第十話 ジルとクロエ

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 部屋に戻ろうとニーナが城の廊下を歩いていると、クロエが立って辺りを見回していた。彼女はニーナを見つけると、小走りで近寄った。
 
「ニーナ様、お風呂の準備が出来ました」
 
 風呂は今までのニーナには縁遠いものであったから、彼女は目を輝かせて、
 「入ります!」とすぐに答えた。

 ニーナはクロエに、ネール城の小さな浴室に案内された。衝立(ついたて)の内側で服を脱ぐと、クロエが受け取って、浴槽に連れて行かれる。
 
「はあぁ」
 
 ニーナは溜息をついて、湯に浸かり込む。帽子の中に入れた長髪が湯に入っていないかを手で確認する。
 それを終えたら、気が抜けて体を浴槽に沈めた。
 
 彼女は自分の腕を見て、
「ちょっと太くなった?」と疑問の声を上げる。
 村にいた時と違う食事と、城に篭る生活に少し慣れ始めていたのだ。
 
 すると、

 「失礼します」
 
 落ち着いた低い声が反響する。背後から来たのはクロエだった。青い髪を布で覆い、長い袖を留めた灰色リネンの衣を纏っている。クロエの体の豊満さは全く目立たない。
 
「お体を流します」
 
 木製の桶に亜麻布、(くし)、香草の煮汁を入れて持ってきた。
 ニーナは驚いて、両手を前に出して声を上げた。
 
「クロエ様に私の体を拭いていただくなんて、そんなこと出来ないです」
「あら、侍女に体を拭かれるのは嫌かしら」
 
 クロエは目元を緩めて、ニーナを見る。
 
「いえ、そんなことは……」
 
 ニーナは口ごもって手を下げた。クロエはふふっと笑うと、彼女の近くにやってきた。
 ニーナが湯船から出ると腰掛けに座り、クロエは立って背中を拭いた。その後、ニーナの髪を下ろして梳き始めた。
 
「綺麗な黒い髪……可愛らしいお顔によく似合っているわね」
 
 柔らかい語調でクロエは話しかける。
 ニーナは思わず顔を赤らめて答えた。
 
「そんな……私みたいな村娘よりも、クロエ様の方がお綺麗で……領主様のようなご兄弟もいて、とっても素敵だと思います」
 
 ニーナは誤魔化すように話を続ける。
 
「あっ、そういえば、領主様は一体おいくつなんですか?お若いのにすごく落ち着いていらっしゃって」
 
 その言葉にクロエは頬を緩める。
 
「弟は17歳になるわ。一人前と認められた15歳の時にネールの当主になって、2年が経つわね」
 
 そして、顔を(かげ)らせてこうも言った。
 
「実は弟が15になる前に父上が亡くなってしまって、母上は弟を産んだ時に産褥(さんじょく)で亡くなったから、私たち姉弟は二人で支え合ってきたの」
 
 クロエはニーナに湯をかけて、髪を濡らした。それから、石鹸を手に取って髪に馴染ませる。
 
「私も、母が私を産んだ後、体調が悪くなったんです。病気……なのかな」と、ニーナは悲しげに言った。
 
 クロエはニーナの髪に触れる手を止めた。
 
「では、ニーナ様はお母上を看ながら暮らしていたの?」
「はい……」
 
 ニーナの声を聞いて、クロエはまた手を動かし出した。
 
「そう……。辛かったわね」
 
 クロエの痛み入るような声がニーナの後ろから聞こえる。
 クロエは一拍置いて話を始めた。
 
「あまり人には言わないけれど、ネール家は元々、グナーテ王国の二代目国王の血を引いているの。でも、僻地に流されて、今は国境を治めている」
 
 段々と、クロエの声に震えが混じる。
 
「私たちはネール家が正しい位置に戻るべきだと願っているのよ。昔から。ずっとずっと。その為に二人で生きてきた」
 
 石鹸を馴染ませたニーナの髪を押さえて水気を取った。ニーナは口を挟むことなく、クロエの話を聞いていた。
 それからは、クロエは何も話さなくなった。
 ニーナもこれ以上は何も聞くことをしなかった。
 
 ニーナの風呂の時間が終わって、部屋に戻ると、暖炉には火が付けられていた。
 クロエが暖炉の側で手招きをする。
 ニーナがそこに座ると、クロエはニーナの髪を梳いて、乾かした。
 
「クロエ様、優しかったなぁ。最初はすごく怖かったのに……。私の体を拭きに来たのは、おしゃべりをしたかったからかなぁ。でも、なんであんな話をしたんだろう」
 
 クロエが部屋から出た後に、ニーナはそんな独り言を呟いていた。

 
 ニーナの部屋から執務室に戻ったクロエに、ジルが声をかける。
 
「姉上、ニーナ嬢の様子はどうでしたか?」
「ええ、私たちのことを信頼しているように見えたわ。ジルと境遇も似通っていた。どこか寂しそうなところも貴方にそっくり」
 
 ジルは文字が描かれた紙を眺めて横を向いた。指先で机をつついて弄ぶ。
 
「でも、正直な子なのね。私には眩しかった……」
 
 クロエは胸に手を当てて、部屋の隅に寄った。
 
「姉上、ご無理はなさらなくて良いのですよ」
 
 ジルはクロエを見ずに無機質に答えた。クロエはかぶりを振ると、
 
「ジルは父上の最後の言葉を覚えているかしら?」
 
 ジルは流し目でクロエを見て、言った。
 
「『ネールに栄光あれ』……ですか」
 
 クロエは手を握りしめた。
 少しの沈黙の時間が流れ、ジルはクロエに振り向いた。
 
「必ず、私たちの代で悲しみを終えましょう」
 
 クロエのその一言に、ジルは笑顔で答えた。
 
「はい、もちろんです」


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 部屋に戻ろうとニーナが城の廊下を歩いていると、クロエが立って辺りを見回していた。彼女はニーナを見つけると、小走りで近寄った。
「ニーナ様、お風呂の準備が出来ました」
 風呂は今までのニーナには縁遠いものであったから、彼女は目を輝かせて、
 「入ります!」とすぐに答えた。
 ニーナはクロエに、ネール城の小さな浴室に案内された。|衝立《ついたて》の内側で服を脱ぐと、クロエが受け取って、浴槽に連れて行かれる。
「はあぁ」
 ニーナは溜息をついて、湯に浸かり込む。帽子の中に入れた長髪が湯に入っていないかを手で確認する。
 それを終えたら、気が抜けて体を浴槽に沈めた。
 彼女は自分の腕を見て、
「ちょっと太くなった?」と疑問の声を上げる。
 村にいた時と違う食事と、城に篭る生活に少し慣れ始めていたのだ。
 すると、
 「失礼します」
 落ち着いた低い声が反響する。背後から来たのはクロエだった。青い髪を布で覆い、長い袖を留めた灰色リネンの衣を纏っている。クロエの体の豊満さは全く目立たない。
「お体を流します」
 木製の桶に亜麻布、|櫛《くし》、香草の煮汁を入れて持ってきた。
 ニーナは驚いて、両手を前に出して声を上げた。
「クロエ様に私の体を拭いていただくなんて、そんなこと出来ないです」
「あら、侍女に体を拭かれるのは嫌かしら」
 クロエは目元を緩めて、ニーナを見る。
「いえ、そんなことは……」
 ニーナは口ごもって手を下げた。クロエはふふっと笑うと、彼女の近くにやってきた。
 ニーナが湯船から出ると腰掛けに座り、クロエは立って背中を拭いた。その後、ニーナの髪を下ろして梳き始めた。
「綺麗な黒い髪……可愛らしいお顔によく似合っているわね」
 柔らかい語調でクロエは話しかける。
 ニーナは思わず顔を赤らめて答えた。
「そんな……私みたいな村娘よりも、クロエ様の方がお綺麗で……領主様のようなご兄弟もいて、とっても素敵だと思います」
 ニーナは誤魔化すように話を続ける。
「あっ、そういえば、領主様は一体おいくつなんですか?お若いのにすごく落ち着いていらっしゃって」
 その言葉にクロエは頬を緩める。
「弟は17歳になるわ。一人前と認められた15歳の時にネールの当主になって、2年が経つわね」
 そして、顔を|翳《かげ》らせてこうも言った。
「実は弟が15になる前に父上が亡くなってしまって、母上は弟を産んだ時に|産褥《さんじょく》で亡くなったから、私たち姉弟は二人で支え合ってきたの」
 クロエはニーナに湯をかけて、髪を濡らした。それから、石鹸を手に取って髪に馴染ませる。
「私も、母が私を産んだ後、体調が悪くなったんです。病気……なのかな」と、ニーナは悲しげに言った。
 クロエはニーナの髪に触れる手を止めた。
「では、ニーナ様はお母上を看ながら暮らしていたの?」
「はい……」
 ニーナの声を聞いて、クロエはまた手を動かし出した。
「そう……。辛かったわね」
 クロエの痛み入るような声がニーナの後ろから聞こえる。
 クロエは一拍置いて話を始めた。
「あまり人には言わないけれど、ネール家は元々、グナーテ王国の二代目国王の血を引いているの。でも、僻地に流されて、今は国境を治めている」
 段々と、クロエの声に震えが混じる。
「私たちはネール家が正しい位置に戻るべきだと願っているのよ。昔から。ずっとずっと。その為に二人で生きてきた」
 石鹸を馴染ませたニーナの髪を押さえて水気を取った。ニーナは口を挟むことなく、クロエの話を聞いていた。
 それからは、クロエは何も話さなくなった。
 ニーナもこれ以上は何も聞くことをしなかった。
 ニーナの風呂の時間が終わって、部屋に戻ると、暖炉には火が付けられていた。
 クロエが暖炉の側で手招きをする。
 ニーナがそこに座ると、クロエはニーナの髪を梳いて、乾かした。
「クロエ様、優しかったなぁ。最初はすごく怖かったのに……。私の体を拭きに来たのは、おしゃべりをしたかったからかなぁ。でも、なんであんな話をしたんだろう」
 クロエが部屋から出た後に、ニーナはそんな独り言を呟いていた。
 ニーナの部屋から執務室に戻ったクロエに、ジルが声をかける。
「姉上、ニーナ嬢の様子はどうでしたか?」
「ええ、私たちのことを信頼しているように見えたわ。ジルと境遇も似通っていた。どこか寂しそうなところも貴方にそっくり」
 ジルは文字が描かれた紙を眺めて横を向いた。指先で机をつついて弄ぶ。
「でも、正直な子なのね。私には眩しかった……」
 クロエは胸に手を当てて、部屋の隅に寄った。
「姉上、ご無理はなさらなくて良いのですよ」
 ジルはクロエを見ずに無機質に答えた。クロエはかぶりを振ると、
「ジルは父上の最後の言葉を覚えているかしら?」
 ジルは流し目でクロエを見て、言った。
「『ネールに栄光あれ』……ですか」
 クロエは手を握りしめた。
 少しの沈黙の時間が流れ、ジルはクロエに振り向いた。
「必ず、私たちの代で悲しみを終えましょう」
 クロエのその一言に、ジルは笑顔で答えた。
「はい、もちろんです」