松山港へ強制送還だ。命だけは助かる。だがな、兄ちゃん。もし他人の借金を引き継いだ『後』に降りれば、その加算された負債を背負ったままシャバに放り出される」
「つまり、チームの誰かが失敗する“予兆”を察知して、引き継がれる前にシステムを降りるしかない」
「その通りだ。隣に座る奴の精神硬度、網膜の微振動、呼吸パターンの乱れ――それを誰よりも早く見極めて、仲間の首を切る奴だけが生き残る」
 日垣は、忠茂の目を凝視した。
「お前さんは計算ができる。だからこそ、自分がリーダーの赤シグナルを引いたら、即座に『損切り』して降りろ。10枚を失っても、生身の肉体は残る」
「……俺の残高はあと一千万だ。ここで降りたら、湾岸のドックで一生奴隷だ。損切りなんて選択肢はない」
「だから言っとるんじゃ、インテリ。その『計算の正しさ』に縛られる奴から、及川のジジイに脳みそを毟り取られるんだよ」
​ 日垣はそれだけ言うと、ワインボトルを掴んで席を立った。
 忠茂はしばらく、沈黙の中で思考の海に沈んでいた。彩花は、無機質な合成パンを指先で細かく千切りながら、会話を聞いていないフリをしていたが、その細い手首の網膜デバイスは、彼女の心拍数が限界近くまで跳ね上がっていることを示していた。
「……日垣さん、最後に一つだけ教えてくれ」
 遠ざかる巨体に、忠茂の声が突き刺さる。
「なんだ」
「『山口』という男を知っているか。松山出身、中肉中背、左の眉に古い裂傷がある」
​ 日垣の足が、完全に止まった。
 彼はゆっくりと振り返り、その不気味なサイバー・アイを明滅させた。
「……知っている。というか、この船の生存者で、あの名前を知らん奴はモグリだ」
「あいつも、債務者として戦っているのか?」
「前回の遊戯でも、その前でも見た。あいつはな……いや、俺の口から言うのは規約違反(ルールタブー)だ。明日、自分の目で確かめろ。生きてるなら、必ず朝のアリーナに引きずり出されてくる」
​ 翌朝、午前八時。
 全六十名の生還者たちが、再び中央大広間の鋼鉄のアリーナへと集められた。
 壇上には、昨日と変わらぬ一分の隙もないスリーピースの防弾スーツを着た及川が、退屈そうに立っていた。
「諸君、極上の朝食は脳に回ったかね? これより第二遊戯――『負債の連鎖』を開始する」
 及川がパチンと指を鳴らすと、天井のホログラム投射機から、無数の暗号数式が渦巻く電脳マトリクスが空間全体に展開された。
「これより全生存者の生体IDを完全シャッフルし、三人一組、計20チームのペアリングを強制実行する。チームの割り当ては網膜に投影されるシグナルの『数字』、そしてリーダーの選出は、各チームの小卓に集まった瞬間に執行される。さあ、運命の同期(ペアリング)じゃ」
​ 忠茂のサイバー・アイが、激しい電子ノイズと共に青くフラッシュした。
​『チーム編成完了:あなたのアドレスは【チーム6:一般メンバー(青)】に固定されました』
​ 彩花のデバイスも同時に明滅する。青の「6」。二人は視線を交わした。最悪の地獄の中で、唯一の共犯関係が継続された。
 だが――あと一人、このチーム6の残りのシートに滑り込んでくるのは誰か。
「各員、指定されたインジケーターの元へ集うがええ」
 及川の宣言と共に、大広間の床から20個の鋼鉄製の小卓(コンソール)がせり上がってきた。
 忠茂と彩花は、青く発光する『6』のホログラムが浮かぶ小卓へと歩を進めた。
​ そこには、既に三人目の男が、影のように佇んでいた。
​ 薄汚れた灰色のスウェット、鋭く伸び放題の黒髪、そして――ライトの光を浴びて不気味に白く浮き上がる、左の眉の古い裂傷。
 男が、ゆっくりと顔を上げた。
 忠茂の喉の奥から、肺の酸素がすべて凝固したような、かすれた声が漏れ出た。
​「……山口」
​ かつてストライカーの相棒としてすべてを分け合い、そして自分をこの地獄へ売り飛ばした男は、忠茂の獰猛な眼差しを正面から受け止め、狂気的なほどに優しげな笑みを浮かべた。
​「久しぶりだな、忠茂。お前なら、最初のハント(死神)くらいは、極上のステップでブチ抜いてくると思ってたよ」
​ その瞬間、二人の間の小卓のホログラムが、血のような赤色を激しく放って明滅を開始した。
『警告:チーム6、リーダー選出シーケンスを開始します――』
 運命の歯車が、一瞬の猶予もなく、次の絶望へと回転を始めた。


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次のエピソードへ進む 第7話:虚偽の証言


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 上空から無機質な黒い防弾スーツを着た私兵たちが、超炭素繊維のラダーを降ろしてきた。
「生還者は速やかに上昇せよ。これより検疫および肉体修復を行う」
 感情の去勢された合成音声。忠茂と彩花は、凍りついた身体を動かしてラダーを上がった。彩花の指先は、皮膚が裂けるほどの強さで、忠茂の防護ジャケットの袖を掴んだまま離そうとしなかった。
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 ――別の惑星の、特権ドームに迷い込んだのかと思った。
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 勝者には王の贅沢を。敗者には分子レベルの分解を。
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「……生体ID照合。『有賀忠茂』『松本彩花』。お二方は同室に設定されています。第一遊戯における債務連動データの特異性によるものです。拒否権はありません」
 彩花が、前髪の隙間から怯えたように視線を上げた。忠茂は何も言わなかった。システムに抗議するだけ、限られたアドレナリンを無駄遣いするだけだと分かっていたからだ。
​ 客室は、地方都市の安アパートが5つは入る広さだった。
 強化偏光ガラスの向こうには、月のない漆黒の瀬戸内海が広がっている。中央には、贅沢な合成シルクで覆われたダブルベッドが一つ。サイドテーブルには、超高級ドーム栽培された果実の盛り合わせと、冷却されたシャンパン。
 すべてが、悪夢のように完璧に整っていた。
「……あたし、先に座るね」
 彩花は、糸が切れたようにベッドの端に深く腰を沈めた。化粧の完全に落ちた、どこか幼さの残る顔で、ぼんやりと黒い海面を見つめている。
「シャワーを借りるぞ。体内のナノマシンを洗浄しなきゃならん」
「うん……」
​ バスルームのスマート鏡に、忠茂の肉体が映し出された。
 頬にはリーパーの爪が掠めた鋭利な擦り傷、額には衝撃ゲルの圧力による皮下出血、目の下には死線を超えた男特有の、どす黒い隈。二十四年の人生の中で、これほどまでに獰猛で、これほどまでに飢えた獣の顔を、彼はしたことがなかった。
 超音波を混ぜた熱い除染シャワーを浴びる。錆とドックの重金属、そして他人の血の痕跡が、白いタイルの上を黒い大河となって流れていった。
 ――俺は、生き残った。
 その厳然たる事実が、熱気と共にようやく骨の髄へと染み渡る。同時に、胸の奥底から、もう一つの黒い感情がマグマのように噴き出してきた。
 山口。
 あの男は今、どこの安全圏で、何を貪っているのか。俺に二千万の死刑宣告を押し付けた報いを、少しでも脳髄の片隅で感じているのか。
(――いや、あいつは笑っているはずだ。他人を喰って生き延びるのが、あの世界のルールだった)
 忠茂の濡れた指先が、鏡の表面を叩き割らんばかりに固く握り締められた。激しい憎悪は、極限状態において心臓を動かし続ける最高の燃料(クオリティ)になる。
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「おい、入れ。体温が落ちる前にナノマシンの除染を終わらせろ」
「うん……ありがと」
 彼女が入れ替わりで浴室に消えた後、忠茂はベッドサイドの空間に投影された内線ホログラムに目を留めた。網膜を同期させると、冷徹な合成音声が耳に滑り込んでくる。
『生存者専用メインダイニングのご案内です。開放時間は19時から22時。支給される特級カロリーの摂取を推奨します』
 現在時刻、19時45分。
 行くしかない。次の地獄を生き抜くための情報を得るには、生き残った人間たちの顔を観察するしかなかった。
​ 除染を終えた彩花が、濡れた髪を拭きながら出てきた。すべての虚飾を剥ぎ取られた彼女の素顔は、思ったよりも遥かに若く、そして致命的なほどに摩耗していた。
「……ごはん、行くの?」
「ああ。情報を拾う。あんたはどうする」
「行く。……この部屋に一人でいると、足元から水が上がってくる気がするの」
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 無言で肉を切り裂く者、ローストビーフを喉に詰め込みながら音もなく嗚咽を漏らす者、脳のネジが飛んだように爆笑しながらワインを煽る者。
​ その狂乱の中心に、あの「50枚(五千万)」の怪物がいた。
 軍用サイバネティクスの巨体を揺らし、骨付きの生肉を素手で引き千切りながら、合成酒ではない本物のヴィンテージ・ワインをボトルごと喉へ流し込んでいる。
 忠茂と彩花が、広間の端の席を確保しようとしたその瞬間、鼓膜を震わせるダミ声が響いた。
「おうおう! 『10枚』のベット数で死神の裏をかいた、戦術家(インテリ)の兄ちゃんじゃねえか!」
​ 忠茂の足が、大理石の床にピタリと止まる。
 大男は肉汁で汚れた手をジャケットで拭い、椅子を引き摺りながら巨体を近づけてきた。
「日垣だ。日垣・剛三。よろしくな、計算通りの生き残り君」
「……なぜ、俺の数値を」
「ハッ、広間のホログラム・マトリクスにお前らのIDと賭け金が全件ログ流出しとったろうが。必死すぎて目に入らんかったか? 無理もねえな」
 日垣はガハハと内臓を揺らすように笑い、忠茂の真隣の席に勝手に巨体をねじ込んだ。彩花が対面の席で、小動物のように肩を縮める。
「兄ちゃん、お前さんは頭が良い。だがな、このエルドラドじゃ、賢すぎる奴ほど次のステージで綺麗に死ぬぞ」
「……どういう意味だ、日垣さん」
「まあ本物のワインでも飲め。話は血糖値を上げてからだ」
 日垣は、透明なクリスタルグラスに深紅の液体を満たし、忠茂の前へと滑らせた。
「俺はな、この地獄(クルーズ)はこれで3回目だ」
​「3回……? 借金を帳消しにするゲームじゃないのか」
 忠茂はグラスを持ち上げかけた手を、完全に静止させた。
「帝国金融のシステムを舐めるなよ。遊戯は月に一度、四国全域の不渡り奴隷を回収して開催される。俺は過去2回、肉体をサイバネティクスに置換されながら生き残ったが、利息の自動更新に追いつかず、まだ完済のライン(境界)を超えられとらん。……そして、大事なのは『明日』だ」
 日垣はフォアグラをババロアのように噛み砕き、冷徹に声を潜めた。
「第二遊戯、『負債の連鎖』。運営の黒服の通信を傍受した奴から仕入れた情報だ。ルールは【三人一組の電脳チーム戦】。リーダーは、開始と同時に小卓のインジケーターが明滅してランダムに決定される。課題は5つ。すべて脳の処理能力を試す頭脳系(暗号解読、嘘発見、論理マトリクス)。……誰か一人が脳を焼き切られて失敗すれば、その失敗者の借金がチーム全員に強制分配される」
「……分配の比率は?」
「リーダーが7割、残りのメンバーが1割五分ずつだ」
 日垣の機械化された左眼のレンズが、カチリと絞られた。
「リーダーを引いた時点で死刑宣告だ。誰か一人のミスで、数千万の負債が頭の上に降ってくる。全員が無傷でクリアしても、リーダーという『標的』にされただけで重加算の手数料が乗るシステムだ」
​ 忠茂は、渋みの強いワインを喉へ流し込んだ。極上の味が、今は毒液のように苦い。
「……降りる(リタイア)権利はあるはずだ」
「ある。ゲーム開始前なら、手持ちのプレートを全没収される代わりに、生身で松山港へ強制送還だ。命だけは助かる。だがな、兄ちゃん。もし他人の借金を引き継いだ『後』に降りれば、その加算された負債を背負ったままシャバに放り出される」
「つまり、チームの誰かが失敗する“予兆”を察知して、引き継がれる前にシステムを降りるしかない」
「その通りだ。隣に座る奴の精神硬度、網膜の微振動、呼吸パターンの乱れ――それを誰よりも早く見極めて、仲間の首を切る奴だけが生き残る」
 日垣は、忠茂の目を凝視した。
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「だから言っとるんじゃ、インテリ。その『計算の正しさ』に縛られる奴から、及川のジジイに脳みそを毟り取られるんだよ」
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「……日垣さん、最後に一つだけ教えてくれ」
 遠ざかる巨体に、忠茂の声が突き刺さる。
「なんだ」
「『山口』という男を知っているか。松山出身、中肉中背、左の眉に古い裂傷がある」
​ 日垣の足が、完全に止まった。
 彼はゆっくりと振り返り、その不気味なサイバー・アイを明滅させた。
「……知っている。というか、この船の生存者で、あの名前を知らん奴はモグリだ」
「あいつも、債務者として戦っているのか?」
「前回の遊戯でも、その前でも見た。あいつはな……いや、俺の口から言うのは規約違反(ルールタブー)だ。明日、自分の目で確かめろ。生きてるなら、必ず朝のアリーナに引きずり出されてくる」
​ 翌朝、午前八時。
 全六十名の生還者たちが、再び中央大広間の鋼鉄のアリーナへと集められた。
 壇上には、昨日と変わらぬ一分の隙もないスリーピースの防弾スーツを着た及川が、退屈そうに立っていた。
「諸君、極上の朝食は脳に回ったかね? これより第二遊戯――『負債の連鎖』を開始する」
 及川がパチンと指を鳴らすと、天井のホログラム投射機から、無数の暗号数式が渦巻く電脳マトリクスが空間全体に展開された。
「これより全生存者の生体IDを完全シャッフルし、三人一組、計20チームのペアリングを強制実行する。チームの割り当ては網膜に投影されるシグナルの『数字』、そしてリーダーの選出は、各チームの小卓に集まった瞬間に執行される。さあ、運命の同期(ペアリング)じゃ」
​ 忠茂のサイバー・アイが、激しい電子ノイズと共に青くフラッシュした。
​『チーム編成完了:あなたのアドレスは【チーム6:一般メンバー(青)】に固定されました』
​ 彩花のデバイスも同時に明滅する。青の「6」。二人は視線を交わした。最悪の地獄の中で、唯一の共犯関係が継続された。
 だが――あと一人、このチーム6の残りのシートに滑り込んでくるのは誰か。
「各員、指定されたインジケーターの元へ集うがええ」
 及川の宣言と共に、大広間の床から20個の鋼鉄製の小卓(コンソール)がせり上がってきた。
 忠茂と彩花は、青く発光する『6』のホログラムが浮かぶ小卓へと歩を進めた。
​ そこには、既に三人目の男が、影のように佇んでいた。
​ 薄汚れた灰色のスウェット、鋭く伸び放題の黒髪、そして――ライトの光を浴びて不気味に白く浮き上がる、左の眉の古い裂傷。
 男が、ゆっくりと顔を上げた。
 忠茂の喉の奥から、肺の酸素がすべて凝固したような、かすれた声が漏れ出た。
​「……山口」
​ かつてストライカーの相棒としてすべてを分け合い、そして自分をこの地獄へ売り飛ばした男は、忠茂の獰猛な眼差しを正面から受け止め、狂気的なほどに優しげな笑みを浮かべた。
​「久しぶりだな、忠茂。お前なら、最初のハント(死神)くらいは、極上のステップでブチ抜いてくると思ってたよ」
​ その瞬間、二人の間の小卓のホログラムが、血のような赤色を激しく放って明滅を開始した。
『警告:チーム6、リーダー選出シーケンスを開始します――』
 運命の歯車が、一瞬の猶予もなく、次の絶望へと回転を始めた。